尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

袴田事件、DNA鑑定は「不一致」

2012年04月17日 23時23分46秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 16日の東京新聞夕刊を見ると、1面に「袴田事件 死刑囚とDNA不一致」と載っていた。さらに「関連記事6面」とあり「弁護団『有罪証拠無くなる』 望まれる早期の論争決着」という解説記事が載っている。一方、併読している朝日新聞夕刊を見ると、「DNA1か所で一致 袴田事件 検察側鑑定」と出ているではないか。これでは正反対である。朝日を読んでみると「白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型の一部について、袴田死刑囚本人のものであることを『排除できない』との結果だった」と書いてある。東京新聞を見直してみると「静岡地検推薦の鑑定人が『本人と完全に一致するDNA型は認められなかった』と結論付けたことが16日、明らかになった。」とある。一方、「緑色パンツの血痕様の部分とも照合し、死刑囚本人のDNAである可能性は排除できないと言及した。」と書いてあった。17日の朝日朝刊を見ると、「訂正」が載っている。しかし、そこでは「白半袖シャツ」ではなく「緑色パンツ」の間違いだという訂正である。

 今ウェブサイトで新聞を見てみると、読売は「犯行時着衣のDNA、袴田死刑囚と完全一致せず」、毎日は「袴田事件:「一致DNA認められず」 検察側の鑑定結果で」とある。実は朝日のサイトでも「袴田事件「完全一致のDNA型なし」 検察側鑑定」となっていて、夕刊の記事とはニュアンスが違っている。これで各紙大体同じである。これをどう見るかだが、「可能性は排除できない」は「一致」ではない。従って、朝日16日夕刊の見出しは誤報である。鑑定人は、不一致ならもちろん「不一致」と書くだろうが、最新の鑑定技術でも判別が難しく不一致と判断はできなかったと言いたいのだろう。しかし一致していれば「一致」と書くわけで、「一致する可能性を排除できない」とは、つまり「一致したという判断はできない」ということなのである。これを「1か所で一致」と書くのは、日本語読解力の不足というべきだろうか。

 ちょっと話を整理すると、4月13日に弁護側鑑定人は「不一致」という結論の鑑定結果を出している。16日に明らかになったのは検察側鑑定人の結果で、これも「完全に一致するものはない」ということで、両者の鑑定は矛盾しない。もともと今回鑑定対象とされた「5点の衣類」というのは、初めから袴田死刑囚が着ていたものではない。(捕まった時に着ていたシャツに、犯行時の被害者の血痕があるかが争われているのではない。)1966年6月、静岡県清水市(現・静岡市)で起きたみそ会社専務一家4人殺害事件。従業員の元プロボクサー袴田巌さんが逮捕、起訴され裁判で無罪を主張する。そして1967年8月になって、みそ工場のタンクから「5点の衣類」が見つかったのであるこれが「真の犯行時の着衣」と検察側は裁判途中で主張を変えた。それまではパジャマで犯行に及んだと「自白」させられていたのだが。(「自白」調書はあまりにも強引で長時間の取り調べがあり証拠としての価値が認められなかった。検察官作成の一通を除き。)

 現在判っているように、(映画「BOX袴田事件」に描かれているように)、担当裁判官の一人はこの事件を無実と考えていた。証拠となるべき「自白調書」は価値を認められなかった。そういう(検察側にとって)危ない展開になっているとき、突然「物的証拠」がみそタンクから湧いてきたのである。その「犯行時のズボン」は法廷で履かせてみるときつくて履けなかった。(その様子は「袴田事件」のサイトにある。)だから弁護側は今主張している。この「物的証拠」自体がでっち上げなのだと。さすがにそこまではやるまい。無実の人間を間違って捕まえることはあるかもしれないが、「有罪の証拠」をねつ造して無実の人間を検察、警察が陥れるということまでは考えられない。そう思う人が多いかもしれない。しかし、今回明らかになったことは、それ。証拠とされるものが、もともと「でっち上げのねつ造証拠」であった可能性なのである。

 そのような証拠ねつ造は、大阪地検特捜部でフロッピ-改ざん事件があったように全国どこでも起こりうると思っている。しかし、戦後21年目の静岡県と言えば、中でもありえそうな場所だというのは、少しでも冤罪事件に関心を持っている人なら誰でも知っていることだろう。著名事件に限っても、
 1947 幸浦事件(1・2審で3人死刑、最高裁で破棄差し戻し、高裁で無罪、1963年最高裁で無罪確定)
 1950 二俣事件(1・2審で死刑、最高裁で破棄差し戻し、1958静岡高裁で無罪、確定)
 1950 小島事件(1・2審で無期懲役、最高裁で破棄差し戻し、1959東京高裁で無罪、確定)
 1954 島田事件(1・2審で死刑、1961死刑確定。1989再審で無罪。)
 1955 丸正事件(1・2審で無期懲役、懲役15年。1960有罪確定。再審請求するが、請求人死亡。)

 さらに21世紀になっても「御殿場事件」と呼ばれる無実を訴える事件が起こっている。また1968年に起きた金嬉老事件では、静岡県警に根強い朝鮮人差別が告発された。このようなことから1966年の清水で証拠のねつ造があったと言われても、僕なんかは「ありそうな話ではないか」と思うものである。

 袴田事件にはもっと不思議なことが一杯あって、とても「合理的な有罪認定」は不可能な事件である。それでも裁判所がかろうじて有罪判決を出せたのは、「物的証拠が後から出てきた」ことが一番大きいのだろうと思う。それが崩れたと言ってよいのではないか。袴田事件の様々な論点を書いていると終わらないので、支援団体のサイト(弁護団、「袴田巖さんの再審を求める会」、「無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会」があるのでそちらで。

 なお、もう終わっているのだが、アムネスティ・インターナショナル日本支部で袴田事件の再審開始を求めるオンライン署名を行っていた。そのサイトも参考に。
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