死刑制度についての続き。小川法相は執行にあたって「国民の声を反映した裁判員制度でも死刑が支持されている」と述べている。また世論調査でも死刑容認派が85%を超えていることも理由に挙げている。これが納得いかないのである。世論調査は確かにその通りだけど、では原発や消費税の問題も世論調査で決めるのか。そうだったら首尾一貫しているが。
これは市民運動や評論家などにも言えることだけど、リーダー層は世論調査の結果を自分の言動の理由として語るべきではないと思う。民主主義なんだから最終的には国民が決めることになる。しかし、政治家や「知識人」は自分が正しいと思うことを発信すればいいのである。それを聞いた国民の方が、それが正しいかどうかを判断する材料にするわけである。ところが、逆にリーダー層の方が「世論調査はこうなるだろう」と「空気を読んで」言動を決めたのでは本末転倒である。そういうことをしていたら、国民に人気がない政策は誰も打ち出せないし、世論調査通りに政治を行うんだったら政治家もいらない。かつて1980年にフランスのミッテラン政権で死刑を廃止したときも、世論調査では死刑賛成の方が多かったのは有名な話である。しかし、国家のあり方をめぐる基本問題だから国会の議論で決定したわけである。そしてその後、与野党は入れ替わったりしているが、死刑廃止は定着している。
その世論調査であるが、「基本的法制度に関する世論調査」(平成21年12月)の結果を見ると、確かに賛成派が多いようにも見える。しかし、この調査は「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」という二つの意見の二択という変な聞き方をしている。その結果「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」が5.7%,「場合によっては死刑もやむを得ない」が85.6%ということになる。なお「わからない」が8.6%である。だから「わからない」と答えるのはありなんだけど、「どんな場合でも反対」と「場合によっては賛成」を聞くだけでは正しい調査とは言えない。(「場合によっては反対」「どんな場合も賛成」を選択肢にいれないと論理的におかしい。)逆に考えれば「どんな場合でも賛成」が誰もいないのだから、これは廃止論の根拠にもなりうる結果ではないのか。他の調査にも言えることだが、行政の行う世論調査というのは、聞く設問がおかしいことが多い。
「裁判員裁判で死刑判決が出ている」ということも死刑制度そのものの議論とは関係ない。現に刑法に死刑がある以上、「判例」を全く無視していいなら別だけど、中には死刑判決があるのは当然である。死刑制度を置いているから死刑判決が出るだけなのであって、死刑を置いている側の法務省や国会議員がそれを「死刑賛成」の理由にするのは不当である。
ということで、僕は死刑を執行する理由としてどれも納得できない。それは「こういう理由で死刑に賛成で、死刑制度は意味のある制度である」という発信を国家の側で全くしないことへの不信である。今現在「死刑制度がある」のでそれを維持し続けるというだけで、以前の原発政策と同様である。「すでに原発があるから続けて行く」というだけで、思考停止状態である。そして具体的な細部の問題は全然情報を公開しない。議院内閣制だから行政府の長は(ほとんど)立法府の一員である。「つらい職責」なんだったら法を改正して廃止すればいいではないか。自分がルールを決定する立場にある人が、「ルールがあるから変えられない」というのは変である。
よく「法律にあるのだから法相は死刑を執行すべきである」などという人がいる。しかし法律にあることを実行していくだけなら官僚の仕事である。政治家である国会議員が大臣をしている意味は、法律の改廃と言う「政治的行為」を課しているということであるはずだ。こういう風に死刑存廃の議論を打ち切って執行を再開するというあり方の中にも、「政治主導」が全く意味を失い、単なる「官僚主導」に戻ってしまった野田内閣の現在があると思うのである。
これは市民運動や評論家などにも言えることだけど、リーダー層は世論調査の結果を自分の言動の理由として語るべきではないと思う。民主主義なんだから最終的には国民が決めることになる。しかし、政治家や「知識人」は自分が正しいと思うことを発信すればいいのである。それを聞いた国民の方が、それが正しいかどうかを判断する材料にするわけである。ところが、逆にリーダー層の方が「世論調査はこうなるだろう」と「空気を読んで」言動を決めたのでは本末転倒である。そういうことをしていたら、国民に人気がない政策は誰も打ち出せないし、世論調査通りに政治を行うんだったら政治家もいらない。かつて1980年にフランスのミッテラン政権で死刑を廃止したときも、世論調査では死刑賛成の方が多かったのは有名な話である。しかし、国家のあり方をめぐる基本問題だから国会の議論で決定したわけである。そしてその後、与野党は入れ替わったりしているが、死刑廃止は定着している。
その世論調査であるが、「基本的法制度に関する世論調査」(平成21年12月)の結果を見ると、確かに賛成派が多いようにも見える。しかし、この調査は「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」という二つの意見の二択という変な聞き方をしている。その結果「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」が5.7%,「場合によっては死刑もやむを得ない」が85.6%ということになる。なお「わからない」が8.6%である。だから「わからない」と答えるのはありなんだけど、「どんな場合でも反対」と「場合によっては賛成」を聞くだけでは正しい調査とは言えない。(「場合によっては反対」「どんな場合も賛成」を選択肢にいれないと論理的におかしい。)逆に考えれば「どんな場合でも賛成」が誰もいないのだから、これは廃止論の根拠にもなりうる結果ではないのか。他の調査にも言えることだが、行政の行う世論調査というのは、聞く設問がおかしいことが多い。
「裁判員裁判で死刑判決が出ている」ということも死刑制度そのものの議論とは関係ない。現に刑法に死刑がある以上、「判例」を全く無視していいなら別だけど、中には死刑判決があるのは当然である。死刑制度を置いているから死刑判決が出るだけなのであって、死刑を置いている側の法務省や国会議員がそれを「死刑賛成」の理由にするのは不当である。
ということで、僕は死刑を執行する理由としてどれも納得できない。それは「こういう理由で死刑に賛成で、死刑制度は意味のある制度である」という発信を国家の側で全くしないことへの不信である。今現在「死刑制度がある」のでそれを維持し続けるというだけで、以前の原発政策と同様である。「すでに原発があるから続けて行く」というだけで、思考停止状態である。そして具体的な細部の問題は全然情報を公開しない。議院内閣制だから行政府の長は(ほとんど)立法府の一員である。「つらい職責」なんだったら法を改正して廃止すればいいではないか。自分がルールを決定する立場にある人が、「ルールがあるから変えられない」というのは変である。
よく「法律にあるのだから法相は死刑を執行すべきである」などという人がいる。しかし法律にあることを実行していくだけなら官僚の仕事である。政治家である国会議員が大臣をしている意味は、法律の改廃と言う「政治的行為」を課しているということであるはずだ。こういう風に死刑存廃の議論を打ち切って執行を再開するというあり方の中にも、「政治主導」が全く意味を失い、単なる「官僚主導」に戻ってしまった野田内閣の現在があると思うのである。