尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

死刑制度をめぐる小論②

2012年04月20日 22時06分12秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度についての続き。小川法相は執行にあたって「国民の声を反映した裁判員制度でも死刑が支持されている」と述べている。また世論調査でも死刑容認派が85%を超えていることも理由に挙げている。これが納得いかないのである。世論調査は確かにその通りだけど、では原発や消費税の問題も世論調査で決めるのか。そうだったら首尾一貫しているが。

 これは市民運動や評論家などにも言えることだけど、リーダー層は世論調査の結果を自分の言動の理由として語るべきではないと思う。民主主義なんだから最終的には国民が決めることになる。しかし、政治家や「知識人」は自分が正しいと思うことを発信すればいいのである。それを聞いた国民の方が、それが正しいかどうかを判断する材料にするわけである。ところが、逆にリーダー層の方が「世論調査はこうなるだろう」と「空気を読んで」言動を決めたのでは本末転倒である。そういうことをしていたら、国民に人気がない政策は誰も打ち出せないし、世論調査通りに政治を行うんだったら政治家もいらない。かつて1980年にフランスのミッテラン政権で死刑を廃止したときも、世論調査では死刑賛成の方が多かったのは有名な話である。しかし、国家のあり方をめぐる基本問題だから国会の議論で決定したわけである。そしてその後、与野党は入れ替わったりしているが、死刑廃止は定着している。

 その世論調査であるが、「基本的法制度に関する世論調査」(平成21年12月)の結果を見ると、確かに賛成派が多いようにも見える。しかし、この調査は「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と「場合によっては死刑もやむを得ない」という二つの意見の二択という変な聞き方をしている。その結果「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」が5.7%「場合によっては死刑もやむを得ない」が85.6%ということになる。なお「わからない」が8.6%である。だから「わからない」と答えるのはありなんだけど、「どんな場合でも反対」と「場合によっては賛成」を聞くだけでは正しい調査とは言えない。(「場合によっては反対」「どんな場合も賛成」を選択肢にいれないと論理的におかしい。)逆に考えれば「どんな場合でも賛成」が誰もいないのだから、これは廃止論の根拠にもなりうる結果ではないのか。他の調査にも言えることだが、行政の行う世論調査というのは、聞く設問がおかしいことが多い。

 「裁判員裁判で死刑判決が出ている」ということも死刑制度そのものの議論とは関係ない。現に刑法に死刑がある以上、「判例」を全く無視していいなら別だけど、中には死刑判決があるのは当然である。死刑制度を置いているから死刑判決が出るだけなのであって、死刑を置いている側の法務省や国会議員がそれを「死刑賛成」の理由にするのは不当である。

 ということで、僕は死刑を執行する理由としてどれも納得できない。それは「こういう理由で死刑に賛成で、死刑制度は意味のある制度である」という発信を国家の側で全くしないことへの不信である。今現在「死刑制度がある」のでそれを維持し続けるというだけで、以前の原発政策と同様である。「すでに原発があるから続けて行く」というだけで、思考停止状態である。そして具体的な細部の問題は全然情報を公開しない。議院内閣制だから行政府の長は(ほとんど)立法府の一員である。「つらい職責」なんだったら法を改正して廃止すればいいではないか。自分がルールを決定する立場にある人が、「ルールがあるから変えられない」というのは変である

 よく「法律にあるのだから法相は死刑を執行すべきである」などという人がいる。しかし法律にあることを実行していくだけなら官僚の仕事である。政治家である国会議員が大臣をしている意味は、法律の改廃と言う「政治的行為」を課しているということであるはずだ。こういう風に死刑存廃の議論を打ち切って執行を再開するというあり方の中にも、「政治主導」が全く意味を失い、単なる「官僚主導」に戻ってしまった野田内閣の現在があると思うのである。
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死刑制度をめぐる小論①

2012年04月20日 00時13分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 死刑制度に関して、何回か。僕はずっと昔から死刑制度廃止論者で、廃止運動のまとまった集まりである「死刑廃止フォーラム90」にも90年の発足当時から賛同会員になっている。僕の中では解決してるので、実はあまり書く気がしない。書きだすと100回くらい必要になると思うし、すぐ書けるけど。死刑に反対ならどんどん書けばいいと言われるかもしれないが、「死刑制度は死刑存置論によって存在しているわけではない」と思っている。死刑制度を存在させているのは「死刑存置感情」なので、それに対抗して「死刑廃止論」を展開しても、かえって「またリクツで論を立てている」と思われるだけで、議論が成立しないのではないかと思っているのである。

 では、今回書くのは何故なのかというと、野田内閣や橋下「維新の会」を考える前提として、死刑制度の問題を考えてみたいのである。さて、3月29日に小川敏夫法務大臣の指示で、3人の死刑が執行された。1年8か月ぶりで、2011年は一回も死刑執行がなかった。それは江田五月、平岡秀夫という死刑反対派が法相だったことが大きいのだろうと思う。昨年暮れに、一川防衛相、山岡国務相(国家公安委員長、消費者担当相)に対する「問責決議」が参議院で可決された。それを受けて野田首相は1月初めに内閣改造に踏み切ったが、両大臣の交代、岡田克也副首相の登用が注目される中、その時なぜか法務大臣が平岡秀夫氏から小川敏夫氏に交代した。後から報道されたところでは、平岡法相は死刑存廃の議論を法制審議会に諮問する考えを示していたらしい。どうも死刑制度の問題で異例の法相交代(他の閣僚はほとんど交代していない)が起きたのではないか。

 新任の小川法相は就任当時から執行再開に積極的な意向を示していた。だから執行そのものは意外ではないと言えるが、その理由づけと日付には考えさせられた。(理由づけの問題は次回。)昔は国会開会中は執行しないものだったが、近年はそれは無視されている。多分、「平成23年度内の執行」ということなのだろう。前回は2010年7月、その前は2009年7月で、「4月から3月までの会計年度」で見れば、死刑執行がない年度はなかったことになるのである。

 しかし、ちょうど執行前日の28日の新聞(発表は27日)に、アムネスティ・インターナショナルは、2011年の死刑執行状況を報告している。計198国中、執行があったのは20か国。多い順に、中国(670以上)、イラン(360)、サウジアラビア(82)、イラク(68)、米国(43)、北朝鮮(30)となっている。中国や北朝鮮は完全な執行数は判らないので、もっと多いだろうと思う。これらの国の名前を見れば、人権状況に問題がある国、米国が「ならず者国家」とかつて呼んだ国や、そこに戦争を仕掛けて自らも好戦国家と言われる米国(死刑を廃止した州もある)などの名前がずらっと並んでいる。ここに名前を連ねるのは不名誉なことではないのか。法務官僚はそういう世界の状況を知らないはずはない。このままいつまでも死刑制度を維持していけるのか、何も感じないのだろうか。

 アムネスティのサイトを見れば、1978年には「廃止国60 存置国122」だった。それが2009年になると「廃止国139 存置国58」に大きく状況が変わっている。もちろん世界がどうあろうと、日本が独自の政策を取るということもあってよい。でも他の問題では「世界では」「グローバル化」などと言ってる人が、死刑制度の問題を避けているのが不思議なのである。法務官僚は「議論しなくていい状況」だと本当に思っているのだろうか。この、「世界の状況への鈍感さ」が他の問題にも通じる現在の日本の大きな問題なのではないかと思う。
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