東京のアテネフランセ文化センターで、インド映画の伝説的巨匠グル・ダットの全作品上映会があった。グル・ダットの代表作「渇き」(1957年)は昨年見直した機会にこのブログにも感想を書いた。出演作品も含めて全作品を見られるというので、全部見たのだが、特に昨年の東京国際映画祭で上映されながら見逃していた「グル・ダットを探して」が貴重だった。イギリスのテレビ局が1989年に作成したドキュメンタリー作品。(ビデオ上映)
グル・ダットは1925年生まれで、1964年に39歳で自殺したという短い生涯だった。監督第1作「賭け」(1951年)は26歳。最後の監督作品「紙の花」(1959年)は34歳。芸術の歴史でこのような悲劇的な人生は決して珍しいとまでは言えないけれど、それでもあまりにも痛ましい。「グル・ダットを探して」を見ると、本人の内省的な性向がうかがわれるが、芸術上、また私生活上にも苦悩が多く、最後は追いつめられたような状況にあった。今ならもっと周りで配慮するなり治療的対応も取れたのではないか。
グル・ダット作品は、「渇き」が1989年の大インド映画祭で公開されて評判を呼び、2001年に国際交流基金による全作品上映会が行われた。その時に「鷹」「表か裏か」「渇き」「紙の花」を見た。と言っても記録を見直してわかったことで、ほとんど記憶はない。今回見て思ったことは、たった7本の監督作品だけど、明らかに最後の2本(「渇き」「紙の花」)が突出している。この2本にしても最初に見たときは、白黒の古い映画でもあり、なんだかよく出来た娯楽映画に歌と人生の哀歓をまぶした程度に見えた感じもした。でも、「グル・ダットを探して」を見てよく判ったが、歌の使い方、光と影の撮影などグル・ダットがインド映画の革新者であり、その後のインド映画に影響を与えている。だからその後のよくできたカラー映画を見てしまうと、グル・ダット映画が古いようにも感じられてしまうわけである。
ところで「賭け」の歌を歌っている(吹き替え)のが当時の人気歌手。グル・ダットは彼女と結婚し、子供も生まれる。その後、「渇き」「紙の花」の主演を務めて、宿命的な出会いを演じたワヒーダー・ラフマーンと実人生でも「不倫」の関係になった。自伝的とよく言われる「紙の花」では、人気監督(グル・ダット)が偶然見つけた素人女性(ワヒーダー・ラフマーン)を大スターにして、個人的にも結ばれる。しかし、娘のために別れて、その後監督作品も失敗、映画界から見捨てられ、酒に溺れ破滅していく…という「自己予言的」な作品になっている。この2本の映画を見る限り、監督にとってラフマーンとの出会いは「宿命」と思われる。だから、ラフマーンという「運命の女」との出会いが歴史的傑作を生んだと言える。グル・ダット監督作品ではないけれど、両者が主演し映画内で不思議な縁で結ばれる「十四夜の月」を見ると、ワヒーダー・ラフマーンのあまりの美しさに驚き。グル・ダットとワヒーダー・ラフマーンは、映画史上ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマン、ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナに匹敵するような、監督と女優による「奇跡の映像」の伝説なのではないかと思う。
初期作品はフィルム・ノワール的。どこの国でも、「愛」と「金」に引き裂かれる主人公が暗黒街で苦悩するというような映画が量産されていた。「賭け」や「網」はグル・ダットは出演していません。この二つではまだ「作家」とまでは言えない段階。映画美術や歌は面白く、鈴木清順の初期などをちょっと思わせるが、まあ巧みな娯楽映画。3作目の海洋アクションというべき「鷹」(グル・ダット自身が出演した初作品)の後半あたりから、「光と影」の絵画的構図などが目立ってくる。4作目の「表か裏か」もフィルム・ノワール的な喜劇。「的」と書くのは、彼の場合犯罪映画と言えども「愛の映画」以外の何物でもないからである。歌の魅力も大きい。5作目「55年夫妻」がコメディの傑作で、当時の社会状況も伝える面白い映画。人物の造形も面白くよくできた映画だが、内容的についていけない部分もある感じ。
そして「渇き」になる。僕にとって、この映画は前より面白く、何度見てもいい感じがする。この映画の、ご都合主義的なストーリーは、一度見て知っておく方がつまづかないのかもしれない。筋としては、何だこれというような展開だが、歌と詩が本当に素晴らしい。白黒の撮影も素晴らしく、映像と歌という視覚的、聴覚的な快楽に身をゆだねる体験。そして主人公の「売れない詩人」の「詩と真実」の深さ。そして、最後の作品「紙の花」に至る。インド初のシネマスコープ作品で、横長の画面に光と影の美しい映像で、主人公の苦悩の人生が描かれる。その転落の様は、自分で演じているうえに、その後を知って見るから、悲しすぎる映画とも言える。そしてそれが彼の最後の監督作品になってしまった。映画監督が映画界を追われて転落して行く映画が。
グル・ダットは1925年生まれで、1964年に39歳で自殺したという短い生涯だった。監督第1作「賭け」(1951年)は26歳。最後の監督作品「紙の花」(1959年)は34歳。芸術の歴史でこのような悲劇的な人生は決して珍しいとまでは言えないけれど、それでもあまりにも痛ましい。「グル・ダットを探して」を見ると、本人の内省的な性向がうかがわれるが、芸術上、また私生活上にも苦悩が多く、最後は追いつめられたような状況にあった。今ならもっと周りで配慮するなり治療的対応も取れたのではないか。
グル・ダット作品は、「渇き」が1989年の大インド映画祭で公開されて評判を呼び、2001年に国際交流基金による全作品上映会が行われた。その時に「鷹」「表か裏か」「渇き」「紙の花」を見た。と言っても記録を見直してわかったことで、ほとんど記憶はない。今回見て思ったことは、たった7本の監督作品だけど、明らかに最後の2本(「渇き」「紙の花」)が突出している。この2本にしても最初に見たときは、白黒の古い映画でもあり、なんだかよく出来た娯楽映画に歌と人生の哀歓をまぶした程度に見えた感じもした。でも、「グル・ダットを探して」を見てよく判ったが、歌の使い方、光と影の撮影などグル・ダットがインド映画の革新者であり、その後のインド映画に影響を与えている。だからその後のよくできたカラー映画を見てしまうと、グル・ダット映画が古いようにも感じられてしまうわけである。
ところで「賭け」の歌を歌っている(吹き替え)のが当時の人気歌手。グル・ダットは彼女と結婚し、子供も生まれる。その後、「渇き」「紙の花」の主演を務めて、宿命的な出会いを演じたワヒーダー・ラフマーンと実人生でも「不倫」の関係になった。自伝的とよく言われる「紙の花」では、人気監督(グル・ダット)が偶然見つけた素人女性(ワヒーダー・ラフマーン)を大スターにして、個人的にも結ばれる。しかし、娘のために別れて、その後監督作品も失敗、映画界から見捨てられ、酒に溺れ破滅していく…という「自己予言的」な作品になっている。この2本の映画を見る限り、監督にとってラフマーンとの出会いは「宿命」と思われる。だから、ラフマーンという「運命の女」との出会いが歴史的傑作を生んだと言える。グル・ダット監督作品ではないけれど、両者が主演し映画内で不思議な縁で結ばれる「十四夜の月」を見ると、ワヒーダー・ラフマーンのあまりの美しさに驚き。グル・ダットとワヒーダー・ラフマーンは、映画史上ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマン、ジャン=リュック・ゴダールとアンナ・カリーナに匹敵するような、監督と女優による「奇跡の映像」の伝説なのではないかと思う。
初期作品はフィルム・ノワール的。どこの国でも、「愛」と「金」に引き裂かれる主人公が暗黒街で苦悩するというような映画が量産されていた。「賭け」や「網」はグル・ダットは出演していません。この二つではまだ「作家」とまでは言えない段階。映画美術や歌は面白く、鈴木清順の初期などをちょっと思わせるが、まあ巧みな娯楽映画。3作目の海洋アクションというべき「鷹」(グル・ダット自身が出演した初作品)の後半あたりから、「光と影」の絵画的構図などが目立ってくる。4作目の「表か裏か」もフィルム・ノワール的な喜劇。「的」と書くのは、彼の場合犯罪映画と言えども「愛の映画」以外の何物でもないからである。歌の魅力も大きい。5作目「55年夫妻」がコメディの傑作で、当時の社会状況も伝える面白い映画。人物の造形も面白くよくできた映画だが、内容的についていけない部分もある感じ。
そして「渇き」になる。僕にとって、この映画は前より面白く、何度見てもいい感じがする。この映画の、ご都合主義的なストーリーは、一度見て知っておく方がつまづかないのかもしれない。筋としては、何だこれというような展開だが、歌と詩が本当に素晴らしい。白黒の撮影も素晴らしく、映像と歌という視覚的、聴覚的な快楽に身をゆだねる体験。そして主人公の「売れない詩人」の「詩と真実」の深さ。そして、最後の作品「紙の花」に至る。インド初のシネマスコープ作品で、横長の画面に光と影の美しい映像で、主人公の苦悩の人生が描かれる。その転落の様は、自分で演じているうえに、その後を知って見るから、悲しすぎる映画とも言える。そしてそれが彼の最後の監督作品になってしまった。映画監督が映画界を追われて転落して行く映画が。