ロシアのアレクセイ・ゲルマン監督(1938~2013)の3時間近い(177分)遺作「神々のたそがれ」を見た。久しぶりに「とてつもない映画」を見たという気分に浸った。東京だと渋谷・ユーロスペースで24日までだから、もう見ないといけないと思ったわけだけど、今調べたら同じビルの2階「ユーロライブ」で続映すると告知されていた。でも、どうしてもすべての映画ファンが見るべきというわけでもないだろう。アートフィルムのマニアでも、これはちょっとと敬遠する人もいるかもしれない。でも、この映画の素晴らしいモノクロ撮影の驚くべき世界にはビックリすること請け合い。

旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟というと、タルコフスキーの「ストーカー」の原作者だけど、その兄弟作「神様はつらい」の映画化だという。(この原作の邦訳は、ハヤカワから昔でていた世界SF全集に入ってる由。)ある惑星があり、そこは地球から歴史の発展が800年ほど遅れている。しかし、探検の結果、初期ルネサンスに近い文化があると認められ、地球から30人の学者が送られる。だが、期待された進歩は訪れず、その惑星は反動の時代を迎えて、大学は閉鎖され知識人は弾圧される。そのような非知性主義が吹き荒れる「中世」の社会の中で、地球人ドン・ルマータは神の子と見なされ…。
と言った筋書きのようなものを書いていても、ほとんど意味はない。大体、見ていてもストーリイはよく判らない。800年前と言えば、つまり「地球歴1300年」頃であり、そういう「中世ロシア」に紛れ込んだという映画である。画面はひたすら泥まみれ、血まみれで、人間や動物の排泄する汚きもの、処刑された死体や動物の死骸などの死に満ちている。タルコフスキーの「ストーカー」も近寄りたくない世界を描いていたが、この映画はそれを上回るグロの氾濫で、見ていて確かに気持ち悪い。でも、世界を縦横に動き回るカメラとともに、冥界をめぐりゆく映画は、いっそ清々しいとさえ言いたいほどにぶっ飛んでいる。フェリーニの映画を「祝祭」と評するなら、この映画はその反対で、ふさわしい言葉が思いつかないが、一種の反「祝祭映画」になっている。(フェリーニの「サテリコン」をグロテスクにしたような。)
中世という意味では、タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」の世界の方が近いかもしれない。だから、SFという言葉にこだわる必要はないと思う。これは一種の歴史映画だと思うが、一方では「これこそが現代だ」「これこそが人間だ」とでも言いたいような迫力が画面にみなぎっている。アフリカで起きている様々の紛争、かつてのルワンダや近年のコンゴ、ダルフールなどの出来事は、実際この映画の「800年前の惑星」とほとんど同じではないか。映画はほとんど大弾圧、大虐殺の連続で、ストーリイもよく判らなくなってくるのだが、僕は不思議と長さを感じずに見入ってしまった。
アレクセイ・ゲルマンという人は、1971年に作った「道中の点検」が検閲で公開禁止になり、ペレストロイカ時代にやっと公開された。その時代に日本でも公開されたけれど、あまり感心しなかった。その後「戦争のない20日間」「わが友、イワン・ラプシン」を作り、ソ連崩壊後は「フルスタリョフ、車を!」(1998)という作品を製作した。だけど、ずっと見逃してきたので、あまりよく知らない監督。これらの映画は、すべてスターリン時代を描いた作品であるが、遺作となった「神々のたそがれ」も一種の「スターリン体制」を描いているように思う。大学の卒業式で国旗・国歌をなどと政府高官が発言する時代、テレビが政治的批判に及び腰になる時代。そういう「一種の反知性主義」に侵された惑星に住んでいるわれらを「800年先の地球人」はどう評するのだろうか。


旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟というと、タルコフスキーの「ストーカー」の原作者だけど、その兄弟作「神様はつらい」の映画化だという。(この原作の邦訳は、ハヤカワから昔でていた世界SF全集に入ってる由。)ある惑星があり、そこは地球から歴史の発展が800年ほど遅れている。しかし、探検の結果、初期ルネサンスに近い文化があると認められ、地球から30人の学者が送られる。だが、期待された進歩は訪れず、その惑星は反動の時代を迎えて、大学は閉鎖され知識人は弾圧される。そのような非知性主義が吹き荒れる「中世」の社会の中で、地球人ドン・ルマータは神の子と見なされ…。
と言った筋書きのようなものを書いていても、ほとんど意味はない。大体、見ていてもストーリイはよく判らない。800年前と言えば、つまり「地球歴1300年」頃であり、そういう「中世ロシア」に紛れ込んだという映画である。画面はひたすら泥まみれ、血まみれで、人間や動物の排泄する汚きもの、処刑された死体や動物の死骸などの死に満ちている。タルコフスキーの「ストーカー」も近寄りたくない世界を描いていたが、この映画はそれを上回るグロの氾濫で、見ていて確かに気持ち悪い。でも、世界を縦横に動き回るカメラとともに、冥界をめぐりゆく映画は、いっそ清々しいとさえ言いたいほどにぶっ飛んでいる。フェリーニの映画を「祝祭」と評するなら、この映画はその反対で、ふさわしい言葉が思いつかないが、一種の反「祝祭映画」になっている。(フェリーニの「サテリコン」をグロテスクにしたような。)
中世という意味では、タルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」の世界の方が近いかもしれない。だから、SFという言葉にこだわる必要はないと思う。これは一種の歴史映画だと思うが、一方では「これこそが現代だ」「これこそが人間だ」とでも言いたいような迫力が画面にみなぎっている。アフリカで起きている様々の紛争、かつてのルワンダや近年のコンゴ、ダルフールなどの出来事は、実際この映画の「800年前の惑星」とほとんど同じではないか。映画はほとんど大弾圧、大虐殺の連続で、ストーリイもよく判らなくなってくるのだが、僕は不思議と長さを感じずに見入ってしまった。
アレクセイ・ゲルマンという人は、1971年に作った「道中の点検」が検閲で公開禁止になり、ペレストロイカ時代にやっと公開された。その時代に日本でも公開されたけれど、あまり感心しなかった。その後「戦争のない20日間」「わが友、イワン・ラプシン」を作り、ソ連崩壊後は「フルスタリョフ、車を!」(1998)という作品を製作した。だけど、ずっと見逃してきたので、あまりよく知らない監督。これらの映画は、すべてスターリン時代を描いた作品であるが、遺作となった「神々のたそがれ」も一種の「スターリン体制」を描いているように思う。大学の卒業式で国旗・国歌をなどと政府高官が発言する時代、テレビが政治的批判に及び腰になる時代。そういう「一種の反知性主義」に侵された惑星に住んでいるわれらを「800年先の地球人」はどう評するのだろうか。