映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を見た。今年の米国アカデミー賞作品賞受賞作である。ついでに言うと、監督賞、脚本賞、撮影賞も受賞している。監督はアレハンドロ・G・イニャリトゥ(1963~)。「アモーレス・ペレス」や「バベル」を作ったメキシコ出身の監督である。これを見て、僕は二つの感想を持った。「傑作を見た」というのと「一体、これは何だったんだろう」である。

アカデミー賞の作品賞は、昨年からさかのぼって見てみると「それでも夜は明ける」「アルゴ」「アーティスト」「英国王のスピーチ」「ハートロッカー」…といった具合で、「政治的な配慮?」とか「業界受け」が多い感じ。悪い映画ではないとしても、自分で今年のベストワンだなどという映画に当たるのはほとんどない。(多分、クリント・イーストウッドの「許されざる者」以来、僕の個人的1位と共通する年はないかと思う。)だから、僕もこのブログで記事を書いたことがない。どうせ賞の名前で、そこそこヒットして映画ファンなら見るだろうから書くまでもない。だけど、今年の「バードマン」は、やはり「業界もの」には違いないけれど、内容や技法もそうだし、映画の世界観のようなものが珍しく「革新性」を持っている。ちょっとビックリの映画で、「訳の分からなさ」を抱えつつも疾走するカメラとともに画面に見入ってしまう魅力を持っている。いやあ、すごかったとも思うけど、もう一回見ないと評価できない気もする。
この映画を簡単に言うと、ニューヨークの演劇界(ブロードウェイ)を舞台にしたバックステージものである。リーガンは20年も前に大ヒットした「バードマン」の主役で人気を得たが、「バードマン4」を下りて以来、泣かず飛ばずの俳優人生。妻とも別れ、娘サムは薬物中毒で退院したばかり。そこで自分で脚本を書き、演出、主演する演劇をブロードウェイで上演する企画を進めていて、初日も近い。そんな中、共演俳優が気に入らないのだが、偶然(あるいはリーガンの超能力で?)照明が落ちてきて、ケガした俳優は使えない。代役を探していると、共演のレズリー(ナオミ・ワッツ)と付き合ってるマイクが急に日程が空いたという。そこでマイクを呼ぶと、俳優としては凄いが人間的に人と折り合えず、プレビュー公演もぶち壊し。初日を見るニューヨークタイムスの記事で彼の人生も決まってしまうというのに、果たして無事に初日を迎えられるのだろうか…。
この主役のリーガンには、実際に20数年前に「バットマン」シリーズの主役を務めたマイケル・キートン。現実と映画が同調する緊迫感が素晴らしい。マイクがエドワード・ノートン。父親リーガンの付き人になり、この演劇プロジェクトの裏を見ることになるのが娘のサムで、父のわがままに付き合わされながら、ツイッターもFacebookもブログもしない父親はもう忘れられてるだけと言う。屋上で下を見ているとマイクが来て、父とマイク両者の心の中を聞く役柄を好演するのが、エマ・ストーン。ウッディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」で霊能者役の女の子をしている。「アメイジング・スパイダーマン」に出た人。以上の3人は、アカデミー賞の主演、助演部門でノミネートされた。
公私ともに危機にあるリーガンは、時に「バードマン」の声を聞く。時に「バードマン」に変身する。つまり、この映画は単なるバックステージものに留まらず、現代人の「心の闇」を追求する「マジック・リアリズム」的な映画になっている。まあ、あえて解釈すれば「二重人格」とか「統合失調症」かもしれないが、そういう精神疾患を描くのではなく、そういう世界をまるごと肯定するような描き方。そういう難しい世界を描き出したのが、撮影のエマニュエル・ルベツキ。昨年の「ゼロ・グラビティ」に続き2年連続のアカデミー賞受賞で、他に「スリーピー・ホロウ」や「ツリー・オブ・ライフ」などを撮った人である。ほとんど全部のシーンで移動撮影しているのではないかという感じで、すべてがワン・ショットでつながって撮られているかのようなすごい映像である。もっとも技術の進展した現代では、そのこと自体はあまり驚くほどでもないと思うが、舞台上と舞台裏、そして街の中を縦横に動き回り、現実と幻想を行き来するカメラには驚くしかない。特に、ローブが扉に引っかかって動けなくなってしまい、裸になって裏口から街へ出て人々の中を歩いて正面玄関から劇場に入り、客席から登場するシーン。何を言ってるのかよく判らないかもしれないが、こんなすごいシーンも滅多にない。
ところで、劇中劇になっているのは、なんとレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」なのである。カーヴァー未亡人のテス・ギャラガーの承認を得ているという話。カーヴァーは村上春樹が全集を翻訳しているから、日本でもよく知られている。短編作家だから、短編の評価が高い日本の方が有名かもしれない。世界の断片を鋭く切り取った素晴らしい作品をたくさん残したが、本人は地方の労働者階級に生まれ、家庭の危機やアルコール中毒に悩みながら、創作を続けた。そういうカーヴァーの世界がリーガンの危機的な「肥大した自己」とシンクロして、深さを増している。
バックステージものは、アメリカ映画だと「イヴの総て」や「女優志願」など、若い女優がのし上がる話が多い。日本だと芸道ものが昔からあるが、女優の話では「Wの悲劇」を思い出す。だけど、男優の世界は少ないかもしれない。幻想的に危機にある人生を描くという意味では、バレエ界が舞台だがダーレン・アロノフスキーの「ブラック・スワン」にちょっと近い。ミュージカルだけど、作家の世界を描くという意味では「バンド・ワゴン」もあるか。だけど、この映画はそれらのどれとも大きく違っている印象が強い。バックステージという意味では、これほど演劇界の事情を描き出し、劇場のムードを的確にカメラでとらえた映画もないのかもしれない。だけど、演劇界の裏を見たという感じもあまりしないのである。リーガンという存在を通して、ダメおやじでもありバードマン(ヒーロー)でもある追いつめられた人間を見たという感じである。
イニャリトゥ監督は、今まではむしろ「世界の断片」を描いてきたが、今回は「全部つながっている」映画を作った。「アモーレス・ペレス」「21グラム」「バベル」「ビューティフル」と長編監督作品は5作目。最近好調のメキシコ映画界を代表する映画作家だが、この作品が一番いいと思う。意味不明の長々しい副題が付いていて、しかもなぜかカッコに入っているわけだが、その意味は映画の最後の方で判る仕組み。この映画の魅力は一度だけではよく判らない感じだが、とりあえず紹介して、どこかでまた見てみたいと思う。

アカデミー賞の作品賞は、昨年からさかのぼって見てみると「それでも夜は明ける」「アルゴ」「アーティスト」「英国王のスピーチ」「ハートロッカー」…といった具合で、「政治的な配慮?」とか「業界受け」が多い感じ。悪い映画ではないとしても、自分で今年のベストワンだなどという映画に当たるのはほとんどない。(多分、クリント・イーストウッドの「許されざる者」以来、僕の個人的1位と共通する年はないかと思う。)だから、僕もこのブログで記事を書いたことがない。どうせ賞の名前で、そこそこヒットして映画ファンなら見るだろうから書くまでもない。だけど、今年の「バードマン」は、やはり「業界もの」には違いないけれど、内容や技法もそうだし、映画の世界観のようなものが珍しく「革新性」を持っている。ちょっとビックリの映画で、「訳の分からなさ」を抱えつつも疾走するカメラとともに画面に見入ってしまう魅力を持っている。いやあ、すごかったとも思うけど、もう一回見ないと評価できない気もする。
この映画を簡単に言うと、ニューヨークの演劇界(ブロードウェイ)を舞台にしたバックステージものである。リーガンは20年も前に大ヒットした「バードマン」の主役で人気を得たが、「バードマン4」を下りて以来、泣かず飛ばずの俳優人生。妻とも別れ、娘サムは薬物中毒で退院したばかり。そこで自分で脚本を書き、演出、主演する演劇をブロードウェイで上演する企画を進めていて、初日も近い。そんな中、共演俳優が気に入らないのだが、偶然(あるいはリーガンの超能力で?)照明が落ちてきて、ケガした俳優は使えない。代役を探していると、共演のレズリー(ナオミ・ワッツ)と付き合ってるマイクが急に日程が空いたという。そこでマイクを呼ぶと、俳優としては凄いが人間的に人と折り合えず、プレビュー公演もぶち壊し。初日を見るニューヨークタイムスの記事で彼の人生も決まってしまうというのに、果たして無事に初日を迎えられるのだろうか…。
この主役のリーガンには、実際に20数年前に「バットマン」シリーズの主役を務めたマイケル・キートン。現実と映画が同調する緊迫感が素晴らしい。マイクがエドワード・ノートン。父親リーガンの付き人になり、この演劇プロジェクトの裏を見ることになるのが娘のサムで、父のわがままに付き合わされながら、ツイッターもFacebookもブログもしない父親はもう忘れられてるだけと言う。屋上で下を見ているとマイクが来て、父とマイク両者の心の中を聞く役柄を好演するのが、エマ・ストーン。ウッディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」で霊能者役の女の子をしている。「アメイジング・スパイダーマン」に出た人。以上の3人は、アカデミー賞の主演、助演部門でノミネートされた。
公私ともに危機にあるリーガンは、時に「バードマン」の声を聞く。時に「バードマン」に変身する。つまり、この映画は単なるバックステージものに留まらず、現代人の「心の闇」を追求する「マジック・リアリズム」的な映画になっている。まあ、あえて解釈すれば「二重人格」とか「統合失調症」かもしれないが、そういう精神疾患を描くのではなく、そういう世界をまるごと肯定するような描き方。そういう難しい世界を描き出したのが、撮影のエマニュエル・ルベツキ。昨年の「ゼロ・グラビティ」に続き2年連続のアカデミー賞受賞で、他に「スリーピー・ホロウ」や「ツリー・オブ・ライフ」などを撮った人である。ほとんど全部のシーンで移動撮影しているのではないかという感じで、すべてがワン・ショットでつながって撮られているかのようなすごい映像である。もっとも技術の進展した現代では、そのこと自体はあまり驚くほどでもないと思うが、舞台上と舞台裏、そして街の中を縦横に動き回り、現実と幻想を行き来するカメラには驚くしかない。特に、ローブが扉に引っかかって動けなくなってしまい、裸になって裏口から街へ出て人々の中を歩いて正面玄関から劇場に入り、客席から登場するシーン。何を言ってるのかよく判らないかもしれないが、こんなすごいシーンも滅多にない。
ところで、劇中劇になっているのは、なんとレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」なのである。カーヴァー未亡人のテス・ギャラガーの承認を得ているという話。カーヴァーは村上春樹が全集を翻訳しているから、日本でもよく知られている。短編作家だから、短編の評価が高い日本の方が有名かもしれない。世界の断片を鋭く切り取った素晴らしい作品をたくさん残したが、本人は地方の労働者階級に生まれ、家庭の危機やアルコール中毒に悩みながら、創作を続けた。そういうカーヴァーの世界がリーガンの危機的な「肥大した自己」とシンクロして、深さを増している。
バックステージものは、アメリカ映画だと「イヴの総て」や「女優志願」など、若い女優がのし上がる話が多い。日本だと芸道ものが昔からあるが、女優の話では「Wの悲劇」を思い出す。だけど、男優の世界は少ないかもしれない。幻想的に危機にある人生を描くという意味では、バレエ界が舞台だがダーレン・アロノフスキーの「ブラック・スワン」にちょっと近い。ミュージカルだけど、作家の世界を描くという意味では「バンド・ワゴン」もあるか。だけど、この映画はそれらのどれとも大きく違っている印象が強い。バックステージという意味では、これほど演劇界の事情を描き出し、劇場のムードを的確にカメラでとらえた映画もないのかもしれない。だけど、演劇界の裏を見たという感じもあまりしないのである。リーガンという存在を通して、ダメおやじでもありバードマン(ヒーロー)でもある追いつめられた人間を見たという感じである。
イニャリトゥ監督は、今まではむしろ「世界の断片」を描いてきたが、今回は「全部つながっている」映画を作った。「アモーレス・ペレス」「21グラム」「バベル」「ビューティフル」と長編監督作品は5作目。最近好調のメキシコ映画界を代表する映画作家だが、この作品が一番いいと思う。意味不明の長々しい副題が付いていて、しかもなぜかカッコに入っているわけだが、その意味は映画の最後の方で判る仕組み。この映画の魅力は一度だけではよく判らない感じだが、とりあえず紹介して、どこかでまた見てみたいと思う。