3カ月ぐらい放っておいた村上春樹の新作長編小説「騎士団長殺し」をようやく読んだので、そのまとめ。放っておいたのは、一言で言えば長そうだからということになる。読んでみたら、やっぱり長かった。もちろん、2巻合わせて千ページを超える本だと判っているから、長いのは当たり前だがそれだけでもない。今までの小説と少し感触が違い、叙述は悠々と大河のように進んでいくのである。90年代頃までのように、「この小説は自分のために書かれた本だ」といった感じはもうしない。世界的な大作家になって、悠々たる大作をものするようになっている。
この「騎士団長殺し」は、とても面白く魅力的な小説ではあるけれど、僕には結構判らないことも多いし疑問もある。疑問の方は次に回して、まずは小説の成り立ちを簡単に。いつも不思議なことがたくさん起きるハルキワールドだけど、もちろん今回も同じである。だけど、その様子は今までとちょっと違う。村上春樹の長編小説は、特に21世紀に発表された「海辺のカフカ」「1Q84」はともに、二つの違う視点の物語が交互に語られる構成になっていた。しかし、今回の「騎士団長殺し」は時間が現実世界で直線的に進む物語で、不思議なことも起こるけど、現実世界の枠組みは否定されない。
違うと言えば、初めて「私」という一人称を使っていることで、まあ外国語に翻訳すれば同じかもしれないが、日本語表現ではかなりニュアンスが違う。清水義範の傑作「国語入試問題必勝法」を思いだしていえば、この「騎士団長殺し」とは、要するに『私』に「いろいろあった」という話である。いろいろの中身を書くと、これから読む人の興を削ぐからここでは書かない。ただし、「騎士団長」とはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物で、「騎士団長殺し」とは、主人公の「私」が見つけることになる日本画家雨田具彦の知られざる傑作の題名。その絵を見つけてから不思議なことが続く。
書評で言われているように、この物語の中では今までのハルキワールドのアイテムが総動員される感じで、その意味では「またかよ」的な既視感もないではない。だから「ハルキ入門編」(斎藤美奈子)とも言われるわけで、まあ「総決算」(あるいは「二番煎じ」)とも見えかねない。特にいつも出てくる「穴」の存在、これは「ねじまき鳥クロニクル」など多くの小説に共通する。妻に離婚を切り出され、再び妻のところに戻るまでという意味では、やはり「ねじまき鳥クロニクル」。謎を突き詰めていくと、過去の戦争の傷に向き合わざるを得なくなるのも、「ねじまき鳥」や「海辺のカフカ」と似ている。
「不思議な妊娠」の物語と言えば「1Q84」を思わせるし、「生霊」をめぐる物語という意味では「海辺のカフカ」。(さらに「源氏物語」と「雨月物語」。)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、「色彩を持たない」とは「友人どうしの5人組の中でただ一人、赤や青など色名が姓に付いてない」という意味だったけど、「騎士団長殺し」ではもっと進んで主要登場人物に「免色」(めんしき)という不思議な姓の人物が出てくる。白髪で真っ白なジャガーに乗って登場する、本物の「色彩を持たない」人物である。この免色は「私」が住む山の屋敷から見える向かいお屋敷に住んでいる。海と山とは違うけど、その構図は(村上春樹が翻訳している)フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」と同じ。
「海辺のカフカ」もそうだったけど、「騎士団長殺し」でも上田秋成の影響が見える。ここでは名前も明示されていて、登場人物が「春雨物語」を読んで似ていると語り合う。それは地面の底から不思議な鈴の音が聞こえてくるということで、秋成の本では大昔に即身成仏を求めて地底で断食してミイラになった僧が、魂だけ残っているというような設定である。これは最近見た鈴木清順監督のテレビ作品、「恐怖劇場」のために作られた「木乃伊の恋」の原作だ。(「木乃伊」はミイラと読む。)清順作品ではホラーというより、途中からコメディタッチになってしまうけど、この小説ではもっと不思議な展開になる。
それではこの小説は、過去の村上春樹作品と似ているのか。必ずしもそうではない。まず第一に、小説内の時間や地名がある程度はっきり書かれているということである。主要なドラマは、画家の「私」が借りて住むことになる小田原の雨田邸である。妻に離婚を切り出された「私」は、ショックを受けて自動車であてもない旅に出る。北海道から東北各地を回り、何も起こらないような日々が続くが三陸の港町(名前は出てこない)でちょっとした出来事がある。車が壊れて東京へ戻るが、住む場所がない「私」は学生時代からの友人雨田政彦から小田原の家を紹介される。彼は有名な日本画家雨田具彦の子どもで、具彦はもう90を超えて認知症が進み、伊豆高原の施設に入っているのである。
途中の叙述でこれが21世紀の話だと判るが、最後の最後で「東日本大震災の数年前」と時間もはっきりする。「私」は36歳なので、2006年の話だとすると、「私」や雨田政彦は1970年生まれとなる。雨田具彦の弟は、20歳の音大生の時に、なぜか日中戦争に召集され南京戦に従軍したとされる。となると、弟は1917年生まれとなり、雨田具彦はその数年前の生まれ。1915年生まれだとすると、1970年には55歳となる。留学中のウィーンでヒトラーのオーストリア併合にあい、事件に巻き込まれた。戦後になって日本画に転向し高く評価され、遅い結婚をしたとあるから、まあ時系列の整合性はある。
こうして最後に至って「ポスト3・11小説」の相貌も見せてくる「騎士団長殺し」なのである。この小説では最後に不思議なことがいろいろ起こるが、現実界での時空間に回収されるのである。そして「私」は現実世界で子どもとともに暮らしている。「1Q84」もそうなるのかもしれないけど、明確には書かれていない。「海辺のカフカ」も最後に現実世界に戻ってくるけれど、その後に関しては書かれていない。では、どうして「後日譚」まで書かれたのか。それは村上春樹も年齢を重ねたということでもあるだろうし、「3・11」の衝撃が日本の作家に残した傷跡でもあると思う。
村上春樹は珍しく各紙のインタビューに答えて、ナチスのオーストリア併合や南京大虐殺は「歴史は集合的な記憶だから、忘れたりつくり替えたりするのは間違っている」(4.2東京新聞)と語っている。歴史修正主義的な動きには「物語という形で闘わなければならない」と明言している。朝日新聞のインタビュー(4.2)でも「この物語の中の人は、いろいろな意味で傷を負っている。日本という国全体が受けた被害は、それとある意味で似ている。小説家はそれについて何もできないけれど、僕なりに何かをしたかった」と語っている。それがうまく成功しているかどうかの判定は別にして、登場人物、あるいは作家は日本という「世界」の傷を負って闘っている。それがこの小説なんだと思う。
それにしても、絵について、音楽について、小説について、さらに自動車や酒や食事について、この小説では実の多くのことが語られる。それは単にペダンチック(知識をひけらかす)なものではなく、主人公の生き方や世代的な情報を示すものでもあり、また物語の伏線になっているものもある。だから、ゆるゆると楽しみながら読めばいいんだと思うし、関心のない分野はスルーしてもいいのではないかと思う。だけど、ある意味では主人公は「時代離れ」している。雨田邸では雨田具彦が残したクラシックのレコードばかり聞いている。テレビもインターネットもない。ケータイ電話も持たない。友人の雨田政彦も車ではカセットを聞きたいという理由で、古い車を買い替えない。
「似た者同士」ということで説得力がある。僕もさすがにCDは聞けるようにしているけれど、CDプレーヤーを買う前に何十枚のCDを買っていた。(今もDVDが見られないのに、何十枚もDVDを持っている。)車ではカセットやラジオを聞く方が好きだった。(今は車はないけど。)だけど、これがつまり「伏線」で、登場人物が行方不明になっても、あるいは様々なトラブルを抱えても、ケータイ、スマホ、パソコンなどで連絡可能だというのが現代社会である。この物語の最大の謎は、主人公と、彼の知り合いの少女のゆくえが判らなくなるという設定だが、「ケータイがない」という説得的な理由をそれまでに作っておかなくてはいけない。それには成功しているだろう。(ところで、僕も車は全然判らないので、参考資料として写真かイラストがあるとうれしいと思った。)
この「騎士団長殺し」は、とても面白く魅力的な小説ではあるけれど、僕には結構判らないことも多いし疑問もある。疑問の方は次に回して、まずは小説の成り立ちを簡単に。いつも不思議なことがたくさん起きるハルキワールドだけど、もちろん今回も同じである。だけど、その様子は今までとちょっと違う。村上春樹の長編小説は、特に21世紀に発表された「海辺のカフカ」「1Q84」はともに、二つの違う視点の物語が交互に語られる構成になっていた。しかし、今回の「騎士団長殺し」は時間が現実世界で直線的に進む物語で、不思議なことも起こるけど、現実世界の枠組みは否定されない。
違うと言えば、初めて「私」という一人称を使っていることで、まあ外国語に翻訳すれば同じかもしれないが、日本語表現ではかなりニュアンスが違う。清水義範の傑作「国語入試問題必勝法」を思いだしていえば、この「騎士団長殺し」とは、要するに『私』に「いろいろあった」という話である。いろいろの中身を書くと、これから読む人の興を削ぐからここでは書かない。ただし、「騎士団長」とはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の登場人物で、「騎士団長殺し」とは、主人公の「私」が見つけることになる日本画家雨田具彦の知られざる傑作の題名。その絵を見つけてから不思議なことが続く。
書評で言われているように、この物語の中では今までのハルキワールドのアイテムが総動員される感じで、その意味では「またかよ」的な既視感もないではない。だから「ハルキ入門編」(斎藤美奈子)とも言われるわけで、まあ「総決算」(あるいは「二番煎じ」)とも見えかねない。特にいつも出てくる「穴」の存在、これは「ねじまき鳥クロニクル」など多くの小説に共通する。妻に離婚を切り出され、再び妻のところに戻るまでという意味では、やはり「ねじまき鳥クロニクル」。謎を突き詰めていくと、過去の戦争の傷に向き合わざるを得なくなるのも、「ねじまき鳥」や「海辺のカフカ」と似ている。
「不思議な妊娠」の物語と言えば「1Q84」を思わせるし、「生霊」をめぐる物語という意味では「海辺のカフカ」。(さらに「源氏物語」と「雨月物語」。)「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、「色彩を持たない」とは「友人どうしの5人組の中でただ一人、赤や青など色名が姓に付いてない」という意味だったけど、「騎士団長殺し」ではもっと進んで主要登場人物に「免色」(めんしき)という不思議な姓の人物が出てくる。白髪で真っ白なジャガーに乗って登場する、本物の「色彩を持たない」人物である。この免色は「私」が住む山の屋敷から見える向かいお屋敷に住んでいる。海と山とは違うけど、その構図は(村上春樹が翻訳している)フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」と同じ。
「海辺のカフカ」もそうだったけど、「騎士団長殺し」でも上田秋成の影響が見える。ここでは名前も明示されていて、登場人物が「春雨物語」を読んで似ていると語り合う。それは地面の底から不思議な鈴の音が聞こえてくるということで、秋成の本では大昔に即身成仏を求めて地底で断食してミイラになった僧が、魂だけ残っているというような設定である。これは最近見た鈴木清順監督のテレビ作品、「恐怖劇場」のために作られた「木乃伊の恋」の原作だ。(「木乃伊」はミイラと読む。)清順作品ではホラーというより、途中からコメディタッチになってしまうけど、この小説ではもっと不思議な展開になる。
それではこの小説は、過去の村上春樹作品と似ているのか。必ずしもそうではない。まず第一に、小説内の時間や地名がある程度はっきり書かれているということである。主要なドラマは、画家の「私」が借りて住むことになる小田原の雨田邸である。妻に離婚を切り出された「私」は、ショックを受けて自動車であてもない旅に出る。北海道から東北各地を回り、何も起こらないような日々が続くが三陸の港町(名前は出てこない)でちょっとした出来事がある。車が壊れて東京へ戻るが、住む場所がない「私」は学生時代からの友人雨田政彦から小田原の家を紹介される。彼は有名な日本画家雨田具彦の子どもで、具彦はもう90を超えて認知症が進み、伊豆高原の施設に入っているのである。
途中の叙述でこれが21世紀の話だと判るが、最後の最後で「東日本大震災の数年前」と時間もはっきりする。「私」は36歳なので、2006年の話だとすると、「私」や雨田政彦は1970年生まれとなる。雨田具彦の弟は、20歳の音大生の時に、なぜか日中戦争に召集され南京戦に従軍したとされる。となると、弟は1917年生まれとなり、雨田具彦はその数年前の生まれ。1915年生まれだとすると、1970年には55歳となる。留学中のウィーンでヒトラーのオーストリア併合にあい、事件に巻き込まれた。戦後になって日本画に転向し高く評価され、遅い結婚をしたとあるから、まあ時系列の整合性はある。
こうして最後に至って「ポスト3・11小説」の相貌も見せてくる「騎士団長殺し」なのである。この小説では最後に不思議なことがいろいろ起こるが、現実界での時空間に回収されるのである。そして「私」は現実世界で子どもとともに暮らしている。「1Q84」もそうなるのかもしれないけど、明確には書かれていない。「海辺のカフカ」も最後に現実世界に戻ってくるけれど、その後に関しては書かれていない。では、どうして「後日譚」まで書かれたのか。それは村上春樹も年齢を重ねたということでもあるだろうし、「3・11」の衝撃が日本の作家に残した傷跡でもあると思う。
村上春樹は珍しく各紙のインタビューに答えて、ナチスのオーストリア併合や南京大虐殺は「歴史は集合的な記憶だから、忘れたりつくり替えたりするのは間違っている」(4.2東京新聞)と語っている。歴史修正主義的な動きには「物語という形で闘わなければならない」と明言している。朝日新聞のインタビュー(4.2)でも「この物語の中の人は、いろいろな意味で傷を負っている。日本という国全体が受けた被害は、それとある意味で似ている。小説家はそれについて何もできないけれど、僕なりに何かをしたかった」と語っている。それがうまく成功しているかどうかの判定は別にして、登場人物、あるいは作家は日本という「世界」の傷を負って闘っている。それがこの小説なんだと思う。
それにしても、絵について、音楽について、小説について、さらに自動車や酒や食事について、この小説では実の多くのことが語られる。それは単にペダンチック(知識をひけらかす)なものではなく、主人公の生き方や世代的な情報を示すものでもあり、また物語の伏線になっているものもある。だから、ゆるゆると楽しみながら読めばいいんだと思うし、関心のない分野はスルーしてもいいのではないかと思う。だけど、ある意味では主人公は「時代離れ」している。雨田邸では雨田具彦が残したクラシックのレコードばかり聞いている。テレビもインターネットもない。ケータイ電話も持たない。友人の雨田政彦も車ではカセットを聞きたいという理由で、古い車を買い替えない。
「似た者同士」ということで説得力がある。僕もさすがにCDは聞けるようにしているけれど、CDプレーヤーを買う前に何十枚のCDを買っていた。(今もDVDが見られないのに、何十枚もDVDを持っている。)車ではカセットやラジオを聞く方が好きだった。(今は車はないけど。)だけど、これがつまり「伏線」で、登場人物が行方不明になっても、あるいは様々なトラブルを抱えても、ケータイ、スマホ、パソコンなどで連絡可能だというのが現代社会である。この物語の最大の謎は、主人公と、彼の知り合いの少女のゆくえが判らなくなるという設定だが、「ケータイがない」という説得的な理由をそれまでに作っておかなくてはいけない。それには成功しているだろう。(ところで、僕も車は全然判らないので、参考資料として写真かイラストがあるとうれしいと思った。)