尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

村上春樹訳「卵を産めない郭公」&アラン・J・パクラ監督のこと

2017年05月22日 21時28分43秒 | 〃 (外国文学)
 ジョン・ニコルズ卵を産めない郭公」(村上春樹訳)が刊行されたので、さっそく読んでみた。村上春樹・柴田元幸両氏が英米文学の旧作を新訳、または再刊する新潮文庫「村上柴田翻訳堂」の企画である。その話は前に書いたけど、まさか村上春樹の新作「騎士団長殺し」が先に出るとは思わなかった。昨年末にはチャンドラーの「プレイバック」も出てるし、すごい仕事ぶりだ。

 つい「騎士団長殺し」より先に読んじゃったんだけど、僕は後で書くように映画化作品「くちづけ」を若いころに見ていて、なんだか懐かしくなったのである。でも、作者のジョン・ニコルズ(1940~)って誰だ? まったく知らない。解説セッション(村上・柴田の対談のこと)を読むと、ロバート・レッドフォードが監督した「ミラグロ/奇跡の地」という映画の原作、「ミラグロ豆畑戦争」というのが、代表作だという。ノンフィクションも多く、今はニューメキシコ州に住んで環境活動家のような存在らしい。

 映画はもうあまりよく覚えてないけど、大学生のカップルのピュアで傷つきやすい関係を切なく描いた佳作だったと思う。この本を読んでみると、やはりそういう話なんだけど、ヒロインのプーキーが魅力的というか、ぶっ飛んでいる。そのハチャメチャな生き様が、心に突き刺さるような青春小説である。1965年に出た小説で、60年代前半の大学が舞台になっている。この時代性が絶妙だという話が対談を読むと実によく判る。50年代の抑圧でも、60年代後半の反体制でもない時期。

 大学自体がすごくいい(学力的にも、学費的にも)という話が解説にある。ニューイングランドのアイビーなんだけど、かなり小さな大学らしい。それとアメリカの大学は「全寮制」で、全然日本の感覚と違う。主人公は大学へ入る前の夏休み(もちろん、9月が新学期である)、長距離バスの休憩時に高校生のプーキーに話しかけられる。もう突然、雷に打たれたように知り合うのである。そして手紙の連発。翌年気づいてみれば、近くの女子大にプーキーが入っていた。

 その後、怒涛の「恋愛関係」が始まってしまう。それはアメリカの学生寮の独特の風習と相まって、嵐のような乱痴気騒ぎの日々というしかない。それで学業は大丈夫なのかと思うと、やっぱり危なくなって休みも取らずにレポート漬けになる。それじゃプーキーと会えなくなるというわけで、すったもんだの末、プーキーが寮に押しかけてくる。もう誰もいない寮で、二人だけの日々が始まる。突然、プーキーがカラスに気を取られて、カラスを撃ち殺そうとなって、ライフルを持ち出す。一体アメリカはどうなってるんだと思うけど、学生寮を二人で占拠できて、そこには銃も置いてある。(銃弾は自分で買う。)

 そんな日々が続いていくうちに、次第に二人の心が離れていき…。青春のどんちゃん騒ぎの日々は永遠に続かない。二人はニューヨークに行ったりするけど、あの素晴らしい日々は戻ってこない。誰にでも(多かれ少なかれ)あるような、若いころのメチャクチャな日々。そんな時代をともに駆け抜けた一風変わった女の子。そのイメージが忘れられない残像を残す。こういう、傷つけあう青春の物語は世界中で書かれたと思うけど、アメリカはまた独特だ。

 ところで、ここでは政治やドラッグが出てこない。その話は最後の対談でなるほどと思った。でも、その代わりに嫌というほどアルコールは出てくる。時代からして、もちろん手紙や電話でやり取りしている。その時のドキドキ感を知らない世代には、この物語はどう感じられるだろうか。もう少し時代が下ると、ベトナム戦争が大きい。「いちご白書」みたいな学生生活になる。もっとも60年代前半にも「公民権運動」はあったわけで、この物語の主人公の位置が「優秀な白人学生」だったのか。

 というか、この小説の眼目は、主人公を置いてしゃべりまくる「プーキー」という女性にあるのだろう。久しぶりにあった彼女が思わず抱き着いてきたため、主人公が倒れて頭を打ち病院で何針か縫う羽目におちいる。それぐらい、スペシャルな存在感を発揮している。彼女は美人じゃなくて、体も貧弱。主人公もスポーツ苦手タイプの勉強タイプで、そういうアメリカ学生の「低位置層」カップルだったということが、実はこの小説の最大の魅力なんじゃないだろうか。

 初めっから危なげに見えたプーキーは、やっぱり大学を途中で辞めるという。そして家に帰った彼女から、やがて「最後の手紙」が送られてくる。二人の関係も大丈夫かなと思うけど、それだけなら二人が別れるだけで大学は続けるだろう。問題は実社会に不適応なぐらい、独特な感性を持ち続けたプーキーという女性の「こころ」の方にある。そういう不安定な心を描いたという意味で、この小説は今の日本でもよく通じると思う。細部の状況は違っても、「危ない人を愛してしまう」時の心の揺れは、むしろ今の問題かもしれない。この小説は今こそ読まれるべきだと思う。

 この小説は1969年にアラン・J・パクラ監督によって映画化された。日本では1970年に「くちづけ」という題名で公開されている。主人公二人は、もう当然のようにセックスしてる時代だけど、それでも「キス」に大きな意味があった。なかなかいい題名だったかもしれない。ヒロインのプーキーは、ライザ・ミネリ(1946~)。言うまでもなくヴィンセント・ミネリ監督とジュディ・ガーランドの娘で、それ以前にブロードウェイで活躍していた。映画に本格的に主演した最初の作品だったと思う。そして、1972年の「キャバレー」でアカデミー賞主演女優賞を得たわけである。

 監督のアラン・J・パクラ(1928~1998)は、もう亡くなってかなり立つので覚えている人も少ないだろう。サスペンス映画や社会派的映画に手腕を発揮した監督だった。もっともアメリカのことだから、独自の「映画作家」というより、演出の専門家というべきだろう。デビュー作が「くちづけ」だったけど、それ以前にもプロデューサーとして「アラバマ物語」を作った。アカデミー監督賞には「大統領の陰謀」一作しかノミネートされてないが、「コールガール」でジェーン・フォンダ、「ソフィーの選択」でメリル・ストリープにアカデミー主演女優賞をもたらしている。

 どこか奇特な会社が現れて、この機会に「くちづけ」をリバイバル上映してくれないだろうか。DVDもないようだし、村上春樹訳ということなら見に行く人もいるんじゃないか。そして、できることなら、ジャーナリズムのあり方、大統領弾劾の前例という意味で「大統領の陰謀」、今も数多く作られているホロコーストをテーマにした映画「ソフィーの選択」(1983年キネ旬ベストワン)と合わせて、パクラ特集をやって欲しいと思うんだけど、まあ無理でしょうね。この監督は、その他に「推定無罪」や「ペリカン文書」など話題のミステリー映画化なども残している。大監督というんじゃないけど、しっかりした演出力で安定していた人だろう。
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