もう2月になってしまったが、2020年の書き残しがいくつもある。そのうちのいくつかを書いておきたい。僕の場合、気になる新聞記事を切り抜いておいて、手元に置いておく。他にテーマがない時に書こうと思っているうちに時間が経ってしまう。そんなことが多い。今回は東京新聞12月6日の記事で、「制服選択 公立高600超に 性的少数者配慮や防寒も」と見出しにある。
(制服に選択肢がある高校数)
リードの部分を引用すると、「女子生徒の制服にスラックスを追加したり、性別の縛りをなくしたりする形で制服に選択肢を設ける都道府県が少なくとも十九都道県の六百校超に上ることが、都道府県教育委員会への取材で分かった。性的少数者のうち出生時の性別と自認する性別が異なる「トランスジェンダー」の生徒への配慮に加え防寒面などから導入する高校も増えている。」
記事はさらに数の細かな内訳などが書かれているが、それはいいだろう。各都道県の高校数は上記画像に載っている。この制度をどう考えるべきだろうか。記事には「京都華頂大の馬場まみ教授(服装史)の話」として「対症療法的な印象」と書かれている。記事そのものは「こういう配慮をするようになったのはいいことだ」という方向で書かれているように思う。確かに一昔前には配慮の有無以前に、そもそも「トランスジェンダー」の生徒がいるという問題意識さえ全くなかった。
性的少数者の生徒も自ら校内で声を挙げることはほとんどなかっただろう。80年代半ばに「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」が問題化した時代には、「荒れた生徒」は制服の乱れから始まるということが多かった。改造された制服、今ではマンガや映画の中にしか存在しないような服を着て登校する生徒が実際にいたのである。だから「学校再建」の中で、「制服」を守らせるという取り組みが先行した。そういう時代がちょっと前にあったのである。
その時代に「制服で苦しむ生徒」もいた。しかし、僕もその事に気付くのはずいぶん後になってからだ。だから「男女を問わない制服の選択がある」というのは、確かに「一歩前進」とは思う。だけど、と思うんだけど、「選択肢を広げる」だけでいいのだろうか。「防寒」の意味もあって、女子生徒でもスラックスが選べる。しかし、「心は女子」の男子生徒がセーラー服を選べるようにはなっていないだろう。本来「トランスジェンダーへの配慮」なら、男子でも女子の、女子でも男子の制服が選べなければおかしくないだろうか。
(多様な制服)
本質的な問題を抜きにして、単に「スラックスを選べる」だけだったら、「性的少数者だから」なのか、「防寒」のために選んでいるのか不明である。だからいいのかもしれないが、トランスジェンダーの生徒でもカミングアウトできないまま、防寒のためですと言うのではないか。校内で「多様性を認め合う」のではなく、「取りあえずスラックスを選べるようになってるんだから、何も言うな」になってしまわないかとも思う。
それより何より、「制服」そのものを問わないでいいのだろうか。生徒を性別に「男子」「女子」に分けて、それぞれに制服を定めるというシステムそのものが「抑圧的」なのではないか。僕の高校時代には「制服自由化運動」があった。今では「18歳選挙権」が実現した。大人として一票を投じる権利がある人間が、何を着て学校へ行くか指図されるというのはおかしくないだろうか。文科相自体が「個性化教育」「アクティブラーニング」という時代に、少なくとも高校生は自由服でいいのではないか。「先進国」の高校生はみな私服だと思うんだけど。
制服自由化運動をした人間にとって、まさかその後「制服がカワイイ」から私立高校を選ぶなんていう中学生が現れるとは想像もしなかった。今は高校で制服があることが日本では当然視されているだろう。しかし、国際的にはそっちの方がおかしいのではないか。私服にすれば、好きな服をいればいいんだから、性的少数者の生徒への配慮という問題はなくなる。ただ、多分「問題生徒」は「問題の服」を着て登校するということは多分変わらないんじゃないかとは思う。

リードの部分を引用すると、「女子生徒の制服にスラックスを追加したり、性別の縛りをなくしたりする形で制服に選択肢を設ける都道府県が少なくとも十九都道県の六百校超に上ることが、都道府県教育委員会への取材で分かった。性的少数者のうち出生時の性別と自認する性別が異なる「トランスジェンダー」の生徒への配慮に加え防寒面などから導入する高校も増えている。」
記事はさらに数の細かな内訳などが書かれているが、それはいいだろう。各都道県の高校数は上記画像に載っている。この制度をどう考えるべきだろうか。記事には「京都華頂大の馬場まみ教授(服装史)の話」として「対症療法的な印象」と書かれている。記事そのものは「こういう配慮をするようになったのはいいことだ」という方向で書かれているように思う。確かに一昔前には配慮の有無以前に、そもそも「トランスジェンダー」の生徒がいるという問題意識さえ全くなかった。
性的少数者の生徒も自ら校内で声を挙げることはほとんどなかっただろう。80年代半ばに「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」が問題化した時代には、「荒れた生徒」は制服の乱れから始まるということが多かった。改造された制服、今ではマンガや映画の中にしか存在しないような服を着て登校する生徒が実際にいたのである。だから「学校再建」の中で、「制服」を守らせるという取り組みが先行した。そういう時代がちょっと前にあったのである。
その時代に「制服で苦しむ生徒」もいた。しかし、僕もその事に気付くのはずいぶん後になってからだ。だから「男女を問わない制服の選択がある」というのは、確かに「一歩前進」とは思う。だけど、と思うんだけど、「選択肢を広げる」だけでいいのだろうか。「防寒」の意味もあって、女子生徒でもスラックスが選べる。しかし、「心は女子」の男子生徒がセーラー服を選べるようにはなっていないだろう。本来「トランスジェンダーへの配慮」なら、男子でも女子の、女子でも男子の制服が選べなければおかしくないだろうか。

本質的な問題を抜きにして、単に「スラックスを選べる」だけだったら、「性的少数者だから」なのか、「防寒」のために選んでいるのか不明である。だからいいのかもしれないが、トランスジェンダーの生徒でもカミングアウトできないまま、防寒のためですと言うのではないか。校内で「多様性を認め合う」のではなく、「取りあえずスラックスを選べるようになってるんだから、何も言うな」になってしまわないかとも思う。
それより何より、「制服」そのものを問わないでいいのだろうか。生徒を性別に「男子」「女子」に分けて、それぞれに制服を定めるというシステムそのものが「抑圧的」なのではないか。僕の高校時代には「制服自由化運動」があった。今では「18歳選挙権」が実現した。大人として一票を投じる権利がある人間が、何を着て学校へ行くか指図されるというのはおかしくないだろうか。文科相自体が「個性化教育」「アクティブラーニング」という時代に、少なくとも高校生は自由服でいいのではないか。「先進国」の高校生はみな私服だと思うんだけど。
制服自由化運動をした人間にとって、まさかその後「制服がカワイイ」から私立高校を選ぶなんていう中学生が現れるとは想像もしなかった。今は高校で制服があることが日本では当然視されているだろう。しかし、国際的にはそっちの方がおかしいのではないか。私服にすれば、好きな服をいればいいんだから、性的少数者の生徒への配慮という問題はなくなる。ただ、多分「問題生徒」は「問題の服」を着て登校するということは多分変わらないんじゃないかとは思う。