尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

面白くて深い「評伝 開高健」ー開高健を読む④

2021年02月23日 22時51分09秒 | 本 (日本文学)
 開高健に関して4回書いたので、一端お休み。まだ読んでない本もあり、書きたいスピンオフもあるから少し後で再開予定。2017年に出た小玉武評伝 開高健ー生きた、書いた、ぶつかった!」が2020年10月にちくま文庫に入った。そこで今回読んでみたが、ここ最近読んだ本の中では圧倒的に面白かった。読み終わるのが惜しくなって、他の本と掛け持ちで読んだぐらいだ。開高健も逝去から時間が経って関係者の多くも亡くなりつつある。そのため失われたものも多いが、逆に新資料や新証言も集まるようになったのだろう。

 前回までに芥川賞受賞サントリー宣伝部の話は書いた。今度の本は評伝だから、生育や文学修行時代が初めに追跡される。そこは今細かく書かないが、小学校教員だった父親が1943年に急死して、13歳の健が「戸主」となって空襲下の大阪を生き延びたのである。妹二人は疎開したものの、母と健は残っていた。学校はもはや授業ではなく、勤労動員に明け暮れた。操車場で大人に交じって働き、機銃掃射にもあった。敗戦後は貧困の中を何とか生き延びた。

 それらの体験は後に「青い月曜日」などで書かれたが、出発時の開高健は決して焼け跡時代の思い出を叙情的には書かなかった。苛酷な戦争体験は開高健を「日本的叙情」から遠ざけたのである。初期短編は「自我」の外側にテーマを設定している。「パニック」はネズミの大発生、「巨人と玩具」はお菓子会社の宣伝競争、「流亡記」に至っては秦・始皇帝の万里の長城建設をテーマにしている。それらはもちろん「現代」と「人間」を考える仕掛けだが、幼児期や恋愛・失恋の思い出を甘く語るような「青春文学」ではない。
(開高健と牧羊子)
 開高健にとって、牧羊子と出会い、サントリー(寿屋)に入社したことが人生を決めたが、その経緯が細かく検討される。開高健は晩年にテレビCMに出たときは、ずいぶん太っていた。しかし、結婚当時の写真を見ると痩身の文学青年である。東京に出てきて「裸の王様」で芥川賞を受けたが、仕事と家庭を抱えながらではすぐにアイディアが枯渇する。「文學界」への受賞第一作が書けずに、「群像」から書き直しを求められていた「なまけもの」を流用した。以後「群像」(講談社)と絶縁された。「開高健短編選」にある「なまけもの」は自伝的作品だが失敗作だろう。

 この評伝はいくつかの作品を読んでないと面白くないだろう。それを挙げれば「日本三文オペラ」「輝ける闇」「夏の闇」「オーパ!」だ。苦闘する開高健が挑んだのは、地元の大阪を舞台にした「日本三文オペラ」(1959)だった。これは大阪城近くの砲兵工廠跡に残された金属を盗み出そうとする集団を描くピカレスク(悪漢)小説である。小松左京日本アパッチ族」や梁石日(ヤン・ソギル)の「夜を賭けて」と同じ題材である。つまり主人公は本当は在日朝鮮人だった。開高は牧羊子を通して、詩人金時鐘や後の作家梁石日に取材したのである。
(小玉武氏)
 全部書いてると終わらないが、一段の凄みを感じたのは「夏の闇」をめぐる考察である。これはどことも知れぬヨーロッパの町(明示されてないだけで明らかにパリやベルリン)で、過去の因縁を抱えた女と性に耽溺するある夏の話である。小説だから「事実」である必要はないが、その「熱」には現実のモデルがいたのだろうか。年上の妻を持つ作家は外国で妻ならぬ女性と関係を持っていたのか。どのような事情が背景にはあるのだろうか。そこを追跡していくと、様々な事実が発掘される。「文学探偵」の妙味だが、それは哀切なエピソードだったと言えるだろう。

 細かいところは本書に譲るが、開高没後に娘道子妻初子(牧羊子)に訪れた運命も哀切なものだった。僕も新聞で訃報を読んで絶句した思い出があるが、事情を知って言葉を失う。そして開高自身も59歳と早死にだった。石原慎太郎や大江健三郎が今もなお存命であるだけでなく活動もしていることを思えば、開高健が今も現役作家であってもおかしくはないのだ。1930年生まれ、1989年没と日本の元号で言えば、ほぼ「昭和」を生きたと言ってよい。冷戦終結、バブル崩壊を前に亡くなったのである。

 そして著者は恐るべき指摘をしている。ヴェトナムを共に取材した朝日のカメラマン秋元啓一も49歳で亡くなった。死因も同じ食道がんだった。これはヴェトナム戦線取材時に浴びた「枯葉剤」、つまりダイオキシンの影響なのではないか。それは今では確かめられない。開高は喫煙家だったし、がんの原因は誰にも判らない。しかし、戦後を駆け抜けて去って行った作家には、その幅広い活動の中でそんな指摘もあるということだ。
(左から開高、佐治敬三、山崎正和、高坂正堯)
 なお、著者は「日本三文オペラ」の考察の中で、梁石日の原作を映画化した崔洋一監督の「月はどっちに出ている」を岩波ホールで見たと書いているが、それは明らかな勘違いである。「月はどっちに出ている」は1993年11月6日に公開され、自分は11月20日に「新宿ピカデリー2」で見た。(記録を付けているから確か。その日は先に中国映画「香魂女」をテアトル新宿で見た。)その時岩波ホールではシンシア・スコット監督「森の中の淑女」という「老女映画」が大ヒットしていた。9月4日から12月10日まで上映され、翌94年の3月19日から6月10日まで再上映されたぐらいのヒットだった。岩波ホールのホームページには過去の全上映記録が掲載されている。
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