東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が、3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で行った発言が問題になっている。「2020年の書き残し」を書いていたんだけど、2021年にこれほど「興味深い」問題が起きれば逃すわけにはいかない。問題の発言は以下に示すが、世界に波紋が広がっている。僕も最初に聞いたときは「女性蔑視」発言だと思ったのだが、よく考えてみれば「男性蔑視」発言なのかもしれない。そして「性差別」であるとともに、「日本社会の仕組み」をこれほどあからさまに示した発言も珍しいと思う。
(海外紙で報じられた森発言)
まず以下に発言全文を引用する。(スポニチのサイトから)
【3日のJOC臨時評議員会での森会長の女性を巡る発言】これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。
この発言は驚くべきことに、公開された公式の会議でなされた。森氏の首相時代の「神の国発言」は講演会でなされた。日本を代表するもう一人の「失言大王」である麻生太郎副首相も、その「問題発言」の多くは講演会である。聞き手が「身内」だから、サービス意識から口が滑るのである。しかし、今回は自ら「テレビがあるからやりにくい」「あまりいうと新聞に悪口書かれる」と言っている中での発言だ。公的な場なんだから、出席者にはその場で反論する義務がある。今回は「笑いが起こった」とされる。そっちの方がさらに大問題かもしれない。
会議とは何のために開くのだろうか。それは皆が意見を言い合って、より良い結論を導くためだろう。従って性別を問わず、発言しなければ出席する意味がない。「女性を増やすと時間が延びる」ということは、「男性だけなら会議が短く済む」ということだ。それなら会議をする意味がないではないか。男は会議で発言しないのか。むしろ男をバカにしてるんじゃないかと思うけど。その通り、男だろうと女だろうと、「日本社会の仕組み」をわきまえないのは困るということだろう。会議とは「裏で決めてある結論を追認する場」だから、意見を言ってはいけないのである。
僕の子ども時代には、「話し合いで何でも決める」とならった。「五箇条の御誓文」にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(現代表記)である。だからクラスでは「学級会」が毎週開かれた。司会をする学級委員はクラスごとに集まって「学級委員会」が組織され、学年全体のことを話し合う。当時のことだから、いじめをどうするなんて議論はなかった。学芸会の出し物とか遠足のお小遣いとか、そんな程度の問題だが、皆が意見を言い合った。そしてそれが「民主主義」だと教えられた。男性教師はほとんどが軍隊経験者だった時代である。
僕が教師になってからも、もちろん何回も「クラスの話し合い」は行った。学習指導要領では中学は「学級活動」、高校は「ホームルーム活動」と呼ばれる。しかし、もうこれこそが民主主義だなどと熱く語ることは僕にはほとんどなかったと思う。「修学旅行の班作り」「運動会の選手決め」など、どうしても決めなければいけないことがある。でもなかなか決まらないことがある。人間関係が交錯し、「なんとか平和に決まって欲しい」と祈るような時間だったことの方が多い。
僕が出た多くの会議の中で、一番多いのはもちろん「職員会議」だ。教員の世界は女性が多い。小学校では女性の方が多い学校も多いだろう。そういうところでは、職員会議が長いのか。そんなことはないだろう。むしろ女性の発言は少ないのではないか。現実の日本社会では、教師の世界でも女性教員が育児や家事の負担が多いのが実情だろう。ただでさえ忙しいのに、会議で発言して長く延ばすはずがない。発言して変わるならともかく、「職員会議」は法的には校長の諮問機関に過ぎず、校長も教育委員会に従う立場に過ぎない。結局は教育行政の意を受けた校長が決めてしまう。(都教委では「職員会議で多数決を取るな」という通達を出している。)
「イマドキの風潮」として、理事会に女性を多くしないといけない。それは判っているけれど、「女性理事」は「お飾り」なんだから、会議では黙っていて欲しい。まあ、そういうことなんだろうと思う。女性に限らず、男性でも「お飾り」でなっている人には黙っていて欲しいのだろう。「活発な議論」そのものが嫌いなのである。会議とは「インナーサークル」で決まったことを、タテマエ上開かざるを得ない「表の会議」で追認する場である。これが政治でも会社でも、学校でもどこでも日本中で同じような仕組みになっているだろう。
(森喜朗失言録)
いろいろな立場の人が入って作られる「理事会」「審議会」などには、マイノリティの立場から選ばれる人も入る。そのような人の意見も「聞いた形にする」ために選ばれたんだから、もちろん発言してもいい。だが決定を長引かせるようなレベルまで発言してはいけない。これが「暗黙のルール」なのである。そんな日本社会の仕組みをまざまざと見せてくれた。その「偉大な功績」をもって、森氏は退くべきだ。そもそも何で五輪組織委員会の会長になったのかは理解不能だ。しょせん東京五輪とはそういうものだと思って、今まで何も言わなかったが、それもいけなかった。もうこの人にはうんざりだというのが、多くの国民の実感だろう。

まず以下に発言全文を引用する。(スポニチのサイトから)
【3日のJOC臨時評議員会での森会長の女性を巡る発言】これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。
女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。
私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。
この発言は驚くべきことに、公開された公式の会議でなされた。森氏の首相時代の「神の国発言」は講演会でなされた。日本を代表するもう一人の「失言大王」である麻生太郎副首相も、その「問題発言」の多くは講演会である。聞き手が「身内」だから、サービス意識から口が滑るのである。しかし、今回は自ら「テレビがあるからやりにくい」「あまりいうと新聞に悪口書かれる」と言っている中での発言だ。公的な場なんだから、出席者にはその場で反論する義務がある。今回は「笑いが起こった」とされる。そっちの方がさらに大問題かもしれない。
会議とは何のために開くのだろうか。それは皆が意見を言い合って、より良い結論を導くためだろう。従って性別を問わず、発言しなければ出席する意味がない。「女性を増やすと時間が延びる」ということは、「男性だけなら会議が短く済む」ということだ。それなら会議をする意味がないではないか。男は会議で発言しないのか。むしろ男をバカにしてるんじゃないかと思うけど。その通り、男だろうと女だろうと、「日本社会の仕組み」をわきまえないのは困るということだろう。会議とは「裏で決めてある結論を追認する場」だから、意見を言ってはいけないのである。
僕の子ども時代には、「話し合いで何でも決める」とならった。「五箇条の御誓文」にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(現代表記)である。だからクラスでは「学級会」が毎週開かれた。司会をする学級委員はクラスごとに集まって「学級委員会」が組織され、学年全体のことを話し合う。当時のことだから、いじめをどうするなんて議論はなかった。学芸会の出し物とか遠足のお小遣いとか、そんな程度の問題だが、皆が意見を言い合った。そしてそれが「民主主義」だと教えられた。男性教師はほとんどが軍隊経験者だった時代である。
僕が教師になってからも、もちろん何回も「クラスの話し合い」は行った。学習指導要領では中学は「学級活動」、高校は「ホームルーム活動」と呼ばれる。しかし、もうこれこそが民主主義だなどと熱く語ることは僕にはほとんどなかったと思う。「修学旅行の班作り」「運動会の選手決め」など、どうしても決めなければいけないことがある。でもなかなか決まらないことがある。人間関係が交錯し、「なんとか平和に決まって欲しい」と祈るような時間だったことの方が多い。
僕が出た多くの会議の中で、一番多いのはもちろん「職員会議」だ。教員の世界は女性が多い。小学校では女性の方が多い学校も多いだろう。そういうところでは、職員会議が長いのか。そんなことはないだろう。むしろ女性の発言は少ないのではないか。現実の日本社会では、教師の世界でも女性教員が育児や家事の負担が多いのが実情だろう。ただでさえ忙しいのに、会議で発言して長く延ばすはずがない。発言して変わるならともかく、「職員会議」は法的には校長の諮問機関に過ぎず、校長も教育委員会に従う立場に過ぎない。結局は教育行政の意を受けた校長が決めてしまう。(都教委では「職員会議で多数決を取るな」という通達を出している。)
「イマドキの風潮」として、理事会に女性を多くしないといけない。それは判っているけれど、「女性理事」は「お飾り」なんだから、会議では黙っていて欲しい。まあ、そういうことなんだろうと思う。女性に限らず、男性でも「お飾り」でなっている人には黙っていて欲しいのだろう。「活発な議論」そのものが嫌いなのである。会議とは「インナーサークル」で決まったことを、タテマエ上開かざるを得ない「表の会議」で追認する場である。これが政治でも会社でも、学校でもどこでも日本中で同じような仕組みになっているだろう。

いろいろな立場の人が入って作られる「理事会」「審議会」などには、マイノリティの立場から選ばれる人も入る。そのような人の意見も「聞いた形にする」ために選ばれたんだから、もちろん発言してもいい。だが決定を長引かせるようなレベルまで発言してはいけない。これが「暗黙のルール」なのである。そんな日本社会の仕組みをまざまざと見せてくれた。その「偉大な功績」をもって、森氏は退くべきだ。そもそも何で五輪組織委員会の会長になったのかは理解不能だ。しょせん東京五輪とはそういうものだと思って、今まで何も言わなかったが、それもいけなかった。もうこの人にはうんざりだというのが、多くの国民の実感だろう。