2023年のノーベル平和賞受賞者にイランのナルゲス・モハンマディ(1972~)が選出された。理由は「イランにおける女性への弾圧に抵抗し、すべての人々の人権と自由を促進するための戦いに対して」である。モハンマディは現在獄中にいる。イラン政府が授章式出席のために釈放するとは(残念ながら)考えにくい。世界的な大規模な釈放キャンペーンが緊急に必要だ。
(ナルゲス・モハンマディ)
今までにノーベル平和賞が獄中にいる人に与えられたことは何度かある。昨年(2022年)のベラルーシの人権活動家アレシ・ビャリャツキもその一人で、2年連続になる。1935年のカール・フォン・オシエツキー(ドイツの平和運動家)、2010年の劉暁波(中国の人権活動家)が決定当時、獄中にあった。これらの人々は「良心の囚人」であり、人間に対する希望を未来へつなぐ人々である。また1991年のアウンサンスーチー(ミャンマー)は自宅軟禁中で授章式に出席出来なかった。他にもサハロフ(1975、ソ連)、ワレサ(1983、ポーランド)が授章式に出席出来なかった。
(モハンマディの家族)
2022年秋にイランで「反ヒジャブ」の大デモが起こったとき、僕はここで書かなかった。日本のマスコミは盛り上がったときだけは報じるが、全体としては情報量が少なくてよく判らないことが多い。例えば、僕は今回の受賞者ナルゲス・モハンマディの名前を知らなかった。日本人の多くは同じだろう。「2023年10月」は、1973年10月に起こった第4次中東戦争から半世紀を迎える月だ。あの時はアラブ諸国が「石油戦略」を発動して、日本で「オイルショック」が起きた。その時、「日本人はもっとイスラム教地帯を知らなければいけない」と言われたものだ。しかし、どのぐらい変わったのだろうか?
さて、今回の受賞からちょうど20年前、2002年にやはりイランの女性がノーベル平和賞を受賞した。それがシリン・エバディ(1947~)である。2007年に『私は逃げない』という自伝が翻訳された(ランダムハウス講談社)。その時に書評を書いているので、そこから引用して紹介したい。シリン・エバディは、イスラム教徒の女性として、またイラン人としても、初めてノーベル賞を受けたが、名前を知らないという人も多いのではないだろうか。イランの女性弁護士で、タフで繊細な人権の闘士である。
(シリン・エバディ)
2000年の秋のことである。彼女は、権力による知識人暗殺の遺族側弁護士として無償の活動を続けていた。司法省のファイルを10日間だけ見る許可を与えられたシリンは、情報省内の秘密暗殺チームの文書に「次に殺さねばならんのは、シリン・エバディだ」という箇所を自ら発見してしまう。まさに命をかけた活動の記録がこの本なのである。シリン・エバディは、イランで初めて裁判官になった女性である。判事でありながらシャー(国王)に反対する動きに勇気を持ってコミットした。しかし、反シャーの抗議文を持ち先輩裁判官室を訪れると、「革命が起こったら、女性裁判官は追放される。自分で自分の首を絞めるような事をなぜするのか」と言われたと自伝に書いている。まさか、そんなことがあるとは思わなかったのだ。
イランのパフレヴィー1世は、第二次大戦中に英ソにより追放され、子どもの2世が継いだ。権威の確立していない王のもと、事実上自由選挙の時代が訪れ、民族主義的なモザデグ政権が成立する。モサデグ政権は石油資源の国有化を進めたため、1953年にアメリカの秘密情報機関がクーデターを起こして崩壊させた。その後、アメリカに支えられて独裁を開始した若きシャーに、国民は初めから冷ややかだったのである。王制は結局秘密警察SAVAKにより支えられていた。アメリカの支援を受け近代化、工業化をひたすら進めたシャーに対し、近代化政策が伝統に反するとみた宗教保守派が抗議する。その結果、法学者の最高権威だったホメイニという無名の人物がイラクに追放された。左翼勢力、民族主義者は秘密警察の厳しい弾圧にさらされた。

1971年、シャーはペルセポリス遺跡で建国2500年祭を、大々的に挙行した。これが転機となった。外国から見れば磐石と見えたイラン王政だが、人心は完全に離れた。イスラム保守勢力も、左翼過激派も、リベラルな芸術家、知識人も、反王政の一点で事実上共闘することになったのである。それが1978年夏の情勢で、大々的なデモと、数々の弾圧事件が続き、いよいよ人心を失ったシャーは、1979年1月に出国。代わってパリからホメイニが帰国する。革命後の権力をめぐり、イスラム勢力と左翼過激派のテロの応酬が始まった。この混乱の勝者はイスラム勢力だった。彼らは旧勢力と左翼過激派を抹殺する。そして女性や他宗教の人々の権利を剥奪し始めた。
そして、イランの女性は大きな苦難にさらされたのである。シリン・エバディの場合、革命派だった過去は全く意味を持たず、裁判官には女性はなれないということで、事務職への異動を命じられた。時代錯誤としか思えない「イスラム法」(と称するもの)が突然実施に移される。女性の権利は、男性の二分の一とされた。姦通には石打ち、盗みには腕切りなど20世紀の常識を覆す刑罰が導入された。人々は反イスラムというレッテルを恐れ、沈黙が社会を覆い、女性はスカーフで髪を覆うようになった。あらゆる音楽会が禁止になり、クラシックやポピュラーだけではなく、民族楽器の演奏もできなくなった。アメリカ映画だけでなく、外国映画の上映はなくなってしまった。
1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争が、国連安保理の停戦あっせんを受諾して戦争が終わると、イランは徐々に復興し、エバディにも弁護士資格が認められるようになった。そのような中で、驚くべき事件をシリンは知ることになる。農村地帯で、ある11歳の少女が3人の男に強姦され崖の上から落とされ殺された。3人の男は逮捕されたが主犯は自殺、二人の男に死刑判決が下った。イスラム法においては(というかイランのイスラム体制における解釈では)「殺人の被害者は、法的処罰か金銭的補償かを選べる」。そして「女は男の権利の半分の価値がある。」
そこで、少女の命を1ポイントとすると、男二人が死刑となるので男側のポイントは2×2の4ポイントとなる。被害者家族は、「レイプ被害者の家族という汚名」を晴らすため、死刑を求めるしかない。(イランの農村部の家父長的価値観の中では。)かくして、死刑となる男の家族の側に、少女の家族に対して「3ポイント分の補償」を求める権利が生じる。裁判所は少女の父親に処刑費用を含む多額の金額を払うように命じる判決を出した。家族は財産を投げ出したが足りないので、腎臓を売ろうとした。しかし、父は薬物乱用の過去があり、兄は小児麻痺のため腎臓摘出ができなかった。なぜ家族で臓器を売るのか不思議に思った医者が事実を知り、司法省のトップに手紙を書き、問題を訴えた。そこで首都でも知られたが、その後の経過も奇奇怪怪。
著者はこの段階で被害者家族の無償の弁護人となった。処刑を前に犯人が脱走、つかまり再審となり、無罪。また再審となり・・・。読んでてもこのあたりは、理解できない。著者も外国向けのこの本の中で、法的な経緯を追って説明することを諦めているように思う。これほど奇怪なケースはイランでも稀ではあるらしいが、度を越している。イスラム法は、確かに「女の相続は男の半分」としているようだが、命に差をつけているというわけではない(らしい。)つまり、イスラム法の解釈の中でも、一部の少数派が権力を握った状態なのである。(実際、アラブ諸国を始めすべてのイスラム圏でこのようなことが起こるわけではない。)
こうしてシリン・エバディは虐げられた女たち、自由を奪われた知識人などの「良心の囚人」のために無償で働く人権活動家になっていった。そして逮捕されてしまう。その後、1999年に「改革派」のハタミが大統領に選ばれ、多少の希望が見えた時代がやってきたが、やがて失望が社会を覆う。それでも、「子供たちが誕生会で集まるのも心配だった時代」は21世紀になると終わっていった。そうして国際的にも知られるようになったシリン・エバディにノーベル賞が授与された。その時パリにいたが帰国したシリンを何十万もの民衆が迎えた。そんなに民衆が空港に集まったのは「ホメイニの帰国以来」だった。
シリン・エバディは、イランを去らない決意をしている。というところで、その本は終わっているが、ウィキペディアを見ると2009年6月にイギリスに亡命したと出ている。ついにイランにはいられなくなったのである。だが不屈の闘いはより若い世代に受け継がれていったことが、今回の受賞で判る。それにしても、「イスラム法」とは何という奇怪な仕組みだろう。驚くしかないのだが、その後に見たいくつかのイラン映画には、やはり奇怪な法解釈が出て来るのである。

今までにノーベル平和賞が獄中にいる人に与えられたことは何度かある。昨年(2022年)のベラルーシの人権活動家アレシ・ビャリャツキもその一人で、2年連続になる。1935年のカール・フォン・オシエツキー(ドイツの平和運動家)、2010年の劉暁波(中国の人権活動家)が決定当時、獄中にあった。これらの人々は「良心の囚人」であり、人間に対する希望を未来へつなぐ人々である。また1991年のアウンサンスーチー(ミャンマー)は自宅軟禁中で授章式に出席出来なかった。他にもサハロフ(1975、ソ連)、ワレサ(1983、ポーランド)が授章式に出席出来なかった。

2022年秋にイランで「反ヒジャブ」の大デモが起こったとき、僕はここで書かなかった。日本のマスコミは盛り上がったときだけは報じるが、全体としては情報量が少なくてよく判らないことが多い。例えば、僕は今回の受賞者ナルゲス・モハンマディの名前を知らなかった。日本人の多くは同じだろう。「2023年10月」は、1973年10月に起こった第4次中東戦争から半世紀を迎える月だ。あの時はアラブ諸国が「石油戦略」を発動して、日本で「オイルショック」が起きた。その時、「日本人はもっとイスラム教地帯を知らなければいけない」と言われたものだ。しかし、どのぐらい変わったのだろうか?
さて、今回の受賞からちょうど20年前、2002年にやはりイランの女性がノーベル平和賞を受賞した。それがシリン・エバディ(1947~)である。2007年に『私は逃げない』という自伝が翻訳された(ランダムハウス講談社)。その時に書評を書いているので、そこから引用して紹介したい。シリン・エバディは、イスラム教徒の女性として、またイラン人としても、初めてノーベル賞を受けたが、名前を知らないという人も多いのではないだろうか。イランの女性弁護士で、タフで繊細な人権の闘士である。

2000年の秋のことである。彼女は、権力による知識人暗殺の遺族側弁護士として無償の活動を続けていた。司法省のファイルを10日間だけ見る許可を与えられたシリンは、情報省内の秘密暗殺チームの文書に「次に殺さねばならんのは、シリン・エバディだ」という箇所を自ら発見してしまう。まさに命をかけた活動の記録がこの本なのである。シリン・エバディは、イランで初めて裁判官になった女性である。判事でありながらシャー(国王)に反対する動きに勇気を持ってコミットした。しかし、反シャーの抗議文を持ち先輩裁判官室を訪れると、「革命が起こったら、女性裁判官は追放される。自分で自分の首を絞めるような事をなぜするのか」と言われたと自伝に書いている。まさか、そんなことがあるとは思わなかったのだ。
イランのパフレヴィー1世は、第二次大戦中に英ソにより追放され、子どもの2世が継いだ。権威の確立していない王のもと、事実上自由選挙の時代が訪れ、民族主義的なモザデグ政権が成立する。モサデグ政権は石油資源の国有化を進めたため、1953年にアメリカの秘密情報機関がクーデターを起こして崩壊させた。その後、アメリカに支えられて独裁を開始した若きシャーに、国民は初めから冷ややかだったのである。王制は結局秘密警察SAVAKにより支えられていた。アメリカの支援を受け近代化、工業化をひたすら進めたシャーに対し、近代化政策が伝統に反するとみた宗教保守派が抗議する。その結果、法学者の最高権威だったホメイニという無名の人物がイラクに追放された。左翼勢力、民族主義者は秘密警察の厳しい弾圧にさらされた。

1971年、シャーはペルセポリス遺跡で建国2500年祭を、大々的に挙行した。これが転機となった。外国から見れば磐石と見えたイラン王政だが、人心は完全に離れた。イスラム保守勢力も、左翼過激派も、リベラルな芸術家、知識人も、反王政の一点で事実上共闘することになったのである。それが1978年夏の情勢で、大々的なデモと、数々の弾圧事件が続き、いよいよ人心を失ったシャーは、1979年1月に出国。代わってパリからホメイニが帰国する。革命後の権力をめぐり、イスラム勢力と左翼過激派のテロの応酬が始まった。この混乱の勝者はイスラム勢力だった。彼らは旧勢力と左翼過激派を抹殺する。そして女性や他宗教の人々の権利を剥奪し始めた。
そして、イランの女性は大きな苦難にさらされたのである。シリン・エバディの場合、革命派だった過去は全く意味を持たず、裁判官には女性はなれないということで、事務職への異動を命じられた。時代錯誤としか思えない「イスラム法」(と称するもの)が突然実施に移される。女性の権利は、男性の二分の一とされた。姦通には石打ち、盗みには腕切りなど20世紀の常識を覆す刑罰が導入された。人々は反イスラムというレッテルを恐れ、沈黙が社会を覆い、女性はスカーフで髪を覆うようになった。あらゆる音楽会が禁止になり、クラシックやポピュラーだけではなく、民族楽器の演奏もできなくなった。アメリカ映画だけでなく、外国映画の上映はなくなってしまった。
1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争が、国連安保理の停戦あっせんを受諾して戦争が終わると、イランは徐々に復興し、エバディにも弁護士資格が認められるようになった。そのような中で、驚くべき事件をシリンは知ることになる。農村地帯で、ある11歳の少女が3人の男に強姦され崖の上から落とされ殺された。3人の男は逮捕されたが主犯は自殺、二人の男に死刑判決が下った。イスラム法においては(というかイランのイスラム体制における解釈では)「殺人の被害者は、法的処罰か金銭的補償かを選べる」。そして「女は男の権利の半分の価値がある。」
そこで、少女の命を1ポイントとすると、男二人が死刑となるので男側のポイントは2×2の4ポイントとなる。被害者家族は、「レイプ被害者の家族という汚名」を晴らすため、死刑を求めるしかない。(イランの農村部の家父長的価値観の中では。)かくして、死刑となる男の家族の側に、少女の家族に対して「3ポイント分の補償」を求める権利が生じる。裁判所は少女の父親に処刑費用を含む多額の金額を払うように命じる判決を出した。家族は財産を投げ出したが足りないので、腎臓を売ろうとした。しかし、父は薬物乱用の過去があり、兄は小児麻痺のため腎臓摘出ができなかった。なぜ家族で臓器を売るのか不思議に思った医者が事実を知り、司法省のトップに手紙を書き、問題を訴えた。そこで首都でも知られたが、その後の経過も奇奇怪怪。
著者はこの段階で被害者家族の無償の弁護人となった。処刑を前に犯人が脱走、つかまり再審となり、無罪。また再審となり・・・。読んでてもこのあたりは、理解できない。著者も外国向けのこの本の中で、法的な経緯を追って説明することを諦めているように思う。これほど奇怪なケースはイランでも稀ではあるらしいが、度を越している。イスラム法は、確かに「女の相続は男の半分」としているようだが、命に差をつけているというわけではない(らしい。)つまり、イスラム法の解釈の中でも、一部の少数派が権力を握った状態なのである。(実際、アラブ諸国を始めすべてのイスラム圏でこのようなことが起こるわけではない。)
こうしてシリン・エバディは虐げられた女たち、自由を奪われた知識人などの「良心の囚人」のために無償で働く人権活動家になっていった。そして逮捕されてしまう。その後、1999年に「改革派」のハタミが大統領に選ばれ、多少の希望が見えた時代がやってきたが、やがて失望が社会を覆う。それでも、「子供たちが誕生会で集まるのも心配だった時代」は21世紀になると終わっていった。そうして国際的にも知られるようになったシリン・エバディにノーベル賞が授与された。その時パリにいたが帰国したシリンを何十万もの民衆が迎えた。そんなに民衆が空港に集まったのは「ホメイニの帰国以来」だった。
シリン・エバディは、イランを去らない決意をしている。というところで、その本は終わっているが、ウィキペディアを見ると2009年6月にイギリスに亡命したと出ている。ついにイランにはいられなくなったのである。だが不屈の闘いはより若い世代に受け継がれていったことが、今回の受賞で判る。それにしても、「イスラム法」とは何という奇怪な仕組みだろう。驚くしかないのだが、その後に見たいくつかのイラン映画には、やはり奇怪な法解釈が出て来るのである。