吉川弘文館から出ている「対決の東国史」というシリーズは、去年『足利氏と新田氏』『山内上杉氏と扇谷上杉氏』を紹介した。全7巻はまだ完結していないが、どんどん刊行されている。8月に出たばかりの『源頼朝と木曽義仲』を読んでみた。著者は富山大学講師の長村祥知氏である。1982年生まれの若手研究者で、もちろん僕は名前を知らなかった。
このシリーズは5巻が「○○氏対○○氏」と題されている。先の2冊も同様で、もう一冊は『鎌倉公方と関東管領』という役職名。つまり個人名が本の題になっているのは、この巻だけである。だけど、源頼朝と木曽義仲は「対決」したのか。もちろん本人どうしは全く面識がない。そもそも「木曽義仲」じゃなくて、「源義仲」である。歴史に詳しい人なら周知のように、この二人はいとこ同士だった。義仲の父・源義賢が、源頼朝の父・源義朝の異母弟にあたる。しかし、義賢を滅ぼしたのは、義朝の長男・義平だった。それが1155年に起こった大蔵合戦である。大蔵というのは、現在の埼玉県嵐山町になる。
(木曽義仲像=富山県小矢部市)
嵐山町には鎌倉時代の武士畠山重忠の本拠地とされる「菅谷館」があり、その近くの木曽義仲生誕地には顕彰碑も立っている。前に行ったことがあり、『菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩』で書いた。木曽義仲というけど、生まれたのは東国・武蔵だったのである。幼くして(2歳)で父を亡くした駒王丸は命を救われ、木曽の豪族・中原兼遠に預けられた。これが後の木曽義仲となる。ただ義仲は庶子で、京都にいた嫡男・仲家は源頼政の養子となって、八条院の蔵人を務めていたが、1180年の以仁王(もちひとおう)の乱に養父源三位(げんざんみ)頼政とともに参加し敗死した。
いま「八条院」という言葉が出て来たが、これが実は反平家運動のキーワードとも言える。鳥羽上皇と美福門院(鳥羽がもっとも寵愛したと言われる)の間に生まれた暲子(しょうしorあきこ)内親王のことで、生涯未婚で皇后に就いていないのに「女院」の称号を受けた。両親から全国200数十箇所にもなる莫大な荘園を受け継ぎ、「八条院領」と呼ばれた。八条院は多くの子女を養育し、後白河法皇の子である以仁王もその一人だった。そのため、源頼政など反平家に蜂起した人が周囲に多かった。以仁王の令旨を頼朝に伝えた源行家(義朝の弟、頼朝の叔父)も八条院の蔵人だったのである。
ちょっと細かなことを書いたが、様々なつながりを探る中で研究は深化してきている。八条院本人が何も反平家だったわけじゃないだろう。金持ちには芸術家など多くの人が寄ってくる。また警備のために多くのガードマンを雇うことになり、その中に反政府分子が紛れ込んでいたわけである。源平の争いから「武士の時代」などと教えるけど、実際は荘園制のトップに君臨する天皇家や摂関家に仕えたのが武士たちだった。その中には源氏や平氏がいるが、どちらも元は天皇家にさかのぼるけれど、皇族の末裔は無数にいる。貴族の最上位にある藤原氏も同様で、「北家」の中でもさらに道長流の「摂関家」でなければ出世は見込めない。
(伝・源頼朝像)
そんな中で、いかに武士が上り詰めていったかをたどるのがこの本である。それは絶えざる源氏内部の争闘史である。頼朝は後に異母弟の源義経や源範頼と対立していくが、それは何も頼朝だけじゃない。父親の義朝、祖父の為義の時代も同様というか、もっと陰惨である。そもそも為義は子の義朝と対立し、保元の乱では対立陣営に属した。その結果、義朝は父や兄弟を処刑することになった。残酷な処置だが、同時に当時の慣習法では一族内の問題は一族で処理し、その代わり一族の領地は保証されるというものだったともされる。母親が違えば育ちも違い、むしろ同じ領地を誰が継ぐかという問題が起こりやすく、内部争いが絶えない。
(長村祥知氏)
そういう厳しい中を、なぜ頼朝が生き延びられたか。ひとつは父義朝が保元の乱で勝者となり、高い官位を得たことにより、子どもの頼朝もわずか12歳(数え年)で皇后宮少進に、翌年には右近衛将監などの官位を得ていた。当時は親の地位で、子どもの官位が決まる「蔭位」(おんい)という制度があった。頼朝は母の死に伴い喪に服すため辞任して、そのまま平治の乱で父が敗死して伊豆に流された。しかし、京都に上った段階で「無位無冠」だった木曽義仲に対して、「元の官位」を持っていた頼朝は貴族世界に認知されやすかったのである。そのような意外な理由が案外歴史を決めて行くのかもしれない。
この本で見ると、義仲は単なる乱暴者ではなかったと思うが、やはり歴史は敗者に厳しい。そして勝ちきるまで京都に上らず、鎌倉に居続けた頼朝が勝利した。そこが大事なところだった。頼朝が「征夷大将軍」の官位を得た理由も興味深い。「制東大将軍」など別の可能性もあった。なかなか細かい話が多く、『平家物語』などとは実際は相当違うのである。
このシリーズは5巻が「○○氏対○○氏」と題されている。先の2冊も同様で、もう一冊は『鎌倉公方と関東管領』という役職名。つまり個人名が本の題になっているのは、この巻だけである。だけど、源頼朝と木曽義仲は「対決」したのか。もちろん本人どうしは全く面識がない。そもそも「木曽義仲」じゃなくて、「源義仲」である。歴史に詳しい人なら周知のように、この二人はいとこ同士だった。義仲の父・源義賢が、源頼朝の父・源義朝の異母弟にあたる。しかし、義賢を滅ぼしたのは、義朝の長男・義平だった。それが1155年に起こった大蔵合戦である。大蔵というのは、現在の埼玉県嵐山町になる。
(木曽義仲像=富山県小矢部市)
嵐山町には鎌倉時代の武士畠山重忠の本拠地とされる「菅谷館」があり、その近くの木曽義仲生誕地には顕彰碑も立っている。前に行ったことがあり、『菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩』で書いた。木曽義仲というけど、生まれたのは東国・武蔵だったのである。幼くして(2歳)で父を亡くした駒王丸は命を救われ、木曽の豪族・中原兼遠に預けられた。これが後の木曽義仲となる。ただ義仲は庶子で、京都にいた嫡男・仲家は源頼政の養子となって、八条院の蔵人を務めていたが、1180年の以仁王(もちひとおう)の乱に養父源三位(げんざんみ)頼政とともに参加し敗死した。
いま「八条院」という言葉が出て来たが、これが実は反平家運動のキーワードとも言える。鳥羽上皇と美福門院(鳥羽がもっとも寵愛したと言われる)の間に生まれた暲子(しょうしorあきこ)内親王のことで、生涯未婚で皇后に就いていないのに「女院」の称号を受けた。両親から全国200数十箇所にもなる莫大な荘園を受け継ぎ、「八条院領」と呼ばれた。八条院は多くの子女を養育し、後白河法皇の子である以仁王もその一人だった。そのため、源頼政など反平家に蜂起した人が周囲に多かった。以仁王の令旨を頼朝に伝えた源行家(義朝の弟、頼朝の叔父)も八条院の蔵人だったのである。
ちょっと細かなことを書いたが、様々なつながりを探る中で研究は深化してきている。八条院本人が何も反平家だったわけじゃないだろう。金持ちには芸術家など多くの人が寄ってくる。また警備のために多くのガードマンを雇うことになり、その中に反政府分子が紛れ込んでいたわけである。源平の争いから「武士の時代」などと教えるけど、実際は荘園制のトップに君臨する天皇家や摂関家に仕えたのが武士たちだった。その中には源氏や平氏がいるが、どちらも元は天皇家にさかのぼるけれど、皇族の末裔は無数にいる。貴族の最上位にある藤原氏も同様で、「北家」の中でもさらに道長流の「摂関家」でなければ出世は見込めない。
(伝・源頼朝像)
そんな中で、いかに武士が上り詰めていったかをたどるのがこの本である。それは絶えざる源氏内部の争闘史である。頼朝は後に異母弟の源義経や源範頼と対立していくが、それは何も頼朝だけじゃない。父親の義朝、祖父の為義の時代も同様というか、もっと陰惨である。そもそも為義は子の義朝と対立し、保元の乱では対立陣営に属した。その結果、義朝は父や兄弟を処刑することになった。残酷な処置だが、同時に当時の慣習法では一族内の問題は一族で処理し、その代わり一族の領地は保証されるというものだったともされる。母親が違えば育ちも違い、むしろ同じ領地を誰が継ぐかという問題が起こりやすく、内部争いが絶えない。
(長村祥知氏)
そういう厳しい中を、なぜ頼朝が生き延びられたか。ひとつは父義朝が保元の乱で勝者となり、高い官位を得たことにより、子どもの頼朝もわずか12歳(数え年)で皇后宮少進に、翌年には右近衛将監などの官位を得ていた。当時は親の地位で、子どもの官位が決まる「蔭位」(おんい)という制度があった。頼朝は母の死に伴い喪に服すため辞任して、そのまま平治の乱で父が敗死して伊豆に流された。しかし、京都に上った段階で「無位無冠」だった木曽義仲に対して、「元の官位」を持っていた頼朝は貴族世界に認知されやすかったのである。そのような意外な理由が案外歴史を決めて行くのかもしれない。
この本で見ると、義仲は単なる乱暴者ではなかったと思うが、やはり歴史は敗者に厳しい。そして勝ちきるまで京都に上らず、鎌倉に居続けた頼朝が勝利した。そこが大事なところだった。頼朝が「征夷大将軍」の官位を得た理由も興味深い。「制東大将軍」など別の可能性もあった。なかなか細かい話が多く、『平家物語』などとは実際は相当違うのである。