神保町シアターで、菊田一夫原作の映画特集をやっている。「「君の名は」公開70周年記念」とうたっていて、その『君の名は』3部作をこの機会に見た。今まで「総集編」を見たことはあるが、もとの3本の映画は見たことがなかった。2時間超あるから、合わせて6時間を越える。今回は一週ごとに一部ずつやってたから、何とか見に行けた。今でも見られる「すれ違い」メロドラマの古典だが、設定には疑問も多い。菊田一夫(1908~1973)は日本の商業演劇、ミュージカルの発展に忘れられない人で、多くの舞台脚本を書いた。今回は他にも興味深い作品が上映されているが、時間の関係上見なかった。
(映画はモノクロ)
『君の名は』は元々はNHKのラジオドラマである。(テレビ放送開始は翌1953年。)1952年4月10日に始まり、1954年4月8日まで続いた。毎週木曜日20時30分から21時までの30分間で、計98回。(このデータはWikipediaに拠る。)「番組が始まる頃には女湯が空になる」という伝説がある。(当時は家に内湯がある人はほとんどなく、多くが銭湯を利用していた。)松竹で映画化され、1953年9月15日に第1部、同年12月1日に第2部が公開され大ヒット。同年の配給収入トップ2となった。第3部は1954年4月27日に公開され、同年の配給収入1位。合わせて観客動員数3千万人という超大ヒットである。
(菊田一夫)
物語は1945年(昭和20年)5月24日に始まった。東京大空襲と言えば、10万人が犠牲になったと言われる3月10日が知られるが、その時は東京東部が中心だった。その後も空襲は続き、中でも5月25日は皇居や首相官邸が焼けた山手大空襲として知られる。ただ死者は3651人で、3月に比べて少なくなっている。この間に疎開が進んだり、密集が少ない地域性によるだろう。一方、その前日の5月24日にも罹災者22万を出す空襲があった。空襲地の詳しいことは知らないが、銀座・有楽町付近はこの日に爆撃されたのだろう。今回初めて気付いたが、この日はちょうど僕が生まれた日の10年前ではないか。
後に後宮春樹(あとみや・はるき)と氏家真知子(うじいえ・まちこ)と判明する二人の男女は、この日たまたま銀座周辺にいて、一緒に避難する。翌朝名前を聞こうとするが、また空襲警報が鳴ったので、生きていたら半年後に同じ数寄屋橋(すきやばし)で会おうと約束して別れたのだった。数寄屋橋は江戸城外濠に架かっていた橋で、関東大震災後の1929年に石造になった。真ん前に大きな日本劇場(日劇)があり、有名な東京風景だったという。1958年に高速道路が上を通ることになり外濠は埋め立てられた。その後しか知らないから、実際の橋が見られるのは貴重である。
(昔の数寄屋橋)
このドラマ、映画は大ヒットしたが、角川春樹(1942~)、村上春樹(1949~)はそれ以前に生まれているので、「春樹」という名前はその影響じゃない。1973年の金大中氏拉致事件時の駐韓国大使は後宮虎郎という人だったが、「うしろく」という読みだった。「あとみや」なんて読み方があるのか。佐田啓二(1926~1964)が演じたが、今は中井貴一の父と言わないと通じない。37歳で自動車事故のため亡くなり、前年に亡くなった「小津に呼ばれた」などと言われた。小津安二郎、木下恵介、小林正樹など名匠の作品で忘れられない存在感を残している。昔の映画を見ている人には親しい存在だ。
岸惠子(1932~)は、1951年にデビューして鶴田浩二や佐田啓二の相手役をしていた(鶴田浩二と噂になったが松竹が別れさせたとWikipediaにある)が、本格的な大スターになったのは『君の名は』だろう。時々見せる氷の表情が魅力的で、21歳とは思えない。以下の画像にあるストールの巻き方は、「真知子巻き」として今も名が残る。北海道ロケで寒かったから、私物を使ったというが、今見るとまるでヒジャブみたいな感じがする。この後、1957年にフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚して一人娘が生まれるも、1975年に離婚。その間も日本の映画には断続的に出演し、『雪国』『おとうと』『怪談』『細雪』など文芸映画で名演した。僕は若い頃に見た『約束』(斉藤耕一監督、1972)の女囚役が忘れられない。小説やエッセイも高く評価されている。
(岸惠子と佐田啓二)
ま、そういう俳優情報は別にして、この二人はその時東京で何をしていたのか。男はほとんど軍隊に行ってた時代だ。その後の仕事を見ても理系とは思えない後宮が何故東京にいたかが不思議。真知子は約束の前日におじに連れられて佐渡に帰らざるを得ず、数寄屋橋に行けない。東京育ちならともかく、佐渡に同級生・綾(淡島千景)がいるんだから、佐渡育ちなのである。それなら何故疎開しないのか不思議。おじは強圧的人物で帰りたくないんだろうけど、命には換えられない。健康な男女が東京都心でウロウロしていること自体が不思議で、その背景事情は全く説明されない。
名前も判らないでは探しようもないが、それはエンタメの特性から判明する。一方、佐渡で真知子には縁談が持ち込まれる。中央官庁に勤めているというかなり恵まれた縁談で、おじの強要で断りにくい。おば(望月優子)は長く圧政に苦しんできて真知子に同情的だが、やむなく見合いに進む。その相手が浜口勝則(川喜多雄二、1923~2011)で、主要人物の配役は皆判るのにこの人だけ知らない。元は歯医者だそうで、スカウトされて50年代には結構多くの映画に出ている。60年代に引退して歯科医に戻ったそうだ。浜口はすぐ結婚とは言わない、東京へ行って一緒にその人を探してみようと誘う。そして、実際に姉(月丘夢路)が住む三重県鳥羽に帰ったと聞いて探しに行く。しかし、すれ違いで会えない。そして、真知子は浜口の親切にほだされ、結婚を承諾する。
(川喜多雄二)
すれ違いの筋を延々と書いても仕方ないから止める。第1部は佐渡の尖閣湾、第2部は北海道の美幌と摩周湖、第3部は雲仙、阿蘇と全国観光めぐりになっているのも、この種の映画の定番設定。第2部では真知子が北海道まで行き、後宮に会おうとする。第3部では後宮が雲仙まで真知子を訪ねてくる。飛行機ですぐ行ける時代じゃなく、ご苦労様という感じ。夫婦関係は一度妊娠するも流産し、その後は悪化する一方。それは「嫁姑関係」に問題がある。父を失い母と暮らしてきた浜口は、妻より母を大事にし、何事も母に仕えることを第一とする。その母は息子を失うことを恐れ、流産しても温かい言葉ひとつ掛けない。佐渡から来たおばが第2部でズバッと言い返すが、さすが望月優子の名演で胸のつかえが取れる。日本社会の家父長制の伝統、家族主義に苦しむ女性という構図は戦後的テーマである。
第3部では離婚調停から、刑事告訴(!)もという展開に至るが、泥沼の愛憎の中、二人はあくまでも清くありたいと望む。浜口も次官の娘と付き合うようになったが、その娘は結婚したら母親とは別居が条件と言い渡す。姑も今さら真知子の方が良かったと気付き、雲仙まで謝りに来るが病気で倒れる。まあ、すったもんだがずっと続くが、ようやっと最後に病床の真知子に離婚届にサインして浜口が会いに来る。どうして、こんなことになってしまったのか。二人は語り合うが、誰も悪くなかった、仕方なかったと真知子は語る。結局、戦争と同じである。ひとりひとりは皆いい人で、責任はない。やむを得ず揉めることになってしまったけど、と言うのである。これが『君の名は』が受け入れられた真の原因ではないかと思う。
もう一つ、今は2人のすれ違いという主筋を書いたが、結構多くの人物が出て来て副筋の物語がある。そこでも不幸な人々がいかに幸せになれるかがテーマとなり、何故か皆が幸せになっていく。だが、そのように多くの関係人物のドラマがあることで、主筋、副筋、風景的シーンが絡みあいドラマチックに進行するのである。そこが上手く編集されていて、やはりエンタメ作品は(当然脚本、俳優、演出を前提として)、編集が重要だなと強く思った。編集を担当したのは、女性映画人のパイオニアの一人として知られる杉原よ志である。スタッフ、キャストの大半は亡くなっているが、存命なのは岸惠子と北原三枝(石原裕次郎夫人)ぐらいか。監督は多くの娯楽作品を松竹で作った大庭秀雄で安定感がある。
(映画はモノクロ)
『君の名は』は元々はNHKのラジオドラマである。(テレビ放送開始は翌1953年。)1952年4月10日に始まり、1954年4月8日まで続いた。毎週木曜日20時30分から21時までの30分間で、計98回。(このデータはWikipediaに拠る。)「番組が始まる頃には女湯が空になる」という伝説がある。(当時は家に内湯がある人はほとんどなく、多くが銭湯を利用していた。)松竹で映画化され、1953年9月15日に第1部、同年12月1日に第2部が公開され大ヒット。同年の配給収入トップ2となった。第3部は1954年4月27日に公開され、同年の配給収入1位。合わせて観客動員数3千万人という超大ヒットである。
(菊田一夫)
物語は1945年(昭和20年)5月24日に始まった。東京大空襲と言えば、10万人が犠牲になったと言われる3月10日が知られるが、その時は東京東部が中心だった。その後も空襲は続き、中でも5月25日は皇居や首相官邸が焼けた山手大空襲として知られる。ただ死者は3651人で、3月に比べて少なくなっている。この間に疎開が進んだり、密集が少ない地域性によるだろう。一方、その前日の5月24日にも罹災者22万を出す空襲があった。空襲地の詳しいことは知らないが、銀座・有楽町付近はこの日に爆撃されたのだろう。今回初めて気付いたが、この日はちょうど僕が生まれた日の10年前ではないか。
後に後宮春樹(あとみや・はるき)と氏家真知子(うじいえ・まちこ)と判明する二人の男女は、この日たまたま銀座周辺にいて、一緒に避難する。翌朝名前を聞こうとするが、また空襲警報が鳴ったので、生きていたら半年後に同じ数寄屋橋(すきやばし)で会おうと約束して別れたのだった。数寄屋橋は江戸城外濠に架かっていた橋で、関東大震災後の1929年に石造になった。真ん前に大きな日本劇場(日劇)があり、有名な東京風景だったという。1958年に高速道路が上を通ることになり外濠は埋め立てられた。その後しか知らないから、実際の橋が見られるのは貴重である。
(昔の数寄屋橋)
このドラマ、映画は大ヒットしたが、角川春樹(1942~)、村上春樹(1949~)はそれ以前に生まれているので、「春樹」という名前はその影響じゃない。1973年の金大中氏拉致事件時の駐韓国大使は後宮虎郎という人だったが、「うしろく」という読みだった。「あとみや」なんて読み方があるのか。佐田啓二(1926~1964)が演じたが、今は中井貴一の父と言わないと通じない。37歳で自動車事故のため亡くなり、前年に亡くなった「小津に呼ばれた」などと言われた。小津安二郎、木下恵介、小林正樹など名匠の作品で忘れられない存在感を残している。昔の映画を見ている人には親しい存在だ。
岸惠子(1932~)は、1951年にデビューして鶴田浩二や佐田啓二の相手役をしていた(鶴田浩二と噂になったが松竹が別れさせたとWikipediaにある)が、本格的な大スターになったのは『君の名は』だろう。時々見せる氷の表情が魅力的で、21歳とは思えない。以下の画像にあるストールの巻き方は、「真知子巻き」として今も名が残る。北海道ロケで寒かったから、私物を使ったというが、今見るとまるでヒジャブみたいな感じがする。この後、1957年にフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚して一人娘が生まれるも、1975年に離婚。その間も日本の映画には断続的に出演し、『雪国』『おとうと』『怪談』『細雪』など文芸映画で名演した。僕は若い頃に見た『約束』(斉藤耕一監督、1972)の女囚役が忘れられない。小説やエッセイも高く評価されている。
(岸惠子と佐田啓二)
ま、そういう俳優情報は別にして、この二人はその時東京で何をしていたのか。男はほとんど軍隊に行ってた時代だ。その後の仕事を見ても理系とは思えない後宮が何故東京にいたかが不思議。真知子は約束の前日におじに連れられて佐渡に帰らざるを得ず、数寄屋橋に行けない。東京育ちならともかく、佐渡に同級生・綾(淡島千景)がいるんだから、佐渡育ちなのである。それなら何故疎開しないのか不思議。おじは強圧的人物で帰りたくないんだろうけど、命には換えられない。健康な男女が東京都心でウロウロしていること自体が不思議で、その背景事情は全く説明されない。
名前も判らないでは探しようもないが、それはエンタメの特性から判明する。一方、佐渡で真知子には縁談が持ち込まれる。中央官庁に勤めているというかなり恵まれた縁談で、おじの強要で断りにくい。おば(望月優子)は長く圧政に苦しんできて真知子に同情的だが、やむなく見合いに進む。その相手が浜口勝則(川喜多雄二、1923~2011)で、主要人物の配役は皆判るのにこの人だけ知らない。元は歯医者だそうで、スカウトされて50年代には結構多くの映画に出ている。60年代に引退して歯科医に戻ったそうだ。浜口はすぐ結婚とは言わない、東京へ行って一緒にその人を探してみようと誘う。そして、実際に姉(月丘夢路)が住む三重県鳥羽に帰ったと聞いて探しに行く。しかし、すれ違いで会えない。そして、真知子は浜口の親切にほだされ、結婚を承諾する。
(川喜多雄二)
すれ違いの筋を延々と書いても仕方ないから止める。第1部は佐渡の尖閣湾、第2部は北海道の美幌と摩周湖、第3部は雲仙、阿蘇と全国観光めぐりになっているのも、この種の映画の定番設定。第2部では真知子が北海道まで行き、後宮に会おうとする。第3部では後宮が雲仙まで真知子を訪ねてくる。飛行機ですぐ行ける時代じゃなく、ご苦労様という感じ。夫婦関係は一度妊娠するも流産し、その後は悪化する一方。それは「嫁姑関係」に問題がある。父を失い母と暮らしてきた浜口は、妻より母を大事にし、何事も母に仕えることを第一とする。その母は息子を失うことを恐れ、流産しても温かい言葉ひとつ掛けない。佐渡から来たおばが第2部でズバッと言い返すが、さすが望月優子の名演で胸のつかえが取れる。日本社会の家父長制の伝統、家族主義に苦しむ女性という構図は戦後的テーマである。
第3部では離婚調停から、刑事告訴(!)もという展開に至るが、泥沼の愛憎の中、二人はあくまでも清くありたいと望む。浜口も次官の娘と付き合うようになったが、その娘は結婚したら母親とは別居が条件と言い渡す。姑も今さら真知子の方が良かったと気付き、雲仙まで謝りに来るが病気で倒れる。まあ、すったもんだがずっと続くが、ようやっと最後に病床の真知子に離婚届にサインして浜口が会いに来る。どうして、こんなことになってしまったのか。二人は語り合うが、誰も悪くなかった、仕方なかったと真知子は語る。結局、戦争と同じである。ひとりひとりは皆いい人で、責任はない。やむを得ず揉めることになってしまったけど、と言うのである。これが『君の名は』が受け入れられた真の原因ではないかと思う。
もう一つ、今は2人のすれ違いという主筋を書いたが、結構多くの人物が出て来て副筋の物語がある。そこでも不幸な人々がいかに幸せになれるかがテーマとなり、何故か皆が幸せになっていく。だが、そのように多くの関係人物のドラマがあることで、主筋、副筋、風景的シーンが絡みあいドラマチックに進行するのである。そこが上手く編集されていて、やはりエンタメ作品は(当然脚本、俳優、演出を前提として)、編集が重要だなと強く思った。編集を担当したのは、女性映画人のパイオニアの一人として知られる杉原よ志である。スタッフ、キャストの大半は亡くなっているが、存命なのは岸惠子と北原三枝(石原裕次郎夫人)ぐらいか。監督は多くの娯楽作品を松竹で作った大庭秀雄で安定感がある。