ルーマニアのクリスティアン・ムンジウ監督(1968~)の新作『ヨーロッパ新世紀』(2022)を渋谷のユーロスペースで見た。これが希望を感じさせる題名と反して、ヨーロッパ辺境のすさまじき差別感情の噴出を見つめる傑作だった。2022年カンヌ映画祭のコンペティションに選ばれたが、無冠に終わった。全く理解出来ない結果で、僕からすればパルムドールの『逆転のトライアングル』や75周年記念賞の『トリとロキタ』より、明らかに衝撃的である。もっと大きな公開が望ましいが、内容の暗さ、重さから難しいだろう。貴重な機会を逃さず、是非チャレンジして貰いたい映画だ。
冒頭で字幕が3色になると出る。ルーマニア語、ハンガリー語、その他(ドイツ語や英語)が映画の中で飛び交い、それを色分けするというのである。さらに字幕なしのせリフもあるが、それは監督の意図なので字幕は付けないという。何故そうなるかというと、ルーマニア西北部のトランシルヴァニア地方で撮影されたからである。そこはルーマニア人の他に少数民族のハンガリー人が多く住んでいる。また昔から移住していたドイツ系の人も残っているようだ。「吸血鬼ドラキュラ」の舞台で知られ、1989年の東欧革命では反チャウシェスク蜂起が始まった地方である。だけど映画の舞台になるのは、山の中の因習の村である。
(緑=トランシルヴァニア)
男たちはドイツなどに出稼ぎに行って家族を養っている。クリスマスを前にマティアスは暴力事件を起こして、国に帰って来た。夫婦関係は破綻していて、小学生の息子ルディは山の中で怖いものを見て口を聞かなくなっている。羊を飼っている父親は高齢で衰え、その世話もしなくてはいけない。村に居場所がない彼は昔の恋人シーラに安らぎを求めようとするが…。シーラは村のパン工場の責任者をしているが、そこの悩みは労働者が集まらないこと。何度求人を出しても、全然集まらない。最低賃金しか払えないからである。そこでEUの補助金を活用して、外国人労働者を雇うことにした。その結果、スリランカ人が3人やって来る。
(マティアスと息子)
村にあった鉱山が閉山して、人々は失業したが、最低賃金で働くより生活保護の方が有利なので働かない。貧困地域だから生活必需品のパンを値上げすることも出来ず、やむを得ず会社は外国人に頼ることにした。村の壮年層はドイツなどに働きに行き、そこで見下げられて苦労している。それを知っているのに、高齢の人々はアジア人を受け入れることが出来ない。教会で不満が爆発し、村人を集めて集会が行われる。村人は彼らは未知のウイルスを持ち込む、ムスリムはお断りだと決めつける。シーラたちが会社はちゃんと衛生管理をしている、スリランカ人はムスリムじゃない、彼らはカトリックだと何度言っても聞く耳を持たない。昔ロマ人(ジプシー)を追放した村に、今度はアジア人を入れるな、解雇するまでパンは買わないと宣言する。
(村人の集会)
マティアスをめぐる女性、子ども、父親などの悩みがそれに関わってくる。冬の村はいつも薄暗い。そんな中でスリランカ人たちはきちんと働くし、自分たちで料理を作って暮らしている。彼らにはルーマニアの最低賃金でも、働く意味があるんだろう。そんな様子もきちんと描いている。それなのに人々は現実のスリランカ人労働者と会うこともなく、偏見を持って見ている。「ヨーロッパ新世紀」とは、このような偏見だらけの世界を意味するのか。村には隠微なルーマニア人とハンガリー人の対立がある。しかし、彼らは「反アジア人」では一致できる。村の自然をとらえる映像は壮大で、そんな中に偏見に囚われた人々が暮らす。
(ムンジウ監督)
実にすさまじき展開の連続で、全く驚いてしまった。この驚くべき作品が様々な映画祭で受賞していない。カンヌでも審査員は大体ヨーロッパ系だから、ここまでヨーロッパの偏見を見つめた映画を評価したくなかったのか。そうとでも思いたくなる傑作だ。クリスティアン・ムンジウ監督は、『4ヶ月、3週と2日』(2007)でパルムドール、『汚れなき祈り』(2012)で女優賞、『エリザのために』(2016)で監督賞とカンヌの常連となっている。すでに受賞しているから外された面もあるだろう。自国の闇を見つめる作品を作っている監督である。
原題は『R.M.N.』というが、これは核磁気共鳴画像法(MRI)のルーマニア語の頭文字だと英語のWikipediaに出ていた。そう言えば、父親が病院でMRI検査を受ける場面があった。ルーマニア社会を「スキャンする映画」という意味らしい。そう考えると、これは的確な題かもしれない。邦題の方が理解不能である。シーラが劇中で何度かチェロで弾いているブラームスのハンガリー舞曲(第5番)も印象的。
冒頭で字幕が3色になると出る。ルーマニア語、ハンガリー語、その他(ドイツ語や英語)が映画の中で飛び交い、それを色分けするというのである。さらに字幕なしのせリフもあるが、それは監督の意図なので字幕は付けないという。何故そうなるかというと、ルーマニア西北部のトランシルヴァニア地方で撮影されたからである。そこはルーマニア人の他に少数民族のハンガリー人が多く住んでいる。また昔から移住していたドイツ系の人も残っているようだ。「吸血鬼ドラキュラ」の舞台で知られ、1989年の東欧革命では反チャウシェスク蜂起が始まった地方である。だけど映画の舞台になるのは、山の中の因習の村である。
(緑=トランシルヴァニア)
男たちはドイツなどに出稼ぎに行って家族を養っている。クリスマスを前にマティアスは暴力事件を起こして、国に帰って来た。夫婦関係は破綻していて、小学生の息子ルディは山の中で怖いものを見て口を聞かなくなっている。羊を飼っている父親は高齢で衰え、その世話もしなくてはいけない。村に居場所がない彼は昔の恋人シーラに安らぎを求めようとするが…。シーラは村のパン工場の責任者をしているが、そこの悩みは労働者が集まらないこと。何度求人を出しても、全然集まらない。最低賃金しか払えないからである。そこでEUの補助金を活用して、外国人労働者を雇うことにした。その結果、スリランカ人が3人やって来る。
(マティアスと息子)
村にあった鉱山が閉山して、人々は失業したが、最低賃金で働くより生活保護の方が有利なので働かない。貧困地域だから生活必需品のパンを値上げすることも出来ず、やむを得ず会社は外国人に頼ることにした。村の壮年層はドイツなどに働きに行き、そこで見下げられて苦労している。それを知っているのに、高齢の人々はアジア人を受け入れることが出来ない。教会で不満が爆発し、村人を集めて集会が行われる。村人は彼らは未知のウイルスを持ち込む、ムスリムはお断りだと決めつける。シーラたちが会社はちゃんと衛生管理をしている、スリランカ人はムスリムじゃない、彼らはカトリックだと何度言っても聞く耳を持たない。昔ロマ人(ジプシー)を追放した村に、今度はアジア人を入れるな、解雇するまでパンは買わないと宣言する。
(村人の集会)
マティアスをめぐる女性、子ども、父親などの悩みがそれに関わってくる。冬の村はいつも薄暗い。そんな中でスリランカ人たちはきちんと働くし、自分たちで料理を作って暮らしている。彼らにはルーマニアの最低賃金でも、働く意味があるんだろう。そんな様子もきちんと描いている。それなのに人々は現実のスリランカ人労働者と会うこともなく、偏見を持って見ている。「ヨーロッパ新世紀」とは、このような偏見だらけの世界を意味するのか。村には隠微なルーマニア人とハンガリー人の対立がある。しかし、彼らは「反アジア人」では一致できる。村の自然をとらえる映像は壮大で、そんな中に偏見に囚われた人々が暮らす。
(ムンジウ監督)
実にすさまじき展開の連続で、全く驚いてしまった。この驚くべき作品が様々な映画祭で受賞していない。カンヌでも審査員は大体ヨーロッパ系だから、ここまでヨーロッパの偏見を見つめた映画を評価したくなかったのか。そうとでも思いたくなる傑作だ。クリスティアン・ムンジウ監督は、『4ヶ月、3週と2日』(2007)でパルムドール、『汚れなき祈り』(2012)で女優賞、『エリザのために』(2016)で監督賞とカンヌの常連となっている。すでに受賞しているから外された面もあるだろう。自国の闇を見つめる作品を作っている監督である。
原題は『R.M.N.』というが、これは核磁気共鳴画像法(MRI)のルーマニア語の頭文字だと英語のWikipediaに出ていた。そう言えば、父親が病院でMRI検査を受ける場面があった。ルーマニア社会を「スキャンする映画」という意味らしい。そう考えると、これは的確な題かもしれない。邦題の方が理解不能である。シーラが劇中で何度かチェロで弾いているブラームスのハンガリー舞曲(第5番)も印象的。