尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「それから」-漱石を読む⑤B

2017年07月26日 21時03分44秒 | 本 (日本文学)
 「三四郎」に続いて、文庫版夏目漱石全集第5巻の後半にある「それから」を読んだ。これは初めて。昔映画化されたとき(1985年)に、原作も読もうと文庫を買った記憶があるけど、結局読まないままだった。「三四郎」に続いて、1909年(明治42年)6月27日から10月14日まで大阪朝日、東京朝日に連載された。作中で当時問題だった日糖事件や幸徳秋水の名前なども登場する。

 この小説は「高等遊民」の生活を送る長井代助の生活を描いている。彼の家は裕福なので、親の援助で大学卒業後も定職につかず暮らしている。もう30歳で、親からは結婚を急かされている。そこへ学校時代からの友人で大阪の銀行で働いていた平岡が、借金付きで東京に戻ってくる。部下が使い込みをしたため上司に責任が及ばないように辞職したのである。

 かつて二人の学生時代に、菅沼という有人がいた。彼には妹の三千代がいたが、妹を残して母と本人は病死してしまった。ひそかに三千代を見初めていた代助だったが、稼ぎのない自分ではない方がいいと思い、三千代と平沼の結婚を周旋したことがあった。だが、三千代は生まれた子を亡くし、以後病弱となり東京へ戻ってきた。代助の三千代に対する愛と同情は再燃していく。

 代助の父と兄は実業界で重きをなしているらしいけど、何やら難しい問題もあるらしい。そろそろ代助には結婚して欲しく、家の事情からも佐川令嬢との結婚を父は望む。平岡は借金を抱えて求職に奔走してるが、代助には手助けすることができない。一家内でただ一人代助に同情的な兄嫁、梅子は内緒で2百円を貸してくれる。それを三千代に渡した代助は、何かと三千代に近づき、ついに愛の告白をする。父には結婚をはっきり拒絶し、平岡に面会を申し込む…。

 そこらへんのラスト近くは緊迫した名シーンが多い。でも、そこまでがはっきり言って「かったるい」。大体「高等遊民」って何だろう。単に就職しないだけで、特に何もやってないんならたいして面白い人生とは言えない。早くちゃんとした仕事に付けと言われつつ、音楽や演劇などに熱中している若者は、今でも無数にいるだろう。それがいいかどうかは個別の事情によるだろうが、音楽や演劇にあたるものが代助にはない。小説を書くとか学問をするとかすればいいのに。最高学府を出てるんだから知的好奇心でいっぱいだと思うが。

 文体は完成しているので、つい読んでしまうのだが、どうも今になるとつまらない小説だなあと僕は読みながら嫌になった。今あらすじを書いたが、それをまとめると「結婚とお金」に関する物語である。これは近代人の二大問題だ。近代社会では、身分制が崩れ社会の変化が激しいから、人は「何か」になって貨幣を得ないといけない。そして、結婚して一家を構え、家を継いでいかないといけない。今になると後者はほとんど意識しなくていいけど、明治時代には大きな問題である。

 その大問題をめぐって、結構身もふたもない議論を積み重ねたのが「それから」という小説である。僕はこの「何者でもない」代助が、書生と「婆や」を置いているのに心底驚いた。父からもらう金で独立した家を営んでいるのである。それじゃあ、何もできない。父はなんで自立させなかったのか。それは結局、「次男は政略結婚用に取っておかないといけない」ということになる。

 そこで代助が最後に三千代を選択すると、父はついに援助を停止するという最終手段を行使する。そこから代助の人生が出発することになる。これは近代日本で数多く書かれた「不倫小説」の一種と言える。もっとも精神的にはともかく、肉体的には何の関係も起こらない。もし起こったら、「姦通罪」という犯罪になるのだから、そういう展開は書けないし、描写もできない。だけど、この小説は要するに「不幸な人妻を救い出す」という話だ。

 「貨幣」の魔力で引き裂かれた近代人の社会。その中で病気と借金に苦しむ女性を、結婚制度という枠組みを超えて生きる道を探る。それが「それから」という小説だと思うけど、いまさらめいたテーマに思えるし、代助が親の金を使うだけで(芸者遊びなどはしている)、積極的に何かを始めないのでちょっとイライラする。この代助という人物にあまり現実感がないの「それから」の最大の問題だ。

 1985年に森田芳光監督によって映画化され、その年のベストワンになった。代助は松田優作で、三千代は藤谷美和子。主にアクションスターだった松田優作を、こういうアクションの少ない役に使うのは最初心配したけれど、これは非常な適役だった。藤谷美和子のセリフ回しには最初心配だったけど、だんだん良くなっていき、映画全体としてはとても満足できる出来だったと思う。父は笠智衆、兄は中村嘉葎雄、兄嫁が草笛光子、平岡が小林薫と実に豪華なキャスティングだった。

 いま思い出すと、小林薫はどんどん老け役を演じていくわけだが、松田優作は永遠に青年に留まっている。松田優作が「高等遊民」を演じたことがその印象を強めてしまった。でも原作を読むと、どうも「高等遊民」というのも親の金でぶらぶらしているだけという印象が強くなる。それが意外だった。小説も魅力という意味では、「三四郎」に遠く及ばないというのが正直なところだ。漱石全集も半分読んだけど、ずっと続けて読むのは難しい。何とか一月一冊でも頑張って読み切ってみたいと思う。
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1 コメント

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高等遊民とは (さすらい日乗)
2017-07-28 08:44:41
漱石の作品に出てくる高等遊民ですが、高等ではない遊民は戦前までには多くいたように思うのです。

私の祖父は、戦時中に亡くなっているので、見たこともありませんが、昭和初期だと思いますが、親戚に騙されて保証人のハンを押してしまい、土地などの家の財産が差し押さえられるまでになったそうです。
その時、息子である私の父に、
「もう何もするな、お前なんか納屋で縄でもなっていろ!」と言われ、姉の話では、本当に何もせずに家にいたそうです、少し百姓仕事はしていたようですが。

織田作之助の『夫婦善哉』のように、さして仕事もせず、適当に生きていた人は結構いたのではと思います。
こうした人間は、日中戦争以後の戦争体制の中で、総動員されていくのではと私は思っています。
田中千禾夫や三好十郎などの劇作家が、戦争中になると東宝などの映画会社の社員になるように、徴兵逃れもあったようですが。
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