「明治150年を考える」シリーズを書いたが、その時に書けなかったテーマに「新選組をどう考えるか」がある。正直言って、僕は今まで新選組にはほとんど関心がなかった。マニアックな関心を抱く人が多く、ほとんど無名の隊士でも調べてる人がいる。歴史研究ではほとんど触れられず、むしろ歴史小説や時代劇の世界に属する「トリビアルなエピソード」のように感じていた。それに敵である長州藩ならまだしも、脱退隊士に対する陰惨な「復讐」などが凄まじく、どうにも好きになれなかった。忘れないうちに書いておきたいので、突然だけど新選組の話。
新選組に関して少し調べてみたいと思ったのは、「関東の歴史」という関心からだ。春ごろに「関東地方の戦国時代」について何回かまとめて書いた。戦国時代史は畿内が中心で、関東の人も地元の歴史を知らない。しかし江戸時代になれば全日本の「首都」になる地方なんだから、直前の時代に何もないはずがない。実際、関東から戦国が始まったという説もあるぐらいである。一方、幕末でも事実上京都や大阪が「首都」になってしまい、幕府直轄地が多くて大藩がなかった関東地方のことは(内戦で壊滅する水戸藩を除き)あまり知らないことが多い。
今年は「五日市憲法」発見から50年ということで、僕も記事を書いた。新選組の中心メンバーである近藤勇、土方歳三の出身地も多摩地方。それほど近いとは言えないが、全国のスケールで考えれば同じ地域と言っていい。20年ほどの差で、新選組を生み出した多摩地方で自由民権運動が燃え盛る。これは単なる偶然なのだろうか。どこかで深いつながりがあるのではないだろうか。そう考えたのが新選組について考え始めた理由だ。
日本の多くの人は「新選組」の名前を知ってると思うが、その大方は司馬遼太郎「燃えよ剣」かNHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)からじゃないか。「燃えよ剣」は映画にもなり、何度かテレビドラマ化された。「副長」である土方歳三(大部分の人は読めると思うけど、「ひじかた・としぞう」)を、「局長」である近藤勇(大部分の人は読めると思うけど「こんどう・いさみ」、念のため)に並ぶ有名スターにしたのは「燃えよ剣」だろう。僕は父親のところにあった司馬全集の「燃えよ剣」を借りたまま読んでなかった。今回読んで面白かったけど、やはりちょっと古かったな。
21世紀になって、歴史学的に検討した新選組に関する一般書が出ている。大石学「新選組」(2004、中公新書)と宮地正人「歴史のなかの新選組」(2004、最近岩波現代文庫に収録)である。どっちも2004年刊行なのは、地域における研究の積み重ねもあるが、大河ドラマの影響だろう。宮地著は史料が多くて貴重だが、そこが一般には取っつきにくい。大石著もかなり大変だけど、新しい指摘も多く役に立つ。例えば小説では近藤らが開いていた道場を「試衛館」とするのが普通だが、確認出来る限りでは「試衛場」だとしている。普通は大石著を読めば十分だろう。
これらの本を読んで判ったのは、新選組は単なる「幕府の暴力装置」ではなく、全国に澎湃(ほうはい)として湧き起こった「尊王攘夷」の志士集団だったことである。新選組が「尊王攘夷」と言うと意外な感じを与えるかもしれないが、幕末のある局面において「尊王」と「佐幕」は矛盾しない。むしろ1860年代半ばの、長州藩が「朝敵」だった時代、保守的な孝明天皇の時代には、天皇の委任を受けた征夷大将軍を中心にして外国勢力を打ち払おうというのは、国家公認の正統思想だった。新選組は単なる剣客集団ではなく、幕府を中心にした攘夷を各所に訴える思想集団でもあった。それは近藤勇らの文書を大量に紹介している宮地著を読めば納得できるだろう。
新選組の数多いエピソードはここでは紹介しない。特に池田屋事件(1864年7月8日)では多くの尊攘志士が殺害された。長州藩には近藤らへの恨みが残ることにもなる。そのため新選組にはなんとなく公然たる「白色テロ」(国家テロ)集団のイメージが付きまとう。しかし、この時点では新選組の方が警察機関であり、尊攘志士たちの方が天皇のいる京都でテロを企てていたことは間違いない。それにしても、新選組は武道の鍛錬を怠らず、200年以上戦った経験のない諸藩の「武士」に比べて、農民身分でありながらずっと強かった。
1863年の「8月18日の政変」以後、1866年頃まで続く「一会桑(いちかいそう)政権」のもとで、新選組が事実上の首都である京都を武力制圧する「暴力装置」だったことは間違いない。一会桑とは、一橋慶喜、京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)、京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき=容保の実弟)の三名を中心にした公武合体路線のことである。新選組の盛名は高まり、第一次長州征伐に際しては、近藤らが長州藩の内情探索に派遣されている。単なる用心棒みたいな地点から出発して、中央情報局的な存在として政権内で存在感を増していた。
新選組に後から加盟した有力集団に、伊東甲子太郎グループがある。後に尊王を旗印に新選組を脱退する。円満に別れたはずが、泥沼の内ゲバとなる様子はどうしても「中核」「革マル」を思い出して陰鬱な気持ちになってしまう。もともとどうして参加したのが不思議な感じだが、つまりは歴史のある段階までは「尊王」と「佐幕」は「攘夷」を媒介にして連立できたのである。それが崩れたのは1867年3月である。その頃から幕府につくか、倒すべきかが分かれてくる。
近藤、土方らがあくまでも幕府側だったのは、やはり生まれ育ち、支えてくれる人々がいた多摩地域が伝統的に幕府のお膝元で親徳川傾向が強かったためだと思う。それに近藤らを武士に取り立てる話が進んでいた。現実には取り立ててくれた幕府はもうすぐ崩壊するわけで、歴史の転換点で彼らは見る目がなかったとは言える。しかし、実際に近藤勇は「若年寄格」でお取立てになったのだから、それ自体は大したものだ。江戸時代を通じて他にない。危機の時代とは言え、それだけの実力を備えていた。ただし、新選組にとってそれは「諸刃の剣」だった。近藤が幕府直属の大名になれば、近藤が主君で隊士は家来である。局長と隊士は役割は大きく違うけれど、同志である。そこで新選組を抜けた人も出る。そこで実質的に新選組は終わったと思う。
新選組の文武に賭けたすさまじいエネルギーは、結局近藤、土方らの身分上昇に帰結した。歴史の流れから言えば、もうすぐ身分制度そのものが崩壊する。その崩壊に寄与するのではなく、歴史の流れに反する方向のエネルギーだった。それは長いこと被支配者身分に沁みついていた武士身分への憧れだったかもしれない。その中心メンバーを多摩の農村出身者から出したということは、地域の中に蓄えられた経済的、文化的エネルギーがいかにすさまじいものだったかを物語る。それこそが20年ほど経って自由民権の旗のもとに再興するのである。
新選組に関して少し調べてみたいと思ったのは、「関東の歴史」という関心からだ。春ごろに「関東地方の戦国時代」について何回かまとめて書いた。戦国時代史は畿内が中心で、関東の人も地元の歴史を知らない。しかし江戸時代になれば全日本の「首都」になる地方なんだから、直前の時代に何もないはずがない。実際、関東から戦国が始まったという説もあるぐらいである。一方、幕末でも事実上京都や大阪が「首都」になってしまい、幕府直轄地が多くて大藩がなかった関東地方のことは(内戦で壊滅する水戸藩を除き)あまり知らないことが多い。
今年は「五日市憲法」発見から50年ということで、僕も記事を書いた。新選組の中心メンバーである近藤勇、土方歳三の出身地も多摩地方。それほど近いとは言えないが、全国のスケールで考えれば同じ地域と言っていい。20年ほどの差で、新選組を生み出した多摩地方で自由民権運動が燃え盛る。これは単なる偶然なのだろうか。どこかで深いつながりがあるのではないだろうか。そう考えたのが新選組について考え始めた理由だ。
日本の多くの人は「新選組」の名前を知ってると思うが、その大方は司馬遼太郎「燃えよ剣」かNHK大河ドラマ「新選組!」(2004年)からじゃないか。「燃えよ剣」は映画にもなり、何度かテレビドラマ化された。「副長」である土方歳三(大部分の人は読めると思うけど、「ひじかた・としぞう」)を、「局長」である近藤勇(大部分の人は読めると思うけど「こんどう・いさみ」、念のため)に並ぶ有名スターにしたのは「燃えよ剣」だろう。僕は父親のところにあった司馬全集の「燃えよ剣」を借りたまま読んでなかった。今回読んで面白かったけど、やはりちょっと古かったな。
21世紀になって、歴史学的に検討した新選組に関する一般書が出ている。大石学「新選組」(2004、中公新書)と宮地正人「歴史のなかの新選組」(2004、最近岩波現代文庫に収録)である。どっちも2004年刊行なのは、地域における研究の積み重ねもあるが、大河ドラマの影響だろう。宮地著は史料が多くて貴重だが、そこが一般には取っつきにくい。大石著もかなり大変だけど、新しい指摘も多く役に立つ。例えば小説では近藤らが開いていた道場を「試衛館」とするのが普通だが、確認出来る限りでは「試衛場」だとしている。普通は大石著を読めば十分だろう。
これらの本を読んで判ったのは、新選組は単なる「幕府の暴力装置」ではなく、全国に澎湃(ほうはい)として湧き起こった「尊王攘夷」の志士集団だったことである。新選組が「尊王攘夷」と言うと意外な感じを与えるかもしれないが、幕末のある局面において「尊王」と「佐幕」は矛盾しない。むしろ1860年代半ばの、長州藩が「朝敵」だった時代、保守的な孝明天皇の時代には、天皇の委任を受けた征夷大将軍を中心にして外国勢力を打ち払おうというのは、国家公認の正統思想だった。新選組は単なる剣客集団ではなく、幕府を中心にした攘夷を各所に訴える思想集団でもあった。それは近藤勇らの文書を大量に紹介している宮地著を読めば納得できるだろう。
新選組の数多いエピソードはここでは紹介しない。特に池田屋事件(1864年7月8日)では多くの尊攘志士が殺害された。長州藩には近藤らへの恨みが残ることにもなる。そのため新選組にはなんとなく公然たる「白色テロ」(国家テロ)集団のイメージが付きまとう。しかし、この時点では新選組の方が警察機関であり、尊攘志士たちの方が天皇のいる京都でテロを企てていたことは間違いない。それにしても、新選組は武道の鍛錬を怠らず、200年以上戦った経験のない諸藩の「武士」に比べて、農民身分でありながらずっと強かった。
1863年の「8月18日の政変」以後、1866年頃まで続く「一会桑(いちかいそう)政権」のもとで、新選組が事実上の首都である京都を武力制圧する「暴力装置」だったことは間違いない。一会桑とは、一橋慶喜、京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)、京都所司代の桑名藩主松平定敬(さだあき=容保の実弟)の三名を中心にした公武合体路線のことである。新選組の盛名は高まり、第一次長州征伐に際しては、近藤らが長州藩の内情探索に派遣されている。単なる用心棒みたいな地点から出発して、中央情報局的な存在として政権内で存在感を増していた。
新選組に後から加盟した有力集団に、伊東甲子太郎グループがある。後に尊王を旗印に新選組を脱退する。円満に別れたはずが、泥沼の内ゲバとなる様子はどうしても「中核」「革マル」を思い出して陰鬱な気持ちになってしまう。もともとどうして参加したのが不思議な感じだが、つまりは歴史のある段階までは「尊王」と「佐幕」は「攘夷」を媒介にして連立できたのである。それが崩れたのは1867年3月である。その頃から幕府につくか、倒すべきかが分かれてくる。
近藤、土方らがあくまでも幕府側だったのは、やはり生まれ育ち、支えてくれる人々がいた多摩地域が伝統的に幕府のお膝元で親徳川傾向が強かったためだと思う。それに近藤らを武士に取り立てる話が進んでいた。現実には取り立ててくれた幕府はもうすぐ崩壊するわけで、歴史の転換点で彼らは見る目がなかったとは言える。しかし、実際に近藤勇は「若年寄格」でお取立てになったのだから、それ自体は大したものだ。江戸時代を通じて他にない。危機の時代とは言え、それだけの実力を備えていた。ただし、新選組にとってそれは「諸刃の剣」だった。近藤が幕府直属の大名になれば、近藤が主君で隊士は家来である。局長と隊士は役割は大きく違うけれど、同志である。そこで新選組を抜けた人も出る。そこで実質的に新選組は終わったと思う。
新選組の文武に賭けたすさまじいエネルギーは、結局近藤、土方らの身分上昇に帰結した。歴史の流れから言えば、もうすぐ身分制度そのものが崩壊する。その崩壊に寄与するのではなく、歴史の流れに反する方向のエネルギーだった。それは長いこと被支配者身分に沁みついていた武士身分への憧れだったかもしれない。その中心メンバーを多摩の農村出身者から出したということは、地域の中に蓄えられた経済的、文化的エネルギーがいかにすさまじいものだったかを物語る。それこそが20年ほど経って自由民権の旗のもとに再興するのである。
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