小津安二郎の映画は、特に最後の頃のカラー作品などは、みなよく似ている。どの作品が誰の主演だったかなど、映画ファンでもなかなか間違いやすい。どこかの会社の役員をしている父親が、娘の縁談を友人などと相談する話で、娘が自分で見つけてしまったり、実は好きな人がいたりとか、多少はヴァリエーションがある。また、母親が誰かでも物語は変ってくる。でも、父親が友人とバーや小料理屋で飲む場面などが挿入され、その友人が大体固定された俳優なので、どうしても既視感が生じてくる。
このように似たような作品を連発するというのは、世界の映画監督には多い。フェリーニやアントニオーニ、あるいはベルイマンなどの映画も大体似ていた。最近でもウッディ・アレンの映画などは、どれがどれだかよく判らないものが多かった。(と思ったら、ヨーロッパで撮るようになり、都市名が入っている映画はさすがに区別できるようになった。)また、他の芸術分野でもよくあることで、特に絵画の世界では一定の様式を確立して評価されると、その後は似たような絵を描き続けることが多い。
それを「セルフ・リメイクの作家」と呼ぶことができると思う。セルフ・リメイクは狭義で言えば、自己の過去の作品を自分で再映画化することである。小津の場合、狭義のリメイクは「浮草物語」(1934)と「浮草」(1959)だけだけど、細かく見て行けば「実質的なリメイク」あるいは自己の過去作品からの影響(特に登場人物の名前の共通性)がたくさん見つかる。日本の映画監督には、稲垣浩、市川崑など同じ映画を作った監督が多い。何と言ってもマキノ雅弘が「次郎長三国志」を有名な東宝作品以後も何度も何度も作っている。まあそれは映画会社の依頼で興行的観点で選ばれた企画だろうが。日本の映画界では、過去の作品をリメイクするのはよくあることだった。
(「浮草」)
同じようなものが連続すると「創造力の枯渇」だなどと思いがちだが、それは近代の「個性」「創造性」などの神話というべきだろう。日本の伝統芸能では先代の芸を受け継いでいくことが重要だった。一定の境地に達すれば、後はそこで確立された様式を再生産し、洗練していくことが評価基準になってくる。だから、小津もそういう日本の芸術的伝統と言う観点から見れば、同じような道行きをたどって、「巨匠」と呼ばれ、映画監督として日本初の芸術院会員にも選ばれたのである。(1963年に選ばれ、同年に死去したので会員期間は短い。以後は山田洋次しかいない。)
もっともこういう風に思うようになったのは、僕にとっても割と最近のことである。最初に小津映画をまとまって見たのは、多分フィルムセンターの小津特集(1981年)だと思う。(「東京物語」「晩春」「麦秋」などはその前に銀座並木座で見ていたが。)その時にはまとめて何十本も見たのだが、面白いには面白いけれど、似たような映画が連続することにほとんど呆れた。それに松竹で大島渚が「青春残酷物語」を作った同じ年に、ということは「60年安保」の年にということだが、よりによって「秋日和」などという映画を作るというのは、何と言うか「時代とのズレ」も甚だしと決めつけたい気持ちが募った。
ところが今見ると、大島映画と小津映画が同じ基盤の上で作られていたと思える時代が来た。僕にしたって、小津映画と松竹ヌーベルバーグは仇敵関係にあると思ってきた。小津と吉田喜重が黙って酒を飲みかわした1963年の松竹新年会の有名なエピソードがあるが、同じ会社ながら相容れない映画を作っていたと思っていた。まあ映画史的には確かに対立関係にあったのだが、今見れば大島映画も(「日本の夜と霧」は確かに別だが)「一種のホームドラマ」である。父の権威が失墜し、子ども世代がさまようという「青春残酷物語」の構図は、実は「彼岸花」「秋日和」も同じである。ただし、子の立場から父世代を乗り越えようとし、世代の差異を強調する大島に対し、小津は父の世代にも理解を示す。だが、母の立場、子の立場なども相対化して、「物語としての面白さ」を「落ち着いた」「ユーモラス」な「洗練された話法」で描き出す。
実はこの「洗練」が昔は嫌だったのである。洗練されていなくていいから、もっと荒々しく現実の矛盾を生々しくむきだしにすることこそ、映画の魅力ではないかなどと思っていたからである。僕は今でもベースにはそういう考え方がある。何度もNGを繰り返し、俳優を追いこんで、自分の望む映像を求める小津映画にある美的な世界には、確かに魅力も感じる。しかし、俳優や技術陣のコラボにより、現場で思いもしない驚くべきデモーニッシュ(鬼神に取りつかれたような、悪魔的)な瞬間が啓示される。映画に限らず、それが芸術の魅力ではないかと思っているのである。小津の話はもう一回。
このように似たような作品を連発するというのは、世界の映画監督には多い。フェリーニやアントニオーニ、あるいはベルイマンなどの映画も大体似ていた。最近でもウッディ・アレンの映画などは、どれがどれだかよく判らないものが多かった。(と思ったら、ヨーロッパで撮るようになり、都市名が入っている映画はさすがに区別できるようになった。)また、他の芸術分野でもよくあることで、特に絵画の世界では一定の様式を確立して評価されると、その後は似たような絵を描き続けることが多い。
それを「セルフ・リメイクの作家」と呼ぶことができると思う。セルフ・リメイクは狭義で言えば、自己の過去の作品を自分で再映画化することである。小津の場合、狭義のリメイクは「浮草物語」(1934)と「浮草」(1959)だけだけど、細かく見て行けば「実質的なリメイク」あるいは自己の過去作品からの影響(特に登場人物の名前の共通性)がたくさん見つかる。日本の映画監督には、稲垣浩、市川崑など同じ映画を作った監督が多い。何と言ってもマキノ雅弘が「次郎長三国志」を有名な東宝作品以後も何度も何度も作っている。まあそれは映画会社の依頼で興行的観点で選ばれた企画だろうが。日本の映画界では、過去の作品をリメイクするのはよくあることだった。
(「浮草」)
同じようなものが連続すると「創造力の枯渇」だなどと思いがちだが、それは近代の「個性」「創造性」などの神話というべきだろう。日本の伝統芸能では先代の芸を受け継いでいくことが重要だった。一定の境地に達すれば、後はそこで確立された様式を再生産し、洗練していくことが評価基準になってくる。だから、小津もそういう日本の芸術的伝統と言う観点から見れば、同じような道行きをたどって、「巨匠」と呼ばれ、映画監督として日本初の芸術院会員にも選ばれたのである。(1963年に選ばれ、同年に死去したので会員期間は短い。以後は山田洋次しかいない。)
もっともこういう風に思うようになったのは、僕にとっても割と最近のことである。最初に小津映画をまとまって見たのは、多分フィルムセンターの小津特集(1981年)だと思う。(「東京物語」「晩春」「麦秋」などはその前に銀座並木座で見ていたが。)その時にはまとめて何十本も見たのだが、面白いには面白いけれど、似たような映画が連続することにほとんど呆れた。それに松竹で大島渚が「青春残酷物語」を作った同じ年に、ということは「60年安保」の年にということだが、よりによって「秋日和」などという映画を作るというのは、何と言うか「時代とのズレ」も甚だしと決めつけたい気持ちが募った。
ところが今見ると、大島映画と小津映画が同じ基盤の上で作られていたと思える時代が来た。僕にしたって、小津映画と松竹ヌーベルバーグは仇敵関係にあると思ってきた。小津と吉田喜重が黙って酒を飲みかわした1963年の松竹新年会の有名なエピソードがあるが、同じ会社ながら相容れない映画を作っていたと思っていた。まあ映画史的には確かに対立関係にあったのだが、今見れば大島映画も(「日本の夜と霧」は確かに別だが)「一種のホームドラマ」である。父の権威が失墜し、子ども世代がさまようという「青春残酷物語」の構図は、実は「彼岸花」「秋日和」も同じである。ただし、子の立場から父世代を乗り越えようとし、世代の差異を強調する大島に対し、小津は父の世代にも理解を示す。だが、母の立場、子の立場なども相対化して、「物語としての面白さ」を「落ち着いた」「ユーモラス」な「洗練された話法」で描き出す。
実はこの「洗練」が昔は嫌だったのである。洗練されていなくていいから、もっと荒々しく現実の矛盾を生々しくむきだしにすることこそ、映画の魅力ではないかなどと思っていたからである。僕は今でもベースにはそういう考え方がある。何度もNGを繰り返し、俳優を追いこんで、自分の望む映像を求める小津映画にある美的な世界には、確かに魅力も感じる。しかし、俳優や技術陣のコラボにより、現場で思いもしない驚くべきデモーニッシュ(鬼神に取りつかれたような、悪魔的)な瞬間が啓示される。映画に限らず、それが芸術の魅力ではないかと思っているのである。小津の話はもう一回。