尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

上田正昭、夏樹静子、出目昌伸等ー2014年3月の訃報

2016年04月06日 23時10分45秒 | 追悼
 日本の民衆思想史を研究した安丸良夫さんが亡くなった。書きたいことがある気もするが、直接知ってる人ではないので、来月の追悼特集にする。歴史家としては、日本古代史の上田正昭氏の訃報が伝えられた。(3.13没、88歳)新聞でも大きく取り上げられたが、じゃあ何を読んだろうかと思い返したら、古代史専門ではない僕としては、単著では小学館の日本歴史シリーズ、「大王の世紀」(1973)だけかもしれない。新書などもあるけれど、案外少ないのである。その割に名前をよく聞いた感じがするのは、共著や編著が多くて、しかも司馬遼太郎や金達寿(キム・ダルス)らとの朝鮮文化や渡来人に関わる座談会も多い。そういうのを読んでたんだと思う。

 「渡来人」という用語も上田氏が使い始めたもので、70年代初期には大きな影響力を持った。それまでは「帰化人」で、上田氏も65年に中公新書で「帰化人」を書いている。だけど、近代国家成立以前に「帰化」という言葉を使うのはおかしいとなったわけである。なるほどと、高校生だった僕も深く同感したものである。広く学際的な発想で古代史を研究した他、歌人でもあり、また差別問題への目も持ち続けた。2010年代になって、古代史研究の集大成的な本を一般向けに何冊も出している。今後時間を取って、じっくり取り組んでみたいものだと思っている。

 ミステリー作家の夏樹静子さん(3.19没、77歳)。「蒸発」「Wの悲劇」等名前は知っているが、実は読んだことがない。「検事霞夕子」とか「弁護士朝吹里矢子」などのシリーズはたくさんテレビで映像化されていて、どうも「その手の作家」というイメージが僕の中で強すぎて、あまり手に取る気にならなかったのである。だけど、ノンフィクションで読んでいる本がある。「椅子がこわい-私の腰痛放浪記」(1997)という本。これは今「腰痛放浪記 椅子がこわい」と改題されて新潮文庫にあるようだ。これは実に面白い、と言ってはいけないかもしれないが、腰痛経験者は一度は読んでおくべき本だと思う。

 「ダークダックス」の「ゲタさん」、喜早哲さん(3.26没、85歳)。もはや知らない人は知らないのかもしれない。ダークダックスという4人組の男声合唱グループがあった。4人組のうち、亡くなったのは二人目。喜早氏はバリトンだった。「雪山讃歌」「ともしび」「北上夜曲」など、ロシア民謡や童謡などたくさんの持ち歌があり、紅白歌合戦に15回も出ている。日本人の誰もが知っていた4人組だった。

 映画監督の出目昌伸氏(3.13没、83歳)。もうそんな年だったのか。新聞では「天国の駅」とか「きけ、わだつみの声」が出ているけど、代表作は東宝青春映画の金字塔「俺たちの荒野」(1969)を知らんのか。あるいはデビュー作の「年ごろ」。かぐや姫の大ヒット曲「神田川」は日活と競争になり、東宝が勝って出目監督が担当した。日活は2曲目の「赤ちょうちん」を取って、藤田敏八監督が映画化して大評判になった。今や「赤ちょうちん」は覚えているけど、誰も映画の「神田川」は覚えてない。

 多湖輝(たご・あきら、3.6没、90歳)氏は、心理学者で千葉大教授だったが、光文社のカッパブックスで出した「頭の体操」シリーズがメガヒットになった。パズルや心理テスト、なぞなぞなんかを集めたような本だったけど、誰でも面白く取り組めて、65年以来第23集まで刊行され、合計1200万部というからスゴイ。もちろん、僕というかわが家でも愛読されていた。今年まで存命だったんだ。

 社会学者、作田啓一氏(3.15没、94歳)は、京大で哲学や大衆文化などを幅広く研究対象に開いた学者。「恥の文化再考」という本が著名である。江戸屋猫八氏(3.21没、66歳)は、動物鳴きまねの名手で先代(3代目)の没後に4代目を継いだ。もっとも先代の父親の印象が強すぎて、どうもという感じが僕にはしてしまうのだが。大内啓伍氏(3.9没、86歳)は、民社長委員長で、細川、羽田内閣の厚生大臣を務めた人物。早くから民社党のホープと言われ、石原慎太郎や上田哲のいた東京2区で何とか当選していた。でも、右派的な民社党の中でも右派の方で、羽田内閣から社会党が離脱する原因を作ったのも、大内氏が提唱した「改新」(社会党を除いて新会派「改新」を作った)にある。新進党に参加せず、自由連合を結成し、最後は自民党に入党して総選挙に2回出たが落選して引退した。

 海外では、突然飛び込んできた建築家、ザハ・ハディド(3.31没、65歳)の訃報に驚いた。昨年来何度も聞かされた人名だったのだから。イラク系女性建築家で、ロンドンで活躍したが、奇抜な設計のため「アンビルドの女王」と呼ばれてもいた。つまり、コンペで選ばれながらも、実際には建てられなかったものも多いという話。亡くなったのはマイアミである。

 サッカーの元オランダ代表、ヨハン・クライフ(3.24没、68歳)は、はっきり言ってよく知らない。74年の西ドイツワールドカップと言われても、その頃はあまり騒がれていず、もちろん日本も出ていないから、全然関心がなかったと思う。「トータルフットボール」と呼ばれた「美しさ」を求めたという。

 ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー(3.31没、89歳)は、ドイツ統一時の外務大臣。小党自由民主党(FDP)から74年に外相となり、1992年まで務めた。ドイツ史上最長だが、恐らくソ連などは別にして、民主主義国の連続外相記録ではないか。最初は社民党との連立政権(シュミット首相)で、1982年に連立組み替えでキリスト教民主党との連立になっても外相を務めた。連戦終結後のドイツ統一にも貢献し、ずいぶん長い外相となったわけだが、今はFDPは議席をなくしてしまった。

 「奇跡の人」でヘレン・ケラー役を16歳で演じて1962年度のアカデミー賞助演女優賞を獲得したパティ・デューク(3.29没、68歳)。サリバン先生はアン・バンクロフトで、こっちは主演女優賞だった。このコンビはもともと舞台で演じて評判となり、同じ配役で映画化されたもの。79年にテレビドラマでリメイクされた時にはサリバン先生も演じている。その後、あまり名前を聞かないなあと思ったら、テレビ中心だったようで、エミー賞なども取って活躍していた。

 ケルテース・イムレ(3.31没、86歳)は、2002年にノーベル文学賞を受けたハンガリーの作家である。ブダペストのユダヤ人家庭ぬ生まれ、ドイツの強制収容所を経験した。そのことをテーマにした作品が多いようだが、日本ではほとんど知られていないから僕も読んだことはない。

 ニコラス・アーノンクール(3.5没、86歳)は、モーツァルトやバッハなどを斬新な解釈で指揮した。作品が生まれた当時の楽器や奏法を用いる古楽運動を起こしたというだけど、僕は知らなかった。イギリスのロックバンド「エマーソン、レイク&パーマー」のキース・エマーソン(3.11没、71歳)は自殺と伝えられる。日本人女性がパートナーだったという。今年来日予定だった。ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティン(3.8没、90歳)は「5人目のビートルズ」だった。ビートルズの本を読むと、マーティンの重要性が出ている。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をプロデュ―スした人である。ジョンとポールだけで、歴史を変えられたわけではない。エルトン・ジョンやジェフ・ベックなどを担当した由。レーガン米大統領夫人、ナンシー・レーガン(3.6、94歳)も亡くなった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ソロモンの偽証」

2016年04月04日 00時14分56秒 | 映画 (新作日本映画)
 宮部みゆき原作、成島出監督「ソロモンの偽証」前後編を見た。新文芸坐の昨年の日本映画特集。キネ旬ベストテンで8位に入っている。これで日本映画のベストテン入選作品は全部見たことになる。とても考えさせられる映画だったし、心揺さぶられるシーンも多かったが、それは映画というより、原作の設定にある。それをうまく脚本化し、中学生役をオーディションで選んで見事に映画に仕上げた。基本的にミステリーだし、公開から時間も経ったから「映画の中の学校」という観点でかいておきたい。
(「前編」)
 まずは冒頭、「江東区立城東第三中学校」と出てくる。調べると、原作では「城東区」とされているらしい。それを江東区と実在の区に変更した理由は知らない。その学校にある女性が入っていく。この人物(尾野真千子)はどうやら城東三中で「伝説」とされている「学校裁判」の当事者で、その後教師となり出身校に異動してくるらしい。校長は「伝説」の真実を聞きたいという。そこで、彼女(藤野涼子)はあの頃を語り始めていく。あの頃-1990年のクリスマス。終業式のその日、東京には珍しくホワイト・クリスマスになった朝、藤野は朝ウサギの飼育当番で早めに登校し、同級生柏木の死体を発見した…。

 この時、現実の自分はこの学校からほど近い(と言っても架空ではあるが、江東区なんだから)江戸川区西部の中学校で3年生の担任で、学年主任をしていた。地域性は共通の部分が多く、思い出すことが多かった。そういう立場で書けることもあるだろうと思う。原作者の宮部みゆきは、江東区の出身で作品には(時代小説も含めて)東京東部を舞台にしたものが多い。高校は墨田川高校で、僕はそこの定時制に勤務した。中学から全日制にクラスの生徒を送ってもいる。ずいぶん読んでいるのだが、この原作は長くて未読。今回の映画を見て、やはり読もうかなと思っている。(なお、調べたところ、クリスマスに雪が降ったというのはフィクションである。誰も記憶にないよね。)
(原作文庫版の1)
 映画を見て、まず思ったのは、こういう生徒や親はいるなあということだ。映画のような粗暴な生徒も何人も付き合って来たし、主人公藤野涼子のような正義感の強いリーダー的生徒も何人もいた。そういう生徒は大体映画の中の藤野涼子(映画の役名を取って芸名とした)のような眼をしていた。だけど、冒頭に死体で発見される柏木のようなタイプは知らない。発達段階的に、大人を小馬鹿にして扱いが難しいタイプは女子にはいても、下町の男子には珍しいと思う。背景が描かれないので判らないけど、複雑な問題が背後にあるか、やはり観念的に作られた人物という気がする。この「柏木の死」は防げない。今ならそこが問題になるが、この物語では「それがないと始まらない」という設定になっている。

 その死は「自殺」とされるが、その後「他殺」であるという告発状が学校など各所に送られる。親が刑事をしている藤野宅にも送られる。また、ある理由でマスコミにも送られる。地域では不安や学校不信の声が満ちてくる。マスコミの追及番組を見て、告発状を出した一人である女子生徒が、もう一人と相談に行くときに交通事故にあい死亡する。担任(黒木華)が手紙を破って捨てたとされ、誰にも信じてもらえないまま辞表を出す。校長も辞任する。学校は説明会を開き、警察からも人が来て「自殺に間違いない」と断定する。そうして新年度を迎え、クラスの皆は3年生になる。だけど、モヤモヤとしたままでいられないと藤野を中心にした数人は、夏休みに学校で裁判をしようと思い立ったのである。
(後編)
 ということになるが、当時自分の学年では「学年生徒会活動活発化」を通して生徒の自治力向上を目指していた。「学年総会」を何度か開き話し合いを深めていたことを思い起こすと、中学生でも「裁判の運営」はできると思う。現に映画の中では立派に運営している。だけど、それは演技をしているということである。この物語の原作や脚本を書いたのは中学生ではない。大人が書いてお膳立てしないと、裁判はちょっと無理だろう。裁判というものを思いつき、自分たちだけで企画立案すべてを取り仕切るのは、やはり小説だからできることだと思う。それに「裁判は真実を見つけるためのものではない」のであって、真実を知りたい、大人はきちんと答えて欲しいということなら、「生徒による調査委員会の設置」とか「公開公聴会の開催」なんかの方は有効だと思う。だが、「裁判」と銘打ち、証言に際して宣誓を求めるといったドラマ性こそがここでは大切なのである。

 この映画を見ても判るが、生徒の問題行動の奥には「家庭の問題」がある。そこに学校はなかなか踏み込めない。日常でずっと接触している親に見えないことが、教科担任制の中学、高校の教師に見えるわけがない。ただし、生徒の問題は「生徒同士の問題」として現れる。校内の人間関係の変容は、親よりも教師の方が気付きやすいはず。もう少し何か出来ることはなかったか、非常に悔いが残る。この学校は何クラスあるか判らないが、採用2年目で初の担任の女性教師に柏木を担任させるのは酷ではないか。クラス分けと担任決めは中学校では非常に大切で、そこに学年の力が見て取れると思う。

 僕が思うに、このクラスでは交通事故で亡くなることになる「浅井松子」という生徒が極めて重要である。太っていていじめられたこともあるらしい。だけど、他に友達のない三宅という生徒の友達になっている。三宅に下手と言われても吹奏楽部を辞めない。多分、掃除をさぼったりしないと思うし、宿泊行事などで班に入れず孤立している生徒と嫌がらずに組んでくれると思う。運動会なんかでも、足は遅いかもしれないが、なかなかなり手がいない種目の選手に立候補してくれると思う。私、リレーは遅いけど、パン食い競争は頑張っちゃうよとか明るく笑いながら。こういう生徒がクラスを支えている。もっと言えば社会を支えている。学級委員の藤野が支えているのではなく。「クラスの宝物」である。あまりほめ過ぎると「ほめ殺し」になっちゃうかもしれないから、普通の時は軽口をたたく関係でいいと思うけど、ここぞという時にはちゃんとほめないといけない。親や生徒の前で、ちゃんとほめないといけない。僕が一番言いたいのはそのことで、全国の教員が心しておいて欲しいと願う。

 この映画は「中学生がよく頑張りました」という映画だと思う。ミステリーを「謎解き」のゲーム小説と捉えると、この映画の筋では満足できない。だけど、中学生が真実に迫るという特殊な設定が心に響くのである。この年代には「誰と誰が付き合ってる」とかあるはずである。また多分春に修学旅行もあっただろうし、7月頃は運動部の最後の大会で皆手一杯のはずだ。だけど、そういう面は全部捨てて描かず、ひたすら「裁判」に焦点を合わせる。かなりムチャで、実際の学校にはこれだけの余裕はないだろう。生徒の描き分けはなかなかありそうな感じ。ちょっとスーパーマン的な生徒もいると思うが、なかなか現実味がある。

 一方、いつも学校映画に言えることだが、教師は紋切型である。まあ教師それぞれの考えをきちんと描き分けていては話は終わらない。それにそこは生徒には見えない。「大人にならないと判らないこと」も多いのだから。一つ気になったのは、告発状問題の職員会議。これほど重大な問題がある時に、職員室で行う学校はないだろう。会議室がない(または改装中で使えない)という事情があっても、その場合は図書室や理科室等の特別教室で行うはずである。全員で重大問題を議論する時には、別会場を使う。その職員室配置を見ると、学年主任(安藤玉恵)とA組担任(黒木華)の席が離れている。これは絶対にありえない。学年団の教員は、同じ机の塊の中にするか(山型)、後ろを向くとすぐ話し合いができる配置にするか(谷型)、どちらかである。とにかく、同じ学年担任は近くにいるもので、例外はない。初担任だったら、学年主任の隣にするのではないだろうか。

 また、この学年主任は職員会議で率先して問題の担任を攻撃している。これもひどい話で、いったん学年会に引き取り、それまでは同じ学年の教師を擁護するのでなくては「主任」と言えない。そういう校内の人間関係なんかも、映画ではよく判らない。誰が生活指導主任かもよく判らない。大体、映画や小説ではそうなっていて、校長と学年主任と担任しか出てこない。生徒指導の問題だというのに、生活指導部は何をしているのだろうか。まあ、それはやむを得ない省略と考えるしかないのだろう。大体こんなところだが、今度は原作を読んでみたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

GID映画の傑作「リリーのすべて」

2016年04月03日 21時27分23秒 |  〃  (新作外国映画)
 トム・フーパー監督、エディ・レッドメイン主演の「リリーのすべて」。一体どうなんだろうと多少の心配もあったけれど、これは非常に古典的な完成度に達した傑作映画だった。アカデミー賞に4部門でノミネートされていたが、作品賞や監督賞には入っていない。映画祭向けの作品という扱いなのかもしれない。見逃すともったいないので、簡単に紹介。

 「GID」と題名に書いたけれど、それで判る人ばかりではないだろう。「性同一性障害」(Gender Identity Disorder)のことである。「性自認」(Gender Identity)という概念がそもそもなかった1920年代に、世界で初めての「性別適合手術」、いわゆる「性転換」の手術を受けたリリー・エルベを描く映画である。実話に基づく小説が原作で、今回の映画公開に合わせて翻訳が出されている。(デヴィッド・エバーショフ「世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語」。)

 米英独の資本で作られた英語映画だが、原題は「The Danish Girl」で、デンマークの話。これを見ると、テーマや映像以前にヨーロッパの都市の美しさにため息が出る。まあ、映画向きに切り取られた映像ではあるだろうが。トム・フーパーの確かな手腕で、この映画は20世紀前半の世界をたくさんのカットを積み重ねて再現していく。古典的と言いたい映画リズムで進行していき、テーマが浮き彫りになってくる。テーマ性や主人公を演じるレッドメインの演技に注目が集まるだろうが、それを支える技術的な的確性に感心させられた。トム・フーパー監督は「英国王のスピーチ」が称賛され、「レ・ミゼラブル」を任された。しかし、僕の感覚ではこの「リリーのすべて」の方がうまいように思う。

 映画は共に画家であるアイナー・ヴェルガークララの「夫婦愛の物語」のように進行していく。英語映画だから、「アイナー」と発音されているが、エイナル・モーゲンス・ヴェゲネルが本名である。映画には出てこないが、画学生として知りあって結婚したらしい。アイナーは故郷を描く風景画家、クララは人物を描くが、女性画家が男を描いても認められない。ある日、クララのモデルが休んだので、アイナーにモデルを頼む。その時は完全には女装しなかったが、やがて妻のモデルのために女装することになじんで行く。ある日、アイナーの従妹「リリー」と名乗って、クララとともにパーティにも行く。そして、子どもの頃から女性性が自分の中にあったことを思い出し、自らは女性であると自認していく。

 クララは絵が売れていき、パリに夫婦で行く。そんな中で性自認に悩むアイナーの苦悩をエディ・レッドメインは巧みに演じている。クララは自分のモデルを務めたことから始まったと思い、ずっと夫を支えてさまざまの病院に行く。当時は「性同一性障害」などという考えはなかったから、精神病に間違われたり、「放射線療法」を受けさせられたりする。そんなこんなを繰り返した末に、ドレスデンに「性別適合手術」を行う医者がいることを知り、ドイツに赴く。一度は一人で行ったアイナーだが、クララも後から追っていく。このクララという人を演じるのは、アリシア・ウィキャンデルという女優で、アカデミー賞にノミネートされたり、いくつもの賞を受けている。スウェーデン出身で、「コードネーム U.N.C.L.E.」なんかに出ている。注目!

 この「世界で初めて性別適合手術を受けた人」のことは全く知らなかったが、医学水準も今に比べて格段に低かっただろう時代によく思い切ったものである。ネットで調べると、映画は実話とは違っている部分があるようだ。今の「性別適合手術」のあり方とは違う。子宮の移植まで行い、うまくいけば妊娠も可能に出来るのではと思われたようだが、実際は移植された子宮の拒否反応が強くなった。映画ではそこまで描いていない。ずっと苦しみ悩む「夫」に同行するクララに、性を超えた人間どうしの強い信頼関係を見出しているような感じがする。

 新作映画をけっこう見るわけだが、今日のような休日だとどこも混んでいる。シネコンだと、その日の気分でネットで予約して行けるから必ず座れる。急に思い立っても取れないことが多い演劇や、混んでるとずっと立ってるのがつらい美術館に比べて、シネコンの楽さが身に沁みるわけである。今年良かったのは「キャロル」だけど、同じ「TOHOシネマズ みゆき座」で見た。今は日比谷の東京宝塚劇場の地下だが、前は隣の芸術座、今のシアター・クリエのあるところの地下に「みゆき座」があった。僕が初めて自分で出かけたロードショー劇場である。地下鉄で一本だから、僕は日比谷や有楽町で見た映画が多い。ミニシアターなら新宿や渋谷にも行くけど。

 「キャロル」も「リリーのすべて」も、同じく「セクシャル・マイノリティ」に関わる映画。「LGBT」と最近はよく言われるが、「キャロル」は「L」、「リリーのすべて」は「T」。世界的に問題意識が高まっていることもあるだろうし、俳優の拒否感が少なくなり難役にチャレンジする意味が大きくなった。世界的には今後もしばらく、このテーマの問題作は多くなるのではないか。日本でも注目していきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする