尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小川洋子を読む①ーなんて素晴らしい短編!

2016年06月08日 00時01分37秒 | 本 (日本文学)
 最近ずっと小川洋子さんの本を読み続けている。時々他の本も読むけど、2カ月以上にわたって25冊ぐらい読んでいる。文庫本だけでもまだまだあって、読み終わらない。そのうち書こうと思っていたが、読み終わるのを待っているといつになるか判らない。政治や社会、教育の問題もまだまだ書くべきことが多いんだけど、書いてて楽しくなれない。僕が書いたら全部その通りになるんだったら、いくらでも書き続けるけど、そうじゃないわけだから、だんだん嫌になってくる。

 ということで、他の問題を置いて、先に小川洋子の本の話を書いておこうなかな。何回か続く予定。場合によっては断続するかもしれない。小川洋子(1962.3.30~)という作家は、1991年1月に「妊娠カレンダー」で芥川賞を受けた。僕は芥川賞や直木賞、あるいは他の有名な新人賞の受賞作は、ぜひ読みたいと思っている人間である。単行本で読んだ作家より、文庫になるのを待って読んだ作家の方が多い。(買ったまま、まだ文庫本を読んでない作家もいるが。)「妊娠カレンダー」は当時女性作家の作品として、非常に評判になったので、すぐに読んだ。そして「なかなか面白い」と思った。

 それから10年ちょっと、小川洋子は「博士の愛した数式」(2003)で、第1回本屋大賞を受賞する。歴史ある読売文学賞も受賞したけど、それ以上に全国の書店員が自分たちで多くの人に読んで欲しい本を選ぶという「本屋大賞」の、それも第一回目を受賞したということで大きな評判になった。事故で記憶が短時間しか持てなくなった数学者と、家政婦と子どもの物語。博士は阪神ファンで、阪神時代の江夏の背番号「28」が「完全数」だという話は一度読んだら忘れられない。(ちなみに小川洋子は有名な阪神ファン。)映画化もされ、2006年のベストテン7位に選出されている。

 この「博士の愛した数式」は大ベストセラーとなり、面白そうだと思って読んだ。そして、確かに面白かった。でも、その後全然読んでなかった。どうも作品世界に「内向性」というか「閉鎖性」のような感じがした。文学に「内向」や「閉鎖」は必要だとは思っているけど、今ひとつ僕の志向と会わないような気がしたのである。小川洋子は第104回の芥川賞作家だが、その頃の芥川賞作家では池澤夏樹(98回)、辻原登(103回)、奥泉光(110回)、川上弘美(115回)などの人はその後も読んでいたが、小川洋子は読まないできたのである。

 だけど、それは大間違い。確かに「内向」「閉鎖」はほかの作品にもあるが、ロマネスクな作品世界に完全に捕らえられてしまった。「孤独」で「静寂」で「透明」な世界だが、もっと言うと、「秘密」や「背徳」の香りさえ漂っている。優等生の読みものではない。安全な生き方を志向する人には、危険で近づかない方がいい。そんな作品をたくさん書き続けていたのである。そして短編集や連作長編も多く、エッセイや対談も面白い。読みやすい本が多いのである。忙しいときや疲れてる時でも読みやすい。

 今回読み始めたのは、先に書いた「日本文学100年の名作」に収録されていた(そして、最終巻の第10巻の題名に採用されていた)「バタフライ和文タイプ事務所」に魅惑されたからである。その特別な「官能性」、それも「活字」を通して「文字の官能世界」に読者を引きずりこむ。大した能力だし、すごく面白い。ワクワクする。それはどの本に入っているかというと、「」という新潮文庫に入っていた。(元の本は2006年に刊行。)表題作の「」もそうだし、「風薫るウィーンの旅六日間」なども、独自の不思議な世界で魅せられた。続いて、同じ新潮文庫の「まぶた」(2001)。これも素晴らしい。表題作は長編「ホテル・アイリス」とほぼ同様の設定の作品だが、「背徳性」のロマンが際立っている。「バックストローク」という作品も、「偶然の祝祭」(角川文庫)の中に似たような設定が出てくる。このような「自己反復」というか「セルフ・リメイク」も特徴である。
 
 角川文庫にある「アンジェリーナ」(1993)は佐野元春の曲に想を得て書いたという短編集。あるいは世界の片隅で生きている不思議な人間を描く「夜明けの縁をさ迷う人々」(2007)など角川文庫に入っている短編集は読みやすくて入門編には最適かと思う。新潮文庫の「まぶた」「海」は「文学」になじんできた人でないと付いていけないかもしれないぐらい、独自で孤独な世界である。
 
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冤罪増やす?刑訴法改正

2016年06月06日 23時23分13秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「愛国心」をあおる人々が昨今よく目につく気がする。「国を守る気概」を国民に求める人もいる。しかし、日本に限らず、どこの国の国家権力も間違いを犯すし、権力の暴走が起きる。「国家の過ち」に直面したときには、「愛国心」を主張する人々は「真っ先に過ちをただす努力」をするはずだと思う。愛すべき国家が実は間違いを犯していると知ったら、愛国者なら黙っていられないはずだから。

 というのはもちろん、タテマエというか皮肉。実際は「愛国心」をもてあそぶ人々は、「国家の過ちに目を閉ざす」ことが多いだろう。だけど、「冤罪」(えんざい=無実の罪に問われること)という問題を考えると、どうして「愛国心」を大声で語ることができるのか、僕には不思議である。あるいは「ヘイトスピーチ」というものもそう。冤罪やヘイトスピーチのある国を、どうして「愛するべきだ」と他の人に訴えることができるのか? 恥ずかしくて、僕にはそんなことはできない。まず「不正義」をただすように力を尽くすというのが、「本来の愛国者」というものではないのか。

 さて、通常国会会期末に、いくつかの重要法案が成立した。まず「ヘイトスピーチ規制法」は複雑な経過をたどって、参議院で修正された法案が衆議院で成立した。正式には「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」である。この名前には大きな問題があるのは明らか。「本邦外出身者」以外にもヘイトスピーチの対象にされている人々がいるのだから。しかし、「ないよりはマシ」なのも間違いないと思われる。僕は細かく立法経過を追ってきていないので、今まで触れていない。いずれ時間があったら、この問題も書いておきたいと思っている。

 一方、同じ5月24日に衆議院で成立したのが「刑事訴訟法改正」である。これは数年前の「村木厚子さん事件」などの冤罪事件、不適正な捜査手法の続出に対して、法制審議会で審議されてきたものの立法化である。だけど、その間に「部分可視化」になる一方で、捜査側に「司法取引」や「通信傍受の拡大」などが認められ、実際の冤罪被害者には反対の声が強かった。

 5月10日には参議院議員会館で反対集会が行われた。そこでは東住吉事件で再審がまさに今行われている青木恵子さんが出席し、「一部ではなく、一から十まで全部録画することによって密室の取り調べ状況が分かるようにすべきだ」と訴えた。今、この言葉は東京新聞の5月17日つけ記事から引用した。見出しには大きく「部分可視化は『冤罪生む』」とある。ところで、週刊金曜日6月3日号の山口正紀氏の記事によると、この集会を報じたのは東京新聞だけだという。

 だけど、この法改正には「一定の評価」をする人もいる。日弁連も賛成だった。国会では共産党と社民党が反対で、民進党は賛成に回った。日弁連は同日、会長声明を出している。(「取調べの可視化の義務付け等を含む「刑事訴訟法等の一部を改正する法律」の成立に当たっての会長声明」)「全体として刑事司法改革が確実に一歩前進するものと評価する」という立場である。それを見ると、「被疑者国選弁護制度の勾留全件への拡大証拠リストの交付等の証拠開示の拡大裁量保釈の判断に当たっての考慮事情の明確化等、複数の重要な制度改正が実現した」という。なるほど、報道されている以外にも様々な側面があるということは判る。

 だけど、日弁連会長声明にも、「別件起訴後の事件」に関して「運用を厳しく監視することが求められる」という部分がある。先に「今市事件」について書いたときに、「別件逮捕」して何十日も勾留して、その後に「自白」したときの「録画」だけを公判に提出するというのはアンフェアでおかしいということを書いたと思う。だが、林真琴法務省刑事局長の国会答弁では、「別件起訴後の勾留中の被告人に対する取り調べには録音録画の義務がない」と言っている。(週刊金曜日、前記山口「報道役割を放棄したメディア」)一方、日弁連会長声明では「別件の被疑者勾留中における対象事件の取調べと同様に、録音・録画の義務付けの対象となることが明らかである」と言っている。

 ところで、本来は「別件逮捕」自体が大問題。「別件」と言っても「本件」と密接に関連があるケースもある。殺人事件における死体遺棄のような。死体遺棄自体が重罪であり、その「死体」に関する追及を捜査側がするのは当然だろう。だけど、殺人を疑われた容疑者に対して、まったく関係ない「微罪」で身柄を確保するのは、そもそも憲法違反である。その場合、「別件」と言っても全部録画するのは当然だと思うが、それも「すべての取り調べを録画する」と決めてしまえば、問題そのものがなくなる。

 そうなっていない以上、捜査側は「録画しない」ことも出てくるだろう。「突然自白を始めたので、録画の準備がなかった」などと捜査当局が言い放つと思う。いくら弁護側が要求しても、ないものは仕方ないので、いくら言ってもどうにもならない。やむを得ずそのまま裁判が進行し、検察側が都合のいいところだけ録画を提出する。裁判員はそれを見て「迫真性」を感じる。それが心配されるわけだ。これでは「冤罪増加法」ではないか。そうなったらおかしいではないか。

 ちょっと前まで、「全部の取り調べを録画するのは、時間的にも経費的にも現実性がない」という意見があったと思う。でも、今はそれは通らない。街角にあれほど「監視カメラ」が氾濫してるんだから、取調室が日本でいくつあるか知らないが、すべてにカメラを設置することがそんなに大変だとは思えない。一度に全部は無理でも、計画的に進めていけば数年でできるはずである。強引な取り調べ、無理な自白強要をしていないと言うなら、すべての取り調べを録画することに反対できなはず。国民の側からすれば、取調室における「特別公務員暴行陵虐罪」や「特別公務員職権濫用罪」という犯罪が起こりやすい現場に「防犯カメラ」を設置するという意味がある。一刻も早い全取り調べの録音・録画を実現するべきだ。(なお、司法取引に関しても書くつもりで用意していたのだが、時間がなくなってきたので今回は省略する。)
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モハメド・アリ、冨田勲、坪井清足等ー2016年5月の訃報

2016年06月05日 23時17分41秒 | 追悼
 毎月書いている訃報特集だけど、5月は蜷川幸雄の追悼を書いたら、あまり書くことがない感じ。来月にまとめようかと思ったけど、モハメド・アリの訃報があったから、合わせて書くことにする。

 モハメド・アリ(1942~2016、6月3日没、74歳)は誰もが知る同時代の大人物だったけど、スポーツ界で活躍する人は若くして有名になるから、もう名前しか知らない人が多いと思う。1996年のアトランタ五輪では聖火点火者の最有力候補と言われ続けていたが、病気のためできないのではとの観測もあった。実際に当日出てきたアリの手は、パーキンソン病で震えているのが明らかだった。それから20年、長い闘病を続けていた。今思うと、発病は50代である。僕にとって遠い先に見えていたが、もう通り過ぎてしまった。僕は特にモハメド・アリをよく知っているわけではないのだが、「他に誰もいない巨大な存在」だったのは間違いない。サッカーのペレマラドーナも知名度では同じぐらい有名だと思うが、「社会的存在」という意味では全然違う。スポーツを超えた人物だった。
 
 ところで、今「モハメド・アリ」と書いている。NHKや朝日、読売などはそう書いているが、毎日、日経、東京、産経などは「ムハマド・アリ」と表記しているのである。アルファベットでは「Muhammad Ali」である。Muhammadは、イスラム教の預言者の名だが、昔は「マホメット」と言われていたが、今は社会科の教科書では「ムハンマド」で統一されている。英語の発音を調べてみると、moʊhˈæmədとある。これをカタカナで表記すると、モハメドとムハマドの中間ぐらいというべきか。

 「黒人ボクサー」の「カシアス・クレイ」が、名前を「モハメド・アリ」に変更すると表明したのは、1964年のことだという。その時のことは知らないが、僕がこの人の名前を知ったとき、というのは新聞を読み始めた中学生ごろだが、ベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したボクサー、チャンピオン資格をはく奪された反体制派として、名前がよく報道されていた。つまり、ベトナム反戦運動の闘士として知ったわけである。だけど、イスラム教に改宗し「モハメド・アリ」と改名したことの意味はほとんどだれも理解していなかったと思う。僕ももちろんそうだし、新聞なんかにも出ていなかった。マルコムXが当時入っていた「ネーション・オブ・イスラム」をどう理解すべきか。まだ日本では問題意識がなかった。(日本人がイスラム教という「問題」と出会うのは、1973年のオイルショック以後のことである。)

 だから、70年ころには「ボクサーとしては終わった存在」と思われていたと思う。1974年にコンゴのキンシャサでジョージ・フォアマンにKO勝ちして、奇跡の復活を遂げる。この「キンシャサの奇跡」に世界はビックリしたものである。その後10回防衛したのち、1978年にレオン・スピンクスに判定負け。翌1979年にスピンクスと再選して判定勝ちして、3回目のチャンピオンとなった。僕もこの3回目のことは、今調べるまで知らなかった。この王位は返上して引退するが、すぐに復帰する。しかし、1980年、1981年の試合に敗れてついに完全に引退した。通算56勝5敗。うち37勝がKO勝ち。もっとも、あえてKOせずに最後まで痛めつけた試合もあったという。(下の写真はフォアマン戦。)

 この間、日本で、1976年6月26日に、アントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」という異種間格闘技を行った。これは大評判となり、僕もテレビで少し見たような気がするが、つまらないので全部は見てないと思う。そうそうつまらないものでもなかったと今はされるが、猪木がずっと寝てた印象しかなかったわけである。そこらへんも含めて、日本では一種怪しげなイメージもあったわけだが、その後アメリカで「差別と病気と闘い続けた偉人」という評価が確定していく。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」 (Float like a butterfly, sting like a bee)という言葉も誰もが知っていた。映画もドキュメンタリーもあるし、劇映画「アリ」(2001)もあり、ウィル・スミスがアリを演じた。それもいいけど、ぜひドキュメントを再映してほしいと思う。20世紀のアメリカを語るときに絶対に落とせない人物である。

 
 さて、5月の訃報だが、蜷川幸雄と同じぐらい大きく報道されたのは、シンセサイザーを使った電子音楽で世界に知られた富田勲(5日没、84歳)である。この人は、まず「作曲家」であり、NHKの「新日本紀行」とか「きょうの料理」、アニメの「ジャングル大帝」なんかの曲がその時代。その後シンセサイザーと出会い、「月の光」や「展覧会の絵」などが世界で大ヒットした。「月の光」で日本人初のグラミー賞ノミネート。その後も2回ノミネートされたが、坂本龍一や喜多郎は受賞しているものの富田勲は受賞してはいない。山田洋次監督の映画音楽も多数手がた。藤沢周平原作時代劇もそうだし、「学校」シリーズもそう。「学校」の音楽はとても心に沁みるもので忘れがたい。

 他に、考古学者で文化財行政の基礎を作った(文化財を開発から守るために、開発者の負担で事前調査する仕組みを作った)人で文化功労者の坪井清足(7日没、94歳)、女優で在日朝鮮人の生涯を一人芝居にした「身世打鈴」(シンセタリョン)を2千回以上演じた新屋英子(しんや・えいこ、2日没、87歳)、落語家で「マクラ」が暗い話から入ることで知られた柳家喜多八(17没、66歳)はそういえば何回か聞いたような…。ジャズバンド「宮間利之とニューハード」のリーダー、指揮者の宮間利之(24日没、94歳)、河合塾の名物講師として知られ、市民運動家として愛知県知事選、名古屋市長選に出たこともある牧野剛(まきの・つよし、20日没、70歳)などの訃報が届いた。(下の写真は書いた順)
    
 政治家では元通産相というより、佐藤栄作元首相の次男で後継者となった佐藤信二(3日没、84歳)。いわゆる「沖縄密約」が佐藤元首相の部屋に残されていたことを明かしたのにはビックリした。政府内で引き継がれていないのだから、「私的文書」だったというしかないけど、それで通るのか。とにかく「実在」したわけである。同じく元通産相で、総務会長も務めた堀内光雄(17日没、86歳)。富士急社長から政界入りし、当選10回。宏池会(大平派)の所属したが、のち加藤紘一の「加藤の乱」(2000年)で派閥が分裂したときは、反加藤派と率いる立場となり「堀内派」と呼ばれるグループができた。今の岸田外相のグループである。以上の二人は、どっちも2005年の郵政民営化反対派だったが、佐藤はそのまま引退。堀内は無所属で出て当選した。(写真は、佐藤、堀内)
 
 外国では、旧ユーゴスラビアの歌手、ヤドランカ・ストヤコビッチ(3日没、65歳)は、サラエボ出身でサラエボ冬季五輪(1984年)のテーマ曲を歌った歌手である。日本文化に関心があり、日本に来ているときにボスニア戦争が激化し帰国できなくなった。1988年から2011年まで、日本を拠点に歌手活動を行ったから、名前は知っている人が多いだろう。僕は直接聞いたことはないけど。その後、今度はクロアチアに仕事で行ったときに発病し、筋萎縮性側索硬化症で亡くなった。

 ヌーヴェルヴァーグの先駆者として「カメラ=万年筆論」で知られる映画監督アレクサンドル・アストリュック(19日没、92歳)は映画史の中では伝説的な名前だが、日本ではほとんど見られないので、僕もよく知らない。中では「サルトル自身を語る」(1976)というサルトルのドキュメンタリーは見ているはず。あれを作ったのはアストリュックだったのか。他にも、「お菓子放浪記」で知られる作家、西村滋(21没、91歳)、「ちびまる子ちゃん」の姉役の声優、水谷優子(17没、51歳)、元零戦パイロットで、記録映画「ひとりひとりの戦場ー最後の零銭パイロット」に出た原田要(3日没、99歳)、日本ハムで1982年に20勝4敗で最多勝になった工藤幹夫(13日没、55歳)など。また5月に報じられた先月の物故者に、東京バレエ団を創設した佐々木忠次(4.30没、83歳)、経済評論家で長銀専務、「路地裏の経済学」で知られた竹内宏(4.30没、85歳)がいる。
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エリック・ロメールと映画の快楽

2016年06月04日 23時03分13秒 |  〃 (世界の映画監督)
 フランスのヌーヴェルヴァーグを代表する映画監督の一人、エリック・ロメール(Éric Rohmer 1920~2010)の映画8本が「ロメールと女たち」と題されて、角川シネマ有楽町で上映されている。(10日まで。)昔いっぱい見た監督で、今回の上映作も(劇場初公開の「コレクションする女」を除き)全部見ている。ロメール映画はある時期まで日本では見られなかったが、80年代後半から続々と新作が公開された。同時代に見たときは、能天気というか、美しいけど中身が薄い「美少女艶笑譚」みたいな映画ばかりで、何だと思うことが多かった。だから、見直すつもりもなかったんだけど、これが面白い。

 ロメール映画と言えば、「ヴァカンス」である。ヴァカンスを楽しむはずが、うまくいかなかったり、様々な出来事が起こるが、ともかく夏のヴァカンスが描かれることが多い。そこで、大人の男と女、そして少女(時に少年も)が出てきて、恋愛あるいは恋愛遊戯を繰り広げる。それを軽妙かつ自由な映像で見せていくところが、「ヌーヴェルヴァーグ」という感じ。日本人からすると「恵まれた」感じをどうしても受けてしまうが、別に大金持ちの世界ではない。お金がない若者もよく出てくる。フランスじゃ、誰でも5週間のヴァカンスを取る権利があるのである。

 映画館のホームページには、以下のようにある。「フランスの美しい風景の中で織りなす8つの恋物語を、全作品デジタル・リマスター版で上映いたします。可憐な少女たちをエロティックに描き、大人の女の無垢さを映し出す珠玉の恋愛映画たち。初夏にぴったりな8つの恋物語を、ぜひお楽しみください。」まあ、確かにそういう世界の映画であるのは間違いない。

 だけど、今見ると、この自由な感じは何だろうと感嘆する。そして、決して単なる恋愛映画ではないということも。ブランドもので固めたオシャレではなく、「普通の人々」の気軽なオシャレで自由な様子を描いている。それにフランス人のなんと議論好きなことか。映像も素晴らしいけど、同時に「言語の映画」でもある。日本で本格的に公開された最初のロメール映画「海辺のポーリーヌ」(1983、ベルリン映画祭銀熊賞)なんか、まさに「ヴァカンス美少女映画」の見本のような映画だけど、15歳のポーリーヌと年上のいとこマリオンをめぐる男と女のさや当ては、よくしゃべり、議論を交わす恋愛討論映画である。映像と音楽で盛り上げて、当人たちは黙っている日本とは大違い。これがヨーロッパの底力。

 日本公開は1989年だった「クレールの膝」(1970)は、公開当時見た時に一番面白かったロメール映画。何しろ「エロの極致」である。と言ってもエロスの対象は「ひざ」なんだから、驚き。しかも、タイトルロールのクレールはなかなか登場せず、妹のローラが恋愛ごっこの対象として延々と撮られている。これもヴァカンスのアヌシー湖畔の物語。冒頭のモーターボートが橋をくぐるシーンから素晴らしい名場面の数々。(後にアカデミー撮影賞を二度受賞するネストール・アルメンドロスの撮影。)男が友人の女性作家と再会し、少女姉妹を紹介される。だが、その段階ではクレールはまだ帰ってきていない。やっとクレールが登場するが、男友達とべったり。ところが、偶然「クレールの膝」に男は魅せられてしまい…。って、嘘でしょうというような設定を納得させてしまうから映像の力はすごい。

 「クレールの膝」は初めて見ると、エロティシズムを感じると思うが、今回見ると「いちいち言語で説明する」のがやはりフランス映画だなあと思った。もっとすごい言語の力を発揮するのは、「モード家の一夜」(1968)。今回唯一のモノクロ映画だが、アルメンドロスの撮影の美しさに絶句する。中身はほとんど議論で進行し、それもパスカルとか信仰の話が多い。ジャン・ルイ・トランティニャンは旧友とともに女医を訪れ、一夜を過ごすが何も起こらないというだけの話。それと教会で知り合った名も知らぬブロンド女性への恋心。その二人の女性とのやり取りだけで見せてゆく。すごいな、フランスは。ちなみに、男は「技師」とされ、カナダ、チリ、アメリカが長かったという。フランス中部のクレルモン=フェランの話だが、ここはタイヤメーカー、ミシュランの本社があるというから、ミシュラン勤務だったのか。

 最も軽い「レネットとミラベル 四つの冒険」(1986)は、偶然知り合った若い二人の女性を描く。パリの学生ミラベルは田舎旅行で自転車がパンクして、それを田舎で絵を描いていたレネットが助けて友達になる。レネットは翌年パリの美術学校に入り、一緒に部屋をシェアする。この二人の「日常生活の冒険」を描いていくわけだが、この二人もちゃんと意見を持っていて、たとえば路上で物乞いにあったらお金を与えるかどうかで大議論が始まる。すごく楽しい映画で、パリ風景の美しさも特筆すべきものだが、軽くて楽しい映画だけど、主人公たちがきちんと意見を言えて世界観を持っている。議論を描くだけで映画が成立する。そんな日常が日本にはないのに、「アクティブ・ラーニング」とか「18歳選挙権」とか始めてしまう。大丈夫なんだろうかと思う人は、「おフランス」の軽い恋愛映画を見るのもいいのではないか。フランス人はホントに10着しか服を持たないのか気になる人も。

 日本では当初クロード・シャブロル(「いとこ同士」など)、ジャン=リュック・ゴダール(「勝手にしやがれ」)、フランソワ・トリュフォー(「大人は判ってくれない」)の3人が「ヌーヴェルヴァーグ」として紹介された。また、同じくアラン・レネルイ・マルなどの映画も紹介されたが、他の監督は長いこと公開されなかった。このエリック・ロメールやジャック・リヴェット、ジャック・ロジェなど長いこと紹介されなかった。それどころか、今になっても日本では見ることができない多くの監督が存在する。

 それぞれがかなり違う作風であるが、「自由な作り方」以外にも共通点がある。それが「言語への信頼」。ゴダール映画は政治映画化した時期はもちろん、それ以外にも映像と同じくらい「言語」で表現している。映像派のように思いがちのトリュフォーだって、文学趣味は紛れもないし、「野生の少年」のように「言語」への信頼がベースにある。多分、フランス文化そのものが、「フランス語」というものによって成立しているという考えが強いのだと思う。それとともに、日常的に「議論」が日本よりも生活の中に存在するんだろう。まあ、ロメール映画も一つの「典型」であり、常にだれもが恋愛を議論する人ばかりではないと思うけど。

 「海辺のポーリーヌ」の「海辺」はノルマンジーで、コートダジュールではない。パリからはもっと近いから、映画でも北や西の海もよく出てくる。「クレールの膝」はアヌシーが舞台だが、映画ファンには国際アニメーション映画祭で有名な場所だが、どこにあるか知らなかった。フランスでもほとんどスイスに近いところで、アルプス山脈のふもと。海に山にと美しい景色を映像で見られる。だけど、海でも山でも美しさでは日本も負けていない、というかしのいでいるかもしれない。だけど、夏に一カ月も長期滞在するという文化がないから、こういう映画が出てくるはずがない。やはりうらやましい。

 これらの映画は、80年代に主にシネ・ヴィアン六本木で公開された。「シネヴィヴァン六本木 栄光の軌跡」という公開全作品を網羅しているサイトがあるが、ゴダール「パッション」で1983年に出発したこの映画館では、ほとんどすべての映画を見ていたことに自分でも驚く。タルコフスキー「ノスタルジア」や小川紳介「ニッポン国古屋敷村」、ヴィクトル・エリセ「ミツバチのささやき」「エル・スール」などが並ぶ公開映画一覧は今見ても壮観。ロメール作品は、87年1月に「満月の夜」が公開されたのを皮切りに、「緑の光線」、「友だちの恋人」、「レネットとミラベル 四つの冒険」、「クレールの膝」と80年代だけで5本も公開された。90年代に入ると、以上に「モード家の一夜」を合わせた特集上映。そして四季の物語シリーズの第一作「春のソナタ」、続いて旧作「獅子座」をはさんで、「冬物語」「木と市長と文化会館」「パリのランデブー」、「秋物語」と続く。その間に旧作の「愛の昼下がり/O公爵夫人/飛行士の妻/美しき結婚」の連続上映もあった。最後のころはもう全部は見ていないが、99年をもって閉館したミニシアターにとって、ロメール作品が非常に重要だったことが判る。ある種「80年代」っぽいというか、一種の空白感も含めて時代性も感じられるかもしれない。「セゾン系映画館」を代表するような映画館、シネヴィヴァン六本木という場所を思い出すにはロメール映画が一番。「おししい生活」を象徴するような映画かもしれない。アンスティチュ・フランセ東京でもロメール作品の上映があるので、できればこの機会にいろいろと見直してみたいと思ってるところ。
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ハワイアンズ及び白水阿弥陀堂&塩屋埼灯台

2016年06月02日 00時09分49秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 31日から一泊でスパリゾート・ハワイアンズの「ホテル・ハワイアンズ」に行ってきた。なんで突然ハワイアンズかと思われるだろうが、なんと昨年末の福引の景品である。あんなもの、ホントに当たるのかと思っているだろうが、ホントに当たることがあるのだ。引いたのは僕じゃないけど。家族が引いたのだが、7月初めまでの平日のチケットだから、そろそろ使わないとムダになってしまう。

 実は20年ぐらい前に年末旅行で夫婦で行ったことがある。その時点で小さな子供のいない人には向かないなあと思った。こういう機会でもなければ、また行くこともなかったと思う。前に行った後で、映画「フラガール」が作られ、そして「3・11」があった。そして、今は新しい施設もでき、夕食もビュッフェ方式になっている。(前は大広間で食べたから、その時点ですでに「古い」感じが否めなかった。

 各地から無料送迎バスが出ていて、それも便利である。東京の各地(及び横浜、埼玉、千葉、仙台)なんとホテルまで無料で行ってくれるんだから、すごい太っ腹。今回はそれを利用。朝10時に出て、13時には着いてしまう。もうチェックインできて、部屋にも入れる。そして、13時30分からはお昼のフランダンスショー。まあ、一回ぐらい見てみないとと思って、これに行った。まあ、いいんじゃないですか。そして、しばらく休んで、お風呂。案外「温泉力」を見逃しているが、源泉かけ流しの硫黄泉で、ハワイアンズというか「いわき湯本温泉」の底力である。さらに「江戸情話 与市」なるギネスに載った世界最大の露天風呂ができた。これが確かに素晴らしい。写真が撮れないのが残念。フラガールの「追っかけ」もいるらしいけど、ホテル内で一切写真は撮らなかったので、載せられない。

 夕食が早くて、17時半から19時というので大変。後で夜のダンスショーがあるからか。朝も夜もビュッフェ形式だけど、こういうのも飽きた(慣れた)感もあり、何でもかんでも取ってきて過食を悔いるという愚はだんだん犯さなくなってきたと思う。それもこれも、今はサラダがかなり出ているようになったから。昔は千切りキャベツやプチトマトぐらいしか出てなかったけど、今は生野菜の他に様々なサラダやドレッシングが並ぶようになった。それをいっぱい取ってきて、最初に食べるというやり方、これは「試してガッテン」お勧めのやり方だが、これが効果的なんじゃないかと思う。

 夜はバレーボール(男子の五輪世界最終予選)を見てたら眠くなってしまってショーには行かず。風呂も部屋で入るが、部屋のお風呂も温泉で気持ちいい。さて、一応水着は持って行ったんだけど、まあもうプールもいいだろうと思って、翌日はホテルと提携したレンタカーを借りて周辺観光。まず、国宝の白水阿弥陀堂。東北地方に国宝建築物は少ない。(他は平泉の中尊寺金色堂、松島の瑞巌寺、羽黒山五重塔ともう一つ仙台の大崎八幡神社。)前にも訪ねたのだが、その時は冬休みで見られなかった。今回はまずそこを見た。阿弥陀堂の前に広がる浄土庭園が素晴らしく、実に気持ちがいい。
    
 これは1160年に建てられたもので、奥州藤原氏の清衡の娘がこの地の岩城大夫則道に嫁ぎ、夫亡き後に建てたものである。都では平清盛が勢力を持ち始める時期に、遠い東北で浄土信仰の素晴らしいお堂が作られたのである。「白水」は「平泉」の「泉」を上下に分解したもの。
   
 池泉式の美しい庭園は阿弥陀堂の前に広がっているが、阿弥陀堂を遠くに見通す2枚の写真を。判らないと思うけど、拡大すれば向こうにお堂が見える。緑濃い季節には対岸からはよく見えない。なお、モミジがいっぱいあったから、秋はさぞすごいことだと思う。亀や鯉もいっぱいいたけれど、鳥の写真を撮ったので。前者はくちばしが黄色いので、マガモ。小さなカルガモをいじめて追い回していた。後者はカワウだと思う。(ウミウとの区別が難しい。)ホテルの部屋ではホトトギスの声も聞こえたし、まあものすごく珍しい鳥でもないけれど、やはり自然に恵まれている。

 そこから、塩屋埼灯台へ行く。ここも前に来たけど、すっかり忘れている。灯台は大好き。世界の端にたって、人々に道しるべを指し示している。孤独だが、偉大な存在。だから、日本中のあっちこっちの灯台に行っている。近くに行くと、つい寄りたくなってしまう。
   
 晴れてたから素晴らしいな。海と空と灯台。なんだけど、灯台までの道を上るのがかなり大変。そして、そこからさらに灯台本体に登れる。200円。まあ行くかと103段のらせん階段を延々と登る。ところが、風が強すぎて、せっかく登ったのに外に出られない。いや、出ている人もいるから、わが夫婦がそういう高いところが苦手なんである。それにしても風が強かった。

 ここは木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」のモデル夫妻がいた灯台で、登り口に碑が立っている。作詞作曲は木下忠司で、今フィルムセンターで生誕百年記念特集をやっている。僕はこの映画を何十年も前に見たが、再見はしていない。そして、ここにも東日本大震災の被害があった。灯台は高いからそこまで津波は来ないけど、揺れでずいぶん壊れたことが、資料室にある写真で判る。ちょっと載せておく。最後に映画の碑の写真。ついでにてっぺんで撮った写真も。
   
 それから小名浜でお昼を食べて、何とかギリギリで戻る。帰りに早く着いたらホテルでお土産を買おうと思ってたら、時間がなくなってしまった。
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