尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「光の指で触れよ」、オルタナティブな生を求めて-池澤夏樹を読む③

2017年02月08日 20時52分29秒 | 本 (日本文学)
 次に読んだ池澤夏樹の長編小説は「光の指で触れよ」。2005年から翌年にかけて読売新聞に連載され、2008年1月に中公公論新社から刊行された。(現在は中公文庫に収録。)この作品は「カデナ」の一つ前に書かれた長編小説である。2000年に刊行された「すばらしい新世界」の続編(今は同じく中公文庫)にあたる。内容的には独立して読めるけど、できれば前作から続けて読むべきだろう。

 「すばらしい新世界」というのは、小型の風力発電機を開発したエンジニアが、ネパールの小さな村に取り付けに行く話である。技術的にはうまくいくのだが、彼は村から帰れなくなってしまう。「村の神々から愛されてしまった」ために、帰国しようとすると何か障害が起きる。彼が帰るためには家族が迎えに来なくてはならず、10歳になる彼の息子がネパールまで助けに行く。

 というイマドキには珍しいぐらいの、「アウトドア」「自然エネルギー」「第三世界」「精神世界」といったテイストにあふれた大冒険小説だった。でもなあと僕は思わないでもなかった。風力発電だって、そんなにうまくいくことばかりじゃないんじゃないか。小規模だからいいのかもしれないが、大規模な風力発電には低周波被害などもあるし。それに主人公家族もうまく行ってて、子どもも助けに来られる。なんともうまくできてるなあという感じがしたのも事実である。

 それから8年、案の定というべきか、「前作『すばらしい新世界』の幸福なあの一家に何が起きたのか」というのが、帯に書いてある紹介である。何が起きたのか。家族はもうバラバラである。前作の後で女の子が生まれ、可南子と名付けた。でも、父が天野林太郎、長男が森介ということで、森と林にちなんだ「キノコ」と家族は呼んでいる。そんな4人家族だった。だけど、森介はもう高校生となり、新潟にある全寮制の高校を自ら選んで入学して家を出た。

 そして、林太郎に起こった「恋愛事件」。それをきっかけにして、妻のアユミはキノコを連れて家を飛び出してしまった。話し合いも何もなく、離婚したわけでもない。ただ、突然友人がいるオランダのアムステルダムに行ってしまったのである。そこで何となく居心地がいい暮らしが始まるが、さらに新しい出発をする。フランスの東にあるというが、そこにオランダ人による「コミュニティ」があるというのである。

 町を離れて共同生活を送る「コミューン」のようなものだが、お金を払ってホテルのように利用してもいい。慣れてきて、農園や料理などの仕事を手伝うようになると、その分を滞在費にあてることもできる。自分の特技があれば、それを必要とする人に利用してもらって「交換」することもできる。アユミは「レイキ」(霊気から名付けられた民間療法のヒーリング)ができたので、ケガした調理人に施して、代わりに彼の本職のカウンセリングを受ける。そのことで自分の中にあった未整理の過去に気付いていく。

 林太郎は森介とネパールを再訪するが、森介は高校でできた友人卓矢を連れて行く。卓矢の父は東京の仕事を辞め、妻の実家の岩手で有機農業を始めている。それは「パーマカルチャー」といい、持続可能な社会を設計する農業のあり方である。林太郎も関心を持って、岩手の風力発電を調べるときに、親子で訪ねてみる。東京でも有機農業に関心がある建築家のと知り合い行き来するようになる。梶家の娘、明日子は森介と親しくなっていく。

 一方、アユミはさらに精神的な側面を重視するコミュニティがあると知り、スコットランドに赴く。アユミのスピリチュアルな彷徨はどこに行きつくか。それに対し、林太郎は風力エネルギーから、だんだん農業に引かれていく。林太郎の恋愛相手は、同僚で「恩師の娘」でもある美緒。彼らの関係はどうなる? 森介と明日子の関係はいかに? 一体この家族に再び一緒になる日は訪れるのか? と錯綜する人間関係のゆくえが気になりながらも、登場人物たちの会話はわれらの文明はどうなるのか、人はどう生きるべきかと問い続ける。これほど登場人物が思索し論じ合う小説は、漱石以来ではないだろうか。

 世界をまたにかけて展開されるという点でも、この小説は日本の小説の限界を突破している。「恋愛小説のスパイスをかけた思考小説」といった趣だけど、これもまた本質的には冒険小説というべきだろう。そして、冒険というのは、単に身体的なものだけでなく、精神的な冒険、スピリチュアルな探求こそが真の冒険だと教えてくれる。登場人物たちは、のべつ幕なしに考え話し合うが、けっして難しい小説ではなく、読み始めたら止められない面白さに満ちている。

 消費社会の行き着いた末のような、寸秒を争うような都会の暮らしの中で、「オルタナティブな人生」(もう一つの新しい生き方)を求めている人々は多いだろう。この小説はそんな人には、とても他人事では読めないと思う。若い人にはぜひ読んでもらいたい本だ。長いけど、全然問題ない。日本と世界のこれからを真剣に考える人にも必読。自然エネルギー、有機農業、シュタイナー教育、コミューンなどに関心がある人も。だけど、論だけの本ではもちろんない。美しい自然描写の中で、いくつかの愛が生まれ、壊れていく。その様子にドキドキしてしまう恋愛小説としても読めるのである。

 ところで、この本の352頁に「大学入学資格検定という制度もあるけれど」という文章がある。今はもちろん「高等学校卒業程度認定試験」である。大検は2004年で廃止され、新聞に連載された2005年から「高認試験」である。池澤氏が誤記したのはやむを得ないが、2008年に単行本が刊行された時点で校正されるべきだったと思う。文庫で直っているかは確認してないけど。
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「カデナ」、沖縄1968、抵抗と冒険-池澤夏樹を読む②

2017年02月07日 20時50分39秒 | 本 (日本文学)
 いっぱい読んだ池澤夏樹の長編小説、第一弾は「カデナ」である。2007年から02008年にかけて「新潮」に連載され、2009年10月に刊行された。(現在は新潮文庫収録。)題名を見れば判る通り、これは沖縄の嘉手納基地が舞台になっている。だけど、小説内の時間は1968年である。つまり、まだ復帰前(沖縄県の日本復帰は、1972年5月15日)で、ベトナム戦争がもっとも激しかった時代の話。

 これはものすごく面白い、一種のスパイ小説冒険小説になっていると同時に「国家」と「戦争」というものについて深く考え込んでしまう物語でもある。しかし、そこには出口の見つからない深刻さはなくて、青春の明るさが感じられる。一種の青春小説としても読める本である。この小説には多くの死者も出てくるけれど、そのことを含めて物語が「未来」に向けて開かれている感じがしてくる。

 最初に「フリーダ=ジェーン」という章から始まる。嘉手納基地に勤める空軍の女性である。アメリカ人の父とフィリピン人の母の間に生まれた。第二次大戦では、日米のマニラ市街戦をからくも生き延びた。父の住むカリフォルニアの高校に留学して、アメリカ空軍に入るので、「アメリカ」に帰属意識があった。しかし同時に母を通して「フィリピン」に対してもつながりを保ち続けている。フリーダ=ジェーンという名前そのものが、父母の母親の名前を連ねたものである。そんなフリーダ=ジェーンは、ついパトリックと付き合うことになる。彼はB52爆撃機で北ベトナムを爆撃するパイロットだったのだが…。

 次は「嘉手刈朝栄」(かでかる・ちょーえー)という人物の話に変わる。時間がさかのぼって、1944年のサイパン島である。沖縄は貧しく、海外に移民した人が多いが、当時日本の委任統治領だった「南洋諸島」にも沖縄出身者がたくさんいて、砂糖栽培などを行っていた。戦争が始まり、やがて米軍が上陸し、米軍攻撃のもとで軍は玉砕する。鉄道勤務の彼は徴兵されず、米軍の捕虜となり生き残った。しかし、家族はみな死んでしまった。そんな過酷な過去を持つ朝栄は、やがて沖縄に戻り運送の仕事を始める。妻と知り合い、妻はやがて沖縄そばの店を開いて繁盛する。

 そんな二人がどう関わるのか。朝栄がサイパン時代の知人の「安南さん」(ベトナム出身だから)と久しぶりに再会する、一方、フリーダ=ジェーンの母からは、謎めいた手紙が娘に届く。そこに、嘉手納基地近くの店でロックバンドをしている「タカ」が現れる。タカは朝栄夫婦にずっと世話になっていた。タカたちのバンドが地元のヤクザともめて、彼らは基地の中に逃げ込んでいる。タカの姉は大学生で、ベトナム反戦運動に関わっている。そんな4人がつながるとき、ある小さな、しかし確実にスパイと言える行動が始まる。それは、北爆の情報をハノイに事前に伝えるということだった。

 そこまでは本の帯に書いてあるから、まあ書いてもいいかなと思う。でも、読んでみると、これは「スパイ」というより、「個人で国家に抵抗する」という生き方だと思う。戦争で家族を失った朝栄、二つの国に帰属することで、「フィリピンの属するアジアに対して暴虐を行う祖国アメリカ」に抵抗するフリーダ=ジェーン。彼女は身体の中に異質なものを抱え込んで生きていた。そのことに気付いて、自分で人生に風穴を開ける。そんな風が吹き抜ける感覚は、最も若くてバンドで活躍するタカにも流れている。

 タカの姉が関わる運動では米兵への脱走の呼びかけも行う。そのとき嘉手納基地にいるタカも重要な役割を果たす。「本土でもやっていて、実際に脱走する兵士が出た」と中で語られているのは実際にあったことだ。米軍の統治下にあった沖縄で行うには危険な運動だから、こっちは現実にあったかどうか知らない。この中では、呼びかけに応えて白人兵が脱走してくる。タカは英語が一番できるとして呼ばれ、その兵士をずっと付き合うことになる。彼の恋人とのエピソードも含めて、その部分は忘れがたい。人間は一人で何ができるのか。でも、できることもあるのである。

 ベトナム戦争も遠くなり、今ではもっと詳しく解説しないと伝わらないのかもしれない。でも、あまりにも長くなるからここでは触れない。とにかくベトナムは南北に分断され、社会主義の北ベトナムに対して、アメリカが支援する南ベトナムが戦っていた。というか、南の中で反政府勢力が政府軍を戦っていた。アメリカは1965年から直接北ベトナムを空爆する作戦を開始した。当時「北爆」と呼ばれ、世界から非難されていた。日本でもベトナム反戦運動が盛り上がった。

 この「北爆」には沖縄から直接出撃していた。小説内で出てくるような大きな事故も実際に起きた。沖縄の米軍基地は、タテマエ上は(沖縄の日本復帰により)「日本を守るため」にあることになっている。でも、これまでの歴史を見れば判るように、実は米軍がアジア一帯に展開するための基地(ベース)として存在してきた。そのことが、どれほど大きな傷跡を残したか。それもこの小説で読み取れる。

 この小説は特に政治的、歴史的な主張をする本ではない。むしろ主要登場人物を生き生きと描き分けることによって、「青春の冒険」をうたい上げる本という方が近い。いろいろと辛く厳しいことが出てくるが、それでも体の中をさわやかな風が吹き抜けていくような読後感がある。沖縄に住んでいたこともある池澤夏樹だけあって、「空気感」というか、食べ物などに特に感じるけど、当時の沖縄にいるみたいな気になって、ドキドキしながら読める。恋愛模様のゆくえも目が離せない面白本である。
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池澤夏樹を読む①

2017年02月06日 20時37分41秒 | 本 (日本文学)
 温泉の話はまだあるけど、ちょっと置いといて。日本の作家、池澤夏樹(1945~)の本の話を先に書きたい。池澤夏樹は僕の最も好きな作家の一人だけど、しばらく読んでなかった。作家デビュー以後ずっと読んでいたけど、最近は読むのをお休みしていた。いつか読むつもりで買い続けていたけれど。

 なんで今読んだのかと言われても、特に何かきっかけがあったわけでもない。辻原登「籠の鸚鵡」を読んで、現代日本の長編小説が読みたい気分になったのかな。冬はよくミステリーを読んでたんだけど、今年は読んでない。海外ミステリーもけっこう時間がかかる。ノンフィクションも時間を取られる。現代日本の小説が一番読みやすい。その中でも、今回読んで改めて思ったけど、池澤夏樹の小説の面白さと読みやすさは素晴らしい。読んでない人はものすごく損をしていると思う。

 僕は池澤夏樹の小説では、1993年の「マシアス・ギリの失脚」(谷崎潤一郎賞)と2004年の「静かな大地」(親鸞賞)が最高傑作だと思う。小説以外でもたくさん書いているが、「ハワイイ紀行」(1996年)が一番面白かった。これらの読書体験があまりにも素晴らしかったので、なんかしばらくいいというか、もうこれ以上の感動はないような気になってしまった。そういうことかな。

 池澤夏樹が書いたものを初めて読んだのは、多分岩波ホールでテオ・アンゲロプロスの映画「旅芸人の記録」を見た時なんだと思う。よく知られているように、池澤夏樹は若い時にギリシャに3年間住んでいた。そして縁あってアンゲロプロスの字幕を付けることになり、その後彼が交通事故で急逝するまで、全作品の字幕を担当した。初公開の1979年当時、もちろん字幕翻訳者のことは知らなかったが。

 その後、小説を書くようになり、評価も高まっていく。そして、1988年に「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞した時は、さっそく読んだと記憶している。最初の小説集「夏の朝の成層圏」(1984)も印象深い。その頃には、池澤夏樹が福永武彦の息子だということも知っていたと思う。今回調べて初めて知ったんだけど、作家福永武彦はマチネ・ポエティックの同人だった原條あき子という女性と結婚した。池澤夏樹は、戦争中に疎開先だった北海道帯広市で生まれた。だが、1950年に両親が離婚、母に連れられて東京に移った。池澤という姓は、母の再婚相手のもので、実父のことは高校生になるまで知らなかった。

 福永武彦は僕の大好きな短編「廃市」の作者だが、他には長編「草の花」ぐらいしか読んでない。ロマネスクな世界に共通性もないではないと思うが、むしろ池澤夏樹には違う面が多いと思う。それは池澤夏樹が(都立富士高を卒業して)、1964年に埼玉大学物理学科に入学したという経歴が大きい。(これは2016年にノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏の13年前の先輩ということになる。結局は卒業していないのだが。なお、池澤夏樹の「星に降る雪」という小説には、スーパー・カミオカンデが出てくる。)

 理系出身の作家はかなり多いが、理知的でクールな世界観の人がやはり多いように思う。池澤夏樹は特に、その静かで透明な世界に、何か理系の感覚を感じる。その後にいくつも書くことになる大長編小説では、ひたすら壮大な物語が展開されることも多く、必ずしも理系っぽいわけではないと思う。だけど、主人公をめぐって論争が繰り広げられたり、設定の工学的側面がきちんと書かれていることなど、ちょっと他の作家と違う印象がある。

 しかし、それ以上に大きいのは、「世界放浪癖」というべきものだと思う。ギリシャの他にも、ミクロネシアに住み、フランスに住み、沖縄に住む。ベースは北海道にあるらしいけど、「パレオマニア」という本では古代遺跡を求めて世界13か国を訪ね歩いている。このフットワークの軽さは普通じゃない。では、日本文化の土着性がまったく感じられないかというと、決してそんなことはない。

 だけど、そこで出てくる「日本人」は、中央から見た「日本人」とは異質の人々が出てくる小説が多い。アイヌ民族沖縄の人々のような。外国人を主人公にするものもかなりある。世界を旅し、外国の小説をよく読む。世界に開かれた文学世界なんだけど、でも池澤夏樹を読むときには、「日本」を常に意識せざるを得ない。閉じた世界ではなく、日本にも通じる「世界」を常に描き続けている。

 池澤夏樹の生き方を反映してか、その小説には「思索する」ことと「冒険する」ことを常に続けている人々が登場する。辻原登の「韃靼の馬」や「ジャスミン」などは、現代日本で書かれた最高の冒険小説だと思うけど、池澤夏樹の長編小説も負けていない。小説を読む楽しさを全身で味わえる。池澤夏樹の「冒険」は、ただ外面的な冒険だけではない。心の内面を深く旅していくスピリチュアルな冒険。池澤夏樹の小説で、それを味わい、思索する。それは現代を生きる勇気を与えてくれる素晴らしい体験である。具体的な読書内容は次回以後に書いていくが、まず最初に作家池澤夏樹のまとめ。
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劇団民藝「野の花ものがたり」と徳永進さんのこと

2017年02月04日 20時57分04秒 | 演劇
 劇団民藝の「野の花ものがたり」(作=ふたくち つよし 演出=中島裕一郎)を初日に見た。新宿の紀伊国屋サザンシアターで14日まで。「ザ・空気」を見たばかりだし、大体原則的に初日には見ないことにしてるんだけど、今回は例外。それは劇のモデルになった徳永進さんのトークがこの日に予定されていたからである。徳永さんの話を直接聞くのは、後で書くように20年ぶりである。

 徳永進さん(1948~)は医師であり、またエッセイストと紹介されることが多い。「死の中の笑み」という本で1982年の講談社ノンフィクション賞を取って、世に広く知られた。その時の同時受賞が、松下竜一「ルイズ」だったので、松下竜一や本のモデルの伊藤ルイ(大杉栄と伊藤野枝の間に生まれた末娘で、晩年に様々な社会運動に関わった)との関わりでもよく話を聞いた人である。

 その当時、徳永さんは鳥取日赤病院の医師だった。その後退職して、2001年に建てたのがホスピスの「野の花診療所」である。公演のチラシを引用すれば、どんな場所かよく判る。「最期の時を自由に個性的に送ってもらおうと建てられた「野の花診療所」。鳥取市内に実在するベッド数19床の小さな診療所と徳永進医師をモデルに描く、ふたくちつよし民藝第三作。「命」によりそう医師と看護師、最期の時を迎えた家族たちの心あたたまる舞台です。」

 舞台上には4つのベッドが置かれ、段差があって手前に「ラウンジ」がある。(ラウンジというのは、さまざまな集まりに利用できる場所で、実際に診療所内にある。ここは一度行ったことがある。)その4つのベッドで展開される4つの人生ドラマ。時々進行役の徳丸進医師(劇内では「徳丸」とされている)が出てきて、ドラマを整理し進行する役を担う。それぞれのベッドにスポットライトがあたると、そこで劇が進行する。割と素直な劇作で、ちょっと前の「ザ・空気」のような登場人物たちの張りつめた葛藤は少ない。

 というか、本当はもっとすごい葛藤があったはずである。もうすぐ死ぬ人々の話なんだから。だけど、ここはもう「ホスピス」だから、もう少しの生を送る場所なのである。もちろんわれわれ全員が、遅かれ早かれ死ぬわけである。でも、多くの人にとって、その遅い早いは何十年のレベルの問題だろう。ここで出てくる患者さんにとっては、遅かれ早かれとは「数ケ月以内のレベルの問題」なのである。だから、徳丸医師は3千枚ほどの死亡診断書を書いてきたと語る。そういう場所で人々はいかに生きるか。

 そこに「死をいかに受け入れるか」という問題が生じる。そして、人は死で終わるのではなく、生から永遠への道の中で、死はその途中にあるという考えが示される。そういう風に考えるのは徳丸医師だが、ひとりひとりの患者は、それは様々である。長生きしていても、死はなかなか受け入れがたい。ましてや、仕事の途上で、あるいはもっと若くて死に直面させられた人は、何で自分がガンになるんだと怒りをため込んでいる。誰に怒っても仕方ないことなんだけど、とりあえず周囲にいる家族や医療スタッフに怒ることになる。そういう人間のありようが、ていねいに描写されていく。

 これは「ザ・空気」とまた違った意味で、現代人に多くの問題を投げかける劇だと思う。安倍政権やトランプ政権がどうあろうと、人はどこかで生きて死んでいく。その死んでいく当事者にとっては、まず自分の生をどう考えるかで精いっぱいである。そのような日々の厳粛なありようを多くの達者な役者たちが自然な感じで演じている。徳丸医師の杉本孝次をはじめ、民藝にも何人もいる有名な役者は出ていない。そういう公演が可能だということで、新劇の劇団システムの良さを味わうことができる。
 
 僕が徳永さんの名前を知ったのは、奈良にある「交流(むすび)の家」で、管理人をしていた故・飯河梨貴さんから本を貰った時だと思う。徳永さんがハンセン病療養所・長島愛生園に通ってまとめた鳥取出身のハンセン病者の聞き書き「隔離」という本である。「進ちゃんが本を出したのよ」と交流の家に何冊も置いてあった。FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会のメンバーで、若い時から「らい者」(ハンセン病患者)によりそう活動を続けていた人だったのである。(なお、「隔離」はその後岩波同時代ライブラリー、岩波現代文庫に収録されたが、現代品切れ。名著なので、長く読まれて欲しい。)

 1996年に「らい予防法」が廃止されたとき、FIWC関西委員会は大阪で記念集会を開いた。東京から皆で僕の車で駆け付けた時に印象的だったのが、徳永進さんの話だった。深くて面白い。関東委員会のメンバーだった筑紫哲也氏の講演もあった。当時、多磨全生園自治会長だった森本美代治さんの話も心を打った。だから、この集会を関東委員会でもやろうじゃないかと呼びかけた。FIWCの原則通り、言い出した僕が責任者になって、1997年の6月にいまはもう使えない九段会館で実施したのだった。その時に徳永進さんに鳥取から来てもらった。劇の中徳丸医師が披露しているハーモニカも、このときに聞いた。これほど心を打った講演もなかったと思う。そんな徳永さんの話をまた聞けて良かった。今大変な思いの仕事を毎日つらい思いでしている人に、ぜひ見て欲しい劇である。
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エマニュエル・リヴァ、松方弘樹、神山繁等-2017年1月の訃報

2017年02月03日 21時38分08秒 | 追悼
 2017年1月の訃報特集。一番大きく取り上げられたのは松方弘樹だろうけど、あえてフランスの女優、エマニュエル・リヴァから取り上げたい。27日没、89歳。この人はアラン・レネ監督の「二十四時間の情事」(ヒロシマ・モナムール、1958)の主演女優だった。そのことは日本人に印象深いことだから、訃報に大きく取り上げられるのは当然だ。しかし、この人はミヒャエル・ハネケ監督の「愛、アムール」(2013)の主演女優でもある。フランスのセザール賞女優賞を取っただけでなく、外国人でありながら米アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされた。史上最高齢ノミネートの85歳である。現時点では、このことに触れない記事はありえないと思うんだけど、日本の新聞は報じない。どうしてかは知らないけど、昔見たアラン・レネは知ってても、最近の外国映画は知らないということなんだろう。
  (左=愛、アムール 右=二十四時間の情事)
 「二十四時間の情事」では広島ロケを行ったわけだが、その時に撮った大量の写真が最近見つかり、写真集も出た。2008年には広島での展覧会に合わせて来日もしている。岡田茉莉子との朗読共演なども行った。吉田喜重監督、岡田茉莉子夫妻の回顧上映がフランスで行われたときに、エマニュエル・リヴァは会場を訪れて岡田茉莉子とは親交があったのである。(岡田茉莉子自伝に書いてあったと思う。)そういう話題性も含めて、もっと大きな訃報記事が必要だったように思う。

 同日の新聞では、米国俳優ジョン・ハートの訃報も大きかった。27日没、77歳。デヴィッド・リンチの「エレファント・マン」(1980)で主演者を演じてアカデミー賞にノミネートされた。米女優メアリー・タイラー・ムーアは、25日没、80歳。「普通の人々」というロバート・レッドフォードが作品賞、監督賞を得た映画でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。まあ、忘れてたけど。社会活動家として知られ、動物愛護などに取り組んだというけど、それは知らなかった。

 出てない新聞もあったけど、米国作家ナット・ヘントフが7日に死去した。91歳。ユダヤ人だけど、ジャズが好きで、ニューヨークの雑誌にジャズや政治のコラムを書いて有名になった。若者向けの小説もたくさん書いている。日本でも「ジャズ・カントリー」や「ペシャンコにされてもへこたれないぞ」「ぼくらの国なんだぜ」など多くの翻訳が出ていた。訳者が木島始や片桐ユズルだというと、判る人には何となくどんな本か判るだろう。小説「エクソシスト」を書いた作家、ウィリアム・ピーター・ブラッティも12日に死去、89歳。映画化に際しては脚本を担当し、アカデミー脚色賞を取った。

 さて、日本に移ると、松方弘樹が21日に死去、74歳。父親が近衛十四郎だったということは、もう解説しないと伝わらないのか、あまり取り上げられなかった。本人の結婚歴というか、「スキャンダル」はまあ報じないものかもしれないが…。近衛十四郎は僕がテレビで好きだったんだけどなあ。映画でも「仁義なき戦い」ばかりが出てくる。大ヒットした1作目で準主演だったけど、ラスト近くで死んでしまう。印象的だけど、その後を考えると損だったか。でも、その後の「実録路線」では大活躍していて、特に「実録映画の極北」とされる「北陸代理戦争」は強い印象がある。

 モデルの実在ヤクザが、映画で使ったロケの店で実際に襲撃されて死亡する事件が起こり、「封印」されてしまったような映画になったが。演技がどうこういう以前に、強烈なインパクトがあった。その後のテレビでの活躍はあまり知らないけど、尋常でない貫録、並みでない豪快なスケールで、「最後の活動スター」というべき人だったと思う。

 俳優の神山繁(こうやま・しげる)が3日死去、87歳。昔の映画やテレビを見ると、とにかくいっぱい出ている。テレビでは「ザ・ガードマン」などに出ていて、独特な風貌ですぐ名前を覚えた。もとは文学座の俳優で、分裂時の「劇団雲」、「演劇集団円」と移った。芥川比呂志と行動を共にした人である。舞台では見ていないけど、映画はいっぱい見てると思う。ではどれと言われると困るけど。最近では北野武「アウトレイジ・ビヨンド」に出ていたというんだけど、あまり覚えてない。
  (晩年と昔の写真)
 藤村俊二の訃報もあった。25日没、82歳。ずいぶんいろんなテレビに出ていたけど、元は振付師だったのは知らなかった。レナウンのCM「イエイエ」の振付担当だったとは。これは非常に重大な仕事と言える。軽妙でとぼけた味で知られた。「昭和9年会」というのを作っていたというが、愛川欽也、大橋巨泉、長門裕之、坂上二郎などと言うから、続々と鬼籍に入っていることに暗然とする。

 京都大学名誉教授、岡田節人(おかだ。ときんど)が、17日に死去、89歳。発生生物学の第一人者で、文化勲章受章。iPS細胞などにつながる源流となった研究だという。美術史家木村重信が、30日死去、91歳。民族美術の研究もてがけ、「カラハリ砂漠」などの著書がある。元ナムコ会長の中村雅哉が22日に死去、91歳。バンダイと経営統合した。日活を買収したこともあった。

 元小結の時天空、間垣親方が死去、31日、37歳。モンゴル出身で、足技が得意だった。悪性リンパ腫で休場し、昨年名古屋場所限りで引退した。時々こういうこともあるんだなあと思う。木之本興三が15日、68歳で死去。この人の名前を知らなかったけど、Jリーグ創設に尽力し、日韓ワールドカップでは日本代表の団長だった。古河電工の選手だったけど、26歳の時に致死性の病気で腎臓を全摘出して引退したと出ている。スポーツ選手にはつらいことだったろうけど、さまざまな人生がある。

 元ポルトガル首相でEU加盟を主導したマリオ・ソアレス(7日没、92歳)東西統一時のドイツ大統領ローマン・ヘルツォーク(10日死去、82歳)などの他、世界政治の分野ではイランの元大統領、ハシェミ・ラフサンジャニが8日に死去した。82歳。「穏健派」と言われるが、もっと複雑な立場の人で、要するに「現実主義」という名のぬえのような権力者だったと思う。保守派には違いなく、「保守強硬派」と対立する「保守穏健派」という位置づけになる。ホメイニ師死後に、ハメネイ師の後ろ盾になったことから一定の影響を保守葉強硬派にも持っていた。トランプ政権下で、イラン政治の行く末も注目される中、現在のロハニ政権には打撃になると見られている。
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永井愛の新作「ザ・空気」-心に鋭く突き刺さる刃

2017年02月02日 21時15分34秒 | 演劇
 永井愛の新作「ザ・空気」(二兎社公演)が東京芸術劇場シアターウェストで上演中。(2.12まで。)あるテレビ局のニュース番組をめぐり、「政権の圧力」を気に掛ける人々と番組スタッフの攻防を描いている。今や新作を必ず見ようという劇作家は、僕にとって永井愛ぐらいか。2014年秋の「鴎外の怪談」以来の新作である。歴史や家族に材を取ることも多い永井作品だけど、今回はまた日本の現実を鋭く問う作品である。見るものの心に突き刺さる刃の鋭さは、永井作品の中でも随一と言えるかもしれない。他人事で見ていられる劇ではない。

 劇は7時に開演し、休憩はなく8時45分頃に終わった。非常に凝縮された悲喜劇で、特に舞台装置をうまく使った人物の出し入れが絶妙。巧妙な劇作と演技のアンサンブルを堪能できる傑作である。だけど、そういった劇作の技術をノンビリと楽しんでいられる内容ではない。東京の高校の国旗国歌問題を描いた「歌わせたい男たち」(2005)を超えるような、現実の日本を厳しく見つめる作品である。

 あるテレビ局の夜の報道番組「ニュース・ライブ」。「総務大臣のおばさん」によるテレビ局の電波取り消し発言があった年、つまり、2016年の話である。それに対し、各社のニュースキャスターらが抗議の記者会見を行った。それは記憶に新しいことだろう。この番組では、ドイツの放送のあり方を取材し、日本の現状も取り上げる「報道の自由を問う」という特集企画を取り上げることにした。

 そして、放送当日を迎える。劇は(最後の短いシーンを除き)一日だけ、それも放送局内部で進行する。主に会議室(と思われる一室)が主舞台で、そこが折に触れ他の階などに変わる。その場所が「訳あり」なんだけど、それは後で触れる。編集長の今森田中哲司)は、よくその部屋に行くという。そして、その日アンカーの大雲木場勝巳)やキャスターの来宮若村麻由美)もいつもより早く局に来ている。一度は決まったはずの特集が訂正した方がいいと大雲が言い出しているというのである。

 実はアンカー(視聴者に対して番組を取りまとめる役)は変わったばかりらしい。前任の「桜木」なる人物は、福島へ通って独自取材を続けるなど、ジャーナリストとして筋を通していた。ところが追い詰められて、社内の一室で自殺してしまった。代わりに新聞社出身で保守的な大雲がアンカーになり、「政治的公平性」を主張するようになった。大雲は今回のコメントを3か所訂正した方がいいという。今森がよく行く部屋は、実は前任アンカーの桜木が自殺した部屋だった。以前は桜木からいつも責められていた今森だけど、彼の死後は逆に局内で「桜木ってる」と言われているらしい。大雲とは正反対の立場である。ドイツに取材に行った来宮も大反対。その右往左往のすったもんだがどう決着するか。

 ここで、あと二人の登場人物に触れないといけない。一人は、ディレクターの丹下江口のり子)である。彼女も報道の自由を守りたいと思っているが、自分の立場は弱いことを自覚している。だから、来宮のように強くなれない。立場上「受け」の演技が多くなるが、それが絶妙の味を出していて、とても印象的な演技だった、もう一人、若い編集マン花田大窪人衛)という人物がいて、訂正するも何も、実際の映像を処理するのは彼の仕事である。彼は言われた通りに編集する立場で、右往左往するしかない。丹下は他の主要な3人より下の立場だが、花田よりは上だから彼にはムチャを言う。このあたりの「現場」の複合的な構造がうまく描かれている。

 ところで、この「訂正」をめぐる問題は、単に「世の中の空気」の問題ではない。なぜなら、放送局に直接要求をぶつけてくる人々(保守派やネット右翼など)がいるのである。この特集に対しては、予告を見た「放送の政治的中立を求める国民の会」(だったかな)から、大雲のところに手紙が届く。また、少女と称して「アニメ声」の電話がかかってくる。(この場面はすごくおかしくて、場内で大笑いである。)これは現実にある会がモデルである。安保法制や総務大臣発言をめぐって、意見広告を新聞に出すなどの活動を繰り広げた「放送法遵守を求める視聴者の会」のことだろう。産経新聞や読売新聞に公告を出すから、見たことがないという人もいるのかもしれないが。

 そんな現実の中で、われわれはどう生きるべきか。劇の中で登場人物たちは、どんどん「後退戦」を余儀なくされていく。いったん、「現場の知恵」で少し譲ると、今度はより上層の意向でもっと削れと言われる。それに対して、少し譲るのもやむなしと対応すると、もっと踏み込んで譲れと言ってくる。「ニュースを全部録画して、政権寄り、政権反対、どちらでもないの時間を計算しているような官邸だぞ」ということである。僕らの社会はもうそこまで来ているのである。

 この劇の中の人物の生き方は、まったく意外でも何でもない。それは「歌わせたい男たち」から10年以上たった学校を見てみれば判るだろう。昔は組合幹部で「日の丸君が代の強制反対」と言っていた人が、校長になると職務命令を出すしかなくなる。それどころか、儀式のときには舞台上の旗に、頭を下げて偶像崇拝に余念がない。そういうことは日本中のどこの現場でも起こってきたことではないか。

 今森は「中立というけど、世の中がどっちかによると、真ん中にいるつもりでも、どっちかにずれている」というようなことを言う。この劇の中見は単に劇というフィクションの世界の話ではない。日本国民は、日本に「言論の自由」があるつもりでいるかもしれない。テレビは能天気にヴァラエティやクイズを放送し続けるけれど、テレビでは多分ニュースに報じられないこともある。(例えば、辺野古への基地移転反対運動のリーダー、山城博治氏が微罪で逮捕勾留され、すでに3か月にもなり、アムネスティ日本支部が釈放を求めているといったニュースである。)

 永井愛さんの「シングルマザー」はNHKでドラマ化されたが、今度の「ザ・空気」はちょっとテレビではできない。それどころか、ニュースでも紹介していないのではないか。そういう劇を今はまだ上演できるということが、大事である、ラストでは、2年がたっている。「もう憲法が改正されたのよ」と登場人物が言う。言論の自由を問題にできるような社会ではなくなっているというのである。現実では、まだ憲法は改正されていない。「今が正念場なのだ」というメッセージなんだと思う。メッセージ性で語るだけでは惜しいウェルメイドな喜劇でもあるんだけど、やっぱり今は劇のメッセージをまず紹介したいと思う。
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