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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

吉田裕「日本軍兵士」を読む

2018年08月10日 22時59分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 吉田裕(よしだ・ゆたか、1954~)氏の中公新書「日本軍兵士」は2017年12月に出た本で、何でもかなり売れてるらしい。最近近現代史の本は、一応買ってもすぐには読まないことが多い。知ってることが多いし、知らないことは細かすぎる。むしろ自分の専門じゃない中世史や世界各国の歴史の方を読んでしまう。でも、ようやくこの本を読んだことで、アジア太平洋戦争の歴史は今に通じる問題だと改めて感じた。少し続けて考えてみたい。

 吉田さんの本が中公新書で出るのか。岩波新書なら「昭和天皇の終戦史」「日本の軍隊」「シリーズ日本近現代史 アジア・太平洋戦争」と3冊もある。これらの本も別にそんなに難しい本じゃないけど、今回の「日本軍兵士」を読んで、とてもわかりやすいので驚いた。史料の引用にあたって、仮名遣いはもちろんだけど、カタカナをひらがなに改めている。それだけでもずいぶん読みやすい。そして「面白い」というとちょっと違うかもしれないが、日本を考えるときの知的好奇心が刺激される。必読の本だと思う。中公から出て今までと違う読者層にも届くとよい。

 日本軍兵士の死者には戦病死や広い意味での餓死が多いことは、今までにも取り上げられてきた。この本でも当然触れられているが、今までに考えたことがない視点も多い。例えば軍内の歯科医の問題である。あるいは戦場で広がる水虫。虫歯や水虫で苦しんだ経験は多くの人にあるだろう。でも「死に至る病」ではないから、あまり戦争と関連付けて考えた人はいないだろう。

 日本軍は兵站、補給を軽視したから、食料などは現地の人々から調達することを前提にした作戦行動が多かった。それが戦争犯罪を生む原因となる。トラックも少ないから、広大な中国大陸やニューギニア、ビルマなどを徒歩で行軍する。ベストセラーになって映画化もされた火野葦平「土と兵隊」なんか、ひたすら歩きだけのような記録である。そういうことはよく言われていたわけだが、ただひたすら歩く戦場ではちゃんと食べて歯を磨くこともできない

 それがいかに戦力を落とすか。考えてみればすぐに判る。栄養も取れなくなり、体力も落ちて来る。今じゃ歯が痛ければすぐに歯医者に行けるから、何カ月も歯をちゃんと磨かずに無理を続けるとどうなるかを思いつかない。欧米の軍隊ではそれに気付いて軍隊内の歯科医制度があったが、日本軍では歯科医の整備が遅れていた。また無理な行軍を続ければ、足も蒸れて水虫になってしまう。元外務大臣の園田直は戦場でかかった水虫に戦後も長く悩まされ続けたというエピソードが出てくる。今まで気づかなかったので、虫歯や水虫を書いたけど、もちろんそれよりずっと深刻な多くの問題が出てくる。全部書いてられないので目次を紹介しておく。

 序章  アジア・太平洋戦争の長期化
 第1章 死にゆく兵士たちー絶望的抗戦期の実態Ⅰ
     1 膨大な戦病死と餓死
     2 戦局悪化のなかの戦病死と特攻
     3 自殺と戦場での「処置」
 第2章 身体から見た戦争ー絶望的抗戦期の実態Ⅱ
     1 兵士の体格・体力の低下
     2 遅れる軍の対応ー栄養不良と排除
     3 病む兵士の心ー恐怖・疲労・罪悪感
     4 被服・装備の劣悪化 
 第3章 無惨な死、その歴史的背景
     1 異常な軍事思想
     2 日本軍の根本的欠陥
     3 後発の近代国家ー資本主義の後進性
 終章  深く刻まれた「戦争の傷跡」     

 戦争末期に大量の徴兵が必要になり、そのため体格的な面だけでなく、知的なレベルでも従来は軍に取られなかった層も入ってきた。軍では軍人勅諭などの暗唱が必須だが、それもできないとなれば私的制裁の対象となりやすい。また当時は「戦争神経症」と呼ばれた心を病む兵士も多かった。「障がい者と戦争」というのは重大なテーマだ。兵隊に対しては「兵力増強剤」と呼ばれた覚醒剤、商品名ヒロポンも多く使われた。戦後社会で覚醒剤が広がるのは軍から始まるというのも大事な視点だ。軍服軍靴の驚くべき劣化という問題も大事な指摘だ。

 日本軍、あるいは日本社会に根強い人権無視が横行していたことを、特に「身体」という観点から例証している。詳しくない人には、こんなことがあったのかと衝撃も受けるだろう。この認識から正しい戦争観を身に付けないと、未来の日本の道筋を誤るだろう。著者の吉田裕氏は東大卒業後、一橋大学大学院で、近代日本の軍事史を切り開いた現代史家藤原彰氏に学んだ。その後一橋大学で長く教え、2018年に定年退職、一橋大学名誉教授。その藤原彰氏の「餓死した英霊たち」がちくま学芸文庫に入ったので、読み返してみた。次はその本について。
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石坂公成、流政之、常田富士男、松下康雄等-2018年7月の訃報②

2018年08月09日 22時11分54秒 | 追悼
 国際的な免疫学者である石坂公成(いしざか・きみしげ)が亡くなった。1925~2018.7.6、92歳。この人は世界で初めてアレルギー反応の仕組みを解明した人である。1962年に夫妻で渡米して共に研究を続け、1966年にアレルギーを起こす抗体「免疫グロブリンE」(IgE)の発見を夫婦両名の名で発表した。僕が石坂氏の名前を知っているのは、70年代以後毎年のように「ノーベル医学生理学賞の有力候補」と言われ続けたからだ。ノーベル賞は受賞できなかったけれど、石坂氏乃発見以後、アレルギーの治療法は大きく進み、ぜんそくの死者は大きく減ったという。花粉症や食物アレルギーの簡易検査キットもできた。人類に大きな貢献をした人だと思う。
 (石坂公成氏)
 彫刻家の流政之(ながれ・まさゆき)が死去。7月7日没、95歳。長崎生まれで、戦争中は零戦のパイロットだったという。敗戦後に独学で彫刻を学び、石を使った大きな彫刻で世界的に有名になった。世界的知名度で知られて、僕もそういう人として知った。世界貿易センタービルの前に作った「雲の砦」は、テロでも奇跡的に無傷だったが救助活動の妨げになるとして撤去された。今は北海道立近代美術館に半分の大きさで再現されているという。1975年に帰国し、香川県高松市の工房で政策を続けていた。アメリカや日本各地に多くの彫刻を残している。
  (雲の砦)
 俳優の常田富士男(ときた・ふじお)が、7月18日に死去、81歳。1975年から94年まで「まんが日本昔ばなし」の語り手を務めた。そうか、これで一番知られているのか。僕の大学時代以後だから全然見てない。僕が知ってるのは、独特の風貌で巨匠の映画監督に重用されたことだ。では何が代表作かと言われると、脇役ばかりだから挙げにくい。でも黒澤明「赤ひげ」「」、市川崑「股旅」「細雪」、今村昌平「楢山節考」「うなぎ」などの名作がある。宮崎駿「天空の城ラピュタ」でも声優をした。テレビドラマにもたくさん出ていたから、顔と名前は大体の人が知ってた。

 日本銀行第27代総裁松下康雄が7月20日に死去、92歳。大蔵次官を2年間務めた後、太陽神戸銀行に入り頭取の時に三井銀行と合併して「さくら銀行」を誕生させた。1994年に三重野康の後を受けて日銀総裁に就任。ちょうどバブル崩壊後の金融恐慌(97年の山一證券などの破たん)時の総裁だったが、1998年に大蔵省接待汚職事件で4年で辞任した。松下総裁時代の98年4月に日銀法改正で日銀の独立性が高まった。松下氏と言えば思い出すのは、旧制一高時代の友人として、2002年に小柴正俊さんがノーベル物理学賞を取った時に、上田耕一郎共産党副委員長とともに祝宴の場を設けたという話である。共産党の指導者、日銀のトップ、ノーベル賞学者がともに一高の寮にいた。そういう時代もあったのである。
 (松下康雄氏)
 民主党政権で環境相、復興担当相などを務めた松本龍が死去。7月21日、67歳。社会党から衆議院議員の当選、民主党結党に参加して計7回当選した。「解放の父」松本治一郎が祖父と報じられているが、間違いではないが直系ではない。治一郎は生涯結婚せず運動に全力を注ぎ、甥の英一を養子とした。松本龍はその松本英一元参議院議員の子である。2010年9月に菅直人改造内閣に環境相及び防災担当相として入閣した。「3・11」後に復興担当となり、東北視察時の言動が問題化して7月に辞任した。その印象ばかり強いけれど、一年近く環境相を務め生物多様性条約締約国会議の議長をしたりしている。辞任後に「軽度の躁状態」で入院したので、あの時の不可解な言動も病気の影響があったのかと思う。2012年の選挙で落選し次の選挙に出ず引退。

 7月の訃報で一番驚いたのは、カザフスタンのフィギュアスケート選手、デニス・テンが強盗に殺されたというニュースだ。7月19日、25歳。ソチ五輪で銅メダルを獲得した。金は羽生結弦。競技順はだいぶ早かったけど、後走の選手が続々と失敗しメダル圏内に残った。テン選手と知らずに車からミラーを盗もうとしてもみ合いになり刺したということらしい。そんな悲劇があるのか。

・建築学、住居学の早川和男が死去。日本住宅公団、建設省を経て神戸大学教授となった。「居住学」を唱え「住まいは人権」として多くの本も出している。長年教えていた神戸で1995年に震災が起き、神戸市の行政を失策と批判した。岩波新書「居住福祉」他多くの一般書もあり、反骨の学者として知られた。訃報の扱いが小さすぎると思う。
・元プロ野球選手、監督の穴吹義男が死去。7月31日没、85歳。中央大学から1955年に南海ホークスに入団。その時に各球団の獲得競争が激化し大金が動いたとされる。それが「あなた買います」という小説になり、佐田啓二主演、小林正樹監督で映画化された。1956年の開幕戦で新人としてサヨナラホームランを放った。僕はさすがにこの時代のことは知らない。僕が知っているのは、大阪にあった南海ホークスで監督をしたということだ。(南海は今のソフトバンクの前身。)
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桂歌丸と浅利慶太-2018年7月の訃報①

2018年08月08日 23時06分47秒 | 追悼
 オウム問題はまだ続くけど、毎日書くのは大変なので後回しにしようと思う。7月の訃報特集もそろそろ書かないと、忘れてしまいそう。100歳を迎えた版画家の浜田知明と脚本家の橋本忍の追悼は別に書いた。二人とも生涯の業績を振り返る回顧展の開催を望みたい。

 まず桂歌丸浅利慶太について。二人ともすごく大きな訃報だったが、僕には「功罪半ば」とは言わないが、功だけじゃなかったと思う。落語家で落語芸術協会会長桂歌丸、本名椎名巌は1936年8月14日に生まれ、2018年7月2日に亡くなった。享年81歳。2016年5月まで日本テレビの落語番組「笑点」の司会者をしていたから、多分全国民が名前と顔を知っていた。司会者になったのは2006年のことだが、なんだかもうずーっと笑点の司会者だったような気がしてくる。

 桂歌丸は、例年8月の国立演芸場中席でトリを取っていた。そこで三遊亭圓朝の長大な演目を復活させていた。結局それが落語家としての集大成的なものとなった。僕も何度か聞いているけど、面白いと言えば面白いんだけど、よく判らないと言えば判らない。圓朝そのものに脈絡がないところがあって、それを歌丸がある程度整理し、さらに演じる前に最低限の解説をしていた。そうしないと判らないし、時間の制約もあって整理が必要なのである。「真景累ヶ淵」は楽しめたが、「塩原多助一代記」は現代では少々無理かなという感じでついウトウトしてしまった。

 僕が一番記憶に残っているのは、新宿末廣亭で演じていた時にお客さんが具合が悪くなった時のことだ。落語を中断し、お客に声をかけ、裏方を呼んで外へ連れて行ってもらった。「どこまでやったっけ」などと言いつつ、「上からお客さんの健康に気を配るのも落語家の仕事なんです」などと言って、笑いと拍手を受けていた。そういう様子を見ると、落語家としてはメリハリに乏しいところがあったと思うけど、なんだかほのぼのとしてくるのである。

 でも「笑点」ばかりが落語の話題になるような、大喜利が落語だと若い人が思い込むような状況を作ったのはどうなんだろと思う。まあ「寅さん」みたいな「偉大なるマンネリ」も世の中には必要だ。でも自分が会長を務める芸協の将来を託すべき春風亭昇太を「笑点」メンバーにして、次の司会者にしたのはどうなんだろう。なんだか落語界全体にとってもったいなかったような気もするし、いや昇太の知名度を全国区にしたのは芸協にとってベストだったような気もする。でもテレビで見る昇太は、それまで見てきた面白さの半分もないと思う。

 若い時の写真を見ると、こんなだったなあと懐かしくなる。ほぼずっと笑点メンバーだったから、先代三遊亭円楽と並んで番組のイメージを作った。少し前に映画「博多っ子純情」を見直したら歌丸さんが出てるんでビックリした。そうだったか。師匠(二度目だけど)の桂米丸がまだ時々高座に出ているというのに先に歌丸が亡くなるとは。

 浅利慶太は「演出家」で「劇団四季創設者」と報じられた。1933年3月16日~2018年7月13日、85歳。劇団四季と言えば、僕が名前を知った時にはアヌイやジロドゥなどのフランス演劇をやっている芸術的な劇団だった。あれミュージカルもやるんだと思ったのは、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」をロックミュージカルとしてやったころで、調べてみると1973年で演目名が少し違った。今じゃ、落語と言えば笑点だと思ってる人と同じぐらい、観劇体験は修学旅行で見た四季のミュージカルだけという人がいるだろう。

 新劇が芸術性か社会性かはともかく、芝居で食えないのは当たり前だった。昔は映画、その後はテレビで売れない限り、アルバイトで食いつなぐしかなかった。そんなところに「株式会社」としての劇団を成立させ、全国各地に専用の劇場を持ち、何年もロングランするという演劇モデルを成功させた。これが功績でなくて何だという感じもするけど、僕は正直言ってあまり関心がなかった。売れてるものも大事だが、本当にすごいことをやってる演劇や映画がそんなにヒットするのか。

 「李香蘭」は満州映画協会の大人気女優、戦後は日米で活躍し参議院議員になった山口淑子の数奇なる人生をミュージカル化したものである。「戦争を語り継ぐ」ことを掲げ、中国でも公演も行った。ということで、歴史教員である僕もこれは見に行った。確かにこういうものも大事だとは思うけど、正直言って期待外れだったなと思う。知ってる話、誰でも受け入れ可能なストーリイなんじゃないか。そんな感じを受けたのである。いや、知らないと言われれば、そういう人もいるわけだから、それでいいと思う。でもオリジナルのミュージカルも作ったのに、誰もが知るような有名な歌は生まれなかった。

 つまり「演出家」であり「経営者」として成功したけど、それが僕の見たい演劇ではないと思ってきた。浅利慶太は中曽根=レーガン会談を「演出」したり、長野冬季五輪の開会式を「演出」した。つまり、演出家というのはそのような「国家的儀式」に関わるものという意味を包含していたのである。「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣は、21世紀の小泉内閣、安倍内閣の「先駆者」である。今の日本の悪いところは中曽根時代にさかのぼることが多い。そんな総理と「お友だち」だった演劇人を僕がほとんど見てないのは当然というべきか。
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オカルトと神秘体験-オウム事件考④

2018年08月07日 23時21分57秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教を生み出した時代とはどんなものだったか。それを「オカルト」と「神秘体験」という視点から考えてみたい。オウム真理教に入信した人には、オウム真理教の「神秘体験」を語る人が多かったと思う。70年代後半から80年代にかけては、世の中にオカルトブームが起こったり、「精神世界」への関心が強かった。今振り返って、そのことをどう考えればいいのだろうか。

 60年代末から70年代初めは、世界的に「政治の季節」だった。日本でも若い世代が「革命」をめざして街頭に出て行った。デモが過激化し機動隊と衝突するのは日常の風景だった。それがあっという間にしぼんでしまう。僕の印象では連合赤軍の「山岳ベース事件」(多くの同志を「総括」と称して殺害した)の衝撃が大きかった。また「革マル派」と「中核派」の「内ゲバ」(という名の殺し合い)が続いていたことも大きい。その時代の冷え冷えとした空気はよく覚えている。

 60年代の革命運動は観念的な「言語重視」で「身体性軽視」の傾向が強かった。だから運動がどんどん過激化すると、多くのメンバーがついていけなくなる。革命の季節が去ってみると、自分たちが社会の現実を何も判ってなかったと気づく。「頭」で理解しようとしていただけだったと感じる。だから70年代中ごろから、「身体性」や「精神性」に関心が高まるのは当然だった。柳田国男の民俗学に関心を持ったり、有機農業を始めたり、「第三世界」に関心を寄せたり、ヨガや太極拳を極めたり…。僕の身近なところでもあった80年代の心象風景だ。

 そんな中に「オカルトブーム」や「新宗教」も地続きに存在していたと思う。「オカルトブーム」は近代史の中で時々起きたが、この時は「ユリ・ゲラー」なる「超能力者」がテレビで人気になったり、「ノストラダムスの大予言」を本気で信じて1999年で世界は滅びると思い込んだりした。今になってみると、テレビ番組で「超能力でスプーンを曲げる」実演をやったりしたのは信じられない。今なら放送倫理上問題ではないのかと言われるだろう。今じゃ、多くのスプーン曲げ少年も「トリック」だったとされるている。でもその頃はマトモに信じた子どもたちが翌日の教室で話題にしたりした。

 今思えば、「超能力があるか、ないか」を議論しても意味がなかった。スプーンを念力で曲げても、世界は変わらない。だから「念力」があったとしても、スプーンを曲げる程度にしか働かない弱い力だと言えばよかった。本当に超能力があるならば、暴走する自動車を停めるぐらいできないと。麻原彰晃の名前を初めて聞いたのは、多分80年代後半に「空中浮遊」ができるという話だったと思う。奇跡だと思った人もいたらしいが、人間が空中に浮くわけがない。だから、この写真もトリックでなければ、座禅でいう「結跏趺坐」、ヨガでいう「アーサナ」(蓮華坐)の修行をしていて、身体が揺れ動く運動が起こったのだろう。つまり野口整体でいう「活元運動」だと当時思った。
 (画像検索で出てきた空中浮遊)
 僕も若いころは「身体の解放」に関心があった。野口体操(野口整体ではない)には夫婦で2年ぐらい行った。皆で太極拳をやったり、演出家の竹内敏晴さんのレッスンもした。田中泯の主宰していた身体気象研究所に行ったことも確かあった。だから「活元」という身体の自動運動という概念を知っていた。(僕は観念や言語の支配力が強いからか、あまり活元が出ないけど。)

 70年代以後のもう一つのブームは「新宗教」だった。オウム以前に一番問題化していたのは、「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)だ。霊感商法が問題化していたが、1992年には信者どうしの「合同結婚式」に桜田淳子が参加して話題となった。(桜田淳子は、森昌子、山口百恵とともに70年代に「中三トリオ」と言われ人気を集めた。)「カルト宗教」「マインド・コントロール」「脱洗脳」などの言葉は、オウム事件以前に統一協会に関して使われていた。統一協会の教祖は韓国人の文鮮明で、勝共連合という反共組織と同根で、自民党右派の政治家と深いつながりがあった。

 あるいは仏教の法華系新宗教「霊友会」はその名も「いんなあとりっぷ」と題する雑誌を大量に発行し、有名人が多く寄稿して若い世代にも読まれていた。石原慎太郎と深いつながりがあった。キリスト教系の「エホバの証人」も輸血拒否などで問題化していたし、ヒンドゥー教系の「ハレ・クリシュナ」は独特の原色の衣装でパンフを配布していた。だから、オウム真理教だけが特に怪しい存在ではなかった。いかがわしい、うさん臭い宗教は山のようにあったし、今もある。

 だが特に「高度成長からバブル経済とその破綻」の時代には「神秘体験」や「奇跡」のようなものを求める心があったのではないか。それらの宗教の多くは「陰謀論」や「反共意識」を強く持っていた。オウム真理教や統一協会もそうだが、当時の「生長の家」メンバーは、今の日本会議の主要メンバーだ。オウムとほぼ同時に出発した「幸福の科学」(1986年結成)が作った「幸福実現党」も極右的な主張を掲げている。

 オウム事件後に「身体性の解放」をめざす試みが消えてしまった時に、「陰謀論」にまみれた精神の荒野が出現した。その理由はオウム真理教の「違法」な面だけが摘発され、「陰謀論的世界観」の方は残ったからだろう。今は「身体性」という課題自体が見えなくなった。皆が一人ひとり孤立化してしまう。あるいは高いお金をかけて習うものとしてのヨガになった。どうすればいいのかは判らないけど、もう少しこの問題を続ける。
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オウム真理教が選挙に出たころ-オウム事件考③

2018年08月06日 22時48分44秒 | 社会(世の中の出来事)
 オウム真理教に関するさまざまの問題を頑張って書いてしまおうと思う。いや、また中断するかもしれない。猛暑で脳内も溶けかかっている気がするし。でも、当時のことを知らない人が多くなってきて、改めて書いておく意味があると思ったのである。

 オウム真理教は1989年に坂本弁護士一家殺害事件を起こしていたが、そのことは1995年までは「噂」でしかなかった。1990年にオウム真理教の面々は「真理党」を結成して衆議院選挙に立候補した。今思えば「殺人集団」が選挙に出ていたわけだ。この時の政局は、前年の1989年7月の参院選で土井たか子委員長の社会党が躍進し与野党が逆転した。1990年2月18日の衆院選では自民党が過半数を取れるかが焦点だった。(前回1986年衆参同日選の300議席超からは減ったけど、自民党が275議席を獲得して政権を維持した。海部俊樹内閣。)

 そんな政治情勢の中で、「真理党」は惨敗する。当然だろう。何の政治基盤もなく、突然選挙に出て勝てるわけがない。確かに創価学会を支持基盤にした公明党もあったわけだが、教団の勢力が全然違う。それに公明党はまずは地方選挙から出発し、国政には参議院から進出した。もともと創価学会は在家信者の集まりだから、地方選挙に出る意味がある。一方、「出家」信者ばかりのオウム真理教は地域に基盤がなかった。そこで「ショーコー、ショーコー」などと歌い踊る奇妙な選挙運動を展開した。検索したら写真が出てきたので以下に。

 この選挙活動を見たと思う。テレビで見ただけかなとも思ったけど、1990年にはテレビを持たない暮らしをしていた。だから、きっとどこかで遭遇したこともあったのだろう。当時自分の選挙区では誰か出ていたのかと思って調べてみた。当時はよく「中選挙区」と言われる時代だったが、長年住んでいた東京10区では新実智光が出ていて、たった205票だった。いくら複数当選できる制度だったとしても、同時に岐部哲也も出て139票だった。と調べたところで、その時は千葉だったと思いだした。住んでいた市川市は千葉4区で、何とこっちには遠藤誠一が出て、508票だった。

 教祖の麻原彰晃はどこに出ていたのかと言えば、旧東京4区である。自治体で言えば、渋谷区、中野区、杉並区。ここでは東京ということで候補も乱立し、ビリではなかった。1783票取った。一応の知名度はあり、どこにでも面白がって入れる人がいるということだろう。トップは自民党の粕谷茂で78,114票。続いてこのとき無所属で立候補した石原伸晃が73,939票。さらに自民の高橋一郎、社会党推薦の無所属・外口玉子、社会党の沖田正人、ここまでが当選。

 次点は共産党の松本善明で61,311票。その次が公明党の大久保直彦で、58,863票。二人とも全国的な知名度がある政治家だったが、自社の争いに沈んだ。松本は次回の選挙でカムバックし、大久保はその前に92年の参院選で当選した。続いて、社会民主連合の岩附茂、29,333票。進歩党の田中良、11,508票。現在の杉並区長である。スポーツ平和党の細木久慶、4,830票。日高達夫、藤原和秀、そして麻原彰晃。まだ下に4人いる。昔はずいぶん出ていたものだ。

 しかし、それは麻原だけのことで、東京5区で出た上祐史浩は310票。東京8区で出た村井秀夫はたった72票。神奈川3区で出た中川智正は1,445票を取っているが、ダントツでビリだった。全部を調べたわけじゃないけど、首都圏を中心に立候補したんだろう。そしてそのほとんど、麻原以外はもう圧倒的に引き離されて最下位である。せめて麻原ぐらいはもう少し取るかと思っていたんだろうが、選挙はそう甘いものじゃない。というか、立候補してるということは知られていたが、選挙運動を見て異様に思った人が多いんだと思う

 選挙に行く人はそれなりの支持政党、あるいは支持をお願いされた候補者を持っているわけだから、訳の分からない選挙運動をしても票は入らない。しかし、それに止まらず、「このグループはおかしい」と直感したのである。それが多くの人の実感だったと思う。だから、1995年にオウム真理教事件の大捜査が始まった時に、これは冤罪ではないかなどと誰も思わなかった。僕も思わなかった。何でもかんでも、オウムと関係あれば誰でも逮捕しちゃう「微罪逮捕」は行き過ぎだと思った。でも、やはり坂本弁護士も松本サリンもオウムだったかと思った。それは選挙で見たうさん臭さを多くの人が覚えていたということだと思う。
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やっぱり凄かった!竹本健治「涙香迷宮」

2018年08月05日 22時09分16秒 | 〃 (ミステリー)
 あんまり暑くて外出する気もなくなる。前日に続いて重い記事を書く元気を失せてしまったので、最近読んだまま書いてなかった竹本健治「涙香迷宮」のことを書いておきたい。この小説は2016年の「このミス」1位で、ミステリー界で大評判になった本である。なかなか厚くて買ってなかったんだけど、早くも講談社文庫に入ったので買ってしまった。「空前絶後の謎解き!」と帯にあるが、まったくその通りの大胆不敵な暗号ミステリーである。殺人事件の犯人当てなどを超越した「日本語」そのものと戯れ遊ぶ小説で、ミステリーファン以外の読者を待ち望んでる本だ。

 竹本健治(1954~)は実は初めて読んだ。「匣の中の失楽」や「ウロボロスの偽書」などは持っているが、ポストモダンとか奇想とか難しそうで本も分厚いからつい後回しになった。「囲碁殺人事件」「将棋殺人事件」「トランプ殺人事件」の「ゲーム三部作」でも有名だが、ゲームに関心がないので読んでない。それらの小説では、18歳で本因坊となった天才囲碁棋士・牧場智久が探偵役を務めているという。この「涙香迷宮」も同様で、今回はある意味で「連珠殺人事件」である。

 題名の「涙香」(るいこう)は、近代史に有名な黒岩涙香(1862~1920)のこと。「るいこう」で一発変換できないので困るが、今の知名度的にはそんなものか。明治の大新聞、「萬朝報」(よろずちょうほう)の創刊者である。幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三らが論説委員として日露非戦論を展開した。しかし高まる開戦論の中で、萬朝報も非戦論から開戦論に転向し、幸徳らは退社した。

 その話は日露戦争に関してよく出てくるが、黒岩涙香の本領はむしろ「萬朝報」の販促として大衆文化振興を図ったことにある。最近話題の「競技かるた」のルールを統一したり、囲碁将棋欄を作ったのもこの人。スキャンダルをどんどん報道したり、外国の翻案小説をいっぱい載せたのも涙香の手腕である。「モンテクリスト伯」を「巌窟王」、「レ・ミゼラブル」を「ああ無情」と訳したのは涙香だった。ミステリーの翻案も多く、日本の探偵小説の祖とされている。

 涙香の話で長くなっているが、黒岩涙香の実人生の方が面白いぐらいなのである。この小説に直接関係する「いろは歌」や「連珠」を盛んにしたのも涙香の仕事。連珠(れんじゅ)というのは、あの「五目並べ」のことである。ルールを統一し、連珠という偉そうな名前を付けて、囲碁将棋に匹敵する競技に育てるつもりだった。「いろは歌」というのは、「いろはにほへと」である。日本語の文字にある音を一回ずつ組み合わせて意味のある詩にまとめる。「ゐ」と「ゑ」を入れ、昔はなかった「ん」を加えると、48字になる。これは12×4だから、7音+5音の詩句を4つ並べると48になる。そういう風に整理したのが涙香だという。

 ある旅館で碁石が散らばっている中で殺されていた死体が発見される。その事件と別に、黒岩涙香の知られざる別荘跡が茨城県の北部、龍神大吊橋があるあたりで発見された。この別荘を調査しようと、牧場智久を含む数人が難路を出かけてゆく。そこで起きる謎の事件、そして近づく台風の中で孤立し、と一応お約束の展開が待っているが…。でも、この小説に限って言えば、そういう伝統的謎解きよりも涙香別荘で見つかった48首のいろは歌、そこに秘められた暗号のすごさが読みどころ。もちろん作中では涙香が作ったとされるが、実際は作者本人が作っているわけである。

 48文字を一つずつ最初の言葉にして作られたいろは歌。「ん」で始まる歌なんかどう作るのだろう。そして、その中で見つかった暗号いろは歌。それは解けるのか。どうしてもパズル的になってしまう、この手の暗号ものを超えて、日本語の言語としての豊かな可能性に目が見ひらかされる。英語でもアルファベットすべてを使った言葉遊びもあるというが、作りづらい。子音だけの文字はなく、子音と母音が結びついて文字になっているから、これほどの「いろは歌」が作れる。こういうこともできるのかという小説そのものとは別の感動があった。
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真犯人隠ぺい? 今市事件のトンデモ判決

2018年08月04日 23時31分54秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 東京高裁で8月3日に「栃木女児殺害事件」(「今市事件」)の控訴審判決があった。「原判決を破棄。被告人を無期懲役に処する。」という、不可思議極まる判決だった。控訴審が自白に寄りかかり過ぎた一審判決を破棄するのは当然だが、その後で自判して有罪にしていいのか。控訴審判決はあまりにもおかしいと考えるので、ここでまとまって書いておきたい。

 控訴審では、殺人事件で一番重大な殺害時間と殺害場所に関して重大な訴因変更があった。殺害時間が「被害者が行方不明になってから、遺体が発見されるまでのいつか」、殺害場所が「栃木県か茨城県またはその周辺」って、冗談としか思えない。これじゃ、そもそも起訴できたかどうかも怪しい。「自白」に基づいた検察の立証活動は破たんした。それならば「証拠不十分」で、「疑わしきは被告人の利益に」ではないのか。刑事裁判としておかしいのではないか。

 一審段階では長時間の取り調べ中の録画をもとに「自白に信用性がある」と認定した。自白だけで有罪にするのは憲法違反であると僕はその時に批判した。今回「自白画像で有罪認定はできない」と判断したのは、当然正しい。しかし、この一審判決に対して弁護側は反証を続けてきたわけで、その結果検察側は訴因変更に追い込まれた。ところが、裁判所が訴因変更を受け入れ、状況証拠でも有罪認定できるというんだったら、一体被告・弁護側はどういう反証を行えばいいのか。試合開始後のルール変更じゃないのか。

 「被告人が母親に送った手紙」を有罪認定に使った判断も危険である。手紙で捜査側も知らなかった「秘密の暴露」があるなら別だが、「今回、自分で引き起こした事件、本当にごめんなさい。まちがった選択をしてしまった」という内容は、どうにでも解釈できるものだ。今までにも友人や家族、同房者への手紙などが有罪証拠に使われたことが何度もある。証拠がないときに、こういうことを言うのである。1970年の「大森勧銀事件」では、知人に対して事件を起こしたのは自分だと吹聴していた人が逮捕・起訴された。(一審無期懲役、2審で無罪、最高裁で無罪確定。)

 そもそも「母親への手紙」も「一種の自白」であり、それだけでは有罪証拠にしてはいけない。自由な環境で書いたものではなく、獄中で書かされたものだ。お前が人殺しになって親が泣いてるぞ、一言お詫びの手紙を書けなどと言われるわけだ。獄中で精神的にも支配されているから、家族相手でも自由には書けない。今度の手紙も直接的には犯行には何も触れず、「まちがった選択」は「自白を強要された」とも取れる。むしろ「無罪心証」と評価出来るものではないか。

 弁護側はビニールテープに被告以外のDNA型が検出され、真犯人のものだと反証した。この鑑定に対し、裁判官は「捜査官に由来する可能性」として証拠価値を認めなかった。確かに裁判所の判断も一般論としてはあり得ることだが、この事件では違うと思う。実は捜査段階で、まさに捜査官のDNA型が検出されていた。それを犯人のものだと追いかけていたら、実はミウチのものだった。捜査中の不手際で付いてしまったのである。

 だからテープのDNAも捜査官のものと思うかもしれない。しかしその当時、証拠物に触った可能性のある捜査官のDNA型の鑑定を行ったはずだ。そうじゃないと、実際に捜査官のものだったと判らない。だから未提出の捜査官鑑定書を確認すれば、テープのDNAも捜査官のものと検察側は証明できる。それを行っていない以上、この事件に関してはテープに付いたDNAは確かに真犯人の可能性が高いと思う。テープは普通個別に包装されているから、お店の人のものということもないだろう。(なお、問題の捜査官はアリバイがあったから犯人ではない。)

 この事件に関しては多くの未提出証拠が存在する。「捜査官のDNA鑑定結果」もそうだし、「取り調べテープの全容」もある。さらに「Nシステムの設置場所」が大問題。被告人が疑われたのは、遺体遺棄時間に宇都宮から深夜に出て早朝に帰る車が確認されたからだ。ここで疑問なのは、「深夜に出ていく車」は被害者(生死は不明だが)を乗せているわけだから、絶対に警察の目に触れてはいけないのに、なぜNシステムがる大きな通りを通ったのかである。

 もちろん、そんなシステムの存在は意識しなかっただけかもしれない。しかし、それならなぜ前日の「犯行へ向かう道」がNシステムで検知されなかったのか。被害少女は「自白」ではその日に見かけたことになっている。その日の車は犯罪を犯すと知らずに出かけたのである。その日こそNシステムで捕捉できないとおかしい。だが当時のNシステムの設置場所と捜査状況は公表されていない。だから、何故犯行日のドライブが証明できないのかも判らない。

 僕も「誘拐」「死体遺棄」双方の行き帰り4回全部で被告の車が確認できたのなら、それはかなり強力な「状況証拠」になると思う。でも一番大事な犯行日の方が行きも帰りも出てこないのは不自然である。以下は想像で書くことだが、多分栃木県には他県に先がけて多くのNシステムが整備されていたと思う。「那須御用邸」があるから、警察庁も優先して整備したはずだ。そして日光も関東最大の国際的観光地であり、「旧田母沢御用邸記念公園」がある。警備の対象にはなってるはずで、日光付近には多くのNシステムがあったに決まってる。証拠を開示するべきだ。

 今市事件が起きた2005年12月1日の直前に、別の誘拐殺人事件が起こっていた。11月22日に広島市安芸区で小学校一年の女児が殺害された事件である。犯人はペルー人だった。当時から僕が思ったのは「今市事件は広島事件に刺激されたものではないか」ということだ。そしてさらに言えば、「またあの犯人なのではないか」ということである。その時点では足利事件の菅家正和さんの無実は晴らされてはいなかった。しかし、栃木・群馬県で未解決の誘拐事件が多発していることは一部で知られていた。今は清水潔「殺人犯はここにいる」で知られる。足利・太田あたりから近いとまでは言えないが、車なら1時間もかからない。

 なんだか今回の判決のあまりにも不自然な事実認定を見ると、単なる誤判というレベルを超えて、事件の真相をあえて隠すべき国家的理由があるのではないかとまで勘ぐってしまうのだ。思えば6月11日、袴田事件における東京高裁の再審破棄決定も理由付けが不自然でおかしかった。だけど、今になって考えてみると、死刑再審が6月に認められていたらどうだったろう。オウム真理教事件の再審請求中の死刑囚は執行が難しかったのではないか。東京高裁はそのような「国家的要請」に応えたのではないだろうか。東京高裁の「忖度」判決があるのではないか。
*2020年3月4日付で、最高裁は上告を棄却した。理由は「上告理由に当たらない」というもので、疑問に答えるものではなかった。
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見るだけで楽しい「日本百銘菓」

2018年08月03日 23時09分41秒 | 〃 (さまざまな本)
 NHK出版新書から出たばかりの中尾隆之「日本百銘菓」という本の紹介である。こういう本まで書いてると、他のことが書けない。オウム問題もまだ途中なんだけど、でも夜も映画を見てきて時間がない。そういう時のために是非書きたいと思っていた。題名通り、日本全国からこれぞというお菓子を選んだという本。「これらの銘菓を食べずして、日本という国は語れない-。」

 僕はこの手の本が大好きで、元祖の深田久弥「日本百名山」(ちょうど半分の50まで登ったところで止まってしまった)から始まり、温泉とか城とかいろいろと読んでる。自分じゃ知らないものがずいぶん入っていて楽しい。この本はお菓子だけあって、写真を見ているだけで楽しくなる。著者の中尾氏は1942年生まれの旅行作家で、町並み、鉄道、温泉などの紀行も手掛けてきたが、中でも全国の銘菓5000種以上を訪ね歩いてきた。その中から100銘菓を厳選したのである。 

 僕もお菓子は大好きだ。というか「辛党」でもあり、ホントの辛い物好き(昔はブラックペパーを持参していた)だし、お酒も好きだ。でも周りに酒好きがいないから、酒を買う楽しみがない。お菓子なら一緒に楽しめるからお菓子の方がよく買うわけである。日本のあちこちを旅行すると、各地においしい酒がある。それは泊った宿で飲んで、お土産はお菓子やジャムや海産物などになる。それがまた伝統の銘菓だったり、楽しい新工夫だったり…。城下町、宿場町、門前町、温泉、どこでも海山川の名産を使った銘菓がある。それが日本の豊かさだと思うが、読めばわかるが一度は途切れたお店もある。お菓子を残していくのも大変なのである。

 お土産品を重視した選定になっているから、誰もがいくつかは食べているはず。高そうな和菓子ばかりだと、ちょっと敬遠したくなる。でもこの本には、「白い恋人」も「萩の月」も「もみじまんじゅう」も「赤福」も…入ってる。「うなぎパイ」や「鳩サブレ―」や「東京ばな奈」まである。ちなみに東京人は「東京ばな奈」をほとんど食べたことがない。有名だから選んだわけじゃないことは本文を読めば判る。虎屋から羊羹じゃなくて、酒饅頭を選んでいるあたりに新味がある。

 僕の大好きなものとしては、うさぎやの「どら焼き」、帯広の六花亭「マルセイバターサンド」、松山の「一六タルト」、四万温泉の花豆の濡れ甘納豆が選ばれているので、納得感がある。最後にあえて言えば、お土産という観点を重視したことで、その場で食べる菓子、あるいは持ち運びできない生菓子が非常に少ない。わざわざ食べに行く価値のある絶品のケーキ、なんてものもあるわけだから、是非選んで欲しかった。和菓子でも「あんみつ」がないが、お土産向きじゃないからか。
 上野・うさぎやのどら焼き
 ホテルのお菓子というのも選んでいいと思う。箱根富士屋ホテルのアップルパイ赤倉観光ホテルのフルーツケーキ(これが僕のベスト)なんかは日本を代表するスイーツだと思う。フランス語だから外国から来たかと思うと、実は日本人考案の「モンブラン」なども日本を代表するお菓子じゃないか。持ち運びに不便なのは確かだが。栗という意味では長野県の小布施の栗菓子もぜひ入れて欲しかった。中津川の栗きんとんは美味しいけど、入手が難しいから。そして一度食べたいと思うのがいくつもあるが、函館の「はこだて大三坂」、松江の「カステラ羊羹」。
  (前=大三坂、後=カステラ羊羹)
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映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

2018年08月02日 21時02分52秒 | 映画 (新作日本映画)
 「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」という映画は公開が少ないので見てない人が多いと思うけど、最近出色の青春映画だ。もともとは漫画家の押見修造がウェブマガジンに発表したマンガ作品だという。僕はそれは知らなかったけど、「吃音症」という映画ではほとんど描かれなかった障害を真っ向から描いている。「百円の恋」の足立紳による脚本を、撮影監督やミュージックビデオに携わってきた湯浅弘章監督が初めての長編商業映画として製作した。

 海辺にある高校の教室、入学式も終わってクラスメートの自己紹介が始まっている。大島志乃は朝から自己紹介の言葉を練習していたけれど、やはり自分の番になると言葉がうまく出て来ない。(入学式直後なのに出席番号順に座ってないのはおかしいし、中学時代から続いているらしいのに担任が事前に知らないようなのもおかしい。学校映画につきもののおかしさがやはりある。)授業でも答えられないし、休み時間も会話できないから、当然友だちもできない。

 そんな志乃が同じように一人でいる岡崎加代と話すようになる。加代の家にも付いていくが、加代はギターを持っていた。歌を作ったり、詩を書いているらしい。ぜひ聞かせてということになるが、ギターはいいけど歌が音痴だった。中学時代もそれでいじめられていたようだ。そんな加代は、自分がギターを弾くから志乃が歌ってという。志乃は歌なら大丈夫なのか? 初めは心配だったけど、案外歌ならちゃんと言葉が出てくるのだった。加代は「しのかよ」と名前を付けて文化祭に出ようという。夏は「路上ライブ」をしてみようという。

 そこに鈴木という浮きまくっている男子生徒も絡んできて、青春のドラマはどうなるのか。果たして文化祭には出られるの? そこらへんの展開は多少類型的だけど、ラストの文化祭シーンは感動的だ。何とか一歩を踏み出したい志乃なんだけど、一体どうなるんだろうか? 僕もいろんな生徒を見てきたけど、このような「吃音」は体験しなかった。調べてみても、原因も治療法もよく判らないようだ。そもそも「病気」なのか「障害」なのかもはっきりしない。でも志乃は家では話せているし、歌も歌えてるから、教室という空間に関わる問題である。

 最近の話かと思っていたら、誰もスマホを持ってなくて、街頭の電話を使ってる。挿入歌で見る限り、20世紀末頃の設定か。二人が歌う曲は「あの素晴しい愛をもう一度」(1971、加藤和彦・北山修)、「翼をください」(1971、赤い鳥)、「世界の終わり」(1996、thee michelle gun elephant)、「青空」(1989、THE BLUE HEARTS)の4つ。「翼をください」なんか、最初が「赤い鳥」なんて言われても今じゃ判らないかもしれない。最初の2曲は、僕には「思い出のヒット曲」だけど、作中の二人には「合唱コンクールで歌う歌」という感じだと思う。何にせよ気持ちよさそうに歌ってる。

 大島志乃役は南沙良で、誰だと思ったら三島由紀子監督「幼なわれらに生まれ」で、上の連れ子をやってた。どうも嫌な役で忘れていたけど、2002年生まれというまさに高校一年生の年齢で、難役に挑んでいる。岡崎加代役は蒔田彩珠で、読み方は「まきた・あじゅ」で「三度目の殺人」で福山雅治の娘役だったというけど覚えてない。2002年生まれ。男子の鈴木は萩原利久(りく)で、そう言えば「あゝ、荒野」他最近の映画で時々見ている。ホントの若手だけを使って、学校をうまく描いた。吃音の映画でもあるが、歌う喜びの映画でもある。東京では新宿武蔵野館のみで上映中。
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瀬々敬久監督の映画「菊とギロチン」

2018年08月01日 22時50分28秒 | 映画 (新作日本映画)
 瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ、1960~)監督の大作「菊とギロチン」が上映されている。今年度屈指の問題作に間違いなく、早く見たかったけど、なにせ186分もあって時間が合わなかった。大正時代末期に実在したアナキスト系テロリスト集団ギロチン社」の面々が、当時実在した「女相撲」の一団と巡り合っていたら…。社会の底辺で生きる人々を奔放に描き出す渾身の作品。

 この発想は素晴らしいと思う。大正期のアナキスト群像のハチャメチャぶりはすごいし、「女相撲」というのは意表を突く。土俵の上を実力だけで生きる女たち。全くの空想ではなく、実際に1960年ぐらいまでは存在していたらしい。両者を結び付けるシナリオは面白いけど、実際の映像はどうだろうか。女性たちは生き生きとしているが、資金に困れば「リャク」(略奪)に走る中濱鐵東出昌大)、古田大次郎寛一郎)ら実在した人物たちはどうも今ひとつか。

 カメラは登場人物たちの焦燥を象徴するように激しく動き回る。同時代を生きる気分を盛り上げるが、少し動き過ぎか。結局はどっちも成功しなかった人々であり、見ていて辛い。物語としては、十勝川韓英恵)という朝鮮人、花菊木竜麻生=きりゅう・まい)という貧しい農村出身の二人が中心になる。十勝川は関東大震災時の朝鮮人虐殺をからくも逃れてきた。しかし在郷軍人の「自警団」に捕まり暴行を受けるが、ギロチン社の面々が助太刀して助け出す。

 花菊は夫の暴力を逃れてきたが、夫に連れ戻される。花菊に思いを寄せる古田が助けに行くが、体力でかなわない。そんなときに持っていた爆弾を使ってしまう。映画はこれらの出会いを、もうそうであるしかないような「底辺の連帯」として描く。今時にないような熱い志に貫かれた映画だ。ボロボロになりながらも、やっぱり相撲で生きていきたい花菊の心意気。木竜麻生という女優は要注目。「菊とギロチン」という「不敬なる題名」は、一応は「花菊とギロチン社」ということなのか。

 瀬々監督はかつて「ピンク映画の四天王」と言われた人である。その後一般映画に進出し、最近は「8年越しの花嫁」「友罪」など巧みな演出で人気映画をこなしている。代表作と言える「ヘヴンズ ストーリー」や「64」前後編など長大な映画を得意としている。今まではどっちかと言えば構成的にしっかりとした作品を作ってきたと思うが、「菊とギロチン」は流れゆくような一大叙事詩という感じ。長すぎると思うけど、こういう世界があるというのは見て欲しい。

 なお大杉栄一家虐殺事件を起こした当時の司令官、福田雅太郎は「戒厳令司令官」と言われているが、正式には「戒厳司令官」。映画にも出てくる和田久太郎に大杉の復讐で狙撃されたが未遂に終わった。(和田に関しては、、松下竜一「九さん伝」がある。)また自警団一味が十勝川に対して「天皇陛下の嫡子」と言ったように聞こえたけど、「赤子」の間違いだろう。嫡子だったら皇太子になっちゃう。この自警団の設定も史実というよりも、現代的関心から来るものに思えた。
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