尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

テレサ・テン「甜蜜蜜」-レアCDの話①

2018年08月20日 23時15分36秒 | アート
 猛暑は関東ではちょっと落ち着いたけれど、今年は6月に梅雨明けしてしまってからずっと暑かった。大分疲れた気がするので、いつもとちょっと違う記事を書いてみたい。数回続けて、僕の持ってる「レアCD」(というほどでもないか)のことを書きたいと思う。 

 と言っても、僕は今はあまり音楽を聴かない。よく電車でイヤホンして聴いてる人がいるけど、僕はそれができない。ウォークマンiPodも縁がなかった。音楽が嫌いなんじゃなくて、あるいは外界に注意していたいからでもなくて、要するに「身につける」ものがダメなのである。飛行機の無料イヤホンだって、少し聴いてると耳がこそばゆくなってしまう。そんな感じだから、僕に音楽を語るほどの知識も体験もないんだけど、それでも長い間にはいろんなCDを持ってるわけである。

 最初はテレサ・テンの「甜蜜蜜」(テンミミ)。テレサ・テンはもちろん名前は知ってたけど、このCDを買ったのはピーター・チャン監督の傑作メロドラマ「ラヴソング」(1996)を見たからだ。この映画の原題が「甜蜜蜜」で、映画のテーマソングになっている。他にもテレサ・テンの曲がすごく効果的に使われていて、完全に魅せられてしまった。

 映画を見るとテレサ・テンが中華圏の人々に持っていた大きな存在感がよく判る。1953年に台湾で外省人の子として生まれ、小さなころから天才少女歌手と呼ばれ、東南アジア一帯で大人気となった。1974年に日本での歌手活動を始め、日本でもスターとなった。80年代には「改革開放」下の中国本土でも人気に火が付く。映画「ラヴソング」では本土から香港に来た男女(レオン・ライとマギー・チャン)が、テレサ・テンが好きだということで惹かれあう。

 1989年5月27日、天安門広場で民主化運動が続けられていたとき、テレサ・テンは香港で民主化支援コンサートに顔を見せ、「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌った。その後の「6・4」(天安門事件)の悲劇により、テレサ・テンが念願していた、両親が生まれた大陸本土でのコンサートは永遠にかなわぬ夢となってしまった。以後は体調を崩しほとんど活動をしないまま、1995年5月8日、タイのチェンマイで亡くなった。

 僕は「ラヴソング」が大好きなんだけど、書き始めると長くなるから止めておきたい。映画の中でテレサ・テンが出てくるが、映画製作時には亡くなっていたので、もちろん他の人が演じている。映画ではレオン・ライとマギー・チャンが何度も出会いと別れを繰り返す。テレサ・テンが亡くなったというテレビニュースを、二人がお互いに知らずに移住していたニューヨークの街頭で聞いていて運命的な再会をする。涙なくして見られないシーンだが、これを見ると「テレサ・テン」は単なる人気歌手というだけでなく、中華圏の人々の愛と苦難の象徴だったということが判る。

 その訃報シーンで流れるのが、「月亮代表我的心」(私の心は月が知っている)。情感あふれる素晴らしいラヴソングで、聴いているだけで昔のいろんなあれこれを思い出してしまう。僕にとって、そういう曲はタミー・ウィネット「スタンド・バイ・ユア・マン」(アメリカ映画「ファイブ・イージー・ピーセス」に使われた曲)とかジャニス・ジョプリンが歌う「ミー・アンド・ボギー・マギー」とか、いくつかあるけど、とりわけこの曲はアジア人の心に響くという感じ。スローなテンポが、あの頃ああすれば良かった、こうすれば良かったなどの思いを引き出してくるのだ。

 題名の「甜蜜蜜」は元はインドネシアの民謡だという。日本語題名「夢の中の幸せ」から判るように、夢の中で出会った幸福感を歌う。甜菜糖の「甜」と「蜜」二つだから、字面だけで大甘という感じの題名。映画でもうまく使われている。映画では他に「グッバイ・マイ・ラブ」と「長崎は今日も雨だった」も使われている。日本の歌も中国語で歌うと感じが違って、また素晴らしい。テレサ・テンのCDは他にも持ってるが、このCDが一番好き。今でもアマゾンでは昔のものを買えるようだ。有田芳生「私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実」(文春文庫)にも感動した。
 
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