尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「えひめ丸」事故20年ー「日本のセウォル号事故」が教えてくれたこと

2021年02月11日 23時03分51秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪組織委会長の森喜朗氏は報道によれば辞任するらしい。この問題を通して、まさに20年前を思い出した人も多いだろう。2001年2月10日に愛媛県立宇和島水産高の実習船「えひめ丸」が米海軍の潜水艦に衝突されて沈没した。この時に高校生4人、教員2人、船員3人の計9人が犠牲となった。当初は高校の船だと判らなかったとはいえ、11日に一報を受けてもゴルフを続けた森首相(当時)への批判が強まった。ずっと低支持率を続けていた森内閣にこの事件がついにとどめを刺したのである。忘れてはいけない「日本のセウォル号事故」だ。
(えひめ丸事故20年の追悼式典)
 えひめ丸事件は米海軍原子力潜水艦グリーンビルの不意の浮上にすべての原因がある。潜水艦には訪問客がいて艦長は民間人に操縦桿を握らせたりしていた。ところで、ここで紹介したいのは、直接的原因とはちょっと違う「えひめ丸のもうひとつの問題」である。「週刊金曜日」の2003年5.9、5.16号に掲載された北健一海の学校」(「第13回ルポルタージュ大賞」優秀賞)に書かれていたものである。当時僕は自分の「メール通信」で書いたんだけど、時間も経って読んでない人が多いだろうから、20年目の機会に改めて書くことにする。

 さて、衝突当時甲板上または船内上部にいたものは、海に投げ出され辛くも一命を取り留めたが、船内下部に残されたものはそのまま逃げられずに船と運命をともにした。その間わずか10分。たまたま衝突の時にどこにいたかが明暗を分けた。それだけだったら「運命の悲劇」だったというしかないが、高校生たちが船の下部にいたのは、船の構造による必然的なものだったのである。そして、そのような構造の船は安全面、教育面からの反対論を押し切って作られたものだった。他県の実習船の構造はえひめ丸とは違っていたのだ。えひめ丸事故は教育的発想を忘れた愛媛県当局の人災的側面があったのである。

 えひめ丸は、生徒用食堂やコンピュータ室など生徒用スペースが船の下部におかれていた全国の水産高校実習船のなかで最も大きい冷凍マグロ魚倉が、設計を制約していたのだ。生徒の部屋が避難しやすい上部にあれば、もしかしたら結果は違っていたかもしれない。実際、えひめ丸で行われていた避難訓練で、生徒たちが目標時間内に甲板に集合できたことはなかったという。えひめ丸は94年に4代目が作られたが、どんな船にするか、校内でも議論があった。

 すでに遠洋漁業全盛期はすぎ、卒業してマグロ漁船に乗る生徒もほとんどいない。生徒の変容もあり、漁獲高中心より、生徒の居住性を重視してはどうか。二層甲板にして、上部を居住スペースにする方がいい。隣県高知の土佐海援丸や東京の大島丸など、すでに全国の実習船は二層式が大勢をしめつつあった。校内では二層式の要望が強く、県教委の検討委員会の大勢もその方向だった。漁業の後継者育成のためにも、また他の中高生の体験学習に利用するためにも、居住性重視が望ましいという意見が強かった。

 だが、結局県が選んだのは旧来の一層式だった。宇和島水産高の校長も一層式を支持した。なぜなら、その方がマグロ漁に向いているからだ。愛媛県では、船員の半数が臨時雇いで、報酬が歩合制のため、漁獲高を減らす訳にはいかなかったのだ。すでにそういう雇用形態の高校は全国にない。愛媛県以外はすべて、実習船の船員が県の正職員になっていたのである。乗船実習で「船員はかせぐために頑張る。生徒はその姿をみて海の仕事を覚える」という昔ながらの考えもあったというが、そういう考えについてくる生徒は今やほとんどいない。「漁獲偏重から教育主体へ」を教員側は訴えたが、通らなかった。
(沈没した「えひめ丸」) 
 実際にできた四代目えひめ丸は、予想を超えた居住性の悪い船だったようだ。細かい故障や欠陥が多く、特にトイレの汚水の逆流に悩まされたらしい。船員は漁獲におわれ、教育の余裕はなかった。94年の新造船の要望挫折後、宇和島水産高校では「何をいっても変わらない」という空気が支配的になったという。そんな中、98年の愛媛県高等学校教育研究会水産部会で、水産科の牧澤弘教諭が発表した中には、「これが果たして実習か?と首を傾げざるを得ない」「生徒に技術を教えるという事が全くできていない」「多目的航海や沿岸航海といったことが非常に計画しづらい」などという実態が報告されている。

 そして、実習の短縮寄港地を2カ所にする沿岸航海実習の新設など、すでに他県で行われていることを提案している。驚くことにその中には、えひめ丸を宇和島港に常時係船するという項目がある。事故までは神奈川の三崎港が係留地だったのである。この発表をした牧澤弘教諭も犠牲者だった。今度はもう黙っているわけにはいかない。残された教員たちは、愛媛県高等学校教員組合宇和島水産分会を結成し、3月21日に知事宛の「緊急申入書」を提出した。多くの新聞、テレビもかけつけたが、全く報道されなかった。組合内部にも米軍との交渉のさなかにえひめ丸の欠陥を明らかにし、補償金が値切られたら、組合で払えるのかなどという人がいた。

 県教委は新船の検討会議をスタートさせたが、94年には公開だったのに、今回は非公開。「議事録もない」と教委はいった。ある保守系県議は「居住区を上にあげ操業を減らせば、生徒は甘える。」といった。さらに「水産高校は能力の低い生徒ばかりだから、今まで通りでいい。こんな財政難に何をいっているのか」と言い放った。7月20日に開かれた市民集会をきっかけに風向きが変わった。ある教師が「高校側では新実習船を499トンから660トンに大型化し、安全性と居住性を向上させることを要望している」と発言した。「しかし、県側は一歩も譲りません。私は言いました。だったら一回乗ってみいや。あんたら図面だけで言うけど、二ヶ月半の航海に乗って、いっぺん生活してみ。」その日の集会のようすはようやく地元紙やテレビで報道された。

 結局、問題は水産実習に関する特別会計制度の弊害ということだという。実習であがる収益を、実習にかかる経費に充てる。現場にとってはある種のノルマである。戦前の産業教育振興法の規定を根拠にして、職業高校の特別会計制度が作られた。工業高校などでは早く廃止され、他県では農業、水産などでも教育経費は一般財源から支出されるようになった。しかし、愛媛県などではまだ特別会計が残っていたのだ。事故の年の実習は高知県の土佐海援丸で行われた。特別会計制度のない高知の実習はのびのびしたものだった。マグロ延縄にかぎらず、イか釣りや沿岸航法を学ぶ等の実習もあった。船員も体験談を生徒に語った。「えひめ丸とちがって、楽しくいろいろ学べました。」と生徒は感想をのべた。

 市民集会の後、世論は高まった。特に犠牲となった実習生の母・寺田真澄が8月28日に出した知事宛の手紙が関係者の胸をうった。「立派な実習船とばかりに信頼していたえひめ丸が、生徒の命より漁獲を大事にするように作られていた船であったとは。私達がこの事実を知っていたら、この船に息子を乗せたでしょうか。」「万一の事を考えられて、安全で教育を重視した船が建造されますよう、大切な子を奪われた親から切にお願いもうしあげます。」

 しかし、愛媛県教委は頑なだった。校長名で出した要望書について、県議会でそんな物は来ていないと言い放ち、後で撤回した。県の方針が現場教員の運動で変わってはならないという意識が強かったのである。愛媛県では、教委は絶対だった。しかし、世論の広がる中、最終的には常識が勝利する。県は実習船を二層式とし、生徒スペースは上部にもうけることを決定した。半数が臨時雇いだった船員も、正職員にすることになり、採用試験が行われた。まだ特別会計制度は残っている(2003年現在)というが、499トンながら生徒居住区がすべて水面上に配置された二層甲板式の新えひめ丸の竣工式が、2002年12月10日に行われた。
(現在の5代目えひめ丸、2017年横浜港入港時)
 この問題はもっと大きく報道されるべきだった。水産科、あるいは海洋科の高校は、都道府県に一校だろうから、教育界でもその内容はよく知らない。なぜ愛媛県だけ最後まで、臨時職員が残ったのだろうか。それは愛媛県教委が「現場の声を聞かない体質」だったからだろう。愛媛県は50年代の勤評問題で、全国にさきがけて勤評を実施、以後教員組合の組織率はとても低い。白石知事「独裁」が続き、その後に加戸守行が文部官僚から当選して、当時2期目だった。愛媛県は東京と並んで、養護学校に「新しい歴史教科書をつくる会」教科書を採択した地域だった。

 あらゆる組織で、「現場無視」の体質が続くと、やがて大きな問題が起きるということではないか。批判精神のある労働組合の存在は決定的に重要である。「職場の連帯」なくして、世の中は変えられない。今後も忘れてはいけない大切なことを「えひめ丸」の犠牲者が教えてくれる。
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「これ」と「そういう」ー森喜朗氏に見る「代名詞」の使用法

2021年02月10日 23時15分28秒 | 気になる言葉
 東京五輪組織委員会の森喜朗会長による「性差別」発言の波紋が止まらない。今回は本人の「逆ギレ謝罪会見」にも驚いたが、波紋を静めるはずの周囲の発言がまたひどい。二階幹事長もボランティアをバカにしているとしか思えなかったが、萩生田文科相の国会答弁も凄かった。「『反省していないのではないか』という識者の意見もあるが、森氏の性格というか、今までの振る舞いで、最も反省しているときに逆にあのような態度を取るのではないか」というのである。それを言ったらオシマイよ的な発言で、これじゃ学校で問題を起こした生徒を指導できない。
(大会スポンサー企業も容認できず)
 「女性蔑視」発言と言われているが、僕は「性差別発言」の方がいいのではないかと思っている。「男は皆イエスマン」というのが裏の意味だから、男こそバカにするなと怒らないとおかしい。ところで、ここではこの問題をちょっと別の角度から考えてみたい。「気になる言葉」というカテゴリーを作ってあるので、久しぶりに書いてみようかと思う。森喜朗氏における「代名詞」の使用法について考えてみたいのである。加齢とともに「あれをあれして」とか、意味不明の代名詞を多用するようになる。僕もつい固有名詞が出て来なくなることが多くなってきた。
(二階幹事長発言)
 今回の森発言には、ちょっとそういうのとは違う使用法が見られる。「これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね」の冒頭の「これ」や「結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど」の「そういう」である。普通は直前に名指したものがあって、それを受けた形で「これ」「そういう」が使われる。しかし、どうも森氏の使い方はそれとは違っている。
(萩生田文科相発言)
 最初の「これ」だけど、一番最初に出てきて主語になるのに何を指すのかはっきり言語化できない。しかし、日本社会で生きていれば理解は可能だろう。何か突然に「問題発言」をしようと思ったときに、最初に「逃げを打つ」ために使う。「これはちょっと今さら何かと思うんですが、先ほどの実現目標は本当に可能なんでしょうか」などと言うとき。もう会議では決着したことになっているが、無理な目標だと皆が内心思っている。そんな時は「これ」「何」という「婉曲表現」を使って蒸し返す。そういう風に使うことがある。

 もう一つは酒場談義などで、「これは今じゃダメかもしれないけど、○○さんって何で結婚しないの」とか、さらにはっきりとセクハラ的な発言をする場合に使う。「これ」というのは、普通は前に出た言葉を受けるが、この場合は「後で自分がするつもりの問題発言」を先取りして「これ」と言うのである。直接的には「文科省がうるさくいうんですね」なんだろうが、この使用法は森氏が自分の発言を事前に「問題発言」と認識していたことを示している。

 「そういう」は直接には直前の「(女性は)競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです」を受けていると考えられる。だから割合普通の使い方なんだけど、その後に「あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど」と続けている。自分の発言が批判されることだと認識していて、それを「笑いにごまかす」ために使っている。「そういう(問題があるんだが)」のカッコ内を省略することによって、問題があることを聞き手の想像に任せるわけである。

 どちらにせよ、「代名詞の使い方」で「森氏が発言内容に問題があることを認識していた」ことが判るのである。飲み会でうっかり「失言」したのではなく、公の場で問題だと判っていることを発言した。それを「組織人」としてどう判断するか。だからこそ、大会スポンサーなど「組織」としても対応を迫られているのである。五輪だからではなく、もう「組織人」としては持たないだろう。鎮火させるはずが「火に油を注ぐ」発言ばかりする人も「組織人」として不適任だ。年齢が問題なのではない。だから高齢だから引退せよとは言わない。自分の発言に責任が持てるかどうかだ。
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栃ノ海、ハンク・アーロンー2020年1月の訃報②

2021年02月09日 22時44分35秒 | 追悼
 大相撲の第49代横綱栃ノ海(本名花田茂広)が1月29日に死去、82歳。これは歴代の横綱の最高齢記録である。1964年三月場所から1966年まで17場所横綱を務めた。そんな横綱がいたのかと忘れられた感じもあるが、僕はこの小兵力士をよく覚えている。大鵬柏戸に続く3人目の横綱で、1965年3月に佐田の山も昇進して1年半ほどの短い4横綱時代があったのである。
(孫弟子の栃ノ心の大関昇進の日)
 同時期の大関には佐田の山や同部屋の栃光、学生出身初の大関豊山がいて、まさか栃ノ海が最初に昇進するとは誰も思ってなかっただろう。もっとも横綱在位中の成績は7場所休場、3場所は8勝7敗とぱっとしなかった。それでも昇進2場所目に優勝している。優勝3回。敢闘賞1回、技能賞6回で判るように、技能派力士でならした。3代目若乃花のような感じだったかと思う。僕はこういう技能派力士が好きだったからファンだった思い出がある。
(栃ノ海の土俵入り)
 メジャーリーグで通算ホームラン2位にあたる755本の記録を持つハンク・アーロンが1月22日に死去、86歳。この人の名前は70年代の少年なら全員知っている。ベーブ・ルースが持つ714本の記録を1974年に破り「世界のホームラン王」と呼ばれた。「日本のホームラン王」は王貞治で、1977年9月3日に756本目を記録した。「王がアーロンの記録を抜いた」ことをどう評価するか。アメリカでは日本の球場が狭く野球のレベルも低いとして大きな意義を認めない報道が多かった。しかしアーロンは王の記録を賞賛し紳士的に対応した。だから日本の少年は皆アーロンに好感を持ったのである。(一方、第1位記録を持つバリー・ボンズ(総計862本)がアーロンの記録を抜いた時は、薬物疑惑がささやかれているため厳しく対応した。)
(ハンク・アーロン) 
 アーロンは1973年までに754本を打った。だからシーズンオフに「白人の記録を黒人のアーロンが抜くな」という脅迫を多数受けていた。しかし、1974年の開幕戦で新記録を樹立した。アーロンは単なるホームラン打者に止まらず、通算安打数で第3位の3771本を打つような総合力を持った大選手だった。王とは後に協力して世界少年野球大会を実現した。
(現役時代の王とアーロン)
 メジャーリーグではもう一人、ロサンゼルス・ドジャーズの監督として1599勝(通算勝利数15位)、地区優勝8回、ワールドシリーズ優勝2回の記録を持つトミー・ラソーダが1月7日死去、93歳。現役時代には0勝4敗の記録しかない投手だったが、マイナーリーグの監督として結果を残し1976年にドジャーズの監督になった。以後、1996年に引退するまで20年間監督を務めた。日本では野茂英雄と契約して活躍させたことで知られている。引退後の野球界で活動し、シドニー五輪の監督として金メダルを獲得した。「20世紀最高の監督」に選ばれている。
(トミー・ラソーダ)
 相撲と野球で長くなってしまった。続けて外国の訃報を。ニューヨークタイムズの元記者、ニール・シーハンが1月7日死去、84歳。ベトナム戦争に関する国防総省の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手し報道した人である。スピルバーグ監督の映画で知った人も多いだろう。
(ニール・シーハン)
 アメリカのテレビ司会者ラリー・キングが1月23日死去、87歳。地方ラジオ局からスタートし、次第に全米で有名になった。CNNで1985年から「ラリー・キング・ライブ」を25年間続け多くの著名人をインタビューした。死因は非公表だが、新型コロナウイルス感染症で入院していた。巧みな話術でアメリカでは非常に有名な人物だったらしい。
(ラリー・キング)
テツオ・ナジタ、11日死去、84歳。歴史学者、シカゴ大学名誉教授。アメリカのアジア研究者を代表する人物で、アジア学会会長を務めた。原敬や江戸時代の大阪にあった懐徳堂の研究などは翻訳がある。ハワイ出身の日系2世で、日本語表記では「奈地田哲夫」だという。「戦後70年」問題などでは社会的発言も行った。写真を載せたかったのだが、見つからなかった。
ナタリー・ドロン、21日没、79歳。フランスの女優。1964年から1969年までアラン・ドロンと結婚していた。離婚後もドロン名で女優を続けていた。ドロンと共演した「サムライ」「もう一度愛して」や日本でヒットした「個人教授」などで知られた。
フィル・スペクター、16日没、81歳。アメリカの音楽プロデューサー。60年代に革新的な音作りで知られ、「ロックの殿堂」入りしている。ビートルズの「レット・イット・ビー」やジョン・レノンの「イマジン」をプロデュースした人である。2003年に自宅で女優を殺害したとして懲役19年の刑で服役していた。(本人は自殺と主張していた。)刑務所内で新型コロナウイルスに感染したという。

 彫刻家の橋本堅太郎が31日に死去、90歳。日本を代表する木彫家で文化功労者。 
 (橋本堅太郎)
 俳優でドラマ「天までとどけ」などに出演した綿引勝彦が12月30日に死去、75歳。女優樫山文枝の夫。「5万回斬られた男」と呼ばれた俳優、福本清三が1月1日死去、77歳。東映で時代劇の脇役を長年務め、ハリウッド映画「ラストサムライ」にも出演した。2014年に主演した「太秦ライムライト」が公開された。戦前から宝塚歌劇団で活躍し、1980年の退団後に「おしん」の祖母役で出演した大路三千緒(おおじ・みちお)が12日死去、100歳。
(綿引勝彦)(福本清三)(大路美千緒)
 衆議院議員を10期務め、法相などを務めた左藤恵(さとう・めぐむ)が9日死去、96歳。大阪府知事を務めた左藤義詮の息子で、郵政官僚から1969年の総選挙に出馬して10回連続当選。中曽根内閣で郵政相、海部内閣で法務相となった。1990年から91年の法相時代には、真宗大谷派の僧侶であるという宗教的信条から死刑執行に署名しなかった。93年に小沢一郎らと自民党を離党、羽田内閣で国土庁長官を務めた。以後は新進党を経て自民党に復党、2000年に引退した。
(左藤恵)
越智通雄、30日死去、91歳。元衆議院議員、経済企画庁長官、金融再生委員長として3回入閣した。福田赳夫元首相の女婿。
峰さを理、元宝塚星組トップスター、30日死去、68歳。
鏡味仙三郎、30日死去、74歳。寄席の曲芸である「大神楽」で人気だった。子どもたちと「鏡味仙三郎社中」を結成し、ついこの間まで活躍していた。落語協会所属で、僕も何度も見ている。
巽外夫(たつみ・そとお)、31日死去、97歳。元住友銀行頭取。東洋工業(マツダ)など多くの企業の再建を手掛けた。戦後最大の経済事件とされる「イトマン事件」を処理にあたった時期の頭取。
大竹章、23日死去、95歳。1944年にハンセン病と診断され多磨全生園に入所した。歴史や理論に詳しく「らいからの解放」「無菌地帯」の著書があり、「全患協運動史」の編集にも参加した。個人的な面識はないが、話はうかがったことがある。
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安野光雅、半藤一利、坂本スミ子ー2021年1月の訃報①

2021年02月08日 20時40分52秒 | 追悼
 2021年1月の訃報特集だが、最初は2020年12月24日に亡くなった画家絵本作家安野光雅から。94歳。訃報が報道されたのは1月16日だった。特に70年代に多くの「不思議な絵」が満載の絵本で知られた。また、ヨーロッパの風景を描いた「旅の絵本」シリーズも大きな影響を与えた。僕もずいぶん買ったと思う。「絵本」というと子ども向けオンリーという感じだったのが、安野光雅の登場で「大人が楽しめる知的たくらみの本」になった。エッシャーの影響を強く受けた「ABCの本」などが日本の知的風土に与えた影響は非常に大きい。
(安野光雅)(旅の絵本Ⅱ)
 1926年に島根県津和野で生まれ、山口県で小学校教員となった。その後上京し東京で教師となったが、1968年に退職して画家として独立し、絵本「ふしぎなえ」を発表した。教員時代の教え子に藤原正彦(数学者)や松田哲夫がいる。松田は筑摩書房の編集者だから、筑摩書房の多くの企画に関わることにもなった。僕は安野の絵本が好きだったけれど、後に筑摩の文学アンソロジーなどの編集で安野光雅の名を見つけて、文学を中心に幅広い知識と好奇心のある人なのだと知った。本屋に行ったら追悼特集で「絵のある自伝」(文春文庫)という本があった。苦労した家庭事情、ちょっとだけ行った軍隊体験など貴重な話が詰まった本だった。すぐ読めて奥が深い。
(ふしぎなえ)(「絵のある自伝」)
 1月12日に半藤一利が死去、90歳。肩書きをどうすればいいのか。「作家」とあるのが多いが、小説を書いたわけではない。今は何を書いても「作家」にしてしまうが、この人の場合は「歴史家」とか「エッセイスト」という方が合っているんじゃないだろうか。欧米では「歴史ノンフィクション」を主に書いている人がたくさんいる。半藤一利もそういう人になるだろう。僕はあまり読んでない。「昭和史」のシリーズは本屋で手に取ったけれど、何だか知ってることばかりみたいだった。まあそのうちに読むことももあるだろう。
(半藤一利)(「それからの海舟」)
 訃報が大きかったので驚いた。1953年に文藝春秋社に入社し、「週刊文春」「文藝春秋」の編集長を務めたから「保守中の保守」である。もっとも文春には「諸君!」を創刊した田中健五という「右派系保守」がいた。半藤はそれとは違う「リベラル保守」になる。戦後の真ん中の「保守本流」である。だからこそ、21世紀になって「右派系保守」がはびこる風潮に抗って言論活動を行ったのだろう。東京市向島区(現墨田区)に生まれ、府立七中(現墨田川高校)に進んだ。東京大空襲を経験した「下町育ち」が文筆活動のバックボーンになっている。

 僕が読んだのも「それからの海舟」とか「荷風さんの昭和」「荷風さんの戦後」など下町関連の本である。映画になった「日本のいちばん長い日」は大宅壮一名義で出たが、本当は半藤一利がまとめたものだった。妻が夏目漱石の孫(長女筆子と作家松岡譲の四女)で、「漱石先生ぞな、もし」(1992)が新田次郎賞を受けた。この本の頃から著者を著述家として認識した。

 歌手で俳優の坂本スミ子が1月23日に死去、84歳。僕にとっては今村昌平監督の映画を思い出すんだけど、もともとは歌手である。「ラテンの女王」と呼ばれて、1961年から1965年まで紅白歌合戦に出場した。人気司会者だった栗原玲児と結婚したが離婚した。二人とも後に再婚したが、栗原玲児の再婚相手が栗原はるみである。テレビによく出ている大阪出身の歌手というのが、子ども時代の印象だった。大人になって、今村の「人類学入門」(1966)や「楢山節考」(1983)などの圧倒的な存在感に驚くことになった。
(坂本スミ子)
 オペラ歌手(バス)の岡村喬生(たかお)が1月6日死去、89歳。もともとは歌手志望ではなかったが、NHKや朝日の入社試験に落ちて声楽に進んだという経歴を持つ。1959年にイタリアに留学し、1979年までヨーロッパ各地で活躍した。帰国後はテレビの司会などでクラシックを超えた活躍で知られた。「蝶々夫人」が日本文化を誤解させるとして、「新国際版」を公演した。
(岡村喬生)
 シンガー・ソングライター横井久美子が1月14日死去、74歳。ベトナム戦争の枯葉剤の影響を受けた子どもの支援コンサートや薬害スモン病の歌などで知られた。共産党系の集会によく出ていた人で、僕は聴いたことはないけれど「歌って愛して」という曲が好きだった。
(横井久美子)
 フォークシンガーの南正人が1月7日死去、76歳。ライブコンサート中に解離性大動脈瘤で亡くなった。東京外語大スペイン語科を休学して2年間世界を放浪し、帰国後に就職せずに歌手を続けた。60年代末に高田渡、岡林信康、高石ともやなどと活動していて、ずっとそのままだった人である。でも実は聴いたことがない。
(南正人)
 沖縄民謡の歌手、大城美佐子が1月17日死去、84歳。嘉手刈林昌(かてがる・りんしょう)とのデュオで知られ、沖縄民謡界のレジェンドだった。映画「ナビィの恋」でも共に出演して歌っていた。那覇で民謡酒場を経営し後進を育成した。
(大城美佐子)
 俳優など芸能界の訃報がかなり多かったので、スポーツ、外国関係とまとめて次回に回したい。
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2020年キネマ旬報ベストテン・外国映画編

2021年02月06日 22時18分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 日本映画編を書いたので、もう一日自分の趣味で外国映画ベストテンの話。ベストテン選びというのは、執筆者の批評家などに10本順位を付けてもらって、1位を10点にして以下順に減らしていって、10位を1点にして総計してする。そういうやり方だから、順位が低くても多くの人が投票する映画が上に来る。日本映画で「スパイの妻」を1位にした人は5人、「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」を1位にした人は10人いる。しかし、総計すると逆転したわけである。

 外国映画では、1位が「パラサイト 半地下の家族」、2位が「はちどり」で、韓国映画が独占した。今までに韓国映画では2010年に「息もできない」(ヤン・イクチュン)が1位になったことがあるがそれ以来である。ポン・ジュノ監督としては、「殺人の追憶」「母なる証明」が2位になっている。満を持してのベストワンだろう。1位が304点で、2位は179点だから、完全に圧勝である。カンヌ最高賞、アカデミー作品賞で、好き嫌いはあるかもしれないが完成度は頭一つ抜けていた。

 今年の注目は2位から4位を女性監督の作品が占めたことだろう。それぞれ個性の違う映画で、世界の映画界も大きく変わりつつある。2位が「はちどり」(キム・ボラ)、3位が「燃ゆる女の肖像」(セリーヌ・シアマ)、4位が「ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語」(グレタ・ガーウィグ)で、ここまでは150点超えである。5位が2作で117点なので、差がある。僕はグレタ・ガーウィグシアーシャ・ローナンのファンなので、個人的には「ストーリー・オブ・マイライフ」を推している。
(ストーリー・オブ・マイライフ)
 「はちどり」は公開時点ではベストテンで2位になるような映画だとは誰も思ってなかっただろう。女性監督のデビュー作で、あまり情報はなかった。世界の映画祭で受賞したりといった実績はなく、韓国内でも「パラサイト」と被って大きな賞は取れなかった。しかし、その繊細な描写と脚本の力には驚いた。詳しくは見た当時に書いたけれど、「小さな声に耳をすます」ことの大切さを改めて思い出せてくれる傑作だ。「燃ゆる女の肖像」は過去に材をフランス映画で、女性同士の愛を描いている。テーマも製作国も異なる3作品だが、今後も女性監督の躍進は続くだろう。
(はちどり)
 5位に「異端の鳥」と「死霊魂」、7位「フォードvsフェラーリ」、8位「ペイン・アンド・グローリー」、9位「1917 命をかけた伝令」、10位「TENET テネット」だった。ワン・ビン(王兵)監督の「死霊魂」は反右派闘争の犠牲者を描くドキュメンタリーだが、なんと8時間もある超大作。僕は体力面とどこかで夕食を取らないといけないことから、今回はパスした。「テネット」も見てないけど、クリストファー・ノーラン監督は相性が悪いので、そのうち見ようと思ってるうちに終わってしまった。「フォードvsフェラーリ」は見たけど、僕は題材に関心がないので、あまり面白くなかった。

 10位以下は、レ・ミゼラブル、ジョジョ・ラビット、リチャード・ジュエル、Mank/マンク、鵞鳥湖の夜、凱里ブルース、ミッドサマー、シカゴ7裁判、ヴィタリナ、パクラウ 名前を消された村、
 20位以下は、名もなき生涯、在りし日の歌、その手に触れるまで、娘は戦場で生まれた、ジュディ 虹の彼方に、ようこそ映画音響の世界へ、ある画家の数奇な運命、マーティ・エデン、ロングデイズ・ジャーニーこの世の涯てへ、シリアにて(30位まで)

 「Mank/マンク」と「シカゴ7裁判」はここでも書いたが、傑作だと思う。Netflix作品で、日本では小規模で劇場公開された。多分批評家向けの試写会などやってないのかもしれない。特に「マンク」はNetflixベストテンに必ず入るべき作品だが、内容が「市民ケーン」の内幕だから映画史に詳しくないと面白くないかも。いつも上位に入るクリント・イーストウッド作品が、13位だった。ベストテンに入った「15時17分、パリ行」や「運び屋」に比べて「リチャード・ジュエル」が特に悪いとも思えないけど。ここでも書いたがドイツ映画「ある画家の数奇な運命」はすごく面白かった。

 昔は長いこと見られなかったテレンス・マリック監督作品が2作も公開された。「名もなき生涯」は3時間ほどの長い映画で見逃した。「ソング・トゥ・ソング」は、これをいいと言う人もいるんだろうけど、僕は全く受け入れられない。ジム・ジャームッシュのゾンビ映画「デッド・ドント・ダイ」も全然面白くない。スウェーデンのロイ・アンダーソン監督「ホモ・サピエンスの涙」もヴェネツィア映画祭銀獅子賞だが、全く面白くない。ドイツのファティ・アキン監督「屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ」もひどかった。監督の名前や映画祭の結果は参考にはなるけれど、見てみないと判らない。
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2020年キネマ旬報ベストテン・日本映画編

2021年02月05日 21時08分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 毎年2月5日がキネマ旬報ベストテン号の発売日である。僕はこれを1970年から持っているのである。もう毎号を読む気は、お金的にも保管場所的にも持てないのだけど、ベストテン号だけは買ってしまう。特に昨年からベストワン以外の事前発表をしなくなったので、買わないと判らなくなってしまった。ということで今年も買って細かく読むからブログはお休みでもいいんだけど、どうせなら簡単に書けば手間はそうかからない。まずは日本映画編から。
(森山未來と水川あさみ)
 個人賞は後回しにしてベストテンの紹介。1位は「スパイの妻」(黒沢清)で、ただ一作200点を超えている。完成度から見て納得の結果だろう。2位は「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」(大林宣彦)で、188点。得点ではこの2作品が抜けている。大林監督の遺作になった大作だが、僕はかなり批判的な感想を持った。「反戦」をテーマにする場合、「天皇制」や「植民地」を本格的に取り上げないといけないと思う。晩年の作品では「花筺」(はながたみ)が最高だと思う。

 続いて書いていくと、③朝が来る河瀬直美)④アンダードッグ武正晴)⑤本気のしるし劇場版深田晃司)⑥37セカンズHIKARI)⑦罪の声土井裕泰)⑧喜劇 愛妻物語足立紳)⑨空に住む青山真治)⑩アルプススタンドのはしの方城定秀夫

 ベストテン選出は「遊び」だし、時代の影響も受ける。今年に関しては、まあ、5位までは大体同感である。しかし、毎日映画コンクール日本映画大賞の「MOTHER マザー」が落ちているのは納得できない。どう見ても「空に住む」や「アルプススタンドのはしの方」より傑作だったと思うけど。「罪の声」「空に住む」は見たけど書かなかった。「罪の声」は多くの人が満足出来る出来だと思うが、原作の絵解きみたいだった。僕は「60年代反乱」をネガティブに「総括」する意図が好きになれない。まあ僕は原作を読んでいたので、展開を全部知って見たこともある。

 「37セカンズ」と「喜劇 愛妻物語」は見逃し。新人女性監督の「37セカンズ」という映画がなかなか傑作らしいという話は後から聞いた。映画は後追いできるから、どこかで見たいと思いながら果たせていない。「喜劇 愛妻物語」はまさか主演女優賞をさらっていくとは思わず、まあ見なくてもいいだろうと思ってしまった。全部見るわけにもいかないから、何本か抜けてしまうことは仕方ない。
(喜劇 愛妻物語)
 10位以下は作品名だけ挙げておく。れいこいるか、MOTHER マザー、セノーテ、ミッドナイトスワン、初恋、一度も撃ってません、浅田家!、風の電話、おらおらでひとりいぐも、窮鼠はチーズの夢を見る(最後の2作は同点で19位)

 続いて、「佐々木、ィン、マイマイン」、ソワレ、私をくいとめて、生きちゃった、男はつらいよ お帰り寅さん、のぼる小寺さん、ラストレター、脳天パラダイス、星の子(以上で30位まで)

 一般的には全然知らない作品の方が多いだろう。誰もが知ってる「鬼滅の刃 夢幻列車編」はどこにあるかと調べると、99位になっている。「ばるぼら」の48位はいいけれど、39位の「アイヌモシリ」はもっと上位になるべき作品だ。「風の電話」はここに書いたけれど、主演のモトーラ世理奈が新人女優賞を得た。「初恋」という映画は覚えてないが、調べたら三池崇史監督作品。

 「れいこいるか」という映画も見逃す以前によく知らなかった。なお、読者選出ベストワンは「天外者」(てんがらもん)だったが、批評家選出では誰も投票していない。三浦春馬の遺作という意味は大きいが、僕も映画の出来には不満が多い。

 個人賞では、主演女優賞(水川あさみ)、主演男優賞(森山未來)、助演女優賞(蒔田彩珠)、助演男優賞(宇野祥平)、新人女優賞(モトーラ世理奈)、新人男優賞(奥平大兼)、監督賞(大林宣彦)、脚本賞(濱口竜介、野原位、黒沢清

 文化映画も挙げておく。1位は「なぜ君は総理大臣になれないのか」。以下、プリズン・サークル、花のあとさき ムツばあさんの歩いた道、三島由紀夫vs東大全共闘、音響ハウス、ムヒカ 世界で一番貧しい大統領から日本人へ、タネは誰のもの、アリ地獄天国、れいわ一揆、香港画
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森喜朗会長の「女性蔑視」発言を考える

2021年02月04日 23時30分24秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪・パラリンピック組織委員会森喜朗会長が、3日の日本オリンピック委員会(JOC)臨時評議員会で行った発言が問題になっている。「2020年の書き残し」を書いていたんだけど、2021年にこれほど「興味深い」問題が起きれば逃すわけにはいかない。問題の発言は以下に示すが、世界に波紋が広がっている。僕も最初に聞いたときは「女性蔑視」発言だと思ったのだが、よく考えてみれば「男性蔑視」発言なのかもしれない。そして「性差別」であるとともに、「日本社会の仕組み」をこれほどあからさまに示した発言も珍しいと思う。
(海外紙で報じられた森発言)
 まず以下に発言全文を引用する。(スポニチのサイトから)
3日のJOC臨時評議員会での森会長の女性を巡る発言】これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。

 女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。

 私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。

 この発言は驚くべきことに、公開された公式の会議でなされた。森氏の首相時代の「神の国発言」は講演会でなされた。日本を代表するもう一人の「失言大王」である麻生太郎副首相も、その「問題発言」の多くは講演会である。聞き手が「身内」だから、サービス意識から口が滑るのである。しかし、今回は自ら「テレビがあるからやりにくい」「あまりいうと新聞に悪口書かれる」と言っている中での発言だ。公的な場なんだから、出席者にはその場で反論する義務がある。今回は「笑いが起こった」とされる。そっちの方がさらに大問題かもしれない。

 会議とは何のために開くのだろうか。それは皆が意見を言い合って、より良い結論を導くためだろう。従って性別を問わず、発言しなければ出席する意味がない。「女性を増やすと時間が延びる」ということは、「男性だけなら会議が短く済む」ということだ。それなら会議をする意味がないではないか。男は会議で発言しないのか。むしろ男をバカにしてるんじゃないかと思うけど。その通り、男だろうと女だろうと、「日本社会の仕組み」をわきまえないのは困るということだろう。会議とは「裏で決めてある結論を追認する場」だから、意見を言ってはいけないのである。

 僕の子ども時代には、「話し合いで何でも決める」とならった。「五箇条の御誓文」にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(現代表記)である。だからクラスでは「学級会」が毎週開かれた。司会をする学級委員はクラスごとに集まって「学級委員会」が組織され、学年全体のことを話し合う。当時のことだから、いじめをどうするなんて議論はなかった。学芸会の出し物とか遠足のお小遣いとか、そんな程度の問題だが、皆が意見を言い合った。そしてそれが「民主主義」だと教えられた。男性教師はほとんどが軍隊経験者だった時代である。

 僕が教師になってからも、もちろん何回も「クラスの話し合い」は行った。学習指導要領では中学は「学級活動」、高校は「ホームルーム活動」と呼ばれる。しかし、もうこれこそが民主主義だなどと熱く語ることは僕にはほとんどなかったと思う。「修学旅行の班作り」「運動会の選手決め」など、どうしても決めなければいけないことがある。でもなかなか決まらないことがある。人間関係が交錯し、「なんとか平和に決まって欲しい」と祈るような時間だったことの方が多い。

 僕が出た多くの会議の中で、一番多いのはもちろん「職員会議」だ。教員の世界は女性が多い。小学校では女性の方が多い学校も多いだろう。そういうところでは、職員会議が長いのか。そんなことはないだろう。むしろ女性の発言は少ないのではないか。現実の日本社会では、教師の世界でも女性教員が育児や家事の負担が多いのが実情だろう。ただでさえ忙しいのに、会議で発言して長く延ばすはずがない。発言して変わるならともかく、「職員会議」は法的には校長の諮問機関に過ぎず、校長も教育委員会に従う立場に過ぎない。結局は教育行政の意を受けた校長が決めてしまう。(都教委では「職員会議で多数決を取るな」という通達を出している。)

 「イマドキの風潮」として、理事会に女性を多くしないといけない。それは判っているけれど、「女性理事」は「お飾り」なんだから、会議では黙っていて欲しい。まあ、そういうことなんだろうと思う。女性に限らず、男性でも「お飾り」でなっている人には黙っていて欲しいのだろう。「活発な議論」そのものが嫌いなのである。会議とは「インナーサークル」で決まったことを、タテマエ上開かざるを得ない「表の会議」で追認する場である。これが政治でも会社でも、学校でもどこでも日本中で同じような仕組みになっているだろう。
(森喜朗失言録)
 いろいろな立場の人が入って作られる「理事会」「審議会」などには、マイノリティの立場から選ばれる人も入る。そのような人の意見も「聞いた形にする」ために選ばれたんだから、もちろん発言してもいい。だが決定を長引かせるようなレベルまで発言してはいけない。これが「暗黙のルール」なのである。そんな日本社会の仕組みをまざまざと見せてくれた。その「偉大な功績」をもって、森氏は退くべきだ。そもそも何で五輪組織委員会の会長になったのかは理解不能だ。しょせん東京五輪とはそういうものだと思って、今まで何も言わなかったが、それもいけなかった。もうこの人にはうんざりだというのが、多くの国民の実感だろう。
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ポリオ、アフリカで根絶ーWHOの成果

2021年02月03日 22時44分14秒 |  〃  (国際問題)
 2020年8月25日、WHO(世界保健機関)はポリオをアフリカで「根絶」したと発表した。後で触れるようにアジアにまだ2ヶ国が残っている。しかし、WHOが提唱し継続して取り組んできた「ポリオ根絶計画」は、時間は掛かりながらも成果を挙げつつある。ちょうどその頃は、アメリカのトランプ政権が「WHOは中国寄り」だとして脱退を通告していた時期だった。しかし、WHOは新型コロナウイルスだけではなく、世界で大切な取り組みをいくつも行っている。大国が勝手に抜けてしまうなど許されることではない。バイデン政権になって、脱退が中止されて良かった。

 「ポリオ」と書いたけれど、日本では「小児麻痺」(しょうにまひ)として知っている人が多いだろう。病名としては「急性灰白髄炎」というらしい。ウィルス性感染症で、英語名のpoliomyelitisから「ポリオ」と呼ばれている。子どもだけでなく大人もかかるし、症状も多様であるようだ。必ず「麻痺」が起こるわけではなく、むしろ麻痺性のものはほんのわずかだという。しかし、後遺症が残って治らないので怖い病気だった。かつては時々流行する病気で、日本では1960年に大流行があった。同級生に下肢の麻痺した友人がいたので、僕にとっても忘れられない病気である。
(ポリオ根絶に向けた歩み)
 今までに根絶された感染症としては「天然痘」(てんねんとう)がある。人類初の予防接種である「種痘」(しゅとう)は天然痘に対するものだった。天然痘は致死率が高く(ウィキペディアには20~50%と出ている)、非常に恐れられてきた。生き残っても顔にあばたが残るなどの後遺症がある。日本では奈良時代に藤原不比等の息子4兄弟が立て続けに死んだ大流行があった。また「独眼竜」伊達政宗が片目を失ったのも天然痘だと言われる。僕は子どもの頃に種痘を打った世代(1970年代初期に終わった)だが、もう天然痘という病気は歴史の中でしか知らない。

 この恐るべき病気に対して、WHOを中心にして根絶計画が進められ、1980年に「天然痘根絶宣言」が出されたことをどれだけの人が知っているだろうか。70年代初期に西アフリカや南米で根絶され、1975年のバングラデシュでの発症がアジア最後となった。アフリカのエチオピアとソマリアが残ったが、1977年にソマリア人青年が発病したものが自然感染の最後である。3年経過して、他に発病が見られなかったので「根絶宣言」となった。しかし、現在でも生物兵器に使われた場合などを想定し、実験室レベルでは天然痘ウイルスを多くの国が保管していると言われる。
 
 この天然痘根絶は人類史上に残る画期的な成果だ。それに続いて、今はポリオ根絶が近づいている。日本では1981年以後に自然感染が報告されておらず、2000年に根絶宣言をした。しかし、生ワクチン接種による発病はわずかだが起こってきた。1960年の大流行時には政治的にも大問題となり、ソ連製の生ワクチンを緊急輸入することになった。これは当時NHK記者だった上田哲(後に参議院議員、衆議院議員となった)を中心としたキャンペーン報道の影響が大きかった。松山善三監督による映画「われ一粒の麦なれど」(1964)はこの問題をテーマにしている。映画でも生ワクチンによる発病可能性を厳しく問う患者が描かれている。

 アフリカ最後のポリオ感染国だったのはナイジェリアだった。これでアジアでパキスタンアフガニスタンの2ヶ国だけに「自然感染」が残ることになった。では根絶間近かと言えば、この2ヶ国の状況を考えれば難しさを感じる。特にアフガニスタンは政府の統治が行き渡っているとは言いがたい。それにタリバンなどのイスラム教保守派はワクチン接種に否定的な場合も多いのではないか。医師団などが村々を回ることさえ出来ないかもしれない。それでも日本政府もパキスタンへの協力を行っている。ポリオ根絶に成果があれば、パキスタン政府に代わってビル&メリンダ・ゲイツ財団日本への債務返済を肩代わりするというものらしい。なかなか面白い発想だなと思う。一日も早い根絶に向けてもう一段の努力が望まれる。
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公立高「制服選択」制度とジェンダー、「制服」を問い直す視点を

2021年02月02日 22時49分32秒 |  〃 (教育問題一般)
 もう2月になってしまったが、2020年の書き残しがいくつもある。そのうちのいくつかを書いておきたい。僕の場合、気になる新聞記事を切り抜いておいて、手元に置いておく。他にテーマがない時に書こうと思っているうちに時間が経ってしまう。そんなことが多い。今回は東京新聞12月6日の記事で、「制服選択 公立高600超に 性的少数者配慮や防寒も」と見出しにある。
(制服に選択肢がある高校数)
 リードの部分を引用すると、「女子生徒の制服にスラックスを追加したり、性別の縛りをなくしたりする形で制服に選択肢を設ける都道府県が少なくとも十九都道県の六百校超に上ることが、都道府県教育委員会への取材で分かった。性的少数者のうち出生時の性別と自認する性別が異なる「トランスジェンダー」の生徒への配慮に加え防寒面などから導入する高校も増えている。」

 記事はさらに数の細かな内訳などが書かれているが、それはいいだろう。各都道県の高校数は上記画像に載っている。この制度をどう考えるべきだろうか。記事には「京都華頂大の馬場まみ教授(服装史)の話」として「対症療法的な印象」と書かれている。記事そのものは「こういう配慮をするようになったのはいいことだ」という方向で書かれているように思う。確かに一昔前には配慮の有無以前に、そもそも「トランスジェンダー」の生徒がいるという問題意識さえ全くなかった。

 性的少数者の生徒も自ら校内で声を挙げることはほとんどなかっただろう。80年代半ばに「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」が問題化した時代には、「荒れた生徒」は制服の乱れから始まるということが多かった。改造された制服、今ではマンガや映画の中にしか存在しないような服を着て登校する生徒が実際にいたのである。だから「学校再建」の中で、「制服」を守らせるという取り組みが先行した。そういう時代がちょっと前にあったのである。

 その時代に「制服で苦しむ生徒」もいた。しかし、僕もその事に気付くのはずいぶん後になってからだ。だから「男女を問わない制服の選択がある」というのは、確かに「一歩前進」とは思う。だけど、と思うんだけど、「選択肢を広げる」だけでいいのだろうか。「防寒」の意味もあって、女子生徒でもスラックスが選べる。しかし、「心は女子」の男子生徒がセーラー服を選べるようにはなっていないだろう。本来「トランスジェンダーへの配慮」なら、男子でも女子の女子でも男子の制服が選べなければおかしくないだろうか。
(多様な制服)
 本質的な問題を抜きにして、単に「スラックスを選べる」だけだったら、「性的少数者だから」なのか、「防寒」のために選んでいるのか不明である。だからいいのかもしれないが、トランスジェンダーの生徒でもカミングアウトできないまま、防寒のためですと言うのではないか。校内で「多様性を認め合う」のではなく、「取りあえずスラックスを選べるようになってるんだから、何も言うな」になってしまわないかとも思う。

 それより何より、「制服」そのものを問わないでいいのだろうか。生徒を性別に「男子」「女子」に分けて、それぞれに制服を定めるというシステムそのものが「抑圧的」なのではないか。僕の高校時代には「制服自由化運動」があった。今では「18歳選挙権」が実現した。大人として一票を投じる権利がある人間が、何を着て学校へ行くか指図されるというのはおかしくないだろうか。文科相自体が「個性化教育」「アクティブラーニング」という時代に、少なくとも高校生は自由服でいいのではないか。「先進国」の高校生はみな私服だと思うんだけど。

 制服自由化運動をした人間にとって、まさかその後「制服がカワイイ」から私立高校を選ぶなんていう中学生が現れるとは想像もしなかった。今は高校で制服があることが日本では当然視されているだろう。しかし、国際的にはそっちの方がおかしいのではないか。私服にすれば、好きな服をいればいいんだから、性的少数者の生徒への配慮という問題はなくなる。ただ、多分「問題生徒」は「問題の服」を着て登校するということは多分変わらないんじゃないかとは思う。
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テレホンカードの時代②建造物編(城、寺、遺跡を中心に)

2021年02月01日 22時34分06秒 | 自分の話&日記
 テレホンカード・コレクション紹介の続き。「建造物編」ということで、お城やお寺、遺跡などのテレカを中心に。お城はともかく、お寺や神社でテレカを売ってるのかと思うかもしれないが、観光で行くようなところには大体あった。前回「私製テレカ」と書いたけれど、もともとは電電公社(日本電信電話公社、1986年に民営化され、NTT東日本、NTT西日本などに分割された)が発行した無地の「官製テレカ」があったのである。(もう私製テレカ製作サービスは終了した。)

 このテレカが必需品だったのは、当時の公衆電話は100円玉にお釣りが出なかったからだ。最初は10円玉しか使えなかった。その後、100円玉が使えるようになったけどお釣りが出ない。トンデモ製品である。現在ではそんな電話機は存在を許されないのではないか。遠くに掛ける場合も多いが、やはり電話の相手は家族や会社などが多い。10円玉がいくつかあれば足りるけど、仕事の出先で掛ける人は大変だ。お釣りが出なくても100円玉を使える方が便利でもあったのである。そこがテレカなら心配なく使える。残額が少なくても2枚入れられるから心配なかった。

 そんな話は止めてテレカの紹介。まずお城姫路城がないのは行ってないんだから当然。でも松本城小田原城熊本城などがないのは、行ったのがテレカ収集以前だったりテレカ時代終了後だったりしたからだ。天守閣が現存している城は全国で12城(国宝5城)だが、まずは彦根城。ここは伊吹山に登った時に行ったので、山シリーズを書いたときに触れた。美しい城というだけでなく、当時は庭園内に宿泊できたので思い出深い。
(夏の彦根城)(冬の彦根城)
 次に愛知県の犬山城。家老の成瀬家の所有で、国語教科書の編者として名前を知っていた成瀬正勝氏が個人で持っていたと知った時は驚いた。さすがに今はもう無理で、2004年に財団法人に移管されている。島根県の松江城は割と最近国宝に指定された。弘前城のテレカも持ってるんだけど、実は行ってないので省略。愛媛県の松山城、香川県の丸亀城はかつて四国を旅した時に行くつもりだったんだけど、夏があまりにも暑くて断念した。お城は広いから気力が萎えた。
(犬山城) (松江城) 
 日本のお城の大半は再建である。空襲で焼けたところも多いが、それ以上に維新後に取り壊された城が多かった。今では全国各地で再建され、本来は存在しなかった天守閣が作られている城さえある。戦国の覇者を輩出した東海地域のお城もずいぶん行っている。名古屋城や岡崎城も行ったけどテレカは持ってない。岐阜城は信長が攻略して「天下布武」に踏み出した。浜松城は家康がいた城。掛川城は山内一豊が築いたが、1994年に木造で再建されて有名になった。
(岐阜城)(浜松城)(掛川城)
 全国的にも有名で美しいのは会津若松の通称「鶴ヶ城」だが、仕事で行ったことしかないので正直お城の印象がほとんどない。最後に珍しいところで、宮崎県の飫肥(おび)城。日南市にあって、武家屋敷もあって名物も多い興味深いところ。伊東氏で戦国から幕末まで続いた。
(鶴ヶ城)(鶴ヶ城)(飫肥城)
 新幹線から見える広島県東部の福山城は空襲で焼けたところだが、広くて美しい城だ。水野家が作ったが、途中で阿部家となった。幕末の老中阿部正弘は福山藩主である。福山には中世に栄えて、その後洪水で滅んだ草戸千軒という町があった。発掘され中世都市の様子が判る貴重な遺跡となっている。福山の南に景勝地で知られた「鞆の浦」(とものうら)がある。江戸時代には朝鮮通信使が立ち寄った。このあたりを旅したのは懐かしい思い出だ。
(福山城)(草戸千軒)(鞆の浦)
 お寺では長野県の別所温泉にある安楽寺の国宝、全国唯一の八角三重塔は非常に美しく、何度見ても飽きない。そこから北へ行った青木村にも国宝がある。大宝寺の三重塔は「見返りの塔」と呼ばれる。足の悪い犬がいたんだけど、いつの間にか見なくなった。
(安楽寺)(大法寺)
 近江(滋賀県)も大好きで何回も行った。東部に「湖東三山」と呼ばれる三つの寺には、信長時代の攻撃を生き延びた国宝、重要文化財が残っている。特に秋の紅葉が見事なことで有名だ。
(西明寺)(金剛輪寺)(百済寺)
 ついでに近江のテレカを少しまとめて。順番に竹生島(ちくぶしま)、旧長浜駅舎鉄道資料館国友鉄砲の里資料館長浜城である。長浜城は秀吉の「出世城」と呼ばれた。
   
 各地を旅行しながら、有名な遺跡には寄っていた。90年代には縄文遺跡の発掘が続き、縄文のイメージが一新された。特に青森県の三内丸山遺跡は全国的に知られた。知名度は落ちるけれど、鹿児島県国分市(現霧島市)の上野原遺跡は「縄文は東日本」の常識を揺るがした。
(三内丸山)(上野原)
 日本の旧石器時代研究の先駆けとなった群馬県の岩宿遺跡。テレカは「笠懸野岩宿文化資料館」のものだが、今は岩宿博物館というらしい。戦後すぐに発掘され、日本を代表する弥生時代の稲作遺跡とされた静岡県の登呂遺跡。そして、出雲で是非行きたかったのが銅剣358本が見つかって衝撃を与えた荒神谷(こうじんだに)遺跡。結構遠かったな。
(岩宿)(登呂)(荒神谷)
 まだまだテレカを持ってるけど、終わらないから、珍しいものを少し。福島県会津で宿場町が昔のまま残る大内宿。中山道の妻籠(つまご)などと並び、一度は泊まってみたい。次に九州旅行で行った宮崎県の秘境、椎葉村。行くのも大変だった。まだ焼き畑をやっている。3枚目は熊本県にある石橋の通潤橋(つうじゅんきょう)。行ったときも放水していた。
(大内宿)(椎葉村)(通潤橋)
 博物館、記念館では群馬県榛東村の「耳飾り館」、山形県の「紅花資料館」、宮城県の「吉野作造記念館」、北海道十勝の「忠類ナウマン象記念館」である。世の中にはいろんなところがある。僕もずいぶんいろいろ行っていたものだと思う。
   
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