東京五輪組織委会長の森喜朗氏は報道によれば辞任するらしい。この問題を通して、まさに20年前を思い出した人も多いだろう。2001年2月10日に愛媛県立宇和島水産高の実習船「えひめ丸」が米海軍の潜水艦に衝突されて沈没した。この時に高校生4人、教員2人、船員3人の計9人が犠牲となった。当初は高校の船だと判らなかったとはいえ、11日に一報を受けてもゴルフを続けた森首相(当時)への批判が強まった。ずっと低支持率を続けていた森内閣にこの事件がついにとどめを刺したのである。忘れてはいけない「日本のセウォル号事故」だ。
(えひめ丸事故20年の追悼式典)
えひめ丸事件は米海軍原子力潜水艦グリーンビルの不意の浮上にすべての原因がある。潜水艦には訪問客がいて艦長は民間人に操縦桿を握らせたりしていた。ところで、ここで紹介したいのは、直接的原因とはちょっと違う「えひめ丸のもうひとつの問題」である。「週刊金曜日」の2003年5.9、5.16号に掲載された北健一「海の学校」(「第13回ルポルタージュ大賞」優秀賞)に書かれていたものである。当時僕は自分の「メール通信」で書いたんだけど、時間も経って読んでない人が多いだろうから、20年目の機会に改めて書くことにする。
さて、衝突当時甲板上または船内上部にいたものは、海に投げ出され辛くも一命を取り留めたが、船内下部に残されたものはそのまま逃げられずに船と運命をともにした。その間わずか10分。たまたま衝突の時にどこにいたかが明暗を分けた。それだけだったら「運命の悲劇」だったというしかないが、高校生たちが船の下部にいたのは、船の構造による必然的なものだったのである。そして、そのような構造の船は安全面、教育面からの反対論を押し切って作られたものだった。他県の実習船の構造はえひめ丸とは違っていたのだ。えひめ丸事故は教育的発想を忘れた愛媛県当局の人災的側面があったのである。
えひめ丸は、生徒用食堂やコンピュータ室など生徒用スペースが船の下部におかれていた。全国の水産高校実習船のなかで最も大きい冷凍マグロ魚倉が、設計を制約していたのだ。生徒の部屋が避難しやすい上部にあれば、もしかしたら結果は違っていたかもしれない。実際、えひめ丸で行われていた避難訓練で、生徒たちが目標時間内に甲板に集合できたことはなかったという。えひめ丸は94年に4代目が作られたが、どんな船にするか、校内でも議論があった。
すでに遠洋漁業全盛期はすぎ、卒業してマグロ漁船に乗る生徒もほとんどいない。生徒の変容もあり、漁獲高中心より、生徒の居住性を重視してはどうか。二層甲板にして、上部を居住スペースにする方がいい。隣県高知の土佐海援丸や東京の大島丸など、すでに全国の実習船は二層式が大勢をしめつつあった。校内では二層式の要望が強く、県教委の検討委員会の大勢もその方向だった。漁業の後継者育成のためにも、また他の中高生の体験学習に利用するためにも、居住性重視が望ましいという意見が強かった。
だが、結局県が選んだのは旧来の一層式だった。宇和島水産高の校長も一層式を支持した。なぜなら、その方がマグロ漁に向いているからだ。愛媛県では、船員の半数が臨時雇いで、報酬が歩合制のため、漁獲高を減らす訳にはいかなかったのだ。すでにそういう雇用形態の高校は全国にない。愛媛県以外はすべて、実習船の船員が県の正職員になっていたのである。乗船実習で「船員はかせぐために頑張る。生徒はその姿をみて海の仕事を覚える」という昔ながらの考えもあったというが、そういう考えについてくる生徒は今やほとんどいない。「漁獲偏重から教育主体へ」を教員側は訴えたが、通らなかった。
(沈没した「えひめ丸」)
実際にできた四代目えひめ丸は、予想を超えた居住性の悪い船だったようだ。細かい故障や欠陥が多く、特にトイレの汚水の逆流に悩まされたらしい。船員は漁獲におわれ、教育の余裕はなかった。94年の新造船の要望挫折後、宇和島水産高校では「何をいっても変わらない」という空気が支配的になったという。そんな中、98年の愛媛県高等学校教育研究会水産部会で、水産科の牧澤弘教諭が発表した中には、「これが果たして実習か?と首を傾げざるを得ない」「生徒に技術を教えるという事が全くできていない」「多目的航海や沿岸航海といったことが非常に計画しづらい」などという実態が報告されている。
そして、実習の短縮、寄港地を2カ所にする、沿岸航海実習の新設など、すでに他県で行われていることを提案している。驚くことにその中には、えひめ丸を宇和島港に常時係船するという項目がある。事故までは神奈川の三崎港が係留地だったのである。この発表をした牧澤弘教諭も犠牲者だった。今度はもう黙っているわけにはいかない。残された教員たちは、愛媛県高等学校教員組合宇和島水産分会を結成し、3月21日に知事宛の「緊急申入書」を提出した。多くの新聞、テレビもかけつけたが、全く報道されなかった。組合内部にも米軍との交渉のさなかにえひめ丸の欠陥を明らかにし、補償金が値切られたら、組合で払えるのかなどという人がいた。
県教委は新船の検討会議をスタートさせたが、94年には公開だったのに、今回は非公開。「議事録もない」と教委はいった。ある保守系県議は「居住区を上にあげ操業を減らせば、生徒は甘える。」といった。さらに「水産高校は能力の低い生徒ばかりだから、今まで通りでいい。こんな財政難に何をいっているのか」と言い放った。7月20日に開かれた市民集会をきっかけに風向きが変わった。ある教師が「高校側では新実習船を499トンから660トンに大型化し、安全性と居住性を向上させることを要望している」と発言した。「しかし、県側は一歩も譲りません。私は言いました。だったら一回乗ってみいや。あんたら図面だけで言うけど、二ヶ月半の航海に乗って、いっぺん生活してみ。」その日の集会のようすはようやく地元紙やテレビで報道された。
結局、問題は水産実習に関する特別会計制度の弊害ということだという。実習であがる収益を、実習にかかる経費に充てる。現場にとってはある種のノルマである。戦前の産業教育振興法の規定を根拠にして、職業高校の特別会計制度が作られた。工業高校などでは早く廃止され、他県では農業、水産などでも教育経費は一般財源から支出されるようになった。しかし、愛媛県などではまだ特別会計が残っていたのだ。事故の年の実習は高知県の土佐海援丸で行われた。特別会計制度のない高知の実習はのびのびしたものだった。マグロ延縄にかぎらず、イか釣りや沿岸航法を学ぶ等の実習もあった。船員も体験談を生徒に語った。「えひめ丸とちがって、楽しくいろいろ学べました。」と生徒は感想をのべた。
市民集会の後、世論は高まった。特に犠牲となった実習生の母・寺田真澄が8月28日に出した知事宛の手紙が関係者の胸をうった。「立派な実習船とばかりに信頼していたえひめ丸が、生徒の命より漁獲を大事にするように作られていた船であったとは。私達がこの事実を知っていたら、この船に息子を乗せたでしょうか。」「万一の事を考えられて、安全で教育を重視した船が建造されますよう、大切な子を奪われた親から切にお願いもうしあげます。」
しかし、愛媛県教委は頑なだった。校長名で出した要望書について、県議会でそんな物は来ていないと言い放ち、後で撤回した。県の方針が現場教員の運動で変わってはならないという意識が強かったのである。愛媛県では、教委は絶対だった。しかし、世論の広がる中、最終的には常識が勝利する。県は実習船を二層式とし、生徒スペースは上部にもうけることを決定した。半数が臨時雇いだった船員も、正職員にすることになり、採用試験が行われた。まだ特別会計制度は残っている(2003年現在)というが、499トンながら生徒居住区がすべて水面上に配置された二層甲板式の新えひめ丸の竣工式が、2002年12月10日に行われた。
(現在の5代目えひめ丸、2017年横浜港入港時)
この問題はもっと大きく報道されるべきだった。水産科、あるいは海洋科の高校は、都道府県に一校だろうから、教育界でもその内容はよく知らない。なぜ愛媛県だけ最後まで、臨時職員が残ったのだろうか。それは愛媛県教委が「現場の声を聞かない体質」だったからだろう。愛媛県は50年代の勤評問題で、全国にさきがけて勤評を実施、以後教員組合の組織率はとても低い。白石知事「独裁」が続き、その後に加戸守行が文部官僚から当選して、当時2期目だった。愛媛県は東京と並んで、養護学校に「新しい歴史教科書をつくる会」教科書を採択した地域だった。
あらゆる組織で、「現場無視」の体質が続くと、やがて大きな問題が起きるということではないか。批判精神のある労働組合の存在は決定的に重要である。「職場の連帯」なくして、世の中は変えられない。今後も忘れてはいけない大切なことを「えひめ丸」の犠牲者が教えてくれる。
(えひめ丸事故20年の追悼式典)
えひめ丸事件は米海軍原子力潜水艦グリーンビルの不意の浮上にすべての原因がある。潜水艦には訪問客がいて艦長は民間人に操縦桿を握らせたりしていた。ところで、ここで紹介したいのは、直接的原因とはちょっと違う「えひめ丸のもうひとつの問題」である。「週刊金曜日」の2003年5.9、5.16号に掲載された北健一「海の学校」(「第13回ルポルタージュ大賞」優秀賞)に書かれていたものである。当時僕は自分の「メール通信」で書いたんだけど、時間も経って読んでない人が多いだろうから、20年目の機会に改めて書くことにする。
さて、衝突当時甲板上または船内上部にいたものは、海に投げ出され辛くも一命を取り留めたが、船内下部に残されたものはそのまま逃げられずに船と運命をともにした。その間わずか10分。たまたま衝突の時にどこにいたかが明暗を分けた。それだけだったら「運命の悲劇」だったというしかないが、高校生たちが船の下部にいたのは、船の構造による必然的なものだったのである。そして、そのような構造の船は安全面、教育面からの反対論を押し切って作られたものだった。他県の実習船の構造はえひめ丸とは違っていたのだ。えひめ丸事故は教育的発想を忘れた愛媛県当局の人災的側面があったのである。
えひめ丸は、生徒用食堂やコンピュータ室など生徒用スペースが船の下部におかれていた。全国の水産高校実習船のなかで最も大きい冷凍マグロ魚倉が、設計を制約していたのだ。生徒の部屋が避難しやすい上部にあれば、もしかしたら結果は違っていたかもしれない。実際、えひめ丸で行われていた避難訓練で、生徒たちが目標時間内に甲板に集合できたことはなかったという。えひめ丸は94年に4代目が作られたが、どんな船にするか、校内でも議論があった。
すでに遠洋漁業全盛期はすぎ、卒業してマグロ漁船に乗る生徒もほとんどいない。生徒の変容もあり、漁獲高中心より、生徒の居住性を重視してはどうか。二層甲板にして、上部を居住スペースにする方がいい。隣県高知の土佐海援丸や東京の大島丸など、すでに全国の実習船は二層式が大勢をしめつつあった。校内では二層式の要望が強く、県教委の検討委員会の大勢もその方向だった。漁業の後継者育成のためにも、また他の中高生の体験学習に利用するためにも、居住性重視が望ましいという意見が強かった。
だが、結局県が選んだのは旧来の一層式だった。宇和島水産高の校長も一層式を支持した。なぜなら、その方がマグロ漁に向いているからだ。愛媛県では、船員の半数が臨時雇いで、報酬が歩合制のため、漁獲高を減らす訳にはいかなかったのだ。すでにそういう雇用形態の高校は全国にない。愛媛県以外はすべて、実習船の船員が県の正職員になっていたのである。乗船実習で「船員はかせぐために頑張る。生徒はその姿をみて海の仕事を覚える」という昔ながらの考えもあったというが、そういう考えについてくる生徒は今やほとんどいない。「漁獲偏重から教育主体へ」を教員側は訴えたが、通らなかった。
(沈没した「えひめ丸」)
実際にできた四代目えひめ丸は、予想を超えた居住性の悪い船だったようだ。細かい故障や欠陥が多く、特にトイレの汚水の逆流に悩まされたらしい。船員は漁獲におわれ、教育の余裕はなかった。94年の新造船の要望挫折後、宇和島水産高校では「何をいっても変わらない」という空気が支配的になったという。そんな中、98年の愛媛県高等学校教育研究会水産部会で、水産科の牧澤弘教諭が発表した中には、「これが果たして実習か?と首を傾げざるを得ない」「生徒に技術を教えるという事が全くできていない」「多目的航海や沿岸航海といったことが非常に計画しづらい」などという実態が報告されている。
そして、実習の短縮、寄港地を2カ所にする、沿岸航海実習の新設など、すでに他県で行われていることを提案している。驚くことにその中には、えひめ丸を宇和島港に常時係船するという項目がある。事故までは神奈川の三崎港が係留地だったのである。この発表をした牧澤弘教諭も犠牲者だった。今度はもう黙っているわけにはいかない。残された教員たちは、愛媛県高等学校教員組合宇和島水産分会を結成し、3月21日に知事宛の「緊急申入書」を提出した。多くの新聞、テレビもかけつけたが、全く報道されなかった。組合内部にも米軍との交渉のさなかにえひめ丸の欠陥を明らかにし、補償金が値切られたら、組合で払えるのかなどという人がいた。
県教委は新船の検討会議をスタートさせたが、94年には公開だったのに、今回は非公開。「議事録もない」と教委はいった。ある保守系県議は「居住区を上にあげ操業を減らせば、生徒は甘える。」といった。さらに「水産高校は能力の低い生徒ばかりだから、今まで通りでいい。こんな財政難に何をいっているのか」と言い放った。7月20日に開かれた市民集会をきっかけに風向きが変わった。ある教師が「高校側では新実習船を499トンから660トンに大型化し、安全性と居住性を向上させることを要望している」と発言した。「しかし、県側は一歩も譲りません。私は言いました。だったら一回乗ってみいや。あんたら図面だけで言うけど、二ヶ月半の航海に乗って、いっぺん生活してみ。」その日の集会のようすはようやく地元紙やテレビで報道された。
結局、問題は水産実習に関する特別会計制度の弊害ということだという。実習であがる収益を、実習にかかる経費に充てる。現場にとってはある種のノルマである。戦前の産業教育振興法の規定を根拠にして、職業高校の特別会計制度が作られた。工業高校などでは早く廃止され、他県では農業、水産などでも教育経費は一般財源から支出されるようになった。しかし、愛媛県などではまだ特別会計が残っていたのだ。事故の年の実習は高知県の土佐海援丸で行われた。特別会計制度のない高知の実習はのびのびしたものだった。マグロ延縄にかぎらず、イか釣りや沿岸航法を学ぶ等の実習もあった。船員も体験談を生徒に語った。「えひめ丸とちがって、楽しくいろいろ学べました。」と生徒は感想をのべた。
市民集会の後、世論は高まった。特に犠牲となった実習生の母・寺田真澄が8月28日に出した知事宛の手紙が関係者の胸をうった。「立派な実習船とばかりに信頼していたえひめ丸が、生徒の命より漁獲を大事にするように作られていた船であったとは。私達がこの事実を知っていたら、この船に息子を乗せたでしょうか。」「万一の事を考えられて、安全で教育を重視した船が建造されますよう、大切な子を奪われた親から切にお願いもうしあげます。」
しかし、愛媛県教委は頑なだった。校長名で出した要望書について、県議会でそんな物は来ていないと言い放ち、後で撤回した。県の方針が現場教員の運動で変わってはならないという意識が強かったのである。愛媛県では、教委は絶対だった。しかし、世論の広がる中、最終的には常識が勝利する。県は実習船を二層式とし、生徒スペースは上部にもうけることを決定した。半数が臨時雇いだった船員も、正職員にすることになり、採用試験が行われた。まだ特別会計制度は残っている(2003年現在)というが、499トンながら生徒居住区がすべて水面上に配置された二層甲板式の新えひめ丸の竣工式が、2002年12月10日に行われた。
(現在の5代目えひめ丸、2017年横浜港入港時)
この問題はもっと大きく報道されるべきだった。水産科、あるいは海洋科の高校は、都道府県に一校だろうから、教育界でもその内容はよく知らない。なぜ愛媛県だけ最後まで、臨時職員が残ったのだろうか。それは愛媛県教委が「現場の声を聞かない体質」だったからだろう。愛媛県は50年代の勤評問題で、全国にさきがけて勤評を実施、以後教員組合の組織率はとても低い。白石知事「独裁」が続き、その後に加戸守行が文部官僚から当選して、当時2期目だった。愛媛県は東京と並んで、養護学校に「新しい歴史教科書をつくる会」教科書を採択した地域だった。
あらゆる組織で、「現場無視」の体質が続くと、やがて大きな問題が起きるということではないか。批判精神のある労働組合の存在は決定的に重要である。「職場の連帯」なくして、世の中は変えられない。今後も忘れてはいけない大切なことを「えひめ丸」の犠牲者が教えてくれる。