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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ノーベル平和賞にイランの女性運動家、シリン・エバディ(2003年受賞者)を思い出す

2023年10月10日 22時26分18秒 |  〃  (国際問題)
 2023年のノーベル平和賞受賞者にイランのナルゲス・モハンマディ(1972~)が選出された。理由は「イランにおける女性への弾圧に抵抗し、すべての人々の人権と自由を促進するための戦いに対して」である。モハンマディは現在獄中にいる。イラン政府が授章式出席のために釈放するとは(残念ながら)考えにくい。世界的な大規模な釈放キャンペーンが緊急に必要だ。
(ナルゲス・モハンマディ)
 今までにノーベル平和賞が獄中にいる人に与えられたことは何度かある。昨年(2022年)のベラルーシの人権活動家アレシ・ビャリャツキもその一人で、2年連続になる。1935年のカール・フォン・オシエツキー(ドイツの平和運動家)、2010年の劉暁波(中国の人権活動家)が決定当時、獄中にあった。これらの人々は「良心の囚人」であり、人間に対する希望を未来へつなぐ人々である。また1991年のアウンサンスーチー(ミャンマー)は自宅軟禁中で授章式に出席出来なかった。他にもサハロフ(1975、ソ連)、ワレサ(1983、ポーランド)が授章式に出席出来なかった。
(モハンマディの家族)
 2022年秋にイランで「反ヒジャブ」の大デモが起こったとき、僕はここで書かなかった。日本のマスコミは盛り上がったときだけは報じるが、全体としては情報量が少なくてよく判らないことが多い。例えば、僕は今回の受賞者ナルゲス・モハンマディの名前を知らなかった。日本人の多くは同じだろう。「2023年10月」は、1973年10月に起こった第4次中東戦争から半世紀を迎える月だ。あの時はアラブ諸国が「石油戦略」を発動して、日本で「オイルショック」が起きた。その時、「日本人はもっとイスラム教地帯を知らなければいけない」と言われたものだ。しかし、どのぐらい変わったのだろうか?

 さて、今回の受賞からちょうど20年前、2002年にやはりイランの女性がノーベル平和賞を受賞した。それがシリン・エバディ(1947~)である。2007年に『私は逃げない』という自伝が翻訳された(ランダムハウス講談社)。その時に書評を書いているので、そこから引用して紹介したい。シリン・エバディは、イスラム教徒の女性として、またイラン人としても、初めてノーベル賞を受けたが、名前を知らないという人も多いのではないだろうか。イランの女性弁護士で、タフで繊細な人権の闘士である。
(シリン・エバディ)
 2000年の秋のことである。彼女は、権力による知識人暗殺の遺族側弁護士として無償の活動を続けていた。司法省のファイルを10日間だけ見る許可を与えられたシリンは、情報省内の秘密暗殺チームの文書に「次に殺さねばならんのは、シリン・エバディだ」という箇所を自ら発見してしまう。まさに命をかけた活動の記録がこの本なのである。シリン・エバディは、イランで初めて裁判官になった女性である。判事でありながらシャー(国王)に反対する動きに勇気を持ってコミットした。しかし、反シャーの抗議文を持ち先輩裁判官室を訪れると、「革命が起こったら、女性裁判官は追放される。自分で自分の首を絞めるような事をなぜするのか」と言われたと自伝に書いている。まさか、そんなことがあるとは思わなかったのだ。 

 イランのパフレヴィー1世は、第二次大戦中に英ソにより追放され、子どもの2世が継いだ。権威の確立していない王のもと、事実上自由選挙の時代が訪れ、民族主義的なモザデグ政権が成立する。モサデグ政権は石油資源の国有化を進めたため、1953年にアメリカの秘密情報機関がクーデターを起こして崩壊させた。その後、アメリカに支えられて独裁を開始した若きシャーに、国民は初めから冷ややかだったのである。王制は結局秘密警察SAVAKにより支えられていた。アメリカの支援を受け近代化、工業化をひたすら進めたシャーに対し、近代化政策が伝統に反するとみた宗教保守派が抗議する。その結果、法学者の最高権威だったホメイニという無名の人物がイラクに追放された。左翼勢力、民族主義者は秘密警察の厳しい弾圧にさらされた。

 1971年、シャーはペルセポリス遺跡で建国2500年祭を、大々的に挙行した。これが転機となった。外国から見れば磐石と見えたイラン王政だが、人心は完全に離れた。イスラム保守勢力も、左翼過激派も、リベラルな芸術家、知識人も、反王政の一点で事実上共闘することになったのである。それが1978年夏の情勢で、大々的なデモと、数々の弾圧事件が続き、いよいよ人心を失ったシャーは、1979年1月に出国。代わってパリからホメイニが帰国する。革命後の権力をめぐり、イスラム勢力と左翼過激派のテロの応酬が始まった。この混乱の勝者はイスラム勢力だった。彼らは旧勢力と左翼過激派を抹殺する。そして女性や他宗教の人々の権利を剥奪し始めた。

 そして、イランの女性は大きな苦難にさらされたのである。シリン・エバディの場合、革命派だった過去は全く意味を持たず、裁判官には女性はなれないということで、事務職への異動を命じられた。時代錯誤としか思えない「イスラム法」(と称するもの)が突然実施に移される。女性の権利は、男性の二分の一とされた。姦通には石打ち、盗みには腕切りなど20世紀の常識を覆す刑罰が導入された。人々は反イスラムというレッテルを恐れ、沈黙が社会を覆い、女性はスカーフで髪を覆うようになった。あらゆる音楽会が禁止になり、クラシックやポピュラーだけではなく、民族楽器の演奏もできなくなった。アメリカ映画だけでなく、外国映画の上映はなくなってしまった。

 1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争が、国連安保理の停戦あっせんを受諾して戦争が終わると、イランは徐々に復興し、エバディにも弁護士資格が認められるようになった。そのような中で、驚くべき事件をシリンは知ることになる。農村地帯で、ある11歳の少女が3人の男に強姦され崖の上から落とされ殺された。3人の男は逮捕されたが主犯は自殺、二人の男に死刑判決が下った。イスラム法においては(というかイランのイスラム体制における解釈では)「殺人の被害者は、法的処罰か金銭的補償かを選べる」。そして「女は男の権利の半分の価値がある。」

 そこで、少女の命を1ポイントとすると、男二人が死刑となるので男側のポイントは2×2の4ポイントとなる。被害者家族は、「レイプ被害者の家族という汚名」を晴らすため、死刑を求めるしかない。(イランの農村部の家父長的価値観の中では。)かくして、死刑となる男の家族の側に、少女の家族に対して「3ポイント分の補償」を求める権利が生じる。裁判所は少女の父親に処刑費用を含む多額の金額を払うように命じる判決を出した。家族は財産を投げ出したが足りないので、腎臓を売ろうとした。しかし、父は薬物乱用の過去があり、兄は小児麻痺のため腎臓摘出ができなかった。なぜ家族で臓器を売るのか不思議に思った医者が事実を知り、司法省のトップに手紙を書き、問題を訴えた。そこで首都でも知られたが、その後の経過も奇奇怪怪。

 著者はこの段階で被害者家族の無償の弁護人となった。処刑を前に犯人が脱走、つかまり再審となり、無罪。また再審となり・・・。読んでてもこのあたりは、理解できない。著者も外国向けのこの本の中で、法的な経緯を追って説明することを諦めているように思う。これほど奇怪なケースはイランでも稀ではあるらしいが、度を越している。イスラム法は、確かに「女の相続は男の半分」としているようだが、命に差をつけているというわけではない(らしい。)つまり、イスラム法の解釈の中でも、一部の少数派が権力を握った状態なのである。(実際、アラブ諸国を始めすべてのイスラム圏でこのようなことが起こるわけではない。)
 
 こうしてシリン・エバディは虐げられた女たち、自由を奪われた知識人などの「良心の囚人」のために無償で働く人権活動家になっていった。そして逮捕されてしまう。その後、1999年に「改革派」のハタミが大統領に選ばれ、多少の希望が見えた時代がやってきたが、やがて失望が社会を覆う。それでも、「子供たちが誕生会で集まるのも心配だった時代」は21世紀になると終わっていった。そうして国際的にも知られるようになったシリン・エバディにノーベル賞が授与された。その時パリにいたが帰国したシリンを何十万もの民衆が迎えた。そんなに民衆が空港に集まったのは「ホメイニの帰国以来」だった。

 シリン・エバディは、イランを去らない決意をしている。というところで、その本は終わっているが、ウィキペディアを見ると2009年6月にイギリスに亡命したと出ている。ついにイランにはいられなくなったのである。だが不屈の闘いはより若い世代に受け継がれていったことが、今回の受賞で判る。それにしても、「イスラム法」とは何という奇怪な仕組みだろう。驚くしかないのだが、その後に見たいくつかのイラン映画には、やはり奇怪な法解釈が出て来るのである。
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『熊は、いない』と『君は行き先を知らない』、イランのパナヒ親子監督作品

2023年10月09日 20時42分26秒 |  〃  (新作外国映画)
 イランの映画が2本公開されている。それが親子監督のそれぞれの作品なのである。まずは2022年のヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『熊は、いない』。監督のジャファル・パナヒ(1960~)は、20年間の映画製作と海外渡航の禁止を宣告されながら、それでも映画を作り続ける不屈の映画監督である。それらの映画『これは映画ではない』(2011)、『人生タクシー』(2015)、『ある女優の不在』(2018)もここで紹介してきたが、今回の作品も覚悟を持って作られた問題作だ。もちろん本国では上映出来ない。さらに今作完成後には当局に拘束されてしまったと伝えられている。

 と言っても、今作も抵抗をテーマにしているわけではない。厳しい環境の中で作らざるを得ないから、本格的な作品は作れずエッセイ的な映画が多い。今回は辺境の村に住み着いて、国境の向こうのトルコで映画を作っているという設定。宣伝をコピーすると、「国境付近にある小さな村からリモートで助監督レザに指示を出すパナヒ監督。偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている男女の姿をドキュメンタリードラマ映画として撮影していたのだ。さらに滞在先の村では、古いしきたりにより愛し合うことが許されない恋人たちのトラブルに監督自身が巻き込まれていく。2組の愛し合う男女が迎える、想像を絶する運命とは......。」
(映画の中のジャファル・パナヒ監督)
 このように最近の映画には監督本人が登場する。シネマ・エッセイ的作風にもよるが、何が現実で何が創作か見ている方も判らなくなる効果が生まれる。監督が滞在するトルコ国境の村の住民は「トルコ語」を話す人が多い。(「クルド語」かもしれないが、映画ではトルコ語とされる。)その村から映画の指示を出そうとするが、電波状況が悪くてうまく行かない。そのうちに、今度は村人が監督のもとへ押しかけてきて、「あるカップル」を撮影したかどうかと追求される。村には古い習俗があり、生まれた時に許婚を決めてしまう。ところが女が別の男と駆け落ちしようとしているというのだ。
(村人と語る)
 何なんだこの村はと思うが、監督が作っている映画でもトルコから外国へ行こうとする男女を撮影している。監督の村でもカップルは駆け落ちしようとしているらしい。監督は国境の向こうには関われず、村人の問題にも入れない。そんな中で監督は何故この村へ来たのか。監督も隣国へ逃げるのか。最初は歓迎されていた監督だが、村人の警戒も強まる。悲劇を目にしても監督は何も出来ないまま去るしかない。その無念、屈辱などが映画を深くしている。

 『熊は、いない』に先立って、『君は行き先を知らない』が公開された。監督のパナー・パナヒ(1984~)はアッバス・キアロスタミや父ジャファルの助監督をしてきたというが、満を持しての監督デビューである。いかにも初々しいロード・ムーヴィーの佳作で、出来映えは見事。冒頭で一家がドライブしているが、次男は父から携帯電話は絶対持ってくるなと言われていたのに、幼なじみの女の子と話したいから持ってきている。音がしてバレたため、車を止めて父が携帯電話をどこかに隠してくる。一体、このドライブはなんだろうと思うと、次第次第に判ってくるが、まだ幼い(撮影当時6歳)次男には旅の目的が理解出来ていない。

 そんな一家の旅は次第に国境地帯に近づき、荒涼たる風景が広がってくる。どうやら運転している長男は、「何か」があって逃げなくてはならない。それはデモ参加のような政治的な事情らしいが、語られない。国境近くでは海外逃亡を助ける組織があるようだが、相当の金が必要になる。一家は何とか工面して、国境近くまでやってきたのである。母は感傷的になり、父はケガもあり苛立っているが、何も判らない次男は無邪気である。そんな家族の描きわけが観客に伝わってきたとき、これで二度と会えないかもしれない一家の運命を思って見る者も粛然とせざるを得ない。

 パナー・パナヒは監督になるチャンスを長いこと待っていたらしい。ようやくこれならと思う題材を得て作った映画は、非常に立派な作品になっている。家族で飼ってる犬が存在感を示すが、家族それぞれは名前も出て来ない。直接説明するセリフが少ないからよく判らないから、見る者は想像してしまうわけである。そういう作り方はアッバス・キアロスタミや父ジャファル・パナヒの映画に影響されたとも言えるだろう。その意味ではまだまだ独自の映像世界とは言えないかもしれないが、やはりイラン映画に現れた注目すべき才能だと思う。
(パナー・パナヒ監督)
 どちらの映画もイラン国内の閉塞状況を示している。多くの人が国を捨て外国へ向かっている。監督父子の周囲でも同じらしいが、あえて不自由な国内に留まって映画を作り続けるのがパナヒ親子だ。その心意気に感じて、これからも見続けたい。
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「トンデモ埼玉」?、驚愕の虐待防止条例「改正」案

2023年10月08日 22時17分03秒 | 政治
 『翔んで埼玉』という映画が数年前にヒットして、今続編が作られているという。だが、その前に「トンデモ埼玉」とでも言える驚きの事態が埼玉県で起こっている。「県虐待防止条例の改正案」が議会に提出されて、自民党、公明党の賛成ですでに委員会を通過した。13日の県議会で採択される予定だという。その内容が凄すぎて、とても本当とは思えないレベルなのである。僕はテレビのニュース番組で知ったが、関東地方でもまだあまり報道されていないから、全国では知らない人も多いと思う。

 「改正案」というから調べてみると、もともと埼玉県には「虐待防止条例」があった。それは児童に限定するものではなく、高齢者や障害者も含めて「虐待」を防止しようという条例である。特に問題はない感じだが、今回は自民党から「改正案」が出された。この夏も猛暑の中、車に幼児を置き去りにして熱中症で亡くなるというような出来事があった。そういうこと(児童放置)をなくさなくてはということらしいのだが、そのためには「放置」を定義しなければならない。

 4日の本会議の質疑で提案者の自民党議員から説明があって、そこで上記画像にもある驚くべき「定義」が明らかになった。それによれば、「小学3年以下の子どもを自宅などに残して外出することを保護者などに禁じる」という。そして「子どもたちだけで公園で遊ばせたり、学校の登下校をさせたり、高校生のきょうだいに預けて出かけたりすること」が違反となると説明したという。小学4年から6年に関しては「努力義務」として、県民には放置されている子どもの通報義務を課すとした。(10.7東京新聞)

 「子どもを自宅に残して外出すること」は諸外国では虐待とされ、法律で禁止している国も多いと思う。映画や小説では夫婦で外出するときに、ベビーシッターを頼んでいる。僕も自宅放置は良くないと思うけど、シングルマザーの厳しい状況ではなかなか難しい問題がある。夜間中学や夜間高校はあるけど、夜間小学校はない。だから、(この条例が通れば)小学生段階の子どもがいる親は、昼の仕事しかできなくなる。だが夜に仕事する人も必要である。何も飲み屋とか「風俗業」ではない。昼に仕事する人のために夜働く(販売、飲食、交通など)人がいなければ社会は回らない。そしてスーパーなど夜のシフトの方が時給が高いことが多いだろう。性別を問わず、単親家庭への厚い支援なくして不可能な条例だ。

 もう一つの方、子どもだけで外で遊んだり登下校するのが「虐待」だというのは、全く理解出来ない。これでは日本人は全員虐待されて育ってきたことになる。自民党議員だって、子どもだけで登下校していたのではないか。これでは「外遊び禁止条例」である。もちろん幼児の場合は、親が見守るべきだろう。だが小学生にでもなれば、友だち同士で登校してきたと思う。途中に危険な交差点などがあれば、そこに大人がいれば良い。昔は「緑のおばさん」という人がいたものだが。外遊びも、大人がいくら禁止しても自分たちだけで出掛けてしまうだろう。またそういう子どもでなければ困る。

 「通報義務」に至っては、自民党はどうなってしまったのかと思う。子どもだけで遊んでるのを見た大人は、警察に通報しないといけないのか。なんという恐るべき「警察国家」だろう。これを自民党は「社会全体で子どもを育てる」などと言ってるらしい。何を今さら、そんなことを言うのか。民主党政権がそんなことを言えば、「共産主義」「ポル・ポト派」などと悪罵を投げつけてきたのは自民党の方だ。今さら財源の保証もせずに、社会全体も何もないだろう。

 さすがに「さいたま市PTA協議会」が署名運動を始めるとか、反対運動も急速に盛り上がっている。何で自民党がこんな改正案を出してきたのか。余計なおせっかいするなと「個人責任」にするのが、自民党なのでは? だが「児童虐待」を防ぐという大義名分のもと、自縄自縛に陥っているのではないか。最近は「原理主義的思考」が世にはびこっている。「放置」は「虐待」だとして、では「放置」とは何かと考えて行くとき、あれもこれもと決めつけてしまう。その時に「常識」という歯止めが掛からない。ネット上では、「埼玉では子育てが出来なくなる」とか「『はじめてのおつかい』は埼玉では放送禁止」とか言われている。

 仮に条例が可決されたとき、知事には公布せず議会に再議に付し、3分の2以上で再可決しないと廃案になるという権限がある。ただ埼玉県議会の会派構成を調べてみると、定数93人のうち、自民党が58人、公明党が9人と自民単独では3分の2に届かないが、自公でまとまれば再可決が可能である。従って、反対の声を大きくして、こんなバカバカしい「改正案」を引っ込めさせるしかない。
*連休中に大問題となり、連休明けの10日に自民党県議団は条例改正案を取り下げることを決定した。このままでは国政にも影響を与えかねない状況になってしまったので。それにしても委員会を通過した事実は残る。自身がある政策なら、こんな簡単に引っ込めないはずだ。県民にしても、一党にこれほど多くの議席を与えていることを考えて欲しい。(10.10記)
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市川猿翁、加藤秀俊、ボテロ他ー2023年9月の訃報

2023年10月07日 22時28分48秒 | 追悼
 2023年9月の訃報特集。9月も8月に続き、比較的大きな訃報が少なかった。誰でも知っているような「有名人」は、2代目市川猿翁だけかもしれない。13日没、83歳。4代目市川猿之助の「不祥事」直後に、この訃報を聞くのは意外ではない。やはりショックだったんだと思う。マスコミの訃報は「猿翁」とだけ言ってたが、この人の活躍は「猿之助」時代のものである。1962年に慶大を卒業し、翌年3代目猿之助を襲名した。しかし、その直後に祖父初代猿翁、父3代目段四郎を相次いで亡くし、梨園の孤児となった。その中で、猿之助は68年に『義経千本桜』で「宙乗り」を披露、歌舞伎界では批判もあったが、以後も大衆受けするエンタテインメントとして歌舞伎人気を支えるまでに成長させた。「宙乗り」5000回達成時にはギネス記録になっている。

 1986年には梅原猛の台本『ヤマトタケル』で、現代風演出の「スーパー歌舞伎」を始めた。これは大評判となり、『オグリ』『八犬伝』『新・三国志』などと続いていった。2010年に文化功労者に選ばれたのも、スーパー歌舞伎の成功が大きいだろう。しかし、僕は一度も見てない。僕が演劇に求める方向と少し違うのである。一方、1965年に女優浜木綿子(はま・ゆうこ)と結婚、子どもの香川照之(市川中車)が生まれたが、1968年に離婚。その前から日本舞踊家で女優の藤間紫と同棲していたが、16歳年上の藤間紫には夫も子もあった。藤間の離婚成立(1985年)後も同棲を続けたが、2000年に結婚した。有名なスキャンダルだが、今では藤間紫(2009年死去)も浜木綿子も忘れられたか。スマホを見たら「香川照之の母がコメント」などと出ていた。
(スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』1998年10月大阪松竹座)
 社会学者の加藤秀俊が20日死去、93歳。ものすごくたくさんの一般書を書いて多くの人に知られていた。54年にハーバード大学に留学してリースマンに師事した。リースマン『孤独な群衆』の訳者である。1957年の『中間文化』は戦後日本で高級でも低俗でもない「中間文化」が広がっていると分析した。63年の『整理学』は現代社会を生きるには整理能力が決め手になると説き、先駆的な指摘となった。70年大阪万博では小松左京、梅竿忠夫らと理念の検討を行い、「未来学」を提唱した。『空間の社会学』(1976)以後、○○の社会学という一般書を何冊も書いた。『隠居学』(2005)は母親の部屋を整理してたら出て来たので驚いた。
(加藤秀俊)
 科学史家の伊東俊太郎が20日死去、93歳。東大、麗澤大、国際日本文化研究センターなどの教授を務めた。近代科学と社会の関係を比較文明学的に研究した。『近代科学の源流』(1978)、『比較文明』(1985)など多くの著書がある。文化功労者。
(伊東俊太郎)
 現代音楽の作曲家、西村朗が7日死去、69歳。東京音大教授。NHKの「N響アワー」(09~12)の司会者としても知られた。現代音楽の賞として知られる尾高賞を6度受賞(三善晃、一柳慧とともに最多)。サントリー音楽賞、毎日芸術賞など受賞多数。管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲の他、オペラ『紫苑物語』(2019)や数多くの合唱曲など様々なジャンルで多数の作曲を行った。
(西村朗)
 4人組男声コーラスグループ「ダークダックス」の最後のメンバーだった「ぞうさん」こと遠山一が22日死去、93歳。幅広いジャンルの歌を歌ったが、「ともしび」「カチューシャ」「雪山賛歌」「北上夜曲」「山男の歌」などロシア民謡、各地で発掘した名曲などで知られる。60年代には本当に誰でも知っている存在だった。
(遠山一)
 コロンビアの画家、フェルナンド・ボテロが15日死去、91歳。ふくよかな体格の肖像画で知られ、「南米のピカソ」と呼ばれた。コロンビア内戦やイラクのアブグレイブ収容所での米兵による拷問事件などを題材にした作品もある。日本では2022年に大規模な作品展が開催され、同時にドキュメンタリー映画も公開されたが、どっちも見なかった。
(フェルナンド・ボテロ)(ボテロ展のチラシ)
 元イタリア大統領のジョルジョ・ナポリターノが22日死去、98歳。1945年にイタリア共産党に入党、1953年に下院議員に当選した。やがて、党内で頭角を現し、ユーロコミュニズムの有力な推進者となった。イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームとの対談『イタリア共産党との対話』の翻訳が76年に岩波新書から刊行され、僕も読んで刺激を受けた。イタリア共産党はやがて「左翼民主党」と改称し、ナポリターノも92年から94年に下院議長、94年にはプロディ政権で内相を務めた。2006年には大統領に選出、イタリアでは大統領は議会が選出し実権を持たないが、旧共産党出身で初めてだった。通常1期で終わるが、後継がもめて87歳のナポリターノが初の2期目に当選した。(3年間で辞任。)
(ジョルジョ・ナポリターノ)
・アメリカの有力政治家が二人亡くなった。一人はダイアン・ファインスタインで、29日没、90歳。現職の連邦上院議員だった。1972年から88年まで、女性初のサンフランシスコ市長となり、1992年から亡くなるまで上院議員を務めた。これはユダヤ系女性として初めてだった。議会では「女性初」の役職を多く務めている。なお、市長になったのはゲイの市政委員として知られたハーヴェイ・ミルクが市長とともに銃撃された後である。市政委員長として市長代理となり、その後正式な市長に就任した。
・もう一人はビル・リチャードソンで、1日死去、75歳。民主党の連邦下院議員、クリントン政権の国連大使、エネルギー長官を務めた後、2003年から11年に掛けてニューメキシコ州知事を務めた。ヒスパニック系有力政治家として大統領候補とみなされ、2008年大統領選に出馬したが、オバマ、ヒラリー・クリントンの争いに埋没して撤退した。北朝鮮との独自のパイプを持つことで知られ、2013年には拘束されていた韓国系米国人の解放のため平壌を訪れた。他にもイラクなどで拘束された米国人解放のため交渉に当たったことで知られてきた。
小池邦夫、8月31日死去、82歳。絵手紙の創始者として知られる。「下手でいい、下手がいい」を合言葉に絵手紙の普及に務めた。
蔡焜霖(さい・こんりん)、3日死去、92歳。50年に国民党政権下の台湾で政治弾圧を受け懲役10年となる。60年まで服役し、66年に児童雑誌「王子」を創刊し、日本の漫画の翻訳を掲載した。自身の経験を基にしたコミック『台湾の少年』は岩波書店から刊行されている。
門田守人(もんでん・もりと)、7日死去、78歳。医学者。阪大名誉教授。日本医学会会長の他、日本癌学会、日本外科学会などで会長を務めた。また日本臓器ネットワーク理事長も務めた。
寺沢武一、8日死去、68歳。漫画家。代表作『コブラ』(78~85)は、全世界で5千万部発行されている。
江沢洋、10日没、91歳。物理学者。量子力学の研究で知られ、一般向けの本も数多く書いた。
藤崎陸安(みちやす)、14日没、80歳。全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長。52年に青森の松丘保養園に入所した。
土田よしこ、15日死去、75歳。漫画家。赤塚不二夫のアシスタントを経てデビュー。代表作は『つる姫じゃ〜っ!』(73~79)。
又市征治、18日死去、79歳。元社民党党首。富山県出身で、01年から19年まで参議院議員。
棚橋静雄、19日死去、85歳。ロス・インディオスの元リーダー。79年に「別れても好きな人」が大ヒットした。
ヨネヤマママコ、20日没、88歳。パントマイマー。舞踏家大野一雄らに師事、54年に初のパントマイム「雪の夜に猫を捨てる」で評価された。60年に渡米し、72年に帰国するまでに独自のメソッドを身に付けた。帰国後は日本を代表するパントマイマーとして活躍した。92年に蘆原英了賞。
伊藤礼、22日没、90歳。英文学者、エッセイスト。『狸ビール』(91)で講談社エッセイ賞。作家伊藤整の子で、父の訳した『チャタレー夫人の恋人』の補役を行った他、父の関する著作も多い。60代になって自転車ファンとなり、自転車に関するエッセイを数多く書いた。
デヴィッド・マッカラム、25日死去、90歳。イギリスの俳優。テレビドラマ「0011ナポレオン・ソロ」のソ連スパイ、イリヤ・クリアキンで人気を得た。
宮田節子、27日死去、87歳。歴史学者、朝鮮史が専門で、日本の植民地時代の創氏改名などについて研究し、社会的発言も行った。
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『ナイフをひねれば』(アンソニー・ホロヴィッツ著)を読む

2023年10月05日 20時35分31秒 | 〃 (ミステリー)
 秋にアンソニー・ホロヴィッツの新作ミステリーを読むのも、今年で6年目。これほどレベルの高いミステリーを世に送り出し続けるホロヴィッツの才能に改めて驚く。今回の『ナイフをひねれば』(The Twist of a Knife、2022)は、ホーソーン&ホロヴィッツ シリーズの4作目だが、驚くべき趣向でミステリー史に残る作品だろう。

 シリーズの趣向を簡単に紹介すると、作者自身のアンソニー・ホロヴィッツが、元警官の凄腕探偵ダニエル・ホーソーンの捜査過程を記録していくミステリーである。つまり、自分自身(と同じ名前の人物)がワトソン役となり、ホームズ役のホーソーンの推理を語るわけである。その際ついアンソニーも自ら推理してしまい、それが全く外れてしまうのがお約束になっている。作中のアンソニー・ホロヴィッツはまさに実在の作家本人を思わせる楽屋オチ満載で、それも楽しい。

 だが今作ではその趣向が「楽屋オチ」では済まないレベルになっている。最初に語られるのは、ホロヴィッツの演劇への情熱である。若い頃から舞台に憧れ、自ら戯曲も書いてきた。そして『マインド・ゲーム』という台本を認めてくれる製作者が出て来て、地方だけど公演も行われた。そして、ついにロンドン公演も実現することになる。たった3人だけの舞台で、二人は今までと同じだが、もう一人若い男優は降りてしまい、代わりに売り出し中の若手が入る。彼はこの後クリストファー・ノーラン監督の『テネット』に出演が決まったとか。そんなこんなで初日が近づき、舞台の裏話が語られる。
(原書と作家)
 初日の客はなかなか楽しそうに観劇していたと思うのだが…。初日の打ち上げパーティでは、製作者が前に失敗した『マクベス』(野外劇が雨で大コケ)で作ったナイフを出演者や作家、演出家に記念に配った。ところがそこに、酷評することで嫌われている女性劇評家が現れ、皆に毒づき帰って行く。気分が沈んだ面々はもう一回劇場に戻って飲み直そうということになる。ところがその最中に、スマホを離さぬ若い女優が、早くも劇評が出たと知らせる。これがもうとんでもない酷評で、特にホロヴィッツの台本が大失敗の原因と決めつけるのだった。主演俳優も怒り出し、「殺してやる」とわめく始末。

 もちろんその劇評家が翌朝殺害されるのだが、何と警察当局が逮捕したのはアンソニー・ホロヴィッツその人だった。何も酷評されたからという理由ではない。凶器は当日配布のナイフで、他の人はすべてナイフを持っていたがアンソニーだけはナイフをどこに置いたか記憶がない。凶器のナイフからはアンソニーの指紋も検出される。ということで、作者本人と思われる人物を逮捕させてしまうという、ミステリー史上類例のない荒れた展開となる。アンソニーはホーソーンに助けを求め、「何故か」科捜研(にあたる部署)のコンピュータが故障して証拠を示せなくなり、一端仮釈放されるが…。
(舞台となったロンドンのヴォードヴィル劇場)
 今作は「謎解き」としては少々弱いと思う。まず凶器の問題から、容疑者が絞られている。今までのホロヴィッツ作品を思い出しても、殺人にまで至るのは単に劇評だけが動機とは思えない。となると、僕でも展開は予想可能なのである。もちろんミステリー小説はすべてを疑って読まなくてはいけない。語り手が実は真犯人だったという小説もある。だがこのシリーズはホロヴィッツが犯人か、無実でも裁判で有罪になってしまえば、それで終わりである。英国ではすでに第5作の刊行が予定されているという。今後もアンソニー・ホロヴィッツは書き続けるのである。これは「ミッション・インポッシブル」と同じだ。ミッションが不可能なら生還出来ないはずが、シリーズ化されている以上、「ミッション・ポッシブル」になるわけである。

 しかし、では何故ホロヴィッツのナイフが使われたのか。疑わしき証拠の数々は何故相次いでホロヴィッツを指し示すのか。「犯人当て」以上にそっちの「いかに」の解明に鋭さがある。実に見事なもので、ミステリーの読みどころである。また作中で語られる様々な社会問題への感想も興味深い。特に少年犯罪の裁判には驚いた。小学生の年齢に当たる被告人が、普通の刑事裁判を受けている。またその事件に関して実名が出ている本が刊行された。ちょっと日本の感覚では信じられない。この小説には様々な子どもをめぐる問題が出て来るが、現実のアンソニー・ホロヴィッツも子どもを守る活動で知られているという。
(現実の『マインド・ゲーム』舞台)
 この小説に出て来る戯曲『マインド・ゲーム』は実際にホロヴィッツが書いている。舞台公演も行われていて、その画像が上記のもの。日本ではまだ上演されてないようだ。そういうホロヴィッツが語るロンドンの演劇事情も興味深い。さすがに小説内に出て来るほど、ひどい劇評家が日本には(イギリスにも)いないと思う。これでは書いても新聞では掲載不可になるだろう。イングランドの風景美もいつもながら印象的な小説だった。日本の桜がちょっと使われているのも面白い。
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岩波新書『桓武天皇』(瀧浪貞子著)を読むー画期的な桓武論に驚き

2023年10月04日 23時22分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 家に読んでない本がいっぱいあるから、最近はネットで買わないことにしている。リアル書店を支える気持ちが強いのだが、なかなか大きな本屋に行く時間もない。買いたい本がいろいろあって、少し前にやっと行ったけど、つい歴史系の新書も買ってしまった。すぐに読みふけると、やはり面白いのである。いまや新書といえども千円超えるものが多いし、授業に役立てる意味もない。でも「趣味」なんだなあと思って、時々は買いたいと改めて思った。

 買ったのは呉座勇一動乱の日本戦国史 ― 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで ―』(朝日新書)と瀧浪貞子桓武天皇 ー決断する主君』(岩波新書)である。呉座氏の本は今まで紹介したこともあるが、とにかく面白い。桶狭間の戦い、長篠の戦い、関ヶ原の戦いなど、有名な戦国時代の「戦い」に関して通念と近年の新研究を検討している。信長の奇襲(桶狭間)、武田騎馬軍団対織田鉄砲隊の三段打ち(長篠)など、昔聞いたような話はどんどん更新されている。昔読んだり聞いたままになってる人は読んで欲しいと思うが、まあ僕は大体知ってたな。ということで、ここでは簡単な紹介だけ。

 問題は瀧波貞子氏の『桓武天皇』である。「桓武」は言うまでもなく「かんむ」と読む。日本史上に名高い「天武天皇」「聖武天皇」などと並ぶ「諡」(おくりな)に「」(む)が付く天皇である。桓武天皇は日本史上の超重要人物で、絶対に覚えたはずである。何しろ「平安遷都」を行った人で、その年も大体覚えてるだろう。「鳴くよウグイス平安京」で、794年。日本史上最長の都であり、世界的大観光都市でもある「京都」を作った人物ということになる。
(桓武天皇)
 瀧浪貞子(1947~)氏は日本古代史が専門で、京都女子大名誉教授。近年女性天皇の評伝などの一般書を多く出している。集英社の「日本の歴史」シリーズで『平安建都』(1991)を執筆し、その本は僕も読んだ。ところが今回の本を読むと、「今まで誰も気付かなかったが」というフレーズが多用されている。以前書いた自分の本の記述も大胆に変更しているのである。ちょっと細かい話になるかもしれないが、以前は桓武天皇の父、光仁天皇の即位をもって「天武系から天智系へ」と理解されていた。教科書には天皇系図が載っていて、それを見れば一目瞭然。天武天皇から直系で続くのは称徳天皇で途絶え、天智天皇の息子施基親王(志貴皇子)の子である光仁天皇が62歳で即位したのである。「天武系から天智系へ」ではないか。
(瀧浪貞子氏)
 ところが当時の人々の意識では、光仁、桓武天皇は「天武系」だったというのである。それは施基親王が「吉野の盟約」に参列していたからである。679年、天武天皇と皇后(後の持統天皇)は6人の皇子とともに吉野に行幸し、草壁皇子(天武・持統の子ども)を事実上の次期天皇とし、兄弟が協力するように盟約を結んだ。(しかし、即位前に草壁は死亡し、母の持統が即位する。)その時の6人の皇子は、天武の子の草壁、大津、高市、忍壁と天智天皇の子の川島、施基(志貴皇子と書くことが多いが、この本では施基とする)だった。僕もその盟約は知っていたが、天智の皇子が二人入っていたことは重要視しなかった。

 というか、こういう盟約を結んでも、その後よく知られているように大津皇子は反逆の罪に問われ死を選ぶ。その密告をしたとされるのが川島皇子である。そういう意味で、「盟約」は崩れたと思いこんでいた。だが奈良時代を通じて、「盟約」は「伝説」「伝統」とみなされるようになり、施基皇子もいわば「名誉天武系」と扱われていたというのである。施基皇子は陰謀渦巻く奈良政界に背を向けて、歌人として万葉集に載るなど文化人として生き延びた。その第6皇子が白壁皇子(光仁天皇)で、聖武天皇の皇女井上内親王を妻としたのも、そのような「天武系」扱いだったからだ。

 聖武天皇の男子が亡くなった後で、未婚の女性だった皇女阿倍(あへ)内親王が即位し、孝謙天皇となった。一時は淳仁天皇に譲位したが、かつての寵臣藤原仲麻呂との関係が悪化し「藤原仲麻呂の乱」が起きる。仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃された。その後、前天皇が重祚(ちょうそ=二度即位すること)して、称徳天皇となった。称徳天皇は僧の道鏡を重く用い、道鏡は自ら後継の皇位を望んだという。しかし、天皇は後継を決めずに亡くなり、白壁皇子が62歳(日本史上最高齢の即位)で光仁天皇となった。皇后は聖武天皇の娘、井上内親王で、皇太子は二人の間の子、他戸(おさべ)親王だった。

 一方、桓武天皇(山部皇子)は生母の身分が低く(百済渡来系の和=やまと氏)、当初は光仁の後継者とは想定されていなかった。それが(恐らく藤原百川らの暗躍もあって)井上内親王、他戸天皇が廃され、山部が皇太子となった。781年に譲位され山部が即位すると、同母弟の早良(さわら)親王を皇太子とする。しかし、この早良も785年に廃され、実子の安殿(あて)親王(平城天皇)を皇太子とした。つまり、桓武は皇位を継ぐとは誰も思わないところから出発し、自身の子孫が皇位を継ぐように歴史の流れが変わったのである。しかし、その影で自分の弟二人を死においやった。そのため早良親王の「怨霊」に長く苦しめられる。

 何だか長くなってしまった。このことは歴史に詳しい人ならよく知られていることだ。だが、この本は細かく史料を検討し直し、桓武の心情を新たな目でとらえている。かつて原武史昭和天皇』(2008)を読んだとき、実母(大正天皇の皇后)の干渉や宗教狂いに苦しむ姿が印象的だった。天皇も人間なんだから、家族問題の悩みを抱えている。この本で読む桓武も、身分の低い母から生まれたという周囲の目をいかに意識していたか悩みが伝わる。そこで抜てきした藤原種継とともに、奈良の都を捨て784年に長岡京への遷都を決断した。ところが翌年に長岡京で種継が暗殺されるという大事件が起こる。
(長岡京跡地)
 これも「何か起こる」と察知した桓武はその時わざと都を空けていたという。まさか暗殺までとは思わなかったのだろう。そのぐらい長岡京遷都(平城京廃都)への反対が多かったのである。実行犯も特定され、昔から有力な大伴一族などが数多く罰せられた。歌人として知られる大伴家持は直前に死亡していたが、死後に処罰された。そんな中で、桓武は長岡京を捨て、さらに平安京への遷都を決める。その上申を行ったのが、何と和気清麻呂(わけのきよまろ、733~799)だった。和気清麻呂は戦前の教育を受けた人なら、日本史上の大忠臣として誰もが知っていた。道鏡が皇位を望んだとき、宇佐神宮まで神託の確認に行った人である。その時に皇族以外に継がせてはならないという神意を持ち帰った。そのため「別部穢麻呂」(わけべのきたなまろ)と改名させられ、大隅(鹿児島県東部)に流された。光仁時代になって復権し、民政専門家として活躍したという。
 (和気清麻呂)
 和気清麻呂は「皇統を守った」として、戦前は10円札の肖像にもなった。各地に銅像も建てられ、上記画像は皇居外苑に今もあるもの。その和気清麻呂の後半生を知らなかったが、実務官僚として桓武朝で重く用いられ、平安京建設の中心となったのである。この人物の再評価も必要だと思う。さて、他にも「蝦夷」との戦争、仏教との関わり(特に最澄)など後の時代に大きな影響を与えた政策がある。また渡来系一族との関係など、今まで知らなかったことがいっぱい。まあ、一般的にはここまで知らなくても良いと思うが、こういうトリビアルな検討から人間や時代の全体像を構想するのが、歴史の醍醐味なのである。その意味で「桓武天皇」という重要人物を身近に見た感じがした。もっとも善し悪しは別であるが。
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『金子光晴詩集』と『風流尸解記』他ー金子光晴を読む④

2023年10月03日 20時51分50秒 | 本 (日本文学)
 夏に読んでいた詩人金子光晴の本がまだ残っていた。もう飽きてきていたが、今読まないと読まずに終わると思って頑張って読み切った。僕はこの詩人にずっと関心があり、全集を探して読むことまではする気がないが、文庫に入るたびに買い求めてきた。主に中公文庫だが、結構出ているのである。そして今回持ってる本に関しては全部読んだことになる。

 最近ここで書いた「金子光晴を読む」シリーズは、「『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』」「『マレー蘭印紀行』」「『詩人/人間の悲劇』」の3回である。それらは自伝紀行で、非常に面白いのである。しかし、やはり本職は詩人である。岩波文庫にある清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991、品切れ)は、2012年の第7刷版を持っていたが、470ページを越える分量でなかなか読む気にならなかった。だが、収録された詩は紛れもなく傑作であり、日本人の精神史に忘れられない足跡を残す。

 フランス象徴派から出発し、やがて戦時下に独自の抵抗詩を書き続ける。一部は当時刊行されたが、さすがに戦況悪化とともに山中湖に疎開し、発表できない詩を書いていた。それらが戦後に公開されて大評判となったが、金子光晴は何かのイデオロギーによって戦争に反対したわけではない。だから、戦後を迎えても「民主主義」を謳歌する文学者にはならなかった。一貫して独自の「自分」を貫き通したところがすごいのである。ところが晩年になって孫(若葉)が誕生すると、メロメロになっちゃって『若葉のうた』なんていう、象徴も抵抗もない判りやすい詩を書くようになるのも面白い。

 僕が一番すごいと思うのは、やはり1937年に刊行された詩集『』だと思う。日中戦争開始の年で、すでに軍部主導政権だったけれど、まだこのような詩集が刊行出来たのである。もっとも軍や戦争批判というよりも、安易に時流に流されていく日本人への自虐的批判が多く、その中には自分も含まれている。ここまで「難解」かつ「韜晦」(とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)だと、検閲の目を通り過ぎるかもしれない。冒頭の「おっとせい」は、「その息の臭せえこと。/口からむんと蒸れる」と始まり、延々と続いて「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むこうむきになってる/おっとせい。」」は、群れることの嫌いな「自分」を貫いた詩人の絶唱だ。
(金子光晴と森三千代)
 詩や紀行や評論がほとんどの金子光晴の中で、貴重な小説集が1971年の『風流尸解記』(ふうりゅうしかいき)という本で、賞に縁のなかった金子光晴には珍しく、1972年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。まあ、この本に文部大臣が賞を与えていいのかなという内容だけど。「尸解」(しかい)は解説によると、「道家の方術の一つ。肉体を残して霊魂だけが抜けさる術」だという。「尸」は「しかばね」のことで、「抱いた少女の裸身の背後に、尸の幻影を見る中年の男」と案内にある。戦争直後の荒れ果てた東京で、死を幻視する詩人の業。だけど、ちょっとやり過ぎ的な叙述が多いかも。52歳の金子は、1948年に25歳の大川内令子と知り合う。森三千代とは離婚していて、その後令子と結婚し、また離婚し、三千代と再婚したと出ている。そこらの現実もモデルとして利用されているらしい。講談社文芸文庫から1990年に出たが、一応今もカタログにはあるようだ。

 他にもいっぱいあるのだが、珍しく妻の森三千代の作品も入っているのが『相棒』という本である。森三千代は小説家としてかなりの本を出していて、戦時中の1944年には『小説 和泉式部』で新潮社文芸賞を受けている。戦後は闘病生活が続き、作品的には日本の古典やシェークスピアなどの再話がほとんどだった。まあ、金子光晴ほどの才能はなかったが、それでも妻の立場から見た金子光晴像などは興味深い。他にも『じぶんというもの』『自由について』『世界見世物づくし』などのエッセイ集が文庫になっている。題名だけ見ると面白そうな気がするんだけど、これが案外退屈。詩や紀行だと面白いのに、論を立てると冴えなくなる。
 
 それより多くの人が金子光晴を論じた文章を集めた『金子光晴を旅する』(2021、中公文庫)が面白かった。細かくは書かないが、そこに収録されている人を少し挙げると、茨木のり子、開高健、草野心平、沢木耕太郎、寺山修司、山崎ナオコーラ、吉本隆明等々(アイウエオ順)といった多彩な顔ぶれである。多くの人に注目された人だったのである。

 講談社文芸文庫の解説に、金子光晴が1975年に亡くなった時に追悼特集を出した雑誌が載っている。「文芸」「面白半分」「いんなあとりっぷ」「海」「新潮」「四次元」「諸子百家」「現代詩手帖」「うむまあ」「いささか」「あいなめ」「時間」「ユリイカ」だという。今はなくなっている雑誌も多いし、そもそも知らない雑誌がかなりある。それでも、これだけ多くの追悼特集が組まれるほど人気、知名度があった人だったのである。
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ハチ公生誕百年展ー渋谷区郷土博物館と國學院大學博物館

2023年10月01日 21時54分45秒 | 東京関東散歩
 散歩というほどじゃないんだけど、「渋谷区立郷土博物館」でやってる「ハチ公 生誕100年記念展」を見てきた。(10月9日まで。)教育映画として作られた「ハチ公物語」(1958年、50分)の上映が午後にあるのは今日が最後だから行っておこうかなと思ったのである。場所がよく判らないが、地図を見ると國學院大學の近くである。そう言ってもよく知らないが、簡単に言えば青山学院大学の裏の辺りの地域になる。渋谷駅から歩いて15~20分ぐらいだが、土地勘がないのでバスで行った。行きは渋谷区のハチ公バス、帰りは國學院大學前から渋谷行きの都バスに乗った。

 ハチ公バス「郷土館・文学館前」で下りると、真ん前に「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」がある。白根って誰だと思うと、白根全忠という元渋谷区議会議員。「そんな人しらねえ」と皆言うだろうけど、この博物館の土地を提供した人だという。1階に入ってすぐにハチ公像があり、その奥でハチ公展をやっている。2階が郷土博物館、地下2階が文学館になっている。郷土博物館はどこも似ているが、ここは前近代が少なく、現代(戦後)の渋谷の発展が詳しい。
(ハチ公像)
 ハチ公展は写真を撮れず、カタログもないけど、ハチ公及び飼い主の上野英三郎(1872~1925)博士、上野夫人に関しては非常に充実した展示になっている。特に夫人に関しては僕もほとんど知らなかったので、いろんな事情があったのことを知った。ハチ公は周知のように秋田県大館市で生まれた「秋田犬」で、1923年11月10日に生まれた。(日付には異説あり。)そこで今年が生誕百年ということになるわけだが、上野博士は1925年に亡くなっている。具体的には5月21日である。そうすると上野博士のもとで飼われたのは、1年半もなかったのである。その後ハチ公は1935年3月8日に死ぬまで、10年近く生きた。

 ところで今になって思うのだが、上野博士は毎日渋谷駅からどこへ行っていたのか。それは東大教授なんだから東大に決まってるわけだが、当時は東大農学部は駒場にあった。一高と土地を交換して本郷に移ったのは1935年のことである。駒場だったら京王井の頭線かと思うと、その開通は1933年。それとも上野博士担当の「農業工学」は当時から本郷だったのか。それにしても渋谷からではルートが判らない。秋葉原・神田間がつながって山手線が環状運転を開始するのは、1925年11月で上野博士の没後である。いや、こんな疑問はきっと解決済みなんだろう。僕は今初めて疑問に思ったので、事前に気付いてたら博物館で聞いたのに。
(郷土博物館) 
 それはさておき、午後2時からの映画上映の整理券を1時から配布するという。博物館を見てたら結構並んでて33番になった。上映まで1時間あるので、國學院大學博物館に行ってみた。歩いて1分ぐらいである。非常に広くて、今までに見た大学博物館でトップ級なのに驚いた。神社の歴史や考古資料の展示が充実していて、郷土博物館とはレベルが違う感じ。まあ神社、神道、国学には関心が薄いので通り過ぎる程度だったが、関心と時間がある人には非常に充実した場所だろう。関東大震災時の折口信夫に関する展示があり、朝鮮人虐殺に激しく怒っているのが印象的だった。
(國學院大學博物館)
 郷土館に戻って、映画の上映。「ハチ公物語」は1958年に作られた教育用の映画と思われ、近年になって再発見された。監督は中川順夫(なかがわ・のりお、1909~2004)という人で、劇映画も手がけたが主に脚本家や記録映画で活躍した人らしい。僕は初めて聞いた名前で、「中川信夫」かと思ったぐらいである。ハチ公像の前で教師がハチ公の伝記を語り始めるという劇映画。戦後のシーンはロケが興味深いが、戦前の駅などはセットだろう。まあ大した映画じゃないが、「ハチ公伝説形成史」的な意味で興味深い。それに幼犬期、成犬期、老犬期と秋田犬を3頭用意していて、特に子犬の時期がカワイイのである。子犬は何でもカワイイとは思うが、秋田犬の中でもとりわけ美犬を選んでいるだろう。

 そこから渋谷駅に戻って、やはり最後にハチ公の銅像を見ていこうか。自分の家の場所から遠く、僕はハチ公前で待ち合わせをしたことがない。通りすがりに見てはいるけど、ちゃんと見たことがないのである。まあ東京人は大体そんなものだろう。今はもう写真を撮るために外国人観光客が列を作っていて、ここで写真を撮ろうとしている日本人などいない感じだった。そういう話は聞いていたけど、今は「世界のハチ公」なのである。
 (写真を撮る人々)
 ところで國學院大學の近くに実践女子大もある。そこにも香雪記念資料館があるが、日曜休みなので見られない。そこは下田歌子が創立した学校がもとになり、香雪は下田歌子の号だという。また向田邦子文庫もある。渋谷からほんのちょっと離れたところに大学が集中しているとは知らなかった。ハチ公の映画上映は、8、9、10の午前10時にも予定されている。
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