音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

巨匠との出会い

2008-09-10 23:39:45 | 音楽

今日は、S先生のレッスン日。梅田で、見ていただいています。
顔を合わすなり、「今日は、悪いけど、途中で、楽器を修理に出しに行くからね。」楽器店でのレッスンはこれが便利。予約時間があるのです。
先生の楽器は、巨匠マクサンス・ラリューさんが使用されていました。
売り出された時に、楽器店で、先生は試奏されたそうです。ところが、その時は買わずにいたのを、ラリューさんが購入され、使っておられました。それが、どういう運命か、また先生のところに戻ってきました。

マウスピースの左右に空気を集めるための、小さな三角錐の突起がついていて、本当によく鳴ります。

ラリューさんは大きな人ですが、手も大きく指も長く、私たちが習った基本の形とは違い、指をほとんど伸ばしたままバラッバラッと、すごいスピードで動きます。ちょっとスピード違反気味。
天才肌で、私が何年も前にフランスのマスタークラスの聴講に行った時には、一生懸命演奏している学生の背中で、彼女の持ってきた帽子をかぶり、魚つりの真似をしています。演奏が終わると何食わぬ顔で、彼女の楽器を取り上げ、「ここは、こんな風にふくんだよ。」とその大きい手で、すごいスピードで、演奏して、「ほら、やってごらん。」彼女は泣きそうな顔をしていました。
私もこれはたまらない。天才というのは教える適正がないのかな?とも思いました。

ところが、先生は、「ずっと昔、僕の演奏を聴いたラリューさんは、一言、『君の演奏には、音楽がないよ。』といわれたんだよ。それが、はじまりだった。フランスの音楽には、幼い時にフランスに住んでいないとわからないフランスの音楽が、イタリアにはイタリアの音楽があるという意味だと思ったよ。ちょうど、伸び悩んで壁があるときだったんだよ。どうしようもないとあきらめてしまったら、終わりだったけれど、それからが研究の始まりだった。今あるのはラリューさんのおかげだよ。」と話されました。

手厚く言葉を尽くして教える教師だけが、良い教師ではない。真実をつきつけ、闘志とやる気を引き出す。そして、学ぶ人は何からでも、意欲的に学ぶことができる。出会いというのはおもしろいものです。


ドップラー兄弟

2008-09-10 00:58:39 | 名曲

1800年代に活躍したカール・ドップラー、フランツ・ドップラーは兄弟の作曲家ですが、フルートの世界では有名ですが、音楽史的には、忘れられた作曲家です。

日本では、なぜか、ハンガリー田園幻想曲が好まれて、良く演奏されています。この曲の出だしは、暗めのフルートソロですが、日本のこぶしをまわした、馬追い歌とか、かりぼし切り歌などとなぜか似通っています。そういうところも日本人の琴線に触れるのかもしれません。

彼らは、二人でフルートデュオの演奏家としてヨーロッパを回り、たくさんのフルート二重奏曲を作っています。

生前にフランツはすでに成功した音楽家で、ウィーン音楽院の教授を務めたり、ブタペスト歌劇場の主席フルート奏者でした。オペラ作品は当時の時流に乗り、かなり流行ったようです。
この時代は、オペラを書くとかなり儲かったようです。ハンガリーの国民的作曲家と見られていたようです。
ところが、オペラの方は、今ではほとんど演奏されません。私も聴いたことがありません。

私が彼らを興味深く思うのところは、彼らが二人で活躍したこと。音楽家は大概一人で、誰にも認められず、孤独のうちに亡くなる。といったイメージがありますが、彼らは、時代に乗り、人々のニーズに応え、成功しました。家庭的にはフランツの息子が若くして亡くなるなど、不幸もありましたが、社会的には成功しました。リゴレット幻想曲、アンダンテとロンドなどを演奏してみると、特徴的なのは、1stも、2ndも、変わりなく、技巧を要求されるだけでなく、通常1stが旋律を吹き、2ndはオブリガートか伴奏に徹すると言うような曲が多いのですが、ドップラーのこれらの曲は、旋律もどちらにも、それぞれに見せ場があり、ピアノの山場もあります。1stも2ndもピアノも生き生きとしていて、本当におもしろいです。

彼らの音楽が、共同作業の楽しさを表現していることと、オペラや、オーケストラなど、多くの人との共同作業がうまかったこと、民衆の意識を汲み取った曲を書いたこととは、無関係ではないと思います。
誰にでも見せ場がある、わくわくする曲は誰でも演奏したがったにちがいないです。
それから、オペラのようなプロジェクトを組んでも、きっとそれぞれの能力を生かしたに違いないと思います。

体制は、封建主義から、民主主義になりましたが、抑えられていたものがあふれ出し、個人の欲望をすべてかなえてもいいというような誤った個人主義が民主主義と混同されているような気がします。私たちがもっと、成長し、その理念をもっと生活の中に実現できるような時代。自分を大切にする。そして、自分に保障する権利をあらゆる人に認め、社会が本当に共同体になるというような時代を迎える時、ドップラーはもっと見直されるのではないかと、私は思っています。