ドビュッシーの「月の光」(1890年)はベルガマスク組曲の中の一曲で、ピアノのために作曲されましたが、フルートに編曲されて、今では定番のようによく演奏されています。
ベルガマスク組曲は「前奏曲」「メヌエット」「月の光」「パスピエ」の4曲からなっています。
ドビュッシーが北イタリアのベルガモ地方を訪れた思い出に書いたと言う説や、ヴェルレーヌの詩集「艶なる宴」のイメージからとった説などありますが、私は、ヴェルレーヌ説がこの曲のイメージに合うような気がします。
「月の光」(詩集「艶なる宴」より)ヴェルレーヌ作 上田敏訳
君の心は 奇(めず)らかの貴(あて)なる景色
仮面仮装の人の群 窈窕(ようちょう)として行き通ひ
竪琴をゆし按じつつ 踊りつつ さはさりながら
奇怪(きっくわい)の衣装の下に 仄仄(ほのぼの)と心悲しく
仮面仮装の人の群=masques et bergamasquesが原文です。
ヴェルレーヌはワトーの「イタリア喜劇の恋」の絵画から、インスピレーションを得たと言われていますが、
夜屋外の月明かりの下で、仮面仮装の人たちが竪琴をもち、歌い演じているところが描かれています。
私はこの曲を絵本につけて、保育園の子どもたちの前で演奏してみようと思っています。
さびしいお月様が下界に友達を求めて、ぼうやをお使いに出します。ぼうやは、鳥や、飛行機いろんなものに会いながらどんどん下界に降りていき、ついには海の底にあった、手鏡を見つけて持ち帰ります。お月様はもうさびしくありません。鏡の中に友達をみつけたから。(「月のぼうや」イブ・スパング・オルセン)
ヴェルレーヌの詩ではありませんが、美しい月の光、夜風のように疾走するアルペジオ、でも、少しいたずらっぽい。そして、孤独のさびしさもある。それから、幼い心の純粋さも。
ドビュッシーが何を思い、考えていたかは、わからないですが、私がこの曲から受け取ったのは、こんな感じです。さあ、子どもたちは何を受け取ってくれるかな?
息を合わせる。心を一つにする。
いろんな場所で、こんな言葉が使われています。
思春期以上の大人には少し気恥ずかしい思いがするかもしれません。ですが、アンサンブルをする時には、こういう言葉が、ぴったりきます。
考えていては遅い。1分間を160に分けて、それをまだ4つに分ける、つまり0.09秒の音符を4つとか、8つをあわせるなんていうとき、考えていては遅いからです。
指揮者の棒は、棒の動きは確かに、決まった図形を描きますが、カーブのどこで、音を出すかなんていうのは、機械ではかった、等分の位置にあるわけがありません。
振り下ろす瞬間ではなく、振る前に吸い込む呼吸の速度、アウフタクトの全員がここと予測して音を鳴らします。指揮者のいないアンサンブルの場合は、息を吸い上げ吐き出す瞬間に、セーノッと入ります。
おろした位置や、形はあまり意味がなく、やはり息が肝心です。
そしてそれぞれが自分の仕事を、するだけでなく、分子レベル、肌感覚の共感が必要です。
目が棒を追い、意識して、脳が認識し体に指令を届くのを待っていると必ず、遅れます。じゃあ、なぜ合うの?
音楽をみんなで作り上げる、レベルを上げたいと言う意識を脳に指令をだしていれば、勝手に脳が指揮者の表情、隣に座っている人の呼吸を読み取り、体に指令をだし合わせることができます。
相手や、人全般に対しての競争意識や対抗心、反抗心などがあると、少しのずれとなって、すべて表現されていきます。
だから、ギリシャ時代には、音楽が学問の中で最高とされました。
言葉はごまかすことができるけれど、音楽はごまかすことができない。と思われていたからです。
人間は、文明化が進み、感性がよりすぐれたかというと、逆にそういう目に見えないもの、はっきりと数値化できないくらいの微妙な変化に鈍感になりつつあるような気がします。
赤ちゃんは、寝ている場所からは見えない角度の扉から部屋の中に入ってきた人が、母親とそうでない人とは、明らかに反応が違うそうです。そういう共感能力は人間はもともと持っているのだということを示していると思います。
私は、音楽を通して、その共感力の違いをはっきりみました。息が合った演奏というのは、結構いけています。
演奏解釈。曲への共感は、5人いれば5人違います。しかし、それを否定しあうのではなく、力にできたグループの信頼と、尊敬に満ちた演奏は、もっと深いレベルの共感を表現していきます。
それは、演奏技術のレベルといったものとはまた、違うところにあるのだと思いますが、これなくした、心をなくしたレベルの高い演奏というのは、望めないものだと言うことを、また音楽から学びました。
今日は、梅田でレッスン。御堂筋の空は台風13号の影響で、曇っています。
音の跳躍が大きいと、音程をとるのは難しいです。デュオの場合なんかで2ndがオクターブ下で先にロングトーンで入っていて、その上に乗るのは勇気がいります。
『思い切って入ると音程が、ひどくなってしまうかもしれない。』
と思うのは当然のことです。私もびくびくしながら入ってしまいました。
すると、先生が「不安に思いながら入ると、音が不安定になって、音程が合う合わないに関らず、変に目だってしまうよ。とにかく、自信を持って入る。そしてもし、その音程が悪かったら、ソノリテをやるとか、コールユーブンゲンをやって、耳を修正したらいいんだよ。勇気を持って入って」
自分の持っているもの、自分が打ち出そうとしているものを、まず出す。それなしに変化と成長は見込めません。それは、結局間違っているかもしれません。考えられないほど、奇妙かもしれません。
それでも、今持っているものを、今できることを精一杯出さないことには、一歩も自分の外にでられません。奇妙だといってもらうと、そこからがスタート。
それが、どう奇妙で、変なのか、どうしたからその音がなるのか、じっくり観察し、考えて見ましょう。それはとっても興味深くて楽しい時間です。
一つの方法で音がどのように出るのかがわかれば、必ず、別の方法でもどうやったら出るのかがわかってきます。そうやって、唇、口蓋、のどの筋肉、肺の動き、腹筋。いろんな体の動きと、音との関連が理解できるようになってきます。無駄な音はひとつもありません。無駄な時間も。ただ、その場所に不適切な音だっただけ。
怖れることはありません。どんな素晴らしい演奏家も通ってきた道ですし、きっと、名を成した演奏家も、そうやって自分の腕を磨き続けています。みんなで、上手になりましょう。
シリンクス(1892年)はドビュッシーの言わずと知れた名曲です。
ギリシャ神話のシリンクスは、ニンフの名前です。牧神パーンは頭に山羊の角が生え、人間の上半身、山羊の下半身をもち、ゼウスの息子ヘルメスと羊飼いの娘の間に生まれました。
シリンクスを、見たパーンは彼女を自分のものにしようと、まとわりつきます。シリンクスは走って逃げましたが、川のそばまで来て、牧神に追いつかれてしまいました。牧神が、シリンクスに抱きつくと、そこには葦の束が、川の妖精たちに愛されていたシリンクスは、パーンのものになるよりは、と頼んで、葦に姿をかえてもらったのでした。
ため息をついたパーンは、葦を折り、笛にして吹きました。
ボッティチェリのヴィーナスとマルス(1483年~84年頃)の絵には、くつろぐヴィーナスの前で眠っているマルスを4人(匹?)の子どものパンが、マルスのやりや甲冑の中で遊び、ほら貝をマルスの耳元で吹いて起そうとしています。
ドビュッシーと同時代人とならば、J.W.ウォーターハウスの描いた牧神はハマドュリアデス(1893年)の中で、植物になったニンフの足元でパンフルートを吹いています。その姿は、少年のようで、不器用な醜い男の稚拙で、乱暴な求愛の失敗のせつなさが伝わってきます。
牧神の姿を借りて、少年の日の失恋の痛み。熱望する性的なものへの、憧れと、喪失感をあらわしているのかもしれません。
フルート一本のソロでありながら、調性を変化させ、色彩感を表現したことで、当時の人たちを驚愕させ、オネゲル、イベールなど多くの作曲家に影響をあたえました。
楽しみ、悲しみ、喜び、怒り。どうしようもなく、友人との楽しい時間、うれしくて仕方ない時、悲しみがこみ上げてくる時、怒りに震えて、抑え切れない時。
そんな時、フルートを演奏します。つらい気分に浸りたい時はシューベルト、癒されたいときは、シューマンや、ドビュッシー。ゴーベール。勇気を持って挑みたい時は、シャミナーデや、イベール。ハチャトリアンや、プロコフィエフ。喜びを誰かとわかちあいたいときには、やっぱりモーツアルト。
どんな気持ちも、一人で耐えることはないです。そこに、みんないます。
飢餓、貧しさ、豊かさの中の孤独、肉親を亡くした悲しみ、愛の喜び、友人との楽しい一時。世の中に対するやりきれない怒り。
100年前でも、私たちと同じ喜怒哀楽の気持ちを持った人がいました。
つらい戦時中でも、美しい曲を書き続けた人がいました。
誰かの人生を理解しようとする時、寄り添おうとする時、自分の人生を振り返り、自分の人生を理解し、自分に寄り添うことになります。誰かが共感されることがあると言うことを自分に見せることになるから。
自分を愛して悪いことはない。自分自身に音楽を味わわせてあげて。
楽になって構わないんだと、自分に言い聞かせてあげてください。まず、一番初めの聴衆を自分にしてあげてください。そこからしか何事も、始まらない。そうしたら、何百年前の作曲家でさえ、同じ人間という、仲間になります。きっと。
高校生のブラスバンド部の演奏を聴きました。若いパワーの炸裂。
技術的にはいろんなことがありますが、それを超えるエネルギーにあふれて、圧倒されました。
フルートを始めた頃、コンクールで流行っていた曲は、レスピーギのローマ3部作、ワーグナーのエルザの大聖堂への行進。ホルストの木星。
今でもこれらの曲を聴くとわくわく、どきどきします。
熱血高校生だったなぁ。クラブの方は弱小で、チューバも無かったけど、校舎の屋上で、走ったり、腹筋を鍛えたり。クーラーの無い西陽の射す部室で、大汗をかきながら、練習しました。
その当時のことを思い出しました。
苦楽をともにした友達は生涯の友です。
ところで、ブラスバンドで演奏する時は、ほとんど、自分の音が聞こえません。(聴こえるけれど聴けない)聴こえないということは、太い音で、フォルテッシモや、アクセントを多用して演奏する羽目に陥ります。
そして、1st 2ndに分かれて演奏することが多いです。すると、いつも演奏する音域が決まってきます。1stは中音域~高音域ばかり、2ndは中音域。そして、低音域はほとんどブラスの場合、他の楽器で代用するので、使わないはめになります。そして、何ヶ月か同じ曲ばかりやっていて、パートが変らなければ、出ないことにもあまり気づかなくなってしまいます。
毎日の基礎練習で、使わない音域を補う必要があります。
モイーズさんは、一日の初めに練習する時は、低音域からはじめることと言っておられます。
それは、高音域からはじめると、唇が硬直してしまい、柔軟性が失われるからです。
2ndの人も低音域からはじめ、必ず高音域のスケールをしてください。高音が苦手だと感じておられたら、それは、きっと、吹く回数が少ないだけです。そして、ppで、柔らかく吹く練習も。
ブラスバンドで演奏している人は、他の楽器の演奏を聴く機会が練習の中で与えられています。トランペットや、金管楽器に対抗して、大きな音で吹こうとがんばると、体が硬直して余計音が出なくなります。
それよりも、演奏するときに柔らかい体を心がけ、自分の音を自分の耳に届けるつもりで演奏してみてください。きっと、音がホールの隅々までとおります。
自分の音が聞こえてくると、きっと他の楽器の音も耳に入るようになります。自分の楽器の特製は、他の楽器と比較してより鮮明にわかるようになります。トランペットにはなれないけれど、トランペットの真似をしてみてください。すると、トランペットにできて、フルートにできないところとはどこなのか?フルートでありながら、トランペットのニュアンスを出すためには何が必要なのか?わかるようになります。
それはきっと、あなたの演奏の幅を広げるに違いありません。
触れたくないほど、苦手なものってありますか?
「その曲はふけません。」「へたくそだから、とても無理です。」「忙しくてできません。」
私は苦手なことに取り組まないためのいいわけを、たくさんしてきました。
私はフルートのテクニックでタンギングが私は苦手です。苦手を克服するために何年も基礎練習に入れて毎日演奏しています。そのおかげか段々克服しつつあります。最近になって、自分が嫌いな曲の範疇の中に、はっきりとタンギングをせねばならない曲が多いことに気がつきました。
私の母はにんじんがきらいです。でも、子どもの頃、母がにんじんを嫌いなことに気がつきませんでした。
にんじんをつくって、「ほら、きれいな色やねぇ。おいしそう。」と時々言っていました、が自分はほとんど食べませんでした。
にんじんの嫌いな母は、食べるのは嫌いだけれど、にんじんを見つめ、観察し、付き合えるところとは付き合っています。「にんじん、きらいやってんなぁ」母に言ったところ「そうや、知らんかったん?」とあっさり言いました。別に隠していたわけではなかったそうです。
自分の苦手を静かに、受け入れて、しっかり見つめること、ごまかさないと言うこと、心が開かれているということは、同じような気がします。
苦手を避けているつもりで、いつの間にか、その周辺まで広がり、嫌いなのか苦手なのかわからなくなり、できることまで、できなくしているのかも知れません。
苦手でも付き合える。それぐらいにはなっておかないと、人づきあいでも大変です。がんばろ。
レイモンド・ギオー先生はパリ音楽院のフルート課教授でした。パリオペラ座管弦楽団の指揮をされたりしたいました。
「どんな先生?」と聞くと、当時「マリオそっくりだから、すぐわかるよ。」とみんな口をそろえて教えてくれました。会ってみると、確かにそっくり。フランス人なの?って思うほど、スケールや、クロマティックを取り入れていて、モイーズのスケールとクロマティックの練習を、1時間、それから、タファネルゴーベールをと、いつになったら曲に行くんだろう?と言うほどやりました。そのせいか、門下の生徒はクラッシックだけでなく、ジャズなどジャンルを問わず活躍しています。
マスターコースもはじめに一時間全員でスケールの練習をしました。
その時、よく言われていたのは、「スケールも、決して機械的に練習してはいけない。」。
「えーっ。メカニズムの練習じゃないの?」と私も当時、思いましたが、それは、脳は単調な仕事をすると眠ってしまう。脳を活性化するためには、脳をサボらせないように、考えながら練習する。と言う意味です。
たとえば、同じスケールでも、アーティキュレーションを変えてみる。表情記号をつけてみる。など、いろんな形を自分で考えてやってみる。テーマを作ってそれが表現できているかと問いかけながらやってみる。
「自分を機械にする練習ではなく、脳を目覚ましておくことが大切なんだよ。たとえ一音でも機械になってはいけないよ。」
どんな音も脳と心をはたらかせながら演奏する。
創造する。クリエイティブと言うのは、どういうことかを教えてくれた先生でした。
「児童会でフルート演奏してください。」と言う、上司の先生の一言で、お誕生会でフルートをふくことになりました。
会議でのこと、「ギターが何か演奏できる先生がいらしたら、一緒にお願いしたいのですが…どなたか、楽器演奏できる方いらっしゃいませんか?」
「・・・・。」
ソロです。
「何を演奏される予定ですか?」
「えっと、アニソンとか、ジブリとかかな?」まだ考えてなかった。
「みんなが知っている曲がいいよねぇ。」
その後の私の先生に相談すると「ソロ曲ねぇ。シリンクスとか、雌山羊の踊りなんかどう?」
「小学生に難しくないですか?誰も知らないし。」
「大丈夫、お話をしてあげるといいよ。」
数日後、児童会で「先生!フルートにあわせてダンスしたい。」と3年生の女の子。ダンスでも習ってるのかな?
「いいですよ。で、どんな曲踊りたいの?」
「先生は、どんな曲するの?」
「トトロとか、ジブリとか、ポケモンとか、考えてるんだけど。」
「えー!そんな曲いやや。かっこいい曲がいい。」
「かっこいい曲って、どんなの?教えてよ。それにするから。」
次の勤務日。
「花より男子の曲にしたからね。」とすれ違いざま言うと、遊びに行ってしまった。
そうか、花より男子か。家に帰って調べたら花より男子って、いろいろな曲があって、どれのことかわからない。
また次の2日後の勤務日。
「花より男子の曲ってどれのこと?」
「嵐のな。ウォウ、ウォウ~♪って曲や。」また行ってしまう。
まいったなぁ、こっちも担当の子どもを追いかけて、忙しすぎて聞けない。
また、翌週。
「先生、嵐のやで、わかってんの。」行こうとするのをやっと捕まえた。
「ちょっとまって、嵐の曲一生懸命さがしたんやけど、わからへんかったわ。なんていう曲?題名だけ教えてくれたら、探してくるから」
「だって、わからへんもん。」
「誰か知っている人いるでしょう。歌って教えてもらってきて。」
「わかった。」
数分後、「T先生が知ってた。わかったで。嵐のな、Love so sweetやで、覚えといてや。」
「わかった、Love so sweeやね。よかった。これで探してくるわ。リズムも、伴奏も無しで歌のところだけやからね。」
「うん、ええで。ちゃんと、覚えといてや。」
「わかりました。」
ああ、よかった。これで安心。
ところが、友人に聞いたら、「花より男子って、Love one,っていうのがテーマ曲って書いてあるよ。」
「間違えてるのかな?」
「ちょっと待って、娘にきいてくるわ。」
「映画版とテレビ版があって、違う曲らしいわ。それは家にはないわ。」
「ネットで調べるわ、ありがとう。」
息子に曲をダウンロードしてもらうと、「Love oneと違うの?」
「テレビ版と映画版、曲が違うらしいわ。」
「ほんとや、あった、あった。」
「ありがとう。」
楽譜もネットで調べたら、ありました。315円で楽譜を購入。最近はとっても便利ですねぇ。
しかし、これを突き止めるまでに2週間、
有名な曲でよかった・・・って、ちょっとコミュニケーションにお互い問題あり。これから、教育、共育が必要です。
雌山羊と、シリンクスと、Love so sweet なんかすごい組合わせ。
よろこんでくれるかなぁ?・・・落ち着いて聞いてくれるか、ちょっと心配。
山羊と牧神の絵とか用意しようかな。1年生はかっこいい曲違いで、ポニョも用意しておこうかな。
喜んでくれるようにしなくちゃ。楽しんで演奏しよう。
今日は、S先生のレッスン日。梅田で、見ていただいています。
顔を合わすなり、「今日は、悪いけど、途中で、楽器を修理に出しに行くからね。」楽器店でのレッスンはこれが便利。予約時間があるのです。
先生の楽器は、巨匠マクサンス・ラリューさんが使用されていました。
売り出された時に、楽器店で、先生は試奏されたそうです。ところが、その時は買わずにいたのを、ラリューさんが購入され、使っておられました。それが、どういう運命か、また先生のところに戻ってきました。
マウスピースの左右に空気を集めるための、小さな三角錐の突起がついていて、本当によく鳴ります。
ラリューさんは大きな人ですが、手も大きく指も長く、私たちが習った基本の形とは違い、指をほとんど伸ばしたままバラッバラッと、すごいスピードで動きます。ちょっとスピード違反気味。
天才肌で、私が何年も前にフランスのマスタークラスの聴講に行った時には、一生懸命演奏している学生の背中で、彼女の持ってきた帽子をかぶり、魚つりの真似をしています。演奏が終わると何食わぬ顔で、彼女の楽器を取り上げ、「ここは、こんな風にふくんだよ。」とその大きい手で、すごいスピードで、演奏して、「ほら、やってごらん。」彼女は泣きそうな顔をしていました。
私もこれはたまらない。天才というのは教える適正がないのかな?とも思いました。
ところが、先生は、「ずっと昔、僕の演奏を聴いたラリューさんは、一言、『君の演奏には、音楽がないよ。』といわれたんだよ。それが、はじまりだった。フランスの音楽には、幼い時にフランスに住んでいないとわからないフランスの音楽が、イタリアにはイタリアの音楽があるという意味だと思ったよ。ちょうど、伸び悩んで壁があるときだったんだよ。どうしようもないとあきらめてしまったら、終わりだったけれど、それからが研究の始まりだった。今あるのはラリューさんのおかげだよ。」と話されました。
手厚く言葉を尽くして教える教師だけが、良い教師ではない。真実をつきつけ、闘志とやる気を引き出す。そして、学ぶ人は何からでも、意欲的に学ぶことができる。出会いというのはおもしろいものです。