井伏鱒二の「荻窪風土記」(新潮社)も捨てようと思ったが、捨てきれないで、梱包の紐をほどいた。
何十年も前の発売当初に、当然まだ井伏が存命だったころに1回読んだきり、2度と読んでないにもかかわらず、捨てる覚悟がつかなかった。
荻窪はぼくが中学時代を過ごした場所である。
井伏の自宅は、四面道のあたりにあったはずだが、荻窪界隈の古い話を懐かしく読んだ記憶がある。
荻窪のことは、もう2度と思い起こすことはないのか、井伏の文章で忘れてしまったことをもう1度読み直したいと思うことはないのか・・・。
ようするに、来年自分が定年退職した後に、どのような生活を送り、どのような本を読むことになるのかが全く想像できないのである。
この本で一番印象的だったことは、関東大震災までは品川湾を行き来する汽船の汽笛が荻窪の地にまで届いていたが、震災以降は汽笛がまったく聞こえなくなってしまったという一文である。
そのようなことが科学的(気象学的)に説明できるのかどうか知らないが、井伏さんはそう書いていた。
これに対して、尾崎一雄「単線の駅」は、小田原か大磯だったかを走っていた汽車(?の沿線の物語だが、これはもう読むことはないと覚悟がついた。
ついでに、「単線の駅」と鉄道つながりで、堀淳一「地図とカメラのヨーロッパ軽鉄道散歩」(河出書房新社)も同じく、捨てる覚悟がついた。
定年後には、ヨーロッパはおろか、国内のひなびた町を走る軽鉄道を求めて旅をする気力も経済力ももう残ってはいないだろう。
最近では「鉄オタ」だの「撮り鉄」だのがあふれていて、昔のような、ほどほどの「鉄道好き」の居場所はなくなってしまった。
コンマリ流「ときめき」の有無による断捨離の実践かもしれない。
2019/7/26 記