10月20日(木)、朝から天気がよかったので、思い立って福生まで出かけてきた。
福生の喫茶店で高校、大学時代の友人が蒐集してきた大正、昭和戦前期の雑貨(?)コレクションの展示、販売をやっているというので。
所沢で西武新宿線に乗り換え、東村山で西武国分寺線に乗り換え、小川で西武拝島線に乗り換え、拝島でJR青梅線に乗り換えて、ようやく福生に到着。あの辺の西武線は何線がどこに繋がっているのかまったく不案内なため、乗っている間じゅう<駅探>と睨めっこである。
さて、福生駅西口に降りると、すぐに会場の喫茶店は見つかった。
店内に入ると、友人のコレクションはこじんまりと入り口近くに飾られていた。ビクター(レコードや音響機器メーカー)の陶器の白い犬だけはぼくも持っている。ペイネの絵皿などもあった。ただし、ぼく自身が断捨離の最中なので、買うわけにはいかない。
お茶でも飲んで帰ろうと思ったが、飲み物はないというので、モンブランを注文して、店の外のテラス席で食べた。福生で取れたのだろうか、中に栗の実が丸ごと入っていた。年寄りには食べごたえ十分のモンブランだった。
秋の日ざしが強くて、着ていたセーターを脱いだ。
福生駅の東口に回り、アメリカ軍の横田基地を目ざして東に向かって歩く。
福生には「アメリカン・ハウス」というアメリカ風の建物があって、一帯がアメリカに来たような雰囲気の街並みだと何かに書いてあったので、一度見ておこうと思った。八高線の踏切を渡り、10分ちょっと歩くと、国道16号に突き当り、その東側に米軍基地が広がっている。
国道に沿って南端から北端まで歩いてみたが、「アメリカン・ハウス」は見つからなかった。軍服のアメリカ兵が歩きまわっていたり、信号で停車したニッサン・マーチの中にアメリカ兵が4人乗っていたり、歩道をわがもの顔で歩く中年のアメリカ人夫婦(?)とすれ違ったりと、アメリカの雰囲気は多少は感じられた。
しかし、アメリカが日本を占領していた頃の名残りを多少は知っている世代としては、それほど「アメリカ」風の雰囲気は感じられなかった。
ぼくの子ども時代には、小田急線の車窓からは代々木の米軍宿舎(1964年東京オリンピックの選手村)が見え、現在の光が丘にも緑の芝生に囲まれて白い瀟洒(に見えた)な米軍宿舎が立ち並んでいた。ベトナム戦争に反対して朝霞基地から脱走したアメリカ兵をスウェーデンに送る運動もあったし、母方の実家のあった仙台の広瀬川に面した青葉山の裾野には昭和30年代になっても米軍基地や米軍宿舎が残っていて、花壇川前丁まで射撃訓練の乾いた銃声が聞こえていた。
横田基地に背を向けて、西の方角に向かう。
八高線の踏切を渡る際に、右手に駅のホームが見えていた。福生駅まで戻るのも能がないと思い、この駅に向かう。
東福生駅だった。無人駅、線路は単線で、駅のところだけが複線になっている。跨線橋からは遠くの山並が秋の霞のむこうに青く連なっていた。かすかに富士山も見えたのだが、残念ながら写真には写っていなかった。
1時間に2本しか電車はないのだが、15分ほどで来るようだったので、ホームのベンチに座って待つことにした。やがて電車が到着して停車したが、ドアが開かない。この辺りはドアは手動式で、ドアの脇のボタンを自分で押さないとドアは開かないのである。
こんなことでも、多少の旅愁(?)を感じることができた。冒頭の写真は、東福生駅に入ってきた八高線の電車。
帰りは、拝島から立川、西国分寺、新秋津を経由して帰宅。約9000歩の散歩だった。
そして今日、10月21日は、ぼくの学生時代には国際反戦デーだった。
2022年10月21日 記