氏家幹人『不義密通--禁じられた江戸の恋』(洋泉社MC新書、2007年。旧版は講談社選書メチエ、1996年)を読んだ。
大きな加筆でもあるかと思って、講談社メチエの旧版と、洋泉社新書の新版の両方を図書館で借りてきたが、新版には井上章一の解説が付いている以外、本文の内容はまったく同じだった。
借りてきたメチエ版は水濡れの跡など汚れがひどかったので、洋泉社新書で読んだ。
昨年秋から、近親婚禁止規定(民法734条1項)の合憲性というか、同条の立法目的および手段の合理性を検討する作業の準備として近親婚関係の本を読んでいたのだが、正月に入ってからはやや食傷気味になって放置していた。ところがこんなテーマで書いていると話したところ、憲法専攻の知人が手紙をくれて懇切な助言をしてくれたので、再び腰を上げたところである。
氏家の本書は題名通り「不義」「密通」がテーマなのだが、その中には江戸時代の近親相姦の事例も何例か紹介されている。
氏家によれば、正当とされない男女の性関係を江戸時代には「不埒」「不義」「密通」などと呼んでいた。「密通」は「姦通」「私通」と同義だという(91頁)。
ちなみに「不倫」という言葉は、もともとは「同類ではない」という意味で(「不倫不同」は「似ても似つかぬ」という意味だったそうだ)、今日のように婚姻外の性関係(姦通)を「不倫」と呼ぶようになったのは戦後のことで、それ以前はむしろ「破倫」というほうが普通だったらしい。
そして氏家によれば、非公許の売春婦(飯盛女)の売春行為や男の側の買春行為や、近親相姦も「密通」に含まれるのである(133頁)。
なお、氏家が紹介する高柳真三によれば、婚姻外のすべての性関係を「密通」と呼び、密通は姦通よりも広い概念で、「私通」(既婚未婚を問わず秘かに通じ合うこと)と同義だという。高柳の定義でも近親相姦は密通、私通に含まれるだろう。
不義密通に対しては、各藩の藩法によって死罪(斬首、絞首、磔など)から、鞭、杖などの身体刑、徒刑や流刑が科されたほか(146頁~)、妻(女)敵討ち(めがたきうち)として姦通の現場において姦夫姦婦を殺害することが「公事方御定書」でも認められていた(186頁~)。
近親相姦も「密通」の一つとして各藩法や「公事方御定書」によって処断されたが、姉妹伯母姪と密通した者に対する罰は「遠国非人手下」(遠国に流して非人身分とする)という他の密通に比べて軽いものであったという(144頁)。なお、「公事方御定書」には父子相姦、母子相姦の規定はないが、甚だしい破倫行為として論ずるまでもないという趣旨だろうと著者は推測している(同頁)。はたしてそうだろうか。
実際に近親相姦が発覚した場合には、武家法の手続きを経ることなく自害を命じたり、家督を相続させなかったりなどの私的解決が行われることもあったようだ。なお、明治最初期の判例集である「太政類典」では、父娘相姦の事案に対して終身刑が科されている。
このように建前上は、近親相姦も含めた密通に対して武家法は厳しい態度で臨んだが、現実には密通事件は少なからぬ件数で発生しており、山間部で通婚範囲が狭かったことや(142頁)、一家に布団一枚といった貧困が原因となって(133頁)、近親相姦も行われていた。荻生徂徠は、一部地域では近親結婚が民俗となっていることを書き遺しており、安藤昌益「自然真営道」も兄妹が夫婦になることは恥ではなく人道であると書いている。
後の柳田国男は、叔父・姪、兄妹間の婚姻慣習があったことを報告している。波平恵美子も、古代の日本においては兄妹婚はタブー視されておらず、同父異母の兄妹婚はむしろ推奨されていたと指摘する(143~4頁)。ディドロ、フーリエ、ゲランらの西洋人だけでなく、わが国にも近親婚に許容的な論者を見い出すことができる。
頼山陽の唱えた自由で平等の男女関係が、明治維新以降は薩長の「田舎漢」たちの遅れた男女観によって大幅に後退させられたと指摘して、著者は本書を結んでいる(322頁)。
江戸期において近親相姦が「不義密通」の一亜種として処断されていたことは、今日の近親相姦事案に対しても婚姻禁止や相姦罪処罰によってではなく、非血縁者間の一般の民事事件と同等に扱うこと、すなわち不貞慰謝料請求ないし不貞を理由とする離婚請求によって対処するという法的対処に示唆を与えてくれよう。
2023年3月19日 記