豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

森山豊明『不義密通と近世の性民俗』

2023年03月25日 | 本と雑誌
 
 森山豊明『不義密通と近世の性民俗』(同成社、2012年)を読んだ。
 著者は元青森の高校の先生だったという。日本史の世界ではこういう経歴の研究者が多い。

 江戸期の不義密通に関しては、概要は氏家幹人の『不義密通』(講談社選書メチエ)でほぼ了解していたが、本書でも頻繁に氏家が引用されている。
 氏家と同じエピソードも含めて多くの事例が紹介される。法律畑の人間としては、まず「公事方御定書」や諸藩の「藩法」や「家法」には「不義密通」に関してどのような規定があり、その規定が具体的にどのような事例に適用されたのか、という順番で知りたいところである。
 近世においては、そもそも成文法があって、それを具体的な事件に適用するという運用では必ずしもなかったようである。不義の申立てに対して町奉行が内済で済ますように指示した例なども紹介されている。「裁判上の和解」のようなものか。

 著者によれば、不義密通が発覚した場合の夫が取りうる方法は3つあったという(48頁)。
 1つは「妻敵討」(めがたきうち)で、密夫・密妻を殺害するという「私刑」である。「公事方御定書」や「藩法」でも認められていた。密通現場でなくても、事後的でも許されたが、密通の証拠が要求された(殺人の口実とされる危険があった)。 
 妻敵討は明治になってからも「新律綱領」(明治3年)、「改定律例」(〃6年)、「旧刑法」(〃13年)において認められたが、旧刑法では姦通の現場に限定された(94~5頁)。その裁判例が「司法省日誌」に掲載されているという(95~6頁)。
 2つは、幕府や藩に訴え出て公刑によって処罰してもらう方法である。「公事方御定書」では密通は死罪が原則とされたが、相手が人妻でない場合には所払いで済まされることもあったという(17~8頁)。なお密通の当事者によって刑罰(死罪)の内容が異なるようだが、たんなる「死罪」と「引廻の上、磔」、「獄門」の違いは、私にはわからない(11頁)。
 不義密通のうち近親者間の密通である近親相姦に関しては、養母養娘娵との相姦は男女とも獄門、姉妹伯母姪との相姦は男女とも「遠国非人手下」とされている(11頁)。本書では「司法省日誌」に載った明治初期の処罰事例も紹介されている(151~2頁)。
 この第2の道が私の想像していた基本手続だったのだが、密通を申し出ることは恥であり、かえって本夫側も家内不行き届きとして処分される危険があったという。
 3つは、公的な内済(「うちすまし」と読むのだろうか)である。密通罪は親告罪であり提訴するかどうかは夫の意志にかかっており、圧倒的多数は第3の「内済」で処理されたという。私的な内済(「扱」というらしい)は禁止されていたが、庶民の間では慰謝料支払いや離縁によって私的に解決されることもあった(48頁)。
 最終的に妻敵討は、明治40年(1907年)の「新刑法」によって廃止されたが、江戸時代にあっても余り奨励はされず、内済で解決されることが多かったという(97頁)。

 著者が作成した統計によると、18世紀においては、武士の場合は公刑22件、内済2件、妻敵討35件、出奔14件、相対死(心中)5件、近親相姦2件などとなっている。庶民の場合は公刑29件、内済3件、妻敵討15件、出奔11件、相対死39件、近親相姦1件(17世紀、19世紀は各々10件)などとなっている。ただし史料に記録が残っているものだけの数字であり、実際には元禄頃の3年間だけで心中死は約900人あったという(6、7頁)。
 「内済」による解決が一番多かったというのだから、「内済」の実数はもっと多かったが公的な記録、史料には残らなかったのだろう。
 相対死(幕府は「心中」の流行を恐れて「心中」という言葉の使用を禁止したという)の中の少なからぬ数が実は不義密通関係にある者たちだったようだ。近代の有島武郎に至るまで(290頁)心中は、密通関係にある者たちが採る最終手段の1つだった。「出奔」(=駈落ち)も少なくなかった。

 本書の後半は、「淫婦伝」「よばい」「初夜権」「若者宿」「私生児」などなど、不義密通に関係するテーマがやや脈絡を欠く形で綴られている。
 密通相手に対する「艶書」(=恋文)が処罰の対象だったことが紹介されてる。主人の妻に対して艶書を渡しただけでも死罪になっていたのは驚く(165頁~)。 
 近親相姦に関しては、本書でも兄妹婚を推奨する安藤昌益が紹介されていること(259頁)、「元禄御方式」では兄嫁、舅姑、姪(=てつ、甥姪だろう)、養子娘との密通は死罪とされたが、「公事方御定書」とともに、母子・父娘相姦については明文の規定が置かれなかったこと(141~2頁)が印象に残った。
 氏家らは、父母との相姦は人倫に反すること甚だしいからあえて規定しなかったと推測していたが、本書では、中世では母子相姦は国津罪とされ、世間からも軽蔑されたが、江戸以降になると母子相姦に対する性的悪口が急速に見られなくなったことが紹介されている(141頁)。母子相姦がなぜ武家法では明文の規定が置かれなかったのかは、私にはやはり謎である。
 非近親者間の密通でも死罪とされていたのだから、近親者間の場合でも一般の密通罪で処断すれば足りると考えられていたという可能性はないのだろうか。あるいは、妻敵討、自害の強制、家督相続の廃除などといった私的制裁に委ねる意図だったという可能性はないのか。
 人倫に反すること甚だしいというのだったら、一般の(=非近親者間の)密通の場合よりも重く処罰する、たんなる死罪ではなく、例えば引廻し、斬首のうえで晒し、領地召上げ、お家断絶などといった処罰を明文で規定する方が自然ではないか。反倫理性が甚だしいのであえて規定しなかったという推論には、どうしても説得性が感じられない。

 2023年3月24日 記

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