豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

秋庭太郎「永井荷風伝」、半藤一利「荷風さんの昭和」

2024年09月30日 | 本と雑誌
 
 秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂書店、1976年)、半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫、2012年、単行本は1994年)を読んだ。
 秋庭の本は、荷風伝の第一人者による評伝で、かなり詳細に荷風の人生を辿っている。荷風とは絶縁した弟威三郎側からの情報提供も多かったものと思われる。荷風は生涯弟と和解することはなかったが、威三郎は荷風の葬儀委員長を務め、墓を永井家の墓所内に建立して弔ったことなどが紹介されている。秋庭は日大の図書館長を務めた人物で、威三郎は日大農学部の教授だったというから、日大で接点があったのかもしれない。

 しかしぼくが本書でいちばん興味をもったのは、荷風の死後に起った佐藤春夫と中村光夫の論争の紹介であった。佐藤春夫は荷風の慶応義塾教授時代の教え子(第1期生)で、偏奇館への出入り自由が許されるほど荷風の寵愛を受けていたという。ところが日中戦争に従軍作家として同行するなどその戦争協力の言動が荷風の怒りを買って破門された。
 その佐藤が「小説永井荷風伝」を発表したところ、中村がこれを痛罵したのである。出版社の商魂にのって「小説」などと冠したことが怪しからん、評伝なら「評伝」で行くべきだ、そもそも「小説」と銘うつだけの創作性がないという趣旨だったらしい。
 これに対して、佐藤は、「荷風=エディプス・コンプレックス説」を打ち出したところが佐藤の創見であり、それが「小説」と銘うった由来であるなどと応酬した。中村は、荷風は母の危篤臨終に際しても会いに行くことなく、他方で毎年元旦には亡父の墓参りをしている、そのような荷風の生涯をエディプス・コンプレックスで説明するのは危険であると反論した。これに対して佐藤は、エディプス・コンプレックスは当人が意識しているわけではない、彼の作品に母親のことが書かれていないからといってコンプレックスがなかった証拠にはならないなどと反論している(554頁~)。
 アメリカ、フランス留学中から始まり、最晩年の玉の井通いまで変わらなかった荷風の女性関係(買春)、常人の想像を絶する色欲を思うと、エディプス・コンプレックス説もぼくには了解できない仮説ではない。佐藤の荷風伝も読んでみたくなった。

 荷風をめぐっては、もう一つ、平野謙と江藤淳との論争があったことも紹介されている。こちらは、荷風の死にざまを出発点とした論争だったらしい。
 荷風は昭和34年4月30日の未明に吐血し、背広姿のまま万年床にうつ伏せで倒れているのを、朝になってから通いのお手伝いさんに発見され、駆けつけた医師が胃潰瘍の吐血による窒息死と診断した。検死直後の写真がアサヒグラフ誌に掲載されたという(545頁)。秋庭の本書には、亡くなった際に荷風が来ていた背広が衣紋掛けに吊るされた写真が載っているが、上着の襟や前身頃のあたりに(おそらく吐血をふき取った)跡が残って白くなっているのが分かる(510頁と511頁の間)。
 川端康成が「うつぶせの亡骸の写真」に定着された死と表現した(らしい)荷風の死に方に平野かショックを受けたと書いた。これに対して江藤は、「あの醜悪な屍骸に詠嘆するとは何たることか・・・私にはそれは一個の屍骸にすぎない」といい、さらに荷風を「芸術家」としてではなく「一個の年金生活者(ランティエとルビが振ってある)、ないしは個人主義者として規定しようとした」評論を書いた(553頁~)。荷風の死に際しては、死亡それ自体ではなく、その死に方も話題になった様子である。荷風は亡くなる2か月前に浅草で発病したが、その後亡くなるまで一度も医師の診察を受けていない。秋庭はこれを「覚悟の死」ではなかったかと推測する(544頁)。ぼくもそう思う。
 先日川本さんの講演会を聞きに行った時も、フロアからの質問者が「荷風はかつ丼のどんぶりに頭を突っ込んで死んでいたというのは本当か」と質問し、川本さんがそんなことはないと回答していた。秋庭の本によると荷風は死の前日まで八幡駅前の大黒屋で菊正宗1本とかつ丼を食べた(飯す)というから、その辺りからかつ丼伝説が生まれたのだろう。

 もう1冊の本、半藤一利「荷風さんの昭和」は、前に読んだ「荷風さんの戦後」より以前に出版された本だが、「荷風さんの戦後」と同様に、荷風に対して距離を置いた位置から、冷やかな眼で観察している。
 この本でぼくがもっとも興味をもったのは、荷風と佐藤春夫の関係を語った個所だった。半藤は雑誌記者としては荷風と交流はなかったようだが(荷風の嫌悪する菊池寛、文藝春秋の記者だったから当然か)、佐藤とは親しく接する機会があり、荷風との関係を直接聞いている。
 荷風から破門された佐藤本人が破門の理由を語った個所がある(234~6頁)。軍人嫌いの荷風は戦争協力を一切拒否して「戯作者」として暮らしたが、慶応義塾教授時代の教え子だった佐藤が従軍作家になったり、右翼壮士風の姿で皇道文学を吹聴することなどを苦々しく思い、「日乗」にも苦言を記している。
 佐藤が戦後に発表した「小説永井荷風伝」によると、2人の関係破綻が決定的になったのは、戦時中の時事新報で、佐藤が荷風を評して「祖国の風土を愛し国語の純化を努むる荷風の如きは蓋し規格外の愛国者か」と書いたことにあったらしい。荷風がもっとも嫌う「愛国者」などと評されたことに腹を立てたのであると佐藤は回顧している(235頁)。時局に無関心を装いながら、開戦当初から日中戦における日本軍の敗北を予見するなど、荷風の戦局の見立てはきわめて正確である(236頁)。
 ぼくが読んだ「摘録・断腸亭日乗(上下)」では、荷風は「愛国者」とか「非国民」といった言葉を一切用いていないかったと思う。奴隷の言葉としても「文学によって国に報いる」式のことも一切書いていない。誰かが引用した宅孝二の回想の中に、自分や荷風や菅原夫妻の集まりを「非国民」の集まりと書いているのを見たくらいである。佐藤の主観では、軍部に睨まれている恩師の風よけのつもりだったのかもしれないが、荷風を「愛国者」呼ばわりしたのでは逆鱗に触れるのもやむを得ないだろう。、

 佐藤は半藤に向かって、荷風は親しかった誰に対しても「愛のはてに憎悪しかみない」寂しい人でしたと評したという(同頁)。弟威三郎、従弟大島五叟らの親族から始まって、平井程一、小西茂也、菅原明朗夫妻、そして佐藤春夫に至るまで、一時は親しくした周囲の人々との確執のエピソードがあれこれと思い浮かぶ。
 詩人としての才能を荷風に認められたかつての愛弟子によるうえの言葉は、ぼくの腑に落ちる評言である。佐藤は荷風を「偏狂人」と書いているが(同頁)、戦争協力は論外としても、弟子にも言い分はあっただろう。

 2024年9月30日 記
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