豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

永井荷風「濹東綺譚」

2024年09月12日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「濹東綺譚」(岩波文庫、1974年)を読んだ。
 1974年頃に買ったのだろうが、ちょっと読んだだけで投げ出したまま50年近くが経過した。ある程度の年齢にならないと面白さが分からなかったのは、小津安二郎の映画と同じか。
 最近、川本三郎さんの講演「荷風を読む楽しみ」を聞き、同氏の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』」を読んで以来、荷風に興味が湧いてきた。好きになることはできないけれど、なぜか興味が湧いてきてしまうのである。
 そこで、放ってあった「濹東綺譚」も読んでみることにした。幸い手元にあった岩波文庫(昭和49年10月発行、18刷)は、新字体、新仮名遣い、振り仮名つきに改版された後のものだったが、活字が小さすぎたので、図書館で岩波文庫ワイド版を借りてきて、そっちで読んだ。

 ストーリーは単純で、荷風と思しき小説家である「わたくし」(一応「大江匡」という名前がついている)が、「失踪」という小説を書こうと構想する。「失踪」の主人公(種田順平)は、妻と不仲になって私立学校の英語教師をやめてしまった51歳の男である。種田は受け取った退職金を持ったまま家族のもとから失踪して、カフェの女給と逃避行を始める。この種田という人物も荷風の一面をあらわしているようである(25頁の木村壮八の挿絵に描かれた種田の後ろ姿は荷風のように見える)。
 種田の最初の逃避先を玉の井に設定するために、「わたくし」は玉の井の情景を描く必要から玉の井に出かけ、街を歩いているとにわか雨が降り出し「わたくし」の雨傘の中に女が飛び込んでくる。こうして知り合った雪子という私娼と親しくなり、その生態を観察する。しかし、雪子が本気になりそうな気配を感じたところで、「わたくし」は雪子と別れる決意をしたことをほのめかして話は終わる。「失踪」のほうも未完成のままで終わっている。

 この後に「作者贅言」という蛇足がついている。
 話の端々で、昭和10年代(発表は昭和12年)の世相に対する荷風の辛辣な感想が述べられるが、以下に引用した文章は、その「作者贅言」から引用したものが多い。
 昭和4年頃、銀座の表通りにカフェーが出現した頃、荷風はそこで酔っぱらった(「酔(え)いを買った」)ことがあった。このことに対して、あらゆる新聞が筆誅を加えたらしい。「文芸春秋」同年4月号に至っては、(荷風を)世に「生存させて置いてはならない」人間とまで非難したという(63頁)。それ以来、荷風はマスコミの筆誅を避けるために、身をやつして辺境だった玉の井で遊ぶようになった。玉の井に向かう東武電車の中でも、新聞記者と文学者とに見られて筆誅されることを恐れて、人目につく日中には出かけないように注意している(125頁)。
 「断腸亭日乗」には、荷風が忌み嫌う「田舎漢」の筆頭に(文芸春秋社主の)菊池寛の名をあげていたが、そのような因縁があったのだ。

 荷風は江戸情緒を愛する一方で、近代的なダンディズムを身につけた都会人だったが、「わたくし」が玉の井に行くときは、古ズボンに(下女からもらった)古下駄を履き、古手拭いの鉢巻をして出かけた。これなら、路上であれ電車内であれ、どこでも好きなところへ痰唾を吐けるし、煙草の吸い殻やマッチの燃え残りも捨てられる(99頁)。
 当時の東京の下町(砂町、千住、葛飾金町辺りと書いている)では、こんなことが平然と行われていたのだ。滝田ゆうが玉の井を描いた漫画に、駅のホームに置かれた痰壺が描いてあったが、痰壺に向かって痰を吐く人はむしろマナーのよい人だったのだ。

 戦前昭和期の東京の世相の移り変わり、とくに「東京の田舎化」とでもいうべき現象に荷風の筆は及んでいる。
 婉曲に満州事変(昭和6年)に言及するが、東京人が満州での出来事など真剣に考えていないで日々の喧騒にまぎれている様子が描写される(150頁)。二・二六事件(昭和11年)の号外が電柱に張り出された時も同じで、銀座通りを歩くおびただしい人たちは何ら特別の感情もあらわさず、話題にもしないで通り過ぎていったと書いている(151頁)。
 この頃から、銀座通りには柳の苗木が植えられ、朱骨の雪洞(ぼんぼり)がともされ、銀座の町がさながら田舎芝居の中の町の場といった光景を呈し出したと評し(同頁)、銀座の町を酔客がひょろひょろとさ迷い歩くような不体裁は、昭和2年に野球見物の帰りの慶応の学生や卒業生が群れをなして銀座の町を襲って乱暴狼藉を働いた事件に始まると書く(157~8頁)。
 荷風が慶応の教授に就任した時に、ある理事から「三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたい」と言われ、文学芸術を野球と同一視する愚劣さに眉をひそめたというエピソードも挿入される(同頁)。

 昭和11年に東京の周縁部が東京市に併合された折には、市電には花電車が走り、日比谷公園では東京音頭が踊られた。しかしこれは東京市の拡大を祝うためではなく、実際には日比谷の角の百貨店の宣伝にすぎず、その百貨店でのみ売られている浴衣を買わなければ入場できなかったという(161頁)。
 明治の末頃は、地方でも盆踊りは県知事の命令で禁止されており、もちろん東京にも盆踊りの習慣などはなかったが、田舎から出てきて山の手の屋敷町に雇われた奉公人に限って盆踊りが許可されることになったという(161頁)。まったく知らなかった。
 コロナ前までは、わが家の近所のお祭りでも、大人は東京音頭を、子どもたちはオバQ音頭などを踊っていたが、今年は盆踊りの音は聞こえてこなかった。コロナ禍の自粛の時期に静けさを知った近隣住民から騒音の苦情が出たのだろうか。

 2024年9月11日 記
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