豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」

2024年08月31日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」(筑摩書房「滝田ゆう漫画館 (1) (2)」、1992年)を読んだ(?)。

 読みかけの川本三郎「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」(都市出版)のなかで、玉の井(寺島町)出身の漫画家で、昭和戦前期の玉の井風景が描かれていると紹介していたので、図書館で借りてきた。
 滝田は生前には時おりテレビで見かけたが、1932年(昭和 7年)の向島区寺島町(現在の墨田区向島町)の生まれで、田河水泡の内弟子を経て独立したとある。漫画の中の「ドン」という小さなスタンド・バーの息子が滝田本人らしい。
 驚いたことは、三遊亭圓歌(歌奴)の後書き(下巻)によると、滝田、圓歌、小川宏、出羽錦、早乙女勝元が、同地の小学校(学校名は書いてなかった)の同窓生だったという。下町空襲の資料収集で有名な早乙女さんと同窓だったとは知らなかった。
 ※ 滝田ゆうの本を1冊持っていた。「下駄の向くまま--新東京百景」(講談社)という画文集である。小学校の同窓生だったという早乙女勝元「ゴマメの歯ぎしり--平和を探して生きる」(河出書房新社)と並べて(下の写真)。
   

 さて、「寺島町奇譚」だが、確かに東京大空襲で町全体が焼失する前の玉の井の雰囲気を知ることができる。玉の井(寺島町)は「どぶ川があったり・・・。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね。まああんまりいい町じゃないんですよね。要するに私娼窟ですから」と圓歌はいっている(下441頁)。
 川本「私註」では、玉の井の匂いを、娼家の便所から流れ出る洗浄液と屎尿の臭気と書いた大林清の文章が紹介されていたが(407頁)、滝田の漫画からは、そんな臭いまでは漂ってこなかった。荷風「断腸亭日乗」や「濹東奇譚」では私娼が健気に生業を営むひっそりとした町のように描かれているが、荷風の「陋巷」趣味によって美化された描写なのだろう。

 この漫画で描かれた玉の井の風物で、昭和25年に山の手で生まれたぼくとの共通の思い出もいくつかあった。
 まず、どぶ川である。どぶ川は世田谷の玉電山下の駅前にもあって、経堂方面から東松原方面に向かって流れていた。玉の井ほど汚くはなかったが、屎尿も含んでいただろう下水(生活排水)が流れていたはずである。草の繁る幅30センチくらいの川岸があり、ぼくたちは山下駅前の橋の袂から土手を降りて、その狭い川岸をトミヤ洋品店やウワボ菓子店の裏(下)を通って赤堤通り(?)に架かる橋のあたりで地上に戻った。
 滝田はそのどぶ川で笹舟を流す競争をやっていた。笹舟の競争はぼくらもやったが、さすがに山下のどぶ川ではやらなかった。どこでやったのだろう?

 各家の塀際に置かれた木でできたゴミ箱(小津の「風の中の雌鶏」などにも登場していた)、そのゴミを収集に来た収集車はこれまた木製の大八車だった。木樽を天秤担ぎしたおわい屋(と当時は呼ばれていた)なども共通である。漫画ではおわい屋に滝田の母親が金を払っているが、昭和30年頃はうちの母親に5円を渡していた。滝田の家は商売をしていたから有料だったのかも。
 京成電車の駅には痰壺が描かれているが、痰壺は昭和40年代まで電車の各駅の柱の脇に置かれていた。「痰は痰壺に」といった標語が貼られていた。もちろん駅の便所も汲み取り式だった。
 電信柱に病院の広告が貼ってあるのも同じである。昭和40年代になっても、西荻窪の中学校の周辺にはやたらと性病科の広告が目立った。「淋病」などという言葉を知ったのもその広告からだった。

 メンコ、ベーゴマも昭和30年代の玉電山下界隈で行われていたが、ぼくはまったくやらなかった。ベーゴマなどまわし方も分からなかった。
 ぼくは野球一筋で、近所の路地でキャッチボールや屋根ボールをやって遊んだ。少年時代のサリンジャーもアメリカで屋根ボールをやっていたらしい。エラーしたボールはしょっちゅう道路わきの小さなどぶに落ちた。どぶには灰白色の濁った下水がよどんでいた。藻のような得体のしれないドロッとした物も交じっていたが、ぼくたちは拾いあげたボールをちょっと振って水を切り、濡れた手はズボンにこすっただけで、キャッチボールを再開した。赤痢や日本脳炎などで死ぬ子もいた時代に、よくぞ生き延びたものである。
 夕方になるとそんなぼくたちを一瞥しながら、近所のアパートからMさんという女性が腰をくねらながら出かけていった(「ペーパー・ムーン」のライアン・オニールの彼女!)。水商売の女性だったのだろう。玉の井ではありふれた人だったが、ぼくたちとは別世界の人に思えた。滝田の漫画の女性たちは色っぽくないのが残念。

 二つの空き缶を紐でつないで、両足の親指と人差指の間に挟んで歩く遊びも昭和30年代の世田谷に残っていた。洗い張りを営んでいる家もあった。
 「玄米パンのホーヤ、ホヤ」といいながら売りに来るパン屋もあった。東京オリンピックの昭和39年頃になっても、西荻窪では玄米パン売りの声が授業中の教室に聞こえてくることがあった。ぼくは見たことがないが、この西荻の玄米パン売りは、ロバが牽く車で売りに来ていると近所の子が言っていた。ぼくは玄米パンを食べたことがないが、圓歌は「格別おいしいものではない」と語っている。

 一番驚いたのは、迷路のようだったという玉の井の路地の随所に「ぬけられます」という案内が出ていたが、その案内がある路地は行き止まりだったということ。あれは実は道案内ではなく、お客を袋小路に迷い込ませる娼家や飲み屋の作戦だったという。
 昭和戦前の私娼街の治安はどうだったのだろうかと、荷風や川本を読みながらいつも気になるのだが、飲み逃げと「危険人物」くらいしか滝田少年の思い出には出て来なかった。

 2024年8月31日 記

 ※ 漫画本というのはほとんど読んだことも手にしたこともなかったが、今回借りた滝田の本の傷み方はひどかった。今までに図書館で借りた活字の本でこれほど傷んだ本は見たことがない。漫画本の借り手はよほど本を乱暴に扱うのだろうか。
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