豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

放射7号線大泉(西側)開通式

2025年02月16日 | 東京を歩く
 
 きょう2月16日(日)午前、散歩がてら西大泉の「いなげや」に買い物に行った。
 途中、春かすみが漂うような春の日ざしの向こうに人だかりがしていた。工事中の(というか工事は完成したまま長年放置されている)放射7号線の道路上にたくさんの人や何台もの車がとめられている。先日通ったときに「10月16日(日)放射7号線(大泉)西側開放」と書いた立て看板を目にしたから、工事は完成している道路を試験的に「開放」するのかと思ていたら、係の人に聞いたところでは今日午後3時から「開通」するのだという。
 それに先立って今日の10時から開通式が行われるのだという。われわれが通りかかったのは11時直前だったので、開通式のくす玉割りでも見ていくことにした。ところがこれがなかなか始まらない。ようやく始まったかと思ったら、くす玉のひもを引く区議会議員だの都議会議員だの、近所の各警察署長、消防署長だの、近隣の小中学校長だのが一人づつ紹介され、最後には近所の小学生代表までもが紹介され、くす玉が割られたのは11時半近くになっていた。まるで昭和にタイムスリップしたような光景であった。

        
              
  
 ぼくは中学3年の時に東京オリンピックが開催され、それに備えて1964年の夏頃に環状8号線(環八)の谷原交差点から戸田のボート会場までの道路(環八の延長だと思っていたが、環八は土地収用がはかどらずオリンピックに間に合わなかったため、その代替として開通した笹目通りと呼ばれる道路だった)が整備されたが、完成した道路は10月のオリンピック開幕直前まで車両通行止めになっていたので、ぼくは友だちと自転車で遊びに行った。クルマ(四輪やバイク)の通らない新しい道路を自転車で走り回るのは爽快だった。放射7号線未開通部分を歩くたびにあの頃を思い出していたが、それも今日でおしまいである。
 そのかわり、これからは大泉からこの開通したばかりの道路を通って保谷経由で、三鷹、武蔵境方面に今までより簡単に行けるようになる。多磨霊園に墓参りに行くのも少し楽になるだろうか、3月のお彼岸の時に試してみよう。ただし桜の季節には、亡くなった祖父母や母が好んで通っていた武蔵野市役所前や三鷹の線路沿いの桜並木を通るほうが先祖を偲ぶよすがになるか。

        
        

 買い物の帰りに再び通りかかると、開通式は終わっていて、来賓を乗せた車列が開通した道路を保谷方面から帰ってくるところだった。道路整理の係の話では行きは白バイが先導して行ったというから、上の写真の白バイが放射7号線延伸個所の最初の通行車両ということになる。
 きょう開通した区間と北園交差点の間はいまだに立退きすら終わっていないから、おそらくあと10年くらいは繋がることはないだろう。きょう開通式をやっていた(未開通区間の手前の)T字路で新座か大泉方面に曲がるしかない(上の写真の道路標式)。

 2025年2月16日 記

富士と梅と鶯と

2025年02月15日 | 東京を歩く
 
 散歩の途中の風景を2点。

 1つは、都立大泉高校付属中学校の正門わきに咲いていた梅の花。数日前に通ったときは気がつかなかったが、昨日通りかかったら正門の脇で高齢の方が写真を撮っていた。何を撮っているのだろうと見ると、梅の木にやや黄色がかった梅の花が咲いていた(下の写真)。
        

 今年も梅の花が咲く季節がやって来たのだ。春もあと一息である。ぼくの先生は「東京は2月17日に春になる」という非科学的な(と自分で仰っていた)信念をもっていて、随筆にまでそう書いておられた。まだ寒いけれど光が変わるのだと言う。2月17日かどうかはともかく、確かに東京の春はこの時期に目からやってくる。ロドプシンの分泌が春の訪れを感じさせ、人に恋をさせるのだそうだ。
 冒頭の写真は今日の午後通りかかったときの同じ梅の花。一日でさらに春めいたような気がしたが、気のせいだろうか。

         

 もう1つは、一昨日に放射7号線(北園交差点先)の未開通道路を少しそれた路地から遠望した富士山。雪を頂いた山頂だけが見えているのだが、上の写真では富士山は見えにくいか(写真の中央やや左寄り、ライフ西大泉店の看板のすぐ右下なのだが)。放射7号線沿いで富士山が見えるのはここだけではないかと思う。
 江戸、明治時代に作られた東京の道路は、道の正面に富士山が見えるように意図して作られることがあったようで、国立の富士見通り、小豆沢の凸版印刷前の富士見坂(?)など、随所で道の正面に富士山を眺めることができる。
 しかし最近ではそんなことも言っていられなくなったのだろう。放射7号線の延伸も立退きをめぐってもう10年近く(以上?)未開通のまま放置されているくらいだから、道の正面に富士山が見えるような道路計画など初めから無理だっただろう。開通したとしても道路正面に富士山が見えることはなさそうである。

 ※ もう一つ、今年の春は鶯(うぐいす)の鳴き声を聞くことができなくなってしまった。
 わが家の2軒先の斜向かい(ちょうど桂馬の進む方向)には、うっそうとした常緑樹に囲まれた広くて古い家があった。その林のような木立の中に鶯の巣があったらしく、毎年春先のこの季節になると、木立の中から鶯の幼鳥が「ホ― ケキョ」と下手な声で鳴く声が聞こえてきた。ぼくが口笛で「ホ― ホケ キョ」と応えてやると、しばらく怪訝そうに様子を伺っている様子で、20秒ほどすると「ホー ケキョ」と返してきた。
 去年そのお宅は取り壊されてしまい、樹木もすべて伐採されて、跡地はアパートになってしまった。今年の春はもう鶯の声を聞くことはなかった。巣を失った鶯はどこへ行ったのだろうか、どこかに巣を作って無事に鳴いていてくれればよいのだが。
 わが家の近所では家が建て替わるごとに木が切られ、緑が少なくなっていく。資本主義社会では所有権は絶対でどうすることもできないが、寂しいことである。

 2025年2月15日 記 

バレンタイン・チョコレート

2025年02月14日 | あれこれ
 
 きょうはバレンタイン・デー。小3の孫娘がぼくに向かって「ハッピー・バレンタイン!」などと声をかけて登校していった。
 今年はバレンタイン・チョコレートがふたりの女性から届いた。
 1人からはモロゾフ(Morozoff)の “Fancy Chocolate” とグリュースゴット(彼女の住むご当地高松の有名な菓子店らしい)のショコラ―デ缶、もう1人からは小樽洋菓子舗ルタオなる店のチョコの3種詰め合わせである(上と下の写真)。

 ぼくの若いころにはバレンタイン・デーにチョコレートを贈って女性側から愛を告白するなどという風習は(少なくともぼくの周囲には)なかった。一体だれがいつ頃からはやらせたのだろう?「ゴールデン・ウィーク」という言葉は五月の連休に映画館に足を運んでもらうために映画会社が作った造語(キャッチ・コピー)だと何かで読んだが、バレンタイン・デーも定めしチョコレート会社が考えたのだろう。
 ※ 日曜日のテレビ番組「シューイチ」(だったか?)で、バレンタイン・デーは昭和10年に洋菓子会社のモロゾフが始めたと紹介していた。なるほど、納得。今回ぼくがもらったモロゾフのチョコ箱には「モロゾフは1931年に神戸のトアロードで創業した」とあったから(下の写真はモロゾフの箱と中味)、モロゾフの創業間もなくからバレンタイン・チョコは始まっていたのだ。昭和10年(1935年)の発祥なら、ぼくが青春時代を過ごした1960~70年代にはすでにあったはずだがまったく記憶がない。その頃のぼくがバレンタイン・チョコに縁がなかっただけだったのかもしれない。

          

 バレンタイン・チョコには「本命チョコ」と「義理チョコ」があるという。ぼくが現役の教師時代にゼミ生からもらった手作りのチョコなどは間違いなく「義理チョコ」だろう。2月14日のバレンタイン・デーは学年度末の成績発表(4年生にとっては卒業判定)の時期だから「義理」というより「賄賂」性の強い贈り物かもしれない。最高裁判例によれば、贈答も「社交儀礼の範囲内」であれば「賄賂」性はないとされている(和歌山大学附属中学校事件)。もちろんチョコレートで成績判定や卒業判定の結果を左右したことなどなかったし、せっかく作ってくれたものだから有難く頂戴した。

            

 さて今年もらった2人からのバレンタイン・チョコはどう解釈すればよいのだろうか。高校生や中学生だったら、「義理」か「本命」かで悩むかもしれないが、いまさら「本命」を貰ったところで如何ともしがたい。
 贈ってくれたひとりはぼくと同じ年代。相続などをめぐって法律問題の相談相手になったりしたので、そのお礼の意味だろうと考えるのが普通だろうが、せっかく陽ざしが春めいてきたこの時期に、わざわざ他でもないチョコレートを贈ってくれたのだから、そこには何がしか社交儀礼以上の意味が込められているのだと思うことにした。もう一人はもう少し若いけれど妙齢の既婚女性である。彼女とは40年以上むかし松田聖子主演の「野菊の墓」を吉祥寺の映画館に見に行ったことがあった。三つ子の魂百まで、思春期青年期の魂も百まで、である。
 今朝がた(夜中?)の午前 3時近くNHKラジオ深夜便で、カーペンターズの「イエスタデー・ワンス・モア」がかかっていた。

 2025年2月14日 記

直井明「87分署のキャレラ エド・マクベインの世界」

2025年02月12日 | 本と雑誌
 
 きのう(2月11日)の東京新聞朝刊の死亡欄に直井明氏が2日に亡くなったという記事が出ていた。
 福島重雄弁護士(元札幌地裁判事)の死亡記事(享年94歳)と並んで載っていた。福島氏は、長沼ナイキ基地訴訟の裁判長として自衛隊を違憲とした判決内容だけでなく、裁判の過程で地裁所長が判決に介入したいわゆる「司法の危機」の当事者として有名である。

 ぼくは一時期エド・マクベインの「87分署」シリーズにはまっていた。「はまった」といっても、飽きっぽいぼくの場合はそのシリーズなり著者なりを10冊も読めば「はまった」ことになる。「87分署」シリーズも早川ポケットミステリとハヤカワ文庫で合計15冊くらい読んだだけである。その後、直井明「87分署のキャレラーーエド・マクベインの世界」(六興出版、1984年)という本を古本屋で見つけて買った。ただし、この著者ほどにはマクベインやキャレラ(主人公の刑事)自体には興味が湧かなかった。「87分署」の小説それ自体を読んで、ストーリーとその背景になったアイソラ(ニューヨーク)の雰囲気を味わうだけで十分だった。
 同書の表紙裏に、同じ直井氏の「87分署インタビュー エド・マクベインに聞く」、「87分署グラフィティ」「87分署シティー・クルーズ」(すべて六興出版)の新聞広告が挟んであった。本書の著者紹介によると、氏は1931年東京麻布の生まれ、東京外語大インド語学科卒業の商社マンで、本書執筆当時は商社(会社名はない)のヒューストン支店長、南達夫のペンネームでミステリ小説の受賞歴もあるとのこと。昨日の死亡記事によると、享年93歳、肩書は「海外ミステリー研究家」で、「本名非公表」となっている。記事によると、「87分署グラフィティ エド・マクベインの世界」で1989年に日本推理作家協会賞評論その他部門賞を受賞したとある。
 シャーロック・ホームズの「原典」を「研究」する「シャーロキアン」に倣うなら、氏はさながら「キャレリアン」とでも言えようか。  

 この本も断捨離候補の山積みにした本の中に積んであったが、もうしばらく置いておこうか。

 2025年2月12日 記

村松友視「アジア幻想 モームを旅する」

2025年02月07日 | サマセット・モーム
 
 村松友視+管洋志(写真)「アジア幻想 ーー モームを旅する」(講談社、1989年)を読んだ。1989年と言えば平成元年ではないか!
 
 2007年3月8日の日付の「マーケットプレイスで購入」というレシートが挟んであったが、出品者や値段はない。古本で買ったまま放ってあったもの。
 昨日2月6日は3か月に一度の眼科の定期検査。診察を待つあいだの時間つぶしに持参した。眼科の検査の前に本を読むのは検査数値に悪影響を及ぼすのではないかと心配だが、毎回診察までに2時間近く待たされるので、本でも読んでいなければ間が持たない。
 昨日は9時半過ぎに受付をしたが、すでに50人以上の順番待ちがいた。11時半すぎになってようやく事前の視力検査の順番が回ってきた。視力検査が済んだ段階で順番は5人待ちくらいになったのだが、ぼくの前の順番の高齢の女性患者が1人で25分もかかったため、それからさらに1時間近く待たされた。
 そんな次第で、村松「アジア幻想」は100ページ近く読めたが、視力、眼圧ともに前回より数値が悪くなっていた。幸い眼底は悪化していなかった。
 ようやく診察を終え精算も済ませて屋外へ出ると12時半。眼底検査のために瞳孔を拡大させる目薬を差されたため、冬の日差しがまぶしく、青空も真夏のように青く輝いて見えた(下の写真。ぼくの目にはこの写真より10倍まぶしく見えていた)。横断歩道を渡るときも白線がギラギラと輝いて下を向いて歩けない。
 もとの勤務先に行って、後輩とランチをして帰る。下の写真は「能楽書林」のファサード、ぼくが好きな神保町の風景の一つである。

               
               
       
 さて「アジア幻想」だが、「モームを旅する」という副題がついていて、サマセット・モームのアジア旅行を村松が追体験した旅行記に、同行した写真家菅洋志の写真が添えられている。
 モームの南洋ものに登場するシンガポール、クアラルンプール、バンコクを村松が旅しながらモームを追体験する随筆だが、モームは狂言回しというか脇役で、村松が主人公の旅行記と考えたほうがよい内容。「モームを旅する」という副題にはあまり期待しないほうがよい。
 全体は4章に分かれていて、「幻想ーー?マークの誘惑」「湿潤ーーシンガポール ラッフルズ・ホテル」「芳烈ーークアラルンプール アペリティフ・シャワー」「熱鬱ーーバンコク 極東メリー・ゴー・ラウンド」という章題がついている。
 「?マーク」というのはモームのあだ名だそうで、謎めいたモームの表情や性格を意味するらしい。つづく3章は「PENTHOUSE」誌1985年5~7月号に連載されたもの。そういえばそんな雑誌があったような気もする。掲載された雑誌の性格がそうだったのか、今読んでもかなり気障な印象を受ける。
 モームは一時期(40歳の頃だった)イギリス諜報機関のスパイを務めたが(「アシェンデン」)、それは1917年、ロシアが革命の真っただ中のことだった。ケレンスキー政権を支えるという重大な任務を与えられていたのだった(200頁)。そうだったのか。「アシェンデン」を読んだときはそんな重大な任務を帯びていたとは気づかなかった。モームはロシア嫌いだという印象を持っているが、もう一度「クリスマスの休暇」を読み直してみよう。

 さて、村松だが、かつてモームも泊ったラッフルズ・ホテル、マジェスティック・ホテル、オリエンタル・ホテルに泊ってモームの幻影を探るのだが、雰囲気が残っていたのはラッフルズ・ホテルだけで、マジェスティック・ホテルは面影を残していたのはコロニアル風の白亜の外観だけで、内部は現代的な美術館になってしまっている。ただレトロなエレベーターと、隣りの建物から聞こえてくる古いタイプライターの音に、わずかに往時を偲ぶことができるだけであった。王国として一貫して英国の植民地となることを拒否したタイのバンコクは、「コロニアル風」を装うことも拒否しつづけたため、モームもバンコクには強い違和感を表明していた。
 モームは南洋ものでも決して現地人を主人公とすることはなく、植民地の支配者側の人間としてこの地にやってきたイギリス人(西洋人)を主人公とし、コロニアル風であることを好んだという。モームの南洋ものには現地人を主人公とする作品はなかっただろうか。人間を「環境の生き物」と考えるモームなら、南洋ものの主人公は現地人の方がふさわしいと思うが、イギリス人が南洋に駐留するうちに「環境」によって変わっていくというのも「環境の生き物」らしいか。

 序章の「?マーク」の謎も、結局は解けないままに村松の旅は終わる。 
 もっとたくさんのモーム作品が登場するかと思ったが、南洋ものでは「雨」がやや詳細に語られる以外は残念ながらほとんど登場しない。モームの南洋ものには上の3都市以外にももっとたくさんの作品があるが、村松はモームの南洋ものをそんなには読んでいない感じがした。
 南洋ものではなく、「要約すると」「作家の手帳」などの回想録や、「人間の絆」「お菓子と麦酒」のような自伝的な作品のほうがよく引用される。「大衆作家」として評価されながら「純文学作家」としてはイギリスでは評価されなかったというモームの作家としての地位に何度か言及があった。「20代の頃は残忍だといわれ、30代の頃は軽薄だといわれ、40代の頃はシニカルだといわれ、50代の頃は腕達者だといわれ、60代の今は浅薄だといわれる」というモーム自身の有名な言葉も2、3度登場した。これに村松は、20代で珠玉の短編を、30代で長編を、40代で評伝を、50代で自伝を書き、60代で芸術院会員になるという日本の文壇の噂を対置している(61頁)。
 高齢になってもハイティーンからのファンレターが届いたというエピソードが2、3度出てきたが、本当だろうか。確かにぼくたちが大学受験生だった1968、9年ころはモームは受験英語界で頻出作家だったから、モームを読んだ受験生は多かったとは思うが。
   
 2025年2月6日 記

 追記 どういう文脈だったか忘れたが(※モームも一九も晩年まで世間の評価を得られなかったという文脈だった)、本書に十辺舎一九のことが出てきた。一九はいまテレビで話題らしい(ぼくは見ていない)蔦屋重三郎の食客だったという(46頁)。
 蛇足 ここ数日ラジオ放送100年を記念してNHKラジオ深夜便がニッポン放送のオールナイト・ニッポンとコラボした番組を放送しているのだが、面白くないというか喧しい。オールナイト側が鈴木杏樹や名取裕子のためか、NHKの男性アンカーのテンションが高すぎる。ラジオ深夜便とオールナイト・ニッポンとはあまりにも性格が違いすぎる。深夜放送だからというだけで「コラボ」できるものではないだろう。おかげでラジオを切ってさっさと寝ることができるのはありがたいが、熟睡して昨夜は「絶望名言」の時間も寝過ごしてしまった。
 追記2 昨日(8日)朝のNHKラジオ番組に前回の芥川賞受賞者が出ていた。アナウンサーから作品における「文学性(芸術性だったかも)と娯楽性」の関係について聞かれて、シェークスピアのように発表当時は娯楽作品として多くの人に読まれながら、後世になって文学研究の対象となるような作品が理想と語っていた(ように思う)。
 村松も本書の中でモームのイギリス文学界における評価の低さについて何度か言及していて、村松自身が大衆小説(読物)と文学作品との区別にこだわりがあることが感じられた。後で調べると、昨日朝のゲストは「ゲーテはすべてを言った」という小説の鈴木結生という人だった。ラジオで聞いた限りでは「ダヴィンチ・コード」のような作品内容のようだった。伏線というかサイドストーリーとして学者による資料の捏造事件が出てくるらしい。ゲーテには興味がないけれど、捏造事件(あの事件に着想を得たのだろう)のほうには興味が湧く。(2025年2月9日 追記)


きょうの浅間山(2025年2月5日)

2025年02月05日 | 軽井沢・千ヶ滝

 今冬最強の寒波が日本を覆っている今日、現在(12時11分頃)の浅間山の風景。

 気象庁の火山監視ライブカメラの「浅間山(追分)」から眺めた浅間山。追分のどの辺にカメラが設置されているのだろうか。手前の木立から見ると1000メートル林道の沿道だろうか。

 浅間山の山影は雪雲に煙っているが、背景には時おり冬の青空がのぞいている。
 山頂の雪が風に舞っている様子は、高村薫「マークスの山」を思わせる(それほどではないか・・・)。

 2025年2月5日 記

きょうの軽井沢(2025年2月2日)

2025年02月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 朝のラジオで、「軽井沢は積雪3センチ」と言っていた。
 うっすらと雪化粧した軽井沢の風景を眺めようと、長野国道事務所と気象庁火山情報(浅間山鬼押)のライブカメラを開いてみた。
 3センチの積雪では、残念ながら期待したほどの「雪化粧」を見ることはできなかった。

 冒頭の写真は、鬼押出し付近から眺めた現在の浅間山だが、雪雲に煙っていて山影を見ることはできない(気象庁ライブカメラ)。
 以下の写真は、国道18号の長倉(バイパス南軽井沢交差点)、鳥井原(消防署付近)、追分(どこだろう?)、馬瀬口(道路標識に「小諸市」と見えるから御代田町と小諸市の境界あたりなのだろう)、東御市滋野(どこ?)の現在の景色。
       
            
             
            
            
            
     
 どこも、道路わきを除いて雪は積っていないようだ。
 国道事務所ライブカメラの情報では、長倉(バイパス南軽井沢交差点付近)の積雪は 0 センチ、気温は-1・1℃、路面温度は-0・6℃、道路状況は湿潤となっている。
 
 2025年2月2日 記

P・アコス他「現代史を支配する病人たち」

2025年02月01日 | 本と雑誌
 
 P・アコス、P・レンシュニック著/須加葉子訳「現代史を支配する病人たち」(新潮社、1978年)を読んだ。これも断捨離する前のお別れの読書。

 1950年生まれのぼくにとって、物心がついて最初に知った国際政治上の人物の名前は、マクミラン(イギリス)、アデナウアー(西ドイツ)、ドゴール(フランス)、フルシチョフ(ソ連)、アイゼンハワー(アメリカ)、毛沢東(中国)、ネール(インド)、ナセル(アラブ連邦)などなどだった。これらの人物が同時代の舞台に立った政治家だったのかどうかは自信がないが、ぼくの国際政治に関する記憶のデフォルトはこのような人物の名前とともにある。
 小学生の頃に、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領!」などという笑いがはやったこともあった。「山からころころコロンブス、それを取ろうとトルーマン」などというのもあったが、トルーマンが大統領だった時代の記憶はない。ネタ元は当時ぼくのご贔屓だった柳亭痴楽の「話し方教室」だったかもしれない。

 本書は1976年にフランスで出版されたものだが、著者の一人はジャーナリスト、もう一人は内科医師で、第2次大戦期から1970年代までの大物政治家たち27人の言動を病理学的というか病跡学的に分析したものである。
 登場人物は、ルーズベルトから始まって、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソンらアメリカ大統領、ヒトラー、ムッソリーニ(サラザール、フランコも)らナチスト・ファシスト、彼らと対峙させられたチェンバレン、ダラディエ、チャーチルらヨーロッパの政治家、さらにアデナウアー、ド・ゴール、ポンピドーとつづき、東側のレーニン、スターリン、フルシチョフ、(間にイーデン・ナセルを挟んで)周恩来、毛沢東で結ばれる。
 懐かしい名前が続き、その表舞台での活動とその背後に潜んでいた病気の影響を暴いてゆくのだが、一番多かったのは高齢化、老衰による判断力や行動力の低下であって、高血圧だったとか軽い脳梗塞を起こしていたとう場合もあるが、必ずしも「病気」というほどではないものあるし、あえて「病気」というよりは本人の気質とか性格(のゆがみ)のような事例も少なくない。

 その一方で、やはり本人の病気が国際政治に大きな影響を及ぼしたと言わざるを得ない例も少なからず見受けられた。
 本書の冒頭の話題であるヤルタ会談当時のルーズベルトはアルヴァレス病を病んでおり、腹心のホプキンスは胃がんを患っており、ともに会談後相次いで亡くなっている。会談当時すでにスターリンを相手に、後に紛争地帯となる東ヨーロッパの帰属をめぐって外交交渉を展開する体力、気力は二人にはなかった。ルーズベルトの血圧が300/170だったこともあったという驚くべき記録も紹介されている(25頁)。
 若くて精悍な美青年というイメージで登場したケネディが、実は学生時代のフットボールの試合中に負った椎間板骨折による痛みに生涯悩まされつづけていたというエピソード、さらにアジソン病という腎疾患を患っており、常にコーチゾン(ステロイド剤?)を服用しなければならなかったという事実も知らなかった(55頁~)。著者によれば、ニクソンは強迫神経症で、ウォーターゲイト事件の特別検察官ハーヴァード大学コックス教授の追及によってニクソンは溶解した(74頁)。

 ヒトラーの書き出しは、1976年の驚くべき世論調査の数字の紹介から始まる。
 1976年当時アメリカの18~21歳の青年の92%は第1次大戦の認識を欠き、82%は1929年の経済恐慌に関心がなく、62%が真珠湾攻撃を、56%が朝鮮戦争を知らず、40%がケネディ暗殺を知らないというのだ(77頁)。ヒトラー主義の恐怖はもう人の心に浸透しないと著者は書いている(78頁)。そんなアメリカ社会であってみれば、マスクが極右政党を支持しハイル・ヒットラーのポーズをとったことに驚く我々はアメリカへの認識が欠如していたのかもしれない。
 そのヒトラーはヒステリー症で、潜在的同性愛を示す受動的、マゾヒスト的性格であり、近眼であることを隠すために一切眼鏡をかけず、特製の大きな文字のタイプライターを使っていた(80頁~)、さらに停留睾丸で、パーキンソン病の症状も現れていたという(92頁~)。ただし彼はイギリス、フランス政府が週末に休暇を取ることを知っていて、必ず土曜日に奇襲攻撃をかけたという。そのヒトラーと戦うフランス軍元帥のガムランは誇大妄想と矛盾が張り合う神経梅毒の患者であった(90頁~)。

 チャーチルの晩年は、まさに引き際を誤った老政治家の哀れな末路を象徴している。80歳にもなれば高齢化に伴う様々な不都合が生じるのは当然で、高血圧や高コレステロールの影響による「病気」の指摘よりも、高齢化による政治外交遂行能力の減退を考えるべきだろう。毛沢東の最晩年の記述などまさにその好例である。他方、周恩来のがん発症ように、外交遂行能力も十分な時期に政治生命とともに彼の生命を奪った病気は惜しんでも余りある。
 アデナウアー、ド・ゴール、フルシチョフ、ブレジネフその他の面々の「病気」エピソードは省略するが、忘れかけていた1970年代に至る国際政治の様々な事件や会議と、その舞台に登場した政治家たちのあれこれを思い出させる懐かしい読書になった。 
 本書は、公開された各政治家の自伝・伝記や医学雑誌の記事、報道等に依拠して記述されているが、著者は「結論」において、政治家の病気についてはヒポクラテスの誓い(医師は患者の病気を暴いてはならない)は適用されるべきではない、肉体的、精神的病人が最高権力を握るのを防止する点で民主的諸制度は極めて不十分であり、元首の心身の状況を調査することは全市民の正当防衛の権利であると主張する。
 今日から見ると病気や病人に関して適切を欠く記述も見受けられるが、著者の問題意識と指摘は現代でも重要なテーマである。
 
 巻末に訳者のあとがきがあり、翻訳をする者にとって有用な指摘が書いてある。
 訳者によれば、原文に正確という美名のもとに逐語的な正確さばかりを狙ったのでは日本語として読みにくい文章になってしまう。そこで訳者は、(1)原文の一語一語をその文脈の中で正確に把握する、正確な把握には一文全体、一段落全体、一章全体に及ぶ、言葉はフランス語自体、文章はフランス文自体として理解され、ニュアンス・リズム・感覚もフランス文化圏内でとらえる。(2)(1)で理解された文章からできるだけ忠実な日本文を想定する。(3)(2)の日本文を修正し、意味とニュアンスが最も原文に近くなるように一語一語を選択し直し、素直な日本文になるように再構成する、という。さらに、欧文に頻出する主格代名詞や所有形容詞は意味が通る限り省略する、逆に欧文の代名詞は固有名詞で言いかえて説明しないと意味が分からなくなる(ことが多いので固有名詞で言いかえる)などである。
 さすがに本書の訳文は意味の取れない箇所もなく、大変に読みやすい訳文であった。

 なお、裏表紙に1982年2月10日付朝日新聞の「政治家と病気」という記事が挟んであった。戦後日本の歴代首相の病歴を扱っているが、最大の謎は石橋湛山の病気(風邪!?)による首相辞任、その後の回復だろう。ぼくには毒を盛られたとしか思えない。石橋が病気、退陣していなければその後の日米関係は今とは違った形になっていただろうと思う。
 病気になっても辞めない政治家も迷惑だが、あまりに潔い(潔よすぎる)石橋も残念である。

 2025年2月1日 記

「民法(家族法)改正のポイントⅠ」

2025年01月31日 | 本と雑誌
 
 大村敦志・窪田充見編「「民法(家族法)改正のポイントⅠーー2018~2022年民法改正編」(有斐閣、2024年)を読んだ。 
 今年最初にして、しかも久しぶりの法律の専門書である。専門領域だからきちんと応対しなければならないのだが、ひとまず読んだことだけ書き込んでおく。

 本書は、近年の家族法領域における民法改正について解説する本であり、分担執筆の各論稿は基本的に今次の立法の経過と、改正内容の客観的な紹介が中心である。
 近時の改正のうちとくに関心のある実親子法および生殖医療関連法の箇所を中心に読んだ。ぼくは今次の実親子法改正の基本方向や改正の具体的な内容に賛同できない部分が少なくないので、本書の記述にも納得できない部分がある。
 ーーと書き始めてはみたものの、やはり論文を書くべきだろうと思いとどまった。
 
 以下では誤植(ではないかと思われる)箇所を指摘しておく。
 はしがきⅸページ、9行目 「法性」⇒「法制」(これは誤植)
 本文119ページ、6行目 「子C」⇒「C」(だろう)
  〃149ページ、下から9行目 「子と認知した者」⇒「子を認知した者」(ではないか)
  〃188ページ、6行目 「出産した子により生まれた子」⇒「出産した子」または「出産により生まれた子」(だろう。そうでないと意味不明だが)
 ※なぜか9行目と6行目が多い。96(苦労)が多い?

 2025年1月22日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その8ーー余滴

2025年01月28日 | 本と雑誌
 
 (承前)ぼくが探偵小説や小説一般に飽きた原因の一つははっきりしている。

 勉強で家族法の判例を読むうちに、実際に起きた事件を扱った判例を読むほうが、下手な小説などよりはるかに面白いことを発見してしまったのだ。
 そもそもぼくは、大学時代の家族法の講義で先生が紹介した、田村五郎「家庭の裁判--親子」(日本評論社)を読んだのがきっかけで家族法に興味を持つようになった。しかも最初に読んだのが「水商売の女の貞操」という認知の訴えに関する章だった。

       

 その後、ぼくは平成5年頃から令和に至るまで、毎年家族法関係の判例のうち、公刊された判例集に登載されたものを全件読んで、判決の要旨を執筆して、関係条文の該当項目に配列し、検索の便宜のためのキーワードを抽出するという仕事をしてきた。毎年20件から60件程度の判例を2人で分担して執筆するのである。中には読み物としてはあまり面白くない事例もあるが、時には事実関係がきわめて興味深い事案に出会うことがある。
 事件の当事者には申し訳ないが、第三者として読むと(不謹慎と言われそうだが)やはり「面白い」事案が結構ある。あまり文才があるとは言えない裁判官の手によるものであっても、事実自体が大変に興味深く、下手な小説よりもよほど読ませるのである。
 おそらく、ぼくが小説をほとんど読まなくなってしまったのは、これが原因だと思う。

 ぼくは教師になって、1コマあたり90分の授業を年に25回するようになった際に、講義の一番役に立ったのは、中川善之助先生の講義や講演を活字化した本だった。中川さんは大正時代に東大を出て、戦後の民法家族法改正にも寄与された家族法の大家だが、座談の名手でもあった。学問のことだけでなく、家族に関する各地の風習・習俗から、日本各地の民謡や民話などについても造詣が深い方で、「民法風土記」(日本評論社、後に講談社学術文庫)という著書もある。
 私は一度だけ中川先生と酒席をご一緒させていただいたことがあった。九段坂上の「あや」という料亭だった。先生は仲居さんを捕まえて、「あなたはどこの出身か」「あの辺りでは今でも末っ子が相続しているのかね」などと、話の相手にああわせてご当地の話題を語って、座を和ませるのである。民謡を歌われたこともあったと聞いた。
 その中川先生の「家族法判例講義(上・下)」(日本評論社)や、「民法 活きている判例」(同)、「民法講話 夫婦・親子」(同)、「家族法読本」(有信堂)、などは、講義のテーマにまつわる様々な話題を提供してくれる。ある年の授業評価で、受講生が「先生の講義はどこまでが本論で、どこからが余談か分からない」とコメントを書いたことがあった。これはぼくにとって、ある意味で褒め言葉であった。ぼくは「余談」はするけれど、授業とまったく関係のない無駄話は(まったくしないわけではないが)あまりしない。講義のテーマを理解するうえで、学生たちの印象に残るような「サイド・ストーリー」を語ってきたつもりである。中川先生や田村先生の種本が面白かったこともあって、サイド・ストーリーのほうばかりが記憶に残ってしまったかもしれない。
 
 2024年5月25日 記

 ※ 書くことがないので、ほったらかしてあった古い草稿をそのまま載せた。

志賀直哉「小僧の神様 ほか」(集英社文庫)

2025年01月23日 | 本と雑誌
 
 志賀直哉は「小僧の神様」なども含めて、偕成社版「少年少女現代日本文学全集」の「志賀直哉名作集」(1963年)で読んだはずだが、冒頭の写真は、息子が子どもだった頃に買い与えた志賀直哉「清兵衛と瓢箪 小僧の神様」(集英社文庫、1992年)の表紙カバーである。
 2000年頃までは新潮、角川、小学館、集英社など各社が、毎年夏休み前になるとこぞって若者をターゲットに自社の文庫本から古典的な名作をピックアップした小冊子を配布するなど販売促進活動をしていたものだった。本書の表紙カバー見返しにも、「青春必読の1冊 集英社文庫ヤング・スタンダード」と称して、芥川「河童」「地獄変」から、漱石、鴎外、鏡花、宮沢賢治、川端、太宰、堀辰雄、梶井基次郎、中島敦らを経て、山川方夫「夏の葬列」、吉行淳之介「子供の領分」に至る40冊近い目録が載っている。しかし、いつの間にか若者は文庫本の販売対象ではなくなってしまったようだ。「笛吹けど踊らず」だったのだろう。
 この集英社文庫も、表紙カバーのイラストが若者向けなだけでなく、本文も活字が大きく行間も広くとってあり読みやすい印象を与えている。もちろん新仮名遣い、新字体で、ルビ、語注までついている。巻頭には著者の若いころの写真などを納めた口絵ページがあり、巻末には解説の他にも著者の経歴や作品を網羅した年譜などをつけて若い読者に配慮しているのだが。
 
 「小僧の神様」は、短編小説の名手として「小説の神様」といわれた志賀直哉中期の代表作だと解説はいう。
 話の最後に作者(志賀)自身が登場して、小僧が立て替えてもらった握り寿司の代金を払いに行ったら、そこにはお稲荷さんの祠があったとかいう結末にしようと思ったが、小僧が気の毒なのでやめたと書いていたことが、中学生の頃に偕成社版で読んだときには強く印象に残った。こんな風に作者自身が小説の中に顔を出す小説を読んだのは初めての経験だったのだろう。その後柴田錬三郎「うろつき夜太」や、最近になって読んだ永井荷風「濹東綺譚」、高見順「故旧忘れ得べき」などにも作者自身が登場する場面があったから、小説作法として特別なことではなかったのだ。
 集英社文庫版のもう一つの表題作である「清兵衛と瓢箪」は、かつて読んだときはあまり好い印象を残す小説ではなかった。幼い少年が骨董屋の店頭に置かれた一見何でもない瓢箪(ひょうたん)を気に入って購入するのだが、周囲の大人たちからは馬鹿にされる、しかしのちにその瓢箪に高値がつくといった内容だったと思う。そもそも瓢箪に価値があるなどという世界がぼくには当時も今も理解不能なので、そんな瓢箪に目利きかどうかなど主人公の少年の価値に何の関係もないではないか、という思いをぬぐえなかった。少年の審美眼を信じるというのも白樺派作家の「善意」なのだろうか。

      

 今回、「網走まで」「母の死と新しい母」「正義派」「范の犯罪」「城の崎にて」などを読んだ。ついでに旺文社文庫版「網走まで 他16編」(昭和43年、手元にあったのは昭和52年13刷。上の写真)で「沓掛にて」を読んだ。
 「沓掛」は現在の中軽井沢駅周辺の昭和30年ころまでの呼称である(沓掛時次郎!)。あのあたりの何が書いてあるのだろうと期待して読んだが、中身は芥川龍之介との思い出話で、彼の自殺を篠ノ井から沓掛に向かう信越線の車中で知ったという以外に「沓掛」はまったく登場しなかった。ぼくは志賀が「沓掛」で芥川と出会ったことがあり、そのときの思い出を回想するのだろうと期待したのだったが、期待外れだった。ただ、志賀の芥川に対する突き放したような見方が印象的だった。志賀が芥川を都会人、自分を田舎者と見ていたことも意外だった。
 「城の崎にて」も城の崎のことはほとんど描かれていないし、「網走まで」も青森行きの列車で同席した母子が(どんな理由があってか)網走に向かっているというだけだった。小説の題名に地名をつけた志賀の真意が分からないが、「沓掛」「城の崎」「網走」に何か含意があったのだろうか。「沓掛にて」のテーマは芥川の死だが、彼の死に「沓掛」が係わりがあったと志賀は考えたのか。「城の崎にて」もテーマは「死」それ自体だが、誰かの死が城の崎に係わりでもあったのだろうか。「網走まで」は、ひょっとすると母親の夫は受刑者で母子は刑務所に面会にでも行く途中だったのだろうか。
 
 今回読んだ志賀の小説の中で一番ぼくの印象に残ったのは「范の犯罪」である。偕成社版に入っていたかは覚えていないが、旺文社文庫には入っていた。編集者時代に、誰だったか法律家の随筆で「范の犯罪」に触れたものを読んだことがあった。
 主人公は中国人の奇術師夫婦である。夫(范)が戸板の前に直立させた妻に向かってナイフを投げるという芸当を見せるのだが(ウィリアム・テル!)、ある時夫の投げたナイフが妻の喉にあたって妻は死んでしまう。裁判になり、夫に殺意があったか否かが争点になる。実は結婚直後に、妻が結婚前に交際のあった男との間の子を産んだため(死産だったが)、夫婦は結婚直後から不仲となり、夫はその事実を受け入れようとキリスト教の洗礼まで受けるが、心の安らぎを得られないでいたということを夫自身が告白する。殺意があったのかどうか、夫は自分自身でも分からないと告白する。
 最後に裁判官が「無罪」と心証を得るところで話は終わるが、たとえ殺人で無罪だとしても、(重)過失致死罪の責任は免れないだろう。
 その結論の当否よりも、「范の犯罪」では妻の不貞(この小説では結婚前のことだが)に対する主人公(=志賀)のこだわりが印象的である。「暗夜行路」はもっと直截に妻の不貞による出産という自分の出生の秘密(への疑惑)がテーマになっていた。
 小津安二郎の映画に対する志賀直哉「暗夜行路」の影響は何人も指摘しているが(浜野保樹「小津安二郎」岩波新書ほか)、小津「風の中の牝鶏」の夫(佐野周二)の煩悶などは、「暗夜行路」というよりむしろ「范の犯罪」の影響の方が強いのではないか。最近読んだ佐古純一郎「家からの解放」(春秋社)では、そもそも「暗夜行路」の主人公時任健作が抱いた父子関係への疑念の脆弱さが厳しく批判されていたが。

 集英社文庫版の最後のページには、「2002年8月27日(火)」という日付と下の息子のサインがあった。日付からして、夏休みの宿題の読書感想文を書かせるために読ませたのかもしれないが、小学校6年、12歳の息子には「范の犯罪」や「正義派」は無理だろう。「『小僧の神様』を読んでごらん」とちゃんと読書指導をしたうえで読ませただろうか。太宰治「新樹の言葉」のような感想は書いてなかった。

 2025年1月23日 記
 

幽冥録(2025年1月22日)

2025年01月22日 | あれこれ
 
 今朝の東京新聞スポーツ面の下段に、スポーツ関係者の死亡記事が 2件ならんでいた(上の写真)。
 亡くなられたお二人とも面識のある方だった。

 お一人は金子明友さん。1952年のヘルシンキ五輪の体操日本代表と紹介されているが、ぼくの高校の体育の先生だった。本業は東京教育大学体育学部の(当時は)助教授だったが、当時上級生にメキシコ五輪の体操代表候補がいて、彼の指導のために非常勤講師としてぼくたちの高校に教えに来ていて、ついでに一般生徒の体育の授業も担当されたのだと思う。元体操選手らしく小柄だが精悍そうな先生だった。体操が苦手なぼくなどはまったくの「縁なき衆生」だった。97歳とあるから大変なご長寿である。

 もうお一人は鈴木恵一さん。82歳。スピードスケート 500mの世界記録保持者(1970年38秒71)だったが、オリンピックでは1964年インスブルック五輪の5位が最高だったと紹介されている。あの「白い恋人たち」が流れた記録映画が作られたのがインスブルック五輪だったか(※1968年のグルノーブル五輪だった)。鈴木さんは直接お話しなどしたことはないのだが、1969年夏に軽井沢スケートセンターでアイスホッケー部の夏合宿をした際に、国土計画所属だった鈴木さんの練習風景をしばしばお見かけした。軽井沢スケートセンターのスピードスケート用リンク(1周333メートルだったか、インドアリンクの南側にあった)は夏の間は氷を張ってなかったので、もっぱら陸上練習をしていた。後にボーリング場になったあたりのコンクリ(アスファルト?)の地面でローラーブレードをやっていたような記憶があるが。鈴木さんの世界記録は1969年と1970年に樹立したというから、まさに絶頂期の彼の練習を眺めたのだった。

 ご冥福をお祈りしたい。

 2025年1月25日 記

国立(くにたち)を歩く

2025年01月20日 | 東京を歩く
 
 1月16日(木曜)の昼前、知り合いの彫刻家が個展を開いていると高校以来の友人に誘われたので、国立駅に近いギャラリーに出かけてきた。
 国立は高校時代の3年間通った懐かしい場所だが、久しぶりに訪れた国立駅の変わりように驚いた。最後に訪れたのは下の息子が桐朋高校野球部と練習試合をするのを見るために桐朋高校のグランドに行った時だから、もう20年近く前のことである。そのころすでに国立駅前の風景はぼくの高校生時代とは様変わりしていたが、駅舎は昔のままの雰囲気のある三角屋根の木造建築のままだったように記憶する。
 
      
      

 それが今回降り立ってみると、どこにでもあるようなモダンだけれど平凡な駅舎になってしまっていた。ただし、新しい駅舎の手前には旧駅舎の一部が移築して保存されていて多少は救われた気持ちになった(上の写真)。この駅舎の前で、中学時代の同級生で国立音高に進んだ旧友とたまに出会うのが楽しみだった。同窓会で、J・K・ケネディの横顔を彫ったぼくのネクタイピンを欲しいというのであげてしまった彼女である。
 ただしぼくの高校は8時30分始業で、彼女の方はたしか9時始まりだったので、会うことができるのはぼくが大遅刻をした時だけだった。1965~7年のあの頃は「8時ちょうどのあずさ2号」(狩人)が8時に新宿を発車して、これが8時15分前後に吉祥寺駅を通過するため、8時5分だったかに吉祥寺を出る立川行きに乗り遅れると、次は8時20分すぎまで待たなければならず、吉祥寺で遅刻が決まってしまった。遅刻しても国立駅で彼女に会えればまだいいけれど、たいていは遅刻常習犯の常連が5人ごとに乗り合いタクシーで学校に行くしかなかった。割り勘にすると一人当たりバス代と同じ運賃だった。

       
       
 
 展覧会を見終わってから、大学通りを一橋大学の方に歩いた。
 駅前の「増田書店」が健在だった。新しいビルの1階に陣取っていて、昔は薄暗かった店内も明るかった(上の写真)。この「増田書店」がフランス革命時のマラーか誰かの著作集を出版したという記事を読んだような記憶がある。
 新装開店の胡蝶蘭が飾ってある「白十字」があったけれど、あれは1960年代の「白十字」と同じ店だろうか。あそこのウェイトレスを好きになって、「ラーメン1つ」などと注文して、 「ラーメンはありません」と言われるのを喜んでいるやつがいた。どうしているのだろう。
 ついでなので、一橋大学の構内を散歩してきた。まだ冬休みなのか、構内は学生の姿もなく閑散としていた。

       

 放課後にたまに立ち寄ってはラーメンや焼きそばを食べた富士見通りの「マルハチ」も、もうなくなっただろう。世界史の授業で、モンゴルの皇帝か誰だったかの「ヌルハチ」という名前を先生が口にしたとき、教室中に笑いが起きた。先生はなんで笑われたのか分からなかっただろう。
 ガストで日替わりランチを食べて帰宅する。
 国立駅ホームに上ると、北口側の風景も大きく変わっていて、昔がどんな風景だったか今ではもう思い出せない(上の写真)。
 吉祥寺に向かう中央線の車窓から見える風景も変わった。東京経済大学か東京農工大学のグランドにはアメフトのゴールポストが見えていたり、獣医大学の馬場(厩舎)なども見えていたが、どれも見えなかった。何とか生命科学大学と校名は変更になったが、黄色のペンキで塗られたクラシックで雰囲気のある木造ホールの塔が高架を走る車窓から見えた。
 東小金井駅では法政大学生らしい男女が降り立ち、武蔵境駅では亜細亜大学生らしい学生が下りていった。ほとんど全員が一人でずっとスマホをいじっていた。

 2025年1月20日 記
     

丹羽文雄「小説作法」(角川文庫版)

2025年01月11日 | 本と雑誌
 
 持っているはずなのに見つからなかった丹羽文雄「小説作法」(角川文庫、昭和40年、手元にあるのは昭和52年第12版)を本棚で見つけた。
 志賀直哉の「小僧の神様」なら小学生が読んでも面白いかもしれないと思って、志賀「網走まで 他16編」(旺文社文庫、昭和52年)を本棚から取り出そうとしたら、その数冊隣りに、何と!探していた時には見つからなかった丹羽「小説作法」が並んでいるではないか。
 ぼくの記憶通りにカバーのかかった角川文庫版であった(上の写真)。しかも、図書館で借りてきた講談社文芸文庫版には入っていなかった「小説作法・実践編」という続編も合本となって収められていた。

 さらに驚いたことに、途中で投げ出したと思っていたのだが、「正編」だけでなく「続編」=「実践編」までちゃんと読み通したようで、青インクのペンで傍線まで随所に引いてある。読まなかったのは「正編」の実作例として掲載された「女靴」と「媒体」という小説だけだった。しかも、読んだ時期と動機も記憶違いだった。
 ぼくは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」やサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」のような青春小説を書きたいと思って、20歳前後の頃にこの本を読んだように記憶していたが、「1977年11月9日に読了」とメモがある。27歳の時に読んだのだった。さらに、最終ページには「日経・経済小説懸賞募集」の広告が切り抜いて挟んであった。「経済・ビジネスに題材を求めた長編で、400字詰め原稿用紙350枚~500枚、選考委員は江藤淳、尾崎秀樹、城山三郎、新田次郎、山田智彦の各氏、当選賞金300万円、佳作2作各50万円」とある。
 27歳といえば社会人3年目で、サラリーマン生活最初の危機の渦中にあったころである。世間知らずだったぼくが大学を出て初めて経験した「サラリーマン生活」の日々を書こうと思ったのだった。自分を松山中学校の「坊っちゃん」に見立てて、悪戦苦闘の末に最後は赤シャツ連合に敗北して会社を辞めて故郷に帰るというストーリーを考えていたのだった。当時のぼくは笹川巌「怠け者の思想」(PHP)に表れたサラリーマン像に共感していて、それが主人公の造形にも影響したように思っていたが、調べると笹川の本は1980年発行だったからここでも記憶の捏造があったようだ。あるいは1980年代に入ってからも未完の小説を書きつづけていたのかもしれない。
 丹羽「小説作法」(角川文庫版)で、傍線を引いてあったのは以下のような箇所である(要約して引用した個所もある)。

 「私は説明という形式を極端なくらいに避ける。説明の部分が多いととかく低調になりやすい」(25頁)、「作者はつねに、どんな人間に対しても貪婪なくらいの好奇心と愛情をもっていなければならない」(28頁、嫌な奴でも愛情をもって観察するなどということは当時の(今でも)ぼくには無理だった)、「誰からもどこからも非難されないような立派な主人公は嘘である。そんな主人公に出会えば、読者は退屈をしてしまう」(35頁)、「作中人物が正義感にあふれて言動するのはいいのだが、作者までがそれと一緒になって正義感をふりまわすのは間違いであ(る)、たとえ主人公が作者であろうと、小説である以上は、別の存在でなければならない」(86頁)などの助言は、出版社で正義漢のつもりで暴れる主人公を想定していた当時のぼくにはきわめて適切な助言だっただろう。小説は書けなかったけれど、当時の現実社会(会社)で自分の行動を客観視する指針として役に立ったはずである。
 「作者には自ずと限界がある、大切なことは、作者は己のよく知っている範囲内で小説を書くということである」(42頁)、「テーマはしっかりしたもの、自分の身についたものを探したほうがよい」(54頁)、「小説を書きはじめる人が、筋をどの程度に決めてかかるかと迷うのは当然である。いくつかの章に大別してかかれば安心出来る。この章には何枚ぐらい、という風に計画を立てる。書出し、発展の過程、結びと大別してかかれば、便利であろう」(67頁)、「事件または行為、人物、背景の三つが小説の三要素である。人物(には)自分のよく知っている人間をモデルに借りる」(88~9頁)、自然描写も自分の知っている場所を選ぶべきであり、丹羽は三鷹(武蔵野市西窪?)に住んでいたので熟知している三鷹駅周辺や(国木田独歩のではない)昭和戦後期の武蔵野の風景をよく登場させたという。
 小説における「時間の経過」についての助言や(131頁)、小説の中の「会話」は日常生活の会話とは異なることの注意もあった。「正編」の最後では、「自分のことを書き給え、自伝を書き給え、この素材はどんな素材よりも秀れている、先ず自分のことから書くべきである。自分のことが書けないような作家は、一人まえの小説家とは言えない」と助言し、しかし「自分のことを書くのには勇気がいる」と忠告する(180頁)。

 当時のぼくが自分のサラリーマン生活を書こうとしたのは、丹羽の指南に従えばテーマ設定として正解だったけれど、主人公と作者自身を分離して、正義感を振りかざす主人公を客観的に観察して叙述するといった芸当は当時のぼくにはできなかった。
 結局ぼくは構想した小説を書きあげることはできず、その後転職の決断もできないまま 9年間も編集者稼業をつづけた挙句に、在職10年目の4月末に出版社を退職し、紆余曲折を経た後に教師になった。今では、教師こそぼくにとっての天職だったと思っている。もし本気で小説家などを目ざしていたら、その後の自分はどうなっていただろうと考えただけでも恐ろしい(昔の人なら「くわばら、くわばら」と胸をなでおろすだろう)。
 ちなみに、丹羽「小説作法」の中には、「井伏鱒二の初期の自然描写は心にくいほど巧みであった。自然描写の名手は、その後あらわれていない」(90頁)という指摘もあった。初期の井伏とは「ジョン万次郎」あたりだろうか、今度読む時にはその自然描写にも気をつけて読んでみよう。「作者は読者の参加という問題に敏感でなくてはならない、読者は小説を補充してくれるものである」という忠告もあった。モームの小説でさえ、もっと読者を信じて、こんな描写や説明は省略すればよかったのにと思ったことがある(「凧」や「魔術師」などだったか)。

 2025年1月10日 記

シートン「シートン動物記・1」

2025年01月10日 | 本と雑誌
 
 今年になって一番最初に読んだ本は、実は井伏鱒二「本日休診」ではなく、「シートン動物記」だった。アーネスト=トムソン・シートン/阿部知二訳「シートン動物記・1」(講談社青い鳥文庫、1985年)を散歩の道すがら通りかかった駅前踏切脇の古本屋で見かけて買ってきた。店頭の100~200円コーナーに置いてあったが、天地、小口の磨き処理は完璧で、本文ページに読み癖もなく、表紙カバーの汚れや皺も一つもなく新品同様だった。Amazon なら「非常に良い」だろう。
 別出版社から出た3種類の「シートン動物記」が並んでいたが、若いころから阿部知二や中野好夫の翻訳で英米の小説に馴染んできたので、阿部訳のものを選んだ。挿し絵も子供っぽくなくてよかった。※シートンの名前 “Thompson” の日本語表記は「トムソン」だろうが、講談社青い鳥文庫版以外のほとんどが「トンプソン」と表記している。

 小学校高学年になった孫に読んでもらいたいと思って買ったのだが、ぼくは「シートン動物記」には苦い思い出がある。
 小学生だったぼくが本を読まないことを心配した父親が、読んでみなさいと言って「シートン動物記」をぼくに渡したのである。自分が子供の頃に読んで面白かったと言うのだが、渡された本は父親が子どもだった大正時代に刊行されたかび臭い「動物記」だった。ーーと記憶していたが、調べてみると「シートン動物記」の本邦初訳は1937年だから刊行から20年くらいしかたっていなかったことが判明した。父親の子供時代の本ではなかったようだが、ネット上の写真を見ると表紙や函の装幀はいかにも古めかしい。もともと本嫌いだったぼくは、読む以前にその古色蒼然とした本自体に拒否反応を起こしてしまい、結局「シートン動物記」は読まなかった。それ以来「シートン動物記」と聞いただけでかび臭さの記憶が蘇ってくるようになってしまった。
 しかし、一般には「シートン動物記」は小学生向けの推薦図書に必ず入っているし、この本を自身の思い出の本として紹介する人は少なくない。しかも、ここ数年クマやイノシシが人里に出没して農作物や人身の被害が発生する事件が頻発しており、人間と野生動物の関係は現代的なテーマでもある。1860年代の北アメリアが舞台だとしても動物文学の古典として読んでおいて損はないだろう。
 ただ、孫が小学2年生の時に、夏休みの推薦図書にあがっていた「山の頂上の木のてっぺん」(書名は不詳)だったかという本をプレゼントしたところ、主人公の少年が可愛がってきた飼い犬が死んでしまうというストーリーだったため、心優しい孫の心にトラウマを残してしまったらしい。「シートン動物記」の代表作である「オオカミ王ロボ」も、ラストはオオカミ王が死んでしまう話である。心配だったので、まずぼくが読んでみてから渡すことにした。そして読んだところ、「山の頂上~」ほど感傷的ではなかったので大丈夫だろうと判断した。

 先日の新聞で、1年間に1冊も本を読まない子が60%を超えたという記事を見た。元出版社員で、元教師であるぼくには信じがたい話だが、そういう現実なのだろう。せめて子どもや孫には本を読んでもらいたい。しかし、子どもを本好きにするのは難しい。
 子ども時代のぼく自身が漫画は大いに読んだ(?)が、活字(だけ)の本にはなかなかなじめなかった。親に渡されたのが古い「シートン動物記」だったり、いまだに忘れられないのだが、「シートン」に前後して母親から「ながいながいペンギンのお話」というのと「スケートをはいた馬」というのを与えられた。しかしこの2冊も、当時のぼくの琴線にふれることはなかった。毎月購読していた雑誌「少年」や、創刊間もない「週刊少年サンデー」、貸本屋の漫画読み物「褐色の弾丸 房錦物語」などに熱中する「子ども」だったのだから。
 子ども時代の読書ということでは、親から毎年「少年朝日年鑑」という子供用の年鑑を買ってもらっていたのだが、これはちょこちょこと読んでいた。記憶にあるのは、「クロード・岡本」という当時天才少年画家と騒がれた子供のことを紹介した記事と(その後どうなったのだろうか)、(埼玉県)行田市(当時は町か村だったかも)皿尾部落の4H運動の記事である。4Hクラブ運動というのは戦後になっても因習的な農村地域を青年たちの手で民主化する運動だが、4H運動のことが小学校の教科書に出てきた際に、自慢げに「少年朝日年鑑」で知っていた知識をひけらかしたため教室内で浮いてしまった苦い思い出がある。小説の面白さを発見することはできなかったけれど、年鑑の2、3頁の記事を70歳を過ぎた今でも覚えているくらいだから、「少年朝日年鑑」は何らかのインパクトを当時のぼくに与えたのだろう。

 ぼくが小説を好きになったのは、遅まきながら中学2年の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川の「魔術」を読んだことがきっかけだった。それ以前にも岩波少年文庫でリンドグレーン「カッレ君の冒険」、ケストナー「名探偵エミール」、ドラ・ド・ヨング「あらしの前」「あらしの後」などは読んでいたが、「魔術」のインパクトは今も鮮明に記憶にある。
 当時国語の担当だった明田川先生という女の先生が、ぼくの作文をいつも褒めてくれて、卒業の時には「東京オリンピックの思い出」という作文を卒業文集に載せてくれたりもした(ぼくの活字印刷デビュー作である)。ぼくが国語を好きになり小説を読むようになったのは、おそらくその先生の指導のおかげだったのだと思う。植物の成長と同じで、人もしかるべき時期が到来して、しかるべき本と出会うことがなければ、本を好きになることはできないのである。少なくとも、ぼくにとっての「ながいながい~」や「スケートを~」のように、子どもを本嫌いにさせるくらいなら、無理に本など読ませないほうがよい。
 「シートン動物記・1」は、孫に渡す時期を見はからうためにぼくの机の上に置いておいたところ、遊びに来た下の孫娘が見つけて「読む」と言って持って行ってしまった。テレビの医療ドラマや、動物ドクターの番組などを熱心に見る子だから興味をもって読んでくれるかもしれない。

 2025年1月9日 記

 息子たちが子どもだった時に買ってやった読み物は、息子たちの独立後もわが家に置いたままになっているが、下の息子はぼくが与えた芥川龍之介や太宰治を読んだようで、読み終わった日付だけでなく、太宰「走れメロス」(これも講談社青い鳥文庫)の裏扉には「“新樹の言葉” が良かった」と書き込みがしてあった。ぼくも読んでみたが、甲府時代の太宰の穏やかな心境が感じられるよい話だった。「井伏先生」も登場したのではなかったか。井伏文学の雰囲気も漂っていた。
 子どもだった頃の息子が「新樹の言葉」に出会ったように、孫たちも何かに出会ってくれるといいのだが、時機を待つしかない。