豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

世田谷の野球選手

2006年02月20日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. 山内和弘

 子どものころ、わが家の近所に下宿していた。玉電山下から松原方面に向かって最初の踏み切り(川田保育園の北側)を左折したあたり。
 大毎オリオンズの縦縞のユニフォームが物干しに干してあったように記憶する。 

 2. 内藤博文

 ぼくが通っていた赤堤小学校の少し手前に彼の表札のかかった家があった。千葉茂が近鉄の監督になったときに、加倉井、十時らと一緒に近鉄に移籍してしまった。
 別所、大友が衰えはじめ、藤田が出てくる時期である。安原、義原、木戸、国松、小松、馬場なんて投手たちがいた。

 3. ラドラ

 友達と玉電沿いをテクテク歩いて駒沢球場に出かけた。外野席に入ると、目の前に背番号44をつけて東映フライヤーズのセンターを守るラドラがいた。
 土橋、毒島、西園寺、山本(八)の時代。子どもの外野の入場料は50円だった。

 4. ミケンズ、ボトラ

 その東映を相手にパ・リーグの万年最下位争いをしていた近鉄パールズにはなんと外国人バッテリー、ミケンズ投手、ボトラ捕手がいた。南海にサディナなんて投手もいたけど、「ベースボールマガジン」に載ったサディナの奥さんの写真を見て“セクシーだな”なんて思った記憶があるから、時代はちょっとあとだろう。 

 5. 村田?(国鉄)

 はじめて後楽園球場に巨人戦を見に行ったとき、巨人相手に勝利投手になった新人が村田だった。
 当時の国鉄スワローズには金田、谷田、飯田、箱田、町田などなど“田”のつく選手がやたら多かった。 

 * 写真は、はじめてのユニフォーム姿(1958年、世田谷区豪徳寺のわが家の庭で)

 2006年02月20日

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