久しぶりに秋晴れの休日となったので、女房と東京散歩に出かけた。
生まれて60年、一度も行ったことのない江東区深川という場所を訪ねることにした。もちろん、小津安二郎に因んでのことである。
小津は1903年(明治36年)12月12日に東京市深川区万年町(現在の江東区深川1丁目8-8)で生まれ、1963年(昭和38年)6月、築地にある国立がんセンターでがんと診断され、同年12月12日、60歳の誕生日に転院先の東京医科歯科大学病院で亡くなっている。
松坂での旧制中学校生活を経て、助監督時代は蒲田で、その後監督になってからは高輪、鎌倉などに居を構えているが、人生の始まりと終わりは隅田川沿いで迎えたことになる。
後で出てくる石碑には、次のように小津の生涯が記されている。
貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(青春出版社、2003年)を手に、都営地下鉄大江戸線を清澄白河駅で下車して、小津の旅を歩きはじめた。
まずは小名木川沿いをしばらく歩き、行き止まりを左折すると、白河庭園の入り口に当たる。もともとは紀伊国屋文左衛門の屋敷跡だったのを、岩崎弥太郎が買い取り、三菱の社員用の慰安所としたという。鯉や鴨が泳ぎ、亀が甲羅干しをする池の周りを手入れの行きとどいた木々が囲む、都会とは思えない静かな庭園である。
東京では見かけなくなったトンボが池端の石の上で翅を休めている。
隅田川、深川に対する先入観から、こんな落ち着いた雰囲気はまったく期待していなかったのだが、予想もしなかったよい散歩スポットだった。
30分近くかけて庭園内を一周し、隣りの清澄公園を抜けて、清澄橋に出る。
隅田川沿いの遊歩道に降りると、護岸から1メートルもないところに水面が迫っていた。山の手育ちには水面がこんなに護岸の近くまで迫っているのは怖い。近所の神田川の支流などは、ふだんは道路から3メートルくらい下をちょろちょろ水が流れる程度である。かつて江東区が「0メートル地帯」と呼ばれただけのことはある。
正面には読売新聞本社ビルがある。振り返ると、清澄橋の向こうに建設中の東京スカイツリーが聳えていた。東京人の常として、東京タワーにも東京スカイツリーにも何の感慨もないが、見つければ見つけたで損した気はしない。
隅田川沿いは時おり小津の映画に登場したらしい。“一人息子”で日守新一、飯田蝶子母子がしゃがんで語るシーンや、“風の中の牝雞”で文谷千代子と佐野周二がやっぱり腰をおろして語るシーンなどは、いづれも隅田川の川岸だったらしい。
さらに隅田川沿いを歩き、隅田川大橋の手前で左折し、しばらく路地を歩いて清澄通りに出る。清澄庭園を背にして門前仲町方向に歩く。道路の右手が深川1丁目、左側が深川2丁目である。清澄通りにかかる歩道橋の袂の深川1丁目側に江東区教育委員会が建てた“小津安二郎誕生の地”というプレートが立っている。
小津との接点はほとんどないが、夏休みの箱根ゼミ合宿で通った芦の湯の旅館きのくにや以来、2度目の小津の生きた場所の体験である。この辺の海産肥料問屋の次男として小津は生を受けた。小津が映画監督生活を始めた昭和の時代にすでにこの辺はかつての面影を失っており、小津はほとんど深川を描くことはなかったという。
今日ではさらに昭和の面影すらなくなってしまった。
門前仲町から再び大江戸線に乗り、築地市場駅で下車。
築地市場は休業だが、周辺の小さな食事処(ほとんどが寿司屋である)が立ち並ぶ賑やかな路地の1軒に入り、海鮮丼を食べる。
評判も何も分からずに入ったので、残念ながら安くもなければ、それほど美味しくもなかった。ただ2時間以上歩いていたので腹が減っており、何を食べても美味い状態だったので不満もない。“空腹は最大の美食家なり”!である。
その後、門前仲町駅に戻り、またまた大江戸線で飯田橋で下車して神楽坂に向かった。ここからは“東京の坂道”シリーズになるので、また別の機会に書くことにする。
忘れていたが、都営地下鉄の1日乗り放題乗車券は、通常だと700円のところが、11月28日までは500円である。したがって、今日の散歩で使った交通費も500円。
* 冒頭の写真は、貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(青春出版社、2003年)。
2010/11/3