気ままに

大船での気ままな生活日誌

節分

2007-02-03 21:27:12 | Weblog
今日は節分ですね。午後、ワイフと節分の豆まきに行きました。昨年は鎌倉八幡宮のでしたが、今年は、午後3時からの鎌倉宮の豆まきに参加しました。八幡宮のに比較すると、こじんまりしていますが、その分、節分の神事とか、福男、福女に招待されている方々を身近にみることができ、ミーハーの私としては大変満足の、節分豆まきでした。

鎌倉の緑を大切にしましょう、の標語がとても気に入っていると言う、鎌倉にお住まいの、元キャスターの宮崎緑さんが、今年も福女として参加されていました。去年もいらっしゃいましたので、おそらく毎年でしょうね。それと、「氷雨」のヒット曲で有名な、日野美歌さんも招待されていました。お二人は、仲が良いらしく、いつも一緒にいました。ツーショットを何枚も撮りました。アップしたのは、神事に出かけるときのもので、二人の前のむさくるしい男は、鎌倉市長です。引き立て役として、のせています。がまんしてくださいね。

去年は、八幡宮の豆まきのとき、ワイフとふたりで5つくらいの、大当たりの豆袋(景品がもらえるのです)をつかみとったのですが、今年の鎌倉宮はゼロでした。どうも、投げる豆袋の数が八幡宮より大分少ないようです。来年はやっぱり、八幡様だと、機嫌を損ねたワイフは言っていました。

家に帰ってからは、従来方式とは全く違った豆まきをしました。投げる豆は殻つきの落花生にしてみました。そして、関西風に恵方巻きも食べてみました。加えて、豆製品の、納豆と湯豆腐を肴に、お酒ももちろんいただきましたよ。

節を分ける日、明日はもう立春なんですね。

・・・・・
氷雨

作詞・作曲:とまりれん
唄:日野美歌

飲ませて下さい もう少し
今夜は帰らない 帰りたくない
誰が待つと言うの あの部屋で
そうよ誰もいないわ 今では
唄わないで下さい その歌は
別れたあの人を 想い出すから
飲めばやけに 涙もろくなる
こんなあたし許して 下さい
外は冬の雨 まだやまぬ
この胸を 濡らすように
傘がないわけじゃ ないけれど
帰りたくない
もっと酔うほどに飲んで
あの人を 忘れたいから

私を捨てた あの人を
今更悔んでも 仕方ないけど
未練ごころ消せぬ こんな夜
女ひとり飲む酒 侘しい
酔ってなんかいないわ 泣いてない
タバコの煙り 目にしみただけなの
私酔えば 家に帰ります
あなたそんな心配 しないで
外は冬の雨 まだやまぬ
この胸を 濡らすように
傘がないわけじゃ ないけれど
帰りたくない
もっと酔う程に飲んで
あの人を 忘れたいから
忘れたいから

(節分に相応しい歌とはいえませんが、日野美歌さんが福女だったので)

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大宅壮一さんと瑞泉寺

2007-02-03 10:04:12 | Weblog
瑞泉寺境内にはたくさんの歌碑や文学碑があります。最近、このブログで紹介しました吉田松陰・留跡碑や方代歌碑の他、久保田万太郎、吉野秀雄等歌人の碑もみられます。前住職の大下豊道和尚が和歌に理解があり、歌人の歌碑が多いのはよくわかります。

ただ、長い間、なぜこの文学碑がここにあるのだろう、この人は、このお寺とどういう関係があるのだろうと気になっていました。そこで私は、名探偵シャーロックホームズになったつもりで、ここ1週間ほど、瑞泉寺近辺の調査に入ったのでした。目立たぬように、黒の防寒ジャンバーとカーキ色のズボンで出かけます。肩かけカバンには、取材ノートと筆記用具、証拠写真を撮るためのソニーのデジカメ、長時間張り込み用に、えりまき、雨具、手袋、そしてペコちゃんのミルキーはやめて森永のキャラメル、「おーいお茶」1瓶を入れて、いそいそと出かけたのでした。

まず、現場検証です。総門を入ってゆるやかな女坂の方を登り、山門に着きます。くぐって、左側の鐘つき堂の横の、晴れていれば富士山がよく見える絶好の場所に、その石碑は建っています。「男の顔は履歴書である 大宅壮一」と刻まれています。「一世を風靡した、大評論家が、何故、この瑞泉寺に」今回の謎解明のテーマです。この方は、キャッチコピーや造語つくりの名人で、駅弁大学、一億総白痴化、恐妻、家庭争議、太陽族、虚業家など、いくらでも挙げることができますが、「男の顔は履歴書」もそのひとつです。

その石碑の前でしばらく今後の捜査方針を考えていました。そのとき、はたと、ひらめきました。これまで前ばかり見ていて、石碑のうしろは一度も見たことはなかったことに気づいたのです。あわてて後ろに回りました。

おどろきました。重要な情報がかかれていたのです。何故、いままで気づかなかったのだろう、これは初動捜査の不備と新聞にたたからてもしょうがない、と思いました。その内容は、・・・1)1900年9月13日、大阪富田の生まれ、2)マスコミ生活50年 野人評論家に終始、一切の権威を認めないという信条、3)先生の業績を記念して大宅壮一ノンフィクション賞を設置、蔵書20万冊は大宅文庫として整備、4)1970年11月22日70才で没、最終の地は世田谷区八幡山、墓所は瑞泉寺境内・・・さすが、文筆家仲間が建てただけあって、過不足なく説明している、たいしたもんだ、と感心したのでした。

なるほど、ここに、お墓があれば、ここに石碑があってもおかしくない、この情報は、捜査進展の大きな一歩にはなる、でも、何故、大宅壮一が瑞泉寺なのかは、この情報だけでは、相変わらず分らない・・・ホームズ君は考えこむのでした。ちょうどそのとき、山門を入ってきた若い女性が、案内本を見ながら、この碑の前まで来ましたので、さっと、うしろに回り、気づかれないように写真だけを撮ったのでした(写真)。犯人(関係者)は必ず、犯行現場に訪れるという鉄則があるからです。この人は、ときどき、深いためいきをついていたので、ただの、♪恋に疲れた女がひとり・・と判断して尾行捜査は止めました。

しばらく、キャラメルをなめながら、張り込みをしていました。おしゃべりの中年女性3人組がちょっとあやしいかなと思いましたが、持参のアップルパイを食べながら、バカばかり言って笑い転げていましたので、とても知的犯行を行う能力はないと判断し、捜査対象から除外したのでした。

とりあえず、証拠のため、墓所の確認をしようと思いました。ちょっと登ると、墓地の入り口があります。「墓所に関係のない方はご遠慮ください」の立て札がありました。一瞬ひるみましたが、拡大解釈すれば、「関係ある」だろうと思い、堂々と(内心どきどきして)入っていきました。墓地内に数名の方がおりましたが、みなご家族の方のお墓参りのようでした。なかなか見つかりませんでした。ひょっとして、小津安二郎監督のように、姓名は書かず「無」のひと文字で済ませているかもしれないと思いました。その場合、大宅さんなら、しゃれて「恐妻家」とか、「虚業家」とか、にしているかもしれない、と思い、念を入れて捜査しました。

ようやく、10分ほどして、墓地の真ん中あたりに、あまり目立たないような感じで佇んでいた大宅家のお墓を見つけることができました。大宅さんらしく、おおげさではなく、ごく普通の墓石でした。若いときには、先生の評論をよく読ませていただきました、とお参りをしました。

お墓の確認ができたので、今日の捜査は終わり、と山門を出て、帰りは男坂を下りていきました。これからが本格捜査だと、気合いを入れながら歩いていきました。と、坂のおわるところの掲示板に目がとまりました。瑞泉寺ゆかりの人の文化人の名前が書かれています、そしてその中の、川端康成の名前にくぎずけになりました。川端さんは確か、大阪出身で、大宅さんと中学が同じだと聞いたことがあったからです。そうか、川端さんの紹介か、新たな仮説が頭にひらめきました。川端さんは、鎌倉長谷にお住まいであったし、瑞泉寺とのおつきあいも当然あった、現にこうしてゆかりの文化人になっている、・・我ながら、するどいひらめきだと、自画自賛しながら、瑞泉寺をあとにしたのでした。

(つづく)

・・・・・
結局、この仮説ははずれます。次回をお楽しみに。









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