気ままに

大船での気ままな生活日誌

名探偵ホームズ君の祝杯

2007-02-05 10:29:12 | Weblog
名探偵ホームズ君は、図書館閲覧室のゆっくりできる椅子に腰掛け、考え続けていました。なかなかいい考えが浮かびません。こういう時は親友のワトソン君に相談するのが手っ取り早いと思い、ケイタイのメールを送信しました。ワトソン君(ワイフのこと)は、捜査の基本に帰れと返信してきました(本当のことを言うと、つまらないことしていないで、早く帰りなさい、帰りに、駅前のはまけいの焼き鳥6本買ってきてねということだったのです(汗))

捜査の基本とは、地道に足で調査せよ、ということです。そこでホームズ君は、図書館を出て、長谷の旧川端邸に向かいました。なにか手がかりが見つかるかも知れないと思ったのです。静かな住宅街の庭に咲き始めた紅梅、白梅を眺めながら、裏道を歩いて行きます。途中に旧吉屋信子邸がありました。お姉さん素敵みたいな、むかしの女学生が好んだ小説を書いた方です。こちらは、お兄さんむさくるしい(川端と大宅)方の捜査ですから、無視して先に進みます。

鎌倉文学館(写真)がみえてきました。ここには鎌倉文士の展示室があります。それに今日は戦後すぐ、川端さんたちが、文化に飢えている市民たちのために(自分たちもお金がなかったためもあり)、貸本屋を経営しますが、その特別展もやっていました。手がかりがあるかもしれない、と入ったのですが、大宅さんの情報は何ひとつ得られなかったのです。さらに、旧川端邸まで足を伸ばしましたが、ここでも同様でした。しかし、すぐ近くの甘縄神社の石段に座って休んでいるときに、ひゅーと一陣の風がふいてきました。うらの、山の音のようでした。そういえば、川端さんの名作「山の音」には、この甘縄神社が出てきました。

山の音を耳を澄まして聞いてみますと、ゲンテンニカエレ、と言っているようでした。原点て何ですかと、聞きましたら、ズイセンジオショーだと言っているようでした。でも先代の和尚さんはもういませんが、と言いますと、シリョーハカナラズノコッテイルハズと答えます。ここまで来て良かったです。結局、川端さんの山の声から重要なヒントをいただいたのです。

翌日、開館と同時に図書館に入り、とくに宗教関係の書棚を念入りに探しました。瑞泉寺を開山された夢窓国士の関係はいくつか見つかりましたが、豊道和尚の書かれたものはなかなか目にすることができません。そしてPC検索に入ります。豊道和尚のキーワードで、ついに地下倉庫にねむっていた1冊の本を見つけだしたのです。第一級の資料でした。なにか重要な発見をしたような気持ちになりました。山の音さん、どうもありがとう、とつい小声で言ってしまいました。

この本は、豊道和尚絵詞(原田耕作著、大下一真編)で、和尚の思い出話しをつづったものです。二十話ほどあり、その中に、第8話「大宅壮一父子と瑞泉寺」が収めてあったのです。

庫裏(くり)の右手の茶室のさらに奥に、質素なこじんまりした持仏堂(吉祥庵)があります、そのお堂は大宅壮一さんの長男、歩(あゆむ)さんが、33才で夭折されたあと、お母さんの昌さんが寄進されました、今見上げるように成長されているこぶしの木はそのときに植えたものです、歩さんは昭和41年、壮一さんは44年に亡くなられました。

そして、大宅夫妻と瑞泉寺を結びつけたのは、三女の、今評論家として活躍されている映子さんでした、嫁ぎ先の家が豊道和尚と懇意であったことで、夫人は、壮一さんに内緒で墓地を購入しました、長男の夭折で初めてこの墓地の話しをしたそうです、俺に内緒で、とむっとした壮一さんも、ここをみてからは、富士もみえるし、松籟も聞けるし、とすっかり気に入ったそうです。

お寺参りがきらいだった壮一さんも、晩年、息子さんのお墓参りには来られたようです。大宅さんは家族の方には「俺はおまえ達と違って、金に銅めっきしてあるから、はげると金が出てくるよと」と冗談に言っていたらしいです。和尚さんは、碑文の言葉「男の顔は履歴書である」の言葉もさることながら、この言葉に強く心をひかれると言っています。

一週間ほどかかった捜査も、これで完了です。ホームズ君は意気揚々と、図書館を出ます。少し遅いお昼を、小町通りの、天ぷら「ひろみ」に入り、ひとりで祝杯をあげました。小津安二郎丼にしようか、小林秀雄丼にしようか(おふたりがひいきにしたお店で、いつも頼む天ぷらがそのままメニューになってしまいました)迷いましたが、3800円もするので、やめて、大宅壮一丼(庶民の安い天丼という意味)を頼み、熱燗2本をゆっくりと頂きました。この祝杯の件はワトソン君には報告してありません。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする