アドリア海の真珠、ドゥブロヴニク。うつくしいだけではないゾエ。少し、歴史を訪ねてみよう。1358年、ドゥブロヴニクはクロアチア・ハンガリー王の保護下で独立と自由を獲得し、王領自由都市、つまり国家格となった。さらに15世紀以降はドゥブロヴニク共和国を名乗るようになる。15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎え、ヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家とライバル関係になる。なお、一昨日、展覧会でみてきたマルコポーロは、17歳のとき1270年にヴェネツィアを発ち、帰国するのが1295年である。その頃のドゥブロヴニクはヴェネツィアの支配化にあり(1205~1358)、マルコポーロも帰路はアドリア海のクロアチア側を航行しているので(往路はイタリア側)、きっとここに寄港したに違いない。
横道にそれてしまったが、14世紀にドゥブロヴニクは新たな繁栄期を迎える。市街地は現在の市壁まで広がり、その壁はさらに厚く、高くなっていく。東西の市門の傍に、ドミニコ会とフランチェスコ会の修道院ができはじめ、大聖堂の建設が完成する。
また、医療福祉の先駆都市でもあった。1317年、世界でも3番目の薬局ができ、その薬局は驚くことなかれ、現在まで営業を続けている。ヨーロッパ最古の薬屋さんだ。47年には治療院、32年には孤児院も整備した。医者、薬剤師、理髪師(当時は外科医も兼ねていた)を優遇し、家を与え、年俸を支払った。医療技術も優れ、ジェンナーの種痘の12年も前に別の方法で実施されていたという。じぇじぇじぇ。検疫所も世界初で遺稿も残っている。上下水道も完備。1436年には、市内にふたつの大噴水が出来、各家庭に貴重な水が平等に供給されるようになる。このように、ドゥブロヴニクは中世でもっとも、衛生的な、健康的な都市国家となっていたノダ。
しかし、1667年に発生した大地震により、壊滅的な被害を受けて、以降、徐々に衰退の道を歩む。クロアチア本土の小区画の領土をオスマン帝国に売った(ベネツィアとオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた策略でもあった)。そこが、現在のボスニア・ヘルツェゴビナのアドリア海に接する町であるネウムである。だから、今も、ドゥブロヴニクはクロアチアの飛び地になっていて、陸路では、必ず、この国境を越えてしか入れない。それ以降の歴史はどーんとはしょり、いきなりクロアチア戦争に。1991年、ユーゴスラビア連合からの独立戦争で、スロベニアは10日で済んだが、クロアチアは9か月もかかった。ドゥブロヴニクも攻撃され、だいぶ破壊された。その後、現状復旧し、世界遺産として認められ、今や、年間200万人の観光客を呼ぶ、クロアチアのドル箱となっている。
そんな歴史を思い浮かべながら、旧市街を見学してみよう。
大聖堂。 1667年の震災後、1713年に再建され、現在に至る。ルジャ広場の南端に建つバロック様式の建物で、宝物室には聖ヴラホの遺骨や財宝などがある。
聖堂内。大理石を使った祭壇とティツィアーノの”聖母被昇天”も素晴らしい。
ラファエロの”聖母子”。宝物館にある。

ルジェ広場に立つローラント像。右側半分の長さが商品の計測の基準となった。うしろは聖ブラホ教会。

旧総督邸。総統は一か月交代。長期政権は腐敗を生むと。事実上、総督を形骸化している。

フランシスコ会修道院
入口

回廊

薬局。ヨーロッパ最古の薬屋さん。修道院内にある。ペーパー薬剤師のワイフが喜ぶ。

オノフリオの大噴水 1438年に造られた。12km離れた源泉から水を引いて市内の2か所に設けられている。16面の顔のレプリカの口から、水が噴き出している。


路地


大きな桑の木をみつける。

人々


プラツア通りと時計塔

ロビリエナッツ要塞の壁の文字。”どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない”彼らがもっとも大切にしたのは、”リベルタス(自由)”。この文字は、現在も公共バスをはじめ至る所に刻まれているという。

おいらも、どんなに金を積まれても、この自由を売り渡さない!
今日は熱海じゃ。
日はまた昇る。朝の来ない夜はない。今日の日の出。
横道にそれてしまったが、14世紀にドゥブロヴニクは新たな繁栄期を迎える。市街地は現在の市壁まで広がり、その壁はさらに厚く、高くなっていく。東西の市門の傍に、ドミニコ会とフランチェスコ会の修道院ができはじめ、大聖堂の建設が完成する。
また、医療福祉の先駆都市でもあった。1317年、世界でも3番目の薬局ができ、その薬局は驚くことなかれ、現在まで営業を続けている。ヨーロッパ最古の薬屋さんだ。47年には治療院、32年には孤児院も整備した。医者、薬剤師、理髪師(当時は外科医も兼ねていた)を優遇し、家を与え、年俸を支払った。医療技術も優れ、ジェンナーの種痘の12年も前に別の方法で実施されていたという。じぇじぇじぇ。検疫所も世界初で遺稿も残っている。上下水道も完備。1436年には、市内にふたつの大噴水が出来、各家庭に貴重な水が平等に供給されるようになる。このように、ドゥブロヴニクは中世でもっとも、衛生的な、健康的な都市国家となっていたノダ。
しかし、1667年に発生した大地震により、壊滅的な被害を受けて、以降、徐々に衰退の道を歩む。クロアチア本土の小区画の領土をオスマン帝国に売った(ベネツィアとオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた策略でもあった)。そこが、現在のボスニア・ヘルツェゴビナのアドリア海に接する町であるネウムである。だから、今も、ドゥブロヴニクはクロアチアの飛び地になっていて、陸路では、必ず、この国境を越えてしか入れない。それ以降の歴史はどーんとはしょり、いきなりクロアチア戦争に。1991年、ユーゴスラビア連合からの独立戦争で、スロベニアは10日で済んだが、クロアチアは9か月もかかった。ドゥブロヴニクも攻撃され、だいぶ破壊された。その後、現状復旧し、世界遺産として認められ、今や、年間200万人の観光客を呼ぶ、クロアチアのドル箱となっている。
そんな歴史を思い浮かべながら、旧市街を見学してみよう。
大聖堂。 1667年の震災後、1713年に再建され、現在に至る。ルジャ広場の南端に建つバロック様式の建物で、宝物室には聖ヴラホの遺骨や財宝などがある。

聖堂内。大理石を使った祭壇とティツィアーノの”聖母被昇天”も素晴らしい。

ラファエロの”聖母子”。宝物館にある。

ルジェ広場に立つローラント像。右側半分の長さが商品の計測の基準となった。うしろは聖ブラホ教会。

旧総督邸。総統は一か月交代。長期政権は腐敗を生むと。事実上、総督を形骸化している。

フランシスコ会修道院
入口

回廊

薬局。ヨーロッパ最古の薬屋さん。修道院内にある。ペーパー薬剤師のワイフが喜ぶ。

オノフリオの大噴水 1438年に造られた。12km離れた源泉から水を引いて市内の2か所に設けられている。16面の顔のレプリカの口から、水が噴き出している。


路地


大きな桑の木をみつける。

人々


プラツア通りと時計塔

ロビリエナッツ要塞の壁の文字。”どんな黄金との引き換えであっても、自由を売り渡してはならない”彼らがもっとも大切にしたのは、”リベルタス(自由)”。この文字は、現在も公共バスをはじめ至る所に刻まれているという。

おいらも、どんなに金を積まれても、この自由を売り渡さない!


日はまた昇る。朝の来ない夜はない。今日の日の出。
