こんばんわ。
今日は、午後の中途半端な時間にはじまる竹内整一先生の”徒然草を読む”の受講日。始まるまでの時間の出来事を綴る恒例の”徒然なるままにシリーズ”です(笑)。
お昼を食べて、大船フラワーセンターで遊んだあと、始業時間前に大学のメインゲートからの菩提樹の並木道に入ってびっくり。なんと、真夏の花、高砂百合が一本、凛として咲いていた。今日はたしかに夏の陽気だったけど、まさかね。
初冬の高砂百合。ようこそ!
近くは、こんな紅葉なのに。
でも、実は、それほどびっくりはしていない(笑)。何故なら、この近くのさくら道で今年の1月、なんと、”真冬の高砂百合”をみているからね。この調子なら、今年も、真冬の高砂百合も期待できそう。
さて、今日の徒然草。とうとう出て来ました。第229段。小林秀雄の”徒然草”で有名になった段。
よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。
(すぐれた細工師は、少し鈍い刀を使って細工するといわれる。妙観の刀はそれほどの切れ味はない)
では、小林秀雄の”徒然草”から。
兼好は誰にも似ていない。よく引合いに出される長明なぞには一番似ていない。彼は、モンテエニュがやった事をやったのである。モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥かに鋭敏に簡明に正確に。文章も比類のない名文であって、よく言われる枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。”よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず”、彼は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である。
鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。これは全文である。「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗をのみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段)これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか。
これはきっと小林秀雄が自分自身のことを言っているのかもね。
フラワーセンターで見た名工に使ってもらえそうな鈍い刀雲。
今朝のお月さまは名工には使ってもらえそうもない鋭い刃物月。でも、素人が使うと怪我しそう。
では、おやすみなさい。
いい夢を。