気ままに

大船での気ままな生活日誌

ぼくの「春一番」 玉縄桜が開花

2007-02-12 10:21:08 | Weblog
大船フラワーセンターの梅が見頃だろうからと、午後、散歩がてら出かけました。予想通り、何十種とある白梅、紅梅、真紅梅(?)のそれぞれが、3~5部咲きで、見頃を迎えていました。私は、満開の梅より、蕾もたくさんつけている今頃の梅の方がずっと好きです。これは、これでとても満足したのですが、もうひとつ、とても嬉しかったことがあったのです。

私は、広い園内を、上をみたり(樹木の花)、左右をみたり(目線ぐらいの花)、下をみたり(小さな草花)、そして、ときどきよそ見をしたり(笑)して散策していました。ミツマタがもう花を開き、マンサクの黄色い細い花も満開で、うんなん黄梅もあざやかな黄色の花を咲かし、ユキヤナギまで、真っ白い、小さな花をつけ始めている、つばきは花の数を以前より大分増やしていて、菜の花の絨毯が目にまぶしい、地べたには、福寿草が愛らしい黄色の花であいさつしている、イヌノフグリも、ちょっとのろまな感じの、青い小花をたくさんつけている、どこもそこも、春がきた、春がきたと、思わせる光景だったのです。

そして、私は最後のコースの築山に足を踏み入れ、まだまだ固い冬芽ばかりをみせる木立の間の小径を歩いている途中、あっと、思わずおどろきの声をあげてしまったのです。

なんと、なんと、桜が咲いていたのです。寒桜や冬桜ではありませんよ、ソメイヨシノの自然交配で選抜されたという、れっきとした春の桜ですよ。ここのフラワーセンターで育種された「玉縄桜」という桜です、ソメイヨシノに比べて20日ほど早く咲き、学校の卒業式の頃咲く桜として1990年に品種登録された、大船の星なのでがんす(まだ、ときどき、武士の一分のお国言葉がでてくるでがんす)。

その桜がもう一分咲きぐらいですが、開花しているです。まだまだと思っていましたから、もうその喜びは尋常ではありませんでした(おおげさとの声も)。おおげさではありませんよ。私は桜が大好きで、気まま生活になって、何が一番嬉しかったかというと、桜行脚が自由にできるようになったことなんです。去年なんか、すごいですよ、まず3月2日に、満開の河津桜、中旬に伊豆高原や伊東の桜、3月下旬からは地元鎌倉の桜、東京の桜、そして5月まであちこちうろつき、三春、郡山、角館そして〆は弘前です。

そういう人ですから、この玉縄桜の開花をみて、私の心は突如、桜モード、春モードに切り替わり、喜びも尋常ではなかったというわけです。タイトルのように、今日は、まさしく「ぼくの春一番」だったというわけなんです。

そして、私はタマちゃんにお礼として、お花のあごを優しくなでてあげながら、キャンディーズの「春一番」を小声で歌ってやったのでした。

・・・・・・
春一番

作詞 穂口雄右
作曲 穂口雄右
歌 キャンディーズ

雪がとけて川になって
 流れて行きます
  つくしの子が恥ずかしげに
   顔を出します
    もうすぐ春ですねえ
     ちょっと気どって
      みませんか

風が吹いて暖かさを
 運んできました
  どこかの子が隣の子を
   迎えにきました
    もうすぐ春ですねえ
     彼をさそって
      みませんか

泣いてばかりいたって
 幸せはこないから
  重いコートぬいで
   でかけませんか
    もうすぐ春ですねえ
     恋をしてみませんか

日だまりには雀たちが
 楽しそうです
  雪をはねて猫柳が
   顔を出します
    もうすぐ春ですねえ
     ちょっと気どって
      みませんか

おしゃれをして男の子が
 出かけて行きます
  水をけってカエルの子が
   泳いで行きます
    もうすぐ春ですねえ
     彼をさそって
      みませんか

別れ話したのは
 去年のことでしたね
  ひとつ大人になって
   忘れませんか
    もうすぐ春ですねえ
     恋をしてみませんか

雪がとけて川になって
 流れて行きます
  つくしの子が恥ずかしげに
   顔を出します
    もうすぐ春ですねえ
     ちょっと気どって
      みませんか

別れ話したのは
 去年のことでしたね
  ひとつ大人になって
   忘れませんか
    もうすぐ春ですねえ
     恋をしてみませんか
      もうすぐ春ですねえ
       恋をしてみませんか



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萬鐵五郎展 in 茅ヶ崎

2007-02-10 18:42:17 | Weblog
私が茅ヶ崎の高砂緑地の松籟庵庭園の梅林が見頃だったという話しをしたら、最近ちょっと足を痛めて、外出を控えていたワイフが、ぜひ行きたいというので、こんどは、ふたりで行ってきました。

じつは、一と月前に、ふたりでここに来て、同じ敷地内の市立美術館前の庭園で早咲きの一本の白梅をみているのですが、そのとき、ワイフは美術館の掲示板の、萬鐵五郎展開催(1/20~2/25)のポスターもしっかりみていて、是非これは観なくちゃと言っていたのです。というわけで、今回は、むしろワイフが主の、そして展覧会が主の、お出かけになったというわけです。

先日紹介しました、松籟庵庭園内の梅林も美術館前のも(写真)、数日前の訪問時より一層見頃となっており、十分楽しめました。そして、おどろいたことに、あのときの早咲きの白梅がまだ残っていました。えらい、まだまだがんばってね。

萬鐵五郎さんは、茅ヶ崎が終焉の地ということで、今年、没後80年になるのを記念して、今回の展覧会が企画されました。東京時代(1903ー1914)、土沢(現花巻市)時代(1914ー1919)そして茅ヶ崎時代(1919ー1927)と、順を追って、主要な作品が展示されていました。

萬鐵五郎さんの代表作で、ポスターの絵にも選ばれていた「裸体美人」が、やはり目を惹きつけます。もえるような緑の草むらに横たわるひとりの若い女性、真っ赤なズボンをだらしなく(ラフに?)履いて、上半身はおへそまで出した裸です。左腕をまくらにして、右腕は曲げて、おなかの上にのせています。顔はこちらを向けて、眉毛、目、鼻、唇、みな単純な大胆な線で描かれていますが、自信にみちた表情がよく出ています。いのちの息吹を感じさせる、私も気に入った作品でした。この作品は、東京美術学校の卒業制作のものだそうです。説明によると、この東京時代は、フランスのフォーヴ風の強烈な色彩が特徴だそうです。萬さんは美校時代に結婚し、私生活でもとてもはりきっていた頃です。力強さが感じられる絵が多かったのは、萬さんの、希望に満ちた心の反映でしょうか。

一転、土沢時代の作品になると、色調がぐっと暗くなり、私には、あまりいい絵とは思いませんでした。キュビスムの方向に向かったという、説明がありました。萬さんはこのときは、家族を離れ、ひとりで故郷の土沢に帰っていたのです。ノイローゼにもなったようです。そういう心の、暗い風景が絵にそのまま出てしまったようです。

そして、茅ヶ崎時代になると、明るさを取り戻し、茅ヶ崎の、のどかな海岸風景などを描くようになります。「裸婦(頬杖の人)」なんかも、中高年(?)裸婦を大胆な線でわくどりした、明るい色彩のいい絵でしたよ。そしてその頃、同時に、日本の伝統絵画の南画をも描くようになります。たくさんの南画の掛け軸が展示されていました。気候も温暖で太陽がいっぱいの、湘南、茅ヶ崎に転居し、すっかり元気を取り戻しましたことが、画風によっても分かります。でも、この地で結核に罹かり、41才の若さでこの世を去ります。

これまで、萬鐵五郎さんは、私にとってあまり馴染みのない画家でしたが、これで大分理解が進みました。それと、美術とは全然関係のないところなのですが、彼に親近感をもったことがありました。萬さんは、美校に入る前に、宗活禅師一行の布教活動をしていて、その一環として、アメリカに半年ほど滞在します。その場所がサンフランシスコにほど近い、バークレーという町で、私もその町に住んだことがあるのです。冬は暖かく、夏は海風で涼しく、年間を通して穏やかな気候で天国みたいなところです。茅ヶ崎もよく似た気候ですので、萬さんは、きっと、若き日のバークレー時代を思い出し、ここ茅ヶ崎を終の棲家に決めたのだと思いました。

少し遅いランチを近くの、イタリアンレストラン「ilpasso」でとりました。おいしいスパゲッティでした。そして、何よりも、グラスワインの量が、普通のお店の、1.5倍ぐらいあり、飲みでがあり、とても嬉しかったです。また来たいと思いました。















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異邦人たちのパリ

2007-02-09 10:20:15 | Weblog
六本木に最近オープンした国立新美術館をちょっとみたくて、
そして、開館記念の、ポンピドー・センター所蔵作品展、
「異邦人たちのパリ」もちょっとみたくて、
いつものように、ぶらりと出かけてしまいました。

新美術館、名前も斬新だけど、
建物も斬新、さすが、黒川紀章さん設計。

大海原の波のうねり、悠久の曲線美。
ふるさとのやまなみ、豊穣の曲線美。
はだかのビーナス、まばゆい曲線美。

でも見方を変えれば、
ひとつ曲り角 ひとつまちがえて 
迷い道くねくねの曲線びー。

メタボリック症候群、誰かさんみたいな、
ふっくらお腹の曲線びー。
で、新美術館、メタという愛称にしました、
NYのメトに負けないでね。

中に入った、美術館というより、
国際会議センターみたいな雰囲気、
パンフに、英名で、小さく、
ナショナル・アートセンターと書いてあった。
そう、そう、そういう雰囲気。

・・・
20世紀、パリの異邦人たち。
ピカソはスペインから、モデイリアーニはイタリアから、シャガールはロシアから。
そして、わが日本から藤田嗣治と萩須高徳。

フジタの絵、白地の画面に細い、凛とした線が印象的、
自画像、自分の部屋の様子、裸体像、どれもこれも良かった。

萩須のパリの街の風景画、やっぱり日本人、すっと入れる。

モデイリアーニの「デデイーの肖像」、キスリングの「若いポーランド女性」、
ドンゲンという画家の「スペインのショール」、そしてシャガールの
「エッフェル塔の新郎新婦」、気に入って、ポストカードを買った。
もちろん、フジタもオギスも。ピカソは買わなかった、ごめんね。

現代美術の方は、ぼくにはわからない、
ひとひねり、ふたひねりしても、迷い道くねくね、
単純なあたまでは、みえてこない、
みえるのは絵の具のかたまりだけ、
で、2/3は、ほとんど素どおり、ごめんね。

ぼくも、むかし、パリの異邦人だったことがある、3ヶ月だけ仕事で、
でも、あほう人だったかもしれない、フランス語もろくすっぽ分らず。
芸術家の街、モンパルナスの近くに住んで、休みの日は、
画家がいっぱいのモンマルトルの丘にも登った。

4月7日に、世界のモネが、六本木に集結するらしい、
「モネ大回顧展」これは見逃せない、
ぼくの大好きな日傘の女もやってくる。

メタちゃん、また来ますね、4月に。















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異国の丘

2007-02-08 08:04:09 | Weblog
茨城県日立市の、かねみ公園の丘の上に、吉田正音楽記念館があります。吉田さんのふるさとの地です。私が茨城に勤務していたときに、桜が満開の頃、ここを訪れたことがあります。先日、北茨城五浦の天心記念美術館に行く途中、常磐自動車道を走るバスの中から、その辺りを眺めることができ、なつかしく思っていました。その吉田正さんの、NHK蔵出しビッグショーが先日再放送され、堪能しました。

「異国の丘から30年」という、サブタイトルでしたから、昭和50年前後に放送したものでしょうか。そうすると、私たちもまだ新婚の頃で、杉並の、「神田川」にほど近い、安アパートでふたり仲良く(?)暮らしていたころです。銭湯にもいきました。赤い手拭い マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋です(汗)。

その頃の放送のものですから、当然ですが、出演者の皆さんのお若いこと。鶴田浩二さんなんか、顔もつやつやしていて、今のキムタクよりかっこいいですね、「赤と黒のブルース」や「傷だらけの人生」しびれてしまいますね。そして、フランク永井さんの低音の魅力で「夜霧の第二国道」、三浦光一さんの透き通るような高声で「街灯」、マヒナスターズの魅惑のハーモニーで「泣かないで」、松尾和子さんの妖艶ボイスで「再会」、私と同世代の橋幸夫さんの「いつでも夢を」や三田明さんの「美しい十代」等、次々とお馴染みの唄が流れてきます。一気に、あの時代に戻っていきます。

ほんとに、あの頃は、どんな世代の方も皆、同じ歌を口ずさんでいましたね。今は、人それぞれですね。紅白なんかでも知らない歌ばかりです。いい時代でした。吉田正さんも、そういう意味で、いい時代に生きた作曲家といえるでしょう。ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、ひとつ遅れて(笑)、生まれてきたら、こうは、うまくいかなかったでしょうね。どの分野でも、「時」が大スターをつくります。

戦争でシベリアで抑留されているときに、吉田さんが作曲した「昨日も今日も」が現地ではやっていました。その歌を、戦後、NHKのど自慢大会でどなたかが歌ったのがきっかけとなり、「異国の丘」として再デビューし、大ヒットすることになります。そして、その後、吉田さんは、作詞家、佐伯孝夫さんと組み、数々の名曲を、そして大スターを生むことになるのです。

フランク永井さんの上手な司会で、吉田正さんの作曲活動のポイント、ポイントが分りやすく紹介されました。私も意外だったのですが、吉田さんご自身の評価では、最高傑作は松尾和子さんの「再会」だそうです。これをつくったあと、これから先どうしようかと思ったそうです。燃え尽き症候群みたいなものでしょうか(笑)。そのとき、橋君がきてくれて助かったと言っています。これまでのと、がらりと雰囲気の違う「潮来笠」が大ヒットし、その後、吉永小百合さん、三田明さんと、吉田青春歌謡の一時代を築くことになります。

今回、吉田学校の生徒のほとんどの方が出席されています。ただひとつ残念だったのは、吉永小百合さんが出演されていなかったことです。是非、「寒い朝」を歌ってほしかったです。でも、これだけの豪華メンバーをそろえた歌番組はめったにみられません。「蔵出し」する価値のある、すばらしい番組でした。

最後に、吉田さんは、シベリアの収容所時代の、カーシャの会の人たちと共に「異国の丘」を歌いました。零下30℃の極寒の中での作業、必死に命をつないできた仲間たちです。この時代、吉田さんは、皆を勇気づけようと、セメント袋の裏をつかって、明日の希望のみえる唄を30曲も作曲したそうです。今日も 昨日も 異国の丘で・・・と万感の思いで唱和されている皆さんの顔は、こみあげる涙でくしゃくしゃになっていました。

・・・・・・

異国の丘

作詞:増田 幸治
補詞:佐伯 孝夫
作曲:吉田 正


今日も暮れゆく異国の丘に
 友よ辛かろ切なかろ
  我慢だ待っていろ嵐が過ぎりゃ
   帰る日も来る春も来る


今日も更けゆく異国の丘に
 夢も寒かろ冷たかろ
  泣いて笑うて歌って耐えりゃ
   望む日が来る朝が来る


今日も昨日も異国の丘に
 重い雪空日がうすい
  倒れちゃならない祖国の土に
   たどりつくまでその日まで





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春のような昼下がり 

2007-02-06 21:28:30 | Weblog
今日は、朝から春の陽気。
それで、午後から、ぶらりと茅ヶ崎へ。

思っていた通り。
図書館横の高砂緑地の公園の小さな梅林が見頃。
紅梅だけではなく、白梅もいっぱい、そしてほのかな香り。
なんだか、こころうかれる昼さがり。

松籟庵前の、ここで一番の古木も満開。
ふだんは誰もいないここも、今日はちょっとした人出。
よそ行かなくても、ここの梅見で十分だね、寄り添う老夫婦の声。
なんだか、しみじみする昼さがり。

元地主、明治時代の名優川上音二郎さんと貞奴さんの、
オッペケペー節が聞こえてくるような、
なんだか、なつかしい昼さがり。

梅林を飛ぶかう小鳥の声も、そよふく風も、
春がきた、春がきた、と言っているような、
なんだか、うかれた昼さがり。

梅だけじゃない、松の緑も、ここちよい。
池の向こうの竹林も、さわさわ、きらきら、
松竹梅のそろい踏み、お酒をのみたくなった、
なんだか、めでたい昼さがり。

ドウダンツツジの枝にテントウムシがごそごそ。
まだ、越冬中のはずなのに、春と間違えたような、
のろまのてんとうむし、ノロテンとあだなをつけた。
なんだか、のろまな昼さがり。

となりの美術館の庭に向う途。
「元始、女性は太陽であった」平塚らいてふさんの碑。
生涯の伴侶と巡り会った茅ヶ崎が「愛のふるさと」。
らいてふさんに、ノロ大臣と言われそうな人はだーれ、
なんだか、おかしい昼下がり。

美術館の庭に八木重吉さんの虫の歌碑。
「虫が鳴いている 今鳴いておかなければ 
もう駄目だというふうに 鳴いている・・」
深紅の梅、ピンクの梅、白い梅、どの梅も、
みな、そういうふうに咲いている。
なんだか、いのりたくなるよな昼下がり。









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名探偵ホームズ君の祝杯

2007-02-05 10:29:12 | Weblog
名探偵ホームズ君は、図書館閲覧室のゆっくりできる椅子に腰掛け、考え続けていました。なかなかいい考えが浮かびません。こういう時は親友のワトソン君に相談するのが手っ取り早いと思い、ケイタイのメールを送信しました。ワトソン君(ワイフのこと)は、捜査の基本に帰れと返信してきました(本当のことを言うと、つまらないことしていないで、早く帰りなさい、帰りに、駅前のはまけいの焼き鳥6本買ってきてねということだったのです(汗))

捜査の基本とは、地道に足で調査せよ、ということです。そこでホームズ君は、図書館を出て、長谷の旧川端邸に向かいました。なにか手がかりが見つかるかも知れないと思ったのです。静かな住宅街の庭に咲き始めた紅梅、白梅を眺めながら、裏道を歩いて行きます。途中に旧吉屋信子邸がありました。お姉さん素敵みたいな、むかしの女学生が好んだ小説を書いた方です。こちらは、お兄さんむさくるしい(川端と大宅)方の捜査ですから、無視して先に進みます。

鎌倉文学館(写真)がみえてきました。ここには鎌倉文士の展示室があります。それに今日は戦後すぐ、川端さんたちが、文化に飢えている市民たちのために(自分たちもお金がなかったためもあり)、貸本屋を経営しますが、その特別展もやっていました。手がかりがあるかもしれない、と入ったのですが、大宅さんの情報は何ひとつ得られなかったのです。さらに、旧川端邸まで足を伸ばしましたが、ここでも同様でした。しかし、すぐ近くの甘縄神社の石段に座って休んでいるときに、ひゅーと一陣の風がふいてきました。うらの、山の音のようでした。そういえば、川端さんの名作「山の音」には、この甘縄神社が出てきました。

山の音を耳を澄まして聞いてみますと、ゲンテンニカエレ、と言っているようでした。原点て何ですかと、聞きましたら、ズイセンジオショーだと言っているようでした。でも先代の和尚さんはもういませんが、と言いますと、シリョーハカナラズノコッテイルハズと答えます。ここまで来て良かったです。結局、川端さんの山の声から重要なヒントをいただいたのです。

翌日、開館と同時に図書館に入り、とくに宗教関係の書棚を念入りに探しました。瑞泉寺を開山された夢窓国士の関係はいくつか見つかりましたが、豊道和尚の書かれたものはなかなか目にすることができません。そしてPC検索に入ります。豊道和尚のキーワードで、ついに地下倉庫にねむっていた1冊の本を見つけだしたのです。第一級の資料でした。なにか重要な発見をしたような気持ちになりました。山の音さん、どうもありがとう、とつい小声で言ってしまいました。

この本は、豊道和尚絵詞(原田耕作著、大下一真編)で、和尚の思い出話しをつづったものです。二十話ほどあり、その中に、第8話「大宅壮一父子と瑞泉寺」が収めてあったのです。

庫裏(くり)の右手の茶室のさらに奥に、質素なこじんまりした持仏堂(吉祥庵)があります、そのお堂は大宅壮一さんの長男、歩(あゆむ)さんが、33才で夭折されたあと、お母さんの昌さんが寄進されました、今見上げるように成長されているこぶしの木はそのときに植えたものです、歩さんは昭和41年、壮一さんは44年に亡くなられました。

そして、大宅夫妻と瑞泉寺を結びつけたのは、三女の、今評論家として活躍されている映子さんでした、嫁ぎ先の家が豊道和尚と懇意であったことで、夫人は、壮一さんに内緒で墓地を購入しました、長男の夭折で初めてこの墓地の話しをしたそうです、俺に内緒で、とむっとした壮一さんも、ここをみてからは、富士もみえるし、松籟も聞けるし、とすっかり気に入ったそうです。

お寺参りがきらいだった壮一さんも、晩年、息子さんのお墓参りには来られたようです。大宅さんは家族の方には「俺はおまえ達と違って、金に銅めっきしてあるから、はげると金が出てくるよと」と冗談に言っていたらしいです。和尚さんは、碑文の言葉「男の顔は履歴書である」の言葉もさることながら、この言葉に強く心をひかれると言っています。

一週間ほどかかった捜査も、これで完了です。ホームズ君は意気揚々と、図書館を出ます。少し遅いお昼を、小町通りの、天ぷら「ひろみ」に入り、ひとりで祝杯をあげました。小津安二郎丼にしようか、小林秀雄丼にしようか(おふたりがひいきにしたお店で、いつも頼む天ぷらがそのままメニューになってしまいました)迷いましたが、3800円もするので、やめて、大宅壮一丼(庶民の安い天丼という意味)を頼み、熱燗2本をゆっくりと頂きました。この祝杯の件はワトソン君には報告してありません。





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名探偵ホームズ君の捜査は・・

2007-02-04 22:12:51 | Weblog
大宅壮一さんの「男の顔は履歴書である」の石碑が、瑞泉寺境内にありますが、大宅さんと瑞泉寺がどういう関係にあるのだろうか、私め、名探偵ホームズ君が、その捜査を始めたのであります。

瑞泉寺に大宅さんのお墓があることを確認した私は、その足で鎌倉中央図書館に向かったのでした。大宅さんの著書をみれば、もう少し詳しい情報が得られるかもしれない、とくに、途中で気づいた、川端康成さんとの関係が明確になるかもしれない、と思いました。

しかし、図書館の本棚には、どこを探しても、大宅壮一さんの著書は1冊も見つかりませんでした。捜し方が悪いのかと思って、PC検索をしてみました。そうしましたら、10冊ほど、画面上に大宅壮一著の本が現れてきました。しかし、すべてが、地下倉庫に眠っていました。みつからないはずです。その中で、大宅壮一エッセンスのシリーズの「男の顔は履歴書」というのがありましたので、それを取り出してもらいました。

拾い読み程度のことを考えていたのですが、面白くて全部読んでしまいました。ご自分が大阪出身なので、大阪人を思い切り、けなしたり(でも半分は誉めている)する文章が多く、笑ってしまいました。大阪商人は現役中はけちで貯めこむが、引退後は、はでに使い人生を楽しむ、それが甲州商人とは違う、とか、婦人記者の部では、山崎豊子さん(キムタクの「華麗なる一族」の原作者)は、大阪毎日で井上靖さん(NHK「風林火山」の原作者)の下で婦人記者をしていたが、大阪の昆布の老舗「小倉屋」の娘さんなので、自分のお店をモデルにした小説「暖簾」が当たり、小説家になった、とか、大阪読売の鴨居羊子さんは、商才もあり、自分で下着のデザインをして、七色パンテーを売り出して有名になったとか、実に細かいことまで調べ上げ、おもしろ可笑しく紹介しているのです。

大宅さんは、大阪と京都の中間あたりの、摂津富田(とんだ)の醤油屋さんの息子さんとして生まれました。商人に教育はいらないと、お父さんは、息子を高等小学校で済まそうとしました。しかし、大宅さんは、親に内緒で受験し、地元の茨木中学に好成績で合格するのです。

この辺りの文章は注意深く読み進みました。ようやくみつけました。「二級上に川端康成がいた」という文章がありました。やはり、同窓でした。でも、ふたつ上でした、同級生だと思っていたのですが、これでは、学生時代に友人関係を結ぶのは難しいでしょう。ちょっとがっかりしました。その後、川端さんは一高に、大宅さんは京都の三高に進学し、離ればなれになります。ますます、見通しは暗くなりました。

しかし、さらに、読み進んでいくうちに、ひとつの光明を見つけました。大学を出たあとのことです。なんと、偶然に大宅さんは、川端さんの隣りに住むようになるのです。阿佐ヶ谷の(私も新婚時代、近くに住んだことがあります)、間取りも家賃も家主も同じ家に住むことになったのです。

大宅さん、驚いたでしょうね。でもあまりいい印象は持たなかったようです。むしろ貸しをつくったような関係のようです(笑)。自分もあまりだらしのいいほうではなかったが、川端さんには少々あきれた、と書いています。川端さんは貧乏していたらしく、醤油を借りにきたり、自分の新本を古本屋さんに売ったりして、ようやっと暮らしていたらしいです。(川端さんのために弁明しておきますが、川端さんはもともと金銭感覚が常人と違っていて、お金持ちになって鎌倉にきてからも、何百万円もする骨董品をあとで払うからと言って、平気で買う人なのです。)

とにかく、大宅さんと川端さんは、中学の同窓というだけではなく、貧乏していた新婚時代に隣同士だったのです。これほど強い結びつきはありませんね。

これで決まりだと、思いました。後年、小説家として大成された川端さんが、やはり大評論家として一家をなした大宅さんと、鎌倉の長谷の自宅によび、こんな話しをしたのではないでしょうか、・・鎌倉はいいぜ、こちらに来ないか、住まないまでも、お墓は静かな鎌倉がいいぞ、東慶寺が一番いいが、あそかは今、空きがない、最近、瑞泉寺が墓地を売り出している、おれは和尚と親しいので頼んであげてもいいが・・

こんな台詞の場面が出てくるかと、読み進めました。しかし、何もありません。おわりの方に、奥さんの大宅昌さんの、亡き夫の思い出をつづった「あなた、私はしあわせです」のエッセイがありました。大宅壮一さんは、家では、世間で言われていた、豪放一点張り、無神経、無原則とは全く違う、血も涙もある、家族思いの、やさしい夫であり、父であったと述べています。このエッセイの中にも、瑞泉寺関係はなにも出てこなかったのです。

さあ、どうしようか、とホームズ君は、腕を組み、深い失望のためいきをつき、目を閉じ、今後の方策を思案していたのでした。

(つづく)

・・・・・
次回が完結編となります。娘さんのジャーナリスト大宅映子さんの登場で一気に解決します。

・・・・・
神田川

作詞 喜多条忠
作曲 南こうせつ

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭い マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって
言ったのに
いつも私が 待たされた
洗い髪が 芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は 私の身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ
若かったあの頃
何も怖くなかった
ただ 貴方のやさしさが
怖かった

貴方は もう捨てたのかしら
二十四色の クレパス買って
貴方がかいた 私の似顔絵
巧(うま)くかいてねって
言ったのに
いつもちっとも 似てないの
窓の下には 神田川
三畳一間の 小さな下宿
貴方は 私の指先見つめ
悲しいかいって きいたのよ
若かったあの頃
何も怖くなかった
ただ 貴方のやさしさが
怖かった

(若かった、大宅さんと川端さんが阿佐ヶ谷の安アパートに住んでいたことで・・)


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節分

2007-02-03 21:27:12 | Weblog
今日は節分ですね。午後、ワイフと節分の豆まきに行きました。昨年は鎌倉八幡宮のでしたが、今年は、午後3時からの鎌倉宮の豆まきに参加しました。八幡宮のに比較すると、こじんまりしていますが、その分、節分の神事とか、福男、福女に招待されている方々を身近にみることができ、ミーハーの私としては大変満足の、節分豆まきでした。

鎌倉の緑を大切にしましょう、の標語がとても気に入っていると言う、鎌倉にお住まいの、元キャスターの宮崎緑さんが、今年も福女として参加されていました。去年もいらっしゃいましたので、おそらく毎年でしょうね。それと、「氷雨」のヒット曲で有名な、日野美歌さんも招待されていました。お二人は、仲が良いらしく、いつも一緒にいました。ツーショットを何枚も撮りました。アップしたのは、神事に出かけるときのもので、二人の前のむさくるしい男は、鎌倉市長です。引き立て役として、のせています。がまんしてくださいね。

去年は、八幡宮の豆まきのとき、ワイフとふたりで5つくらいの、大当たりの豆袋(景品がもらえるのです)をつかみとったのですが、今年の鎌倉宮はゼロでした。どうも、投げる豆袋の数が八幡宮より大分少ないようです。来年はやっぱり、八幡様だと、機嫌を損ねたワイフは言っていました。

家に帰ってからは、従来方式とは全く違った豆まきをしました。投げる豆は殻つきの落花生にしてみました。そして、関西風に恵方巻きも食べてみました。加えて、豆製品の、納豆と湯豆腐を肴に、お酒ももちろんいただきましたよ。

節を分ける日、明日はもう立春なんですね。

・・・・・
氷雨

作詞・作曲:とまりれん
唄:日野美歌

飲ませて下さい もう少し
今夜は帰らない 帰りたくない
誰が待つと言うの あの部屋で
そうよ誰もいないわ 今では
唄わないで下さい その歌は
別れたあの人を 想い出すから
飲めばやけに 涙もろくなる
こんなあたし許して 下さい
外は冬の雨 まだやまぬ
この胸を 濡らすように
傘がないわけじゃ ないけれど
帰りたくない
もっと酔うほどに飲んで
あの人を 忘れたいから

私を捨てた あの人を
今更悔んでも 仕方ないけど
未練ごころ消せぬ こんな夜
女ひとり飲む酒 侘しい
酔ってなんかいないわ 泣いてない
タバコの煙り 目にしみただけなの
私酔えば 家に帰ります
あなたそんな心配 しないで
外は冬の雨 まだやまぬ
この胸を 濡らすように
傘がないわけじゃ ないけれど
帰りたくない
もっと酔う程に飲んで
あの人を 忘れたいから
忘れたいから

(節分に相応しい歌とはいえませんが、日野美歌さんが福女だったので)

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大宅壮一さんと瑞泉寺

2007-02-03 10:04:12 | Weblog
瑞泉寺境内にはたくさんの歌碑や文学碑があります。最近、このブログで紹介しました吉田松陰・留跡碑や方代歌碑の他、久保田万太郎、吉野秀雄等歌人の碑もみられます。前住職の大下豊道和尚が和歌に理解があり、歌人の歌碑が多いのはよくわかります。

ただ、長い間、なぜこの文学碑がここにあるのだろう、この人は、このお寺とどういう関係があるのだろうと気になっていました。そこで私は、名探偵シャーロックホームズになったつもりで、ここ1週間ほど、瑞泉寺近辺の調査に入ったのでした。目立たぬように、黒の防寒ジャンバーとカーキ色のズボンで出かけます。肩かけカバンには、取材ノートと筆記用具、証拠写真を撮るためのソニーのデジカメ、長時間張り込み用に、えりまき、雨具、手袋、そしてペコちゃんのミルキーはやめて森永のキャラメル、「おーいお茶」1瓶を入れて、いそいそと出かけたのでした。

まず、現場検証です。総門を入ってゆるやかな女坂の方を登り、山門に着きます。くぐって、左側の鐘つき堂の横の、晴れていれば富士山がよく見える絶好の場所に、その石碑は建っています。「男の顔は履歴書である 大宅壮一」と刻まれています。「一世を風靡した、大評論家が、何故、この瑞泉寺に」今回の謎解明のテーマです。この方は、キャッチコピーや造語つくりの名人で、駅弁大学、一億総白痴化、恐妻、家庭争議、太陽族、虚業家など、いくらでも挙げることができますが、「男の顔は履歴書」もそのひとつです。

その石碑の前でしばらく今後の捜査方針を考えていました。そのとき、はたと、ひらめきました。これまで前ばかり見ていて、石碑のうしろは一度も見たことはなかったことに気づいたのです。あわてて後ろに回りました。

おどろきました。重要な情報がかかれていたのです。何故、いままで気づかなかったのだろう、これは初動捜査の不備と新聞にたたからてもしょうがない、と思いました。その内容は、・・・1)1900年9月13日、大阪富田の生まれ、2)マスコミ生活50年 野人評論家に終始、一切の権威を認めないという信条、3)先生の業績を記念して大宅壮一ノンフィクション賞を設置、蔵書20万冊は大宅文庫として整備、4)1970年11月22日70才で没、最終の地は世田谷区八幡山、墓所は瑞泉寺境内・・・さすが、文筆家仲間が建てただけあって、過不足なく説明している、たいしたもんだ、と感心したのでした。

なるほど、ここに、お墓があれば、ここに石碑があってもおかしくない、この情報は、捜査進展の大きな一歩にはなる、でも、何故、大宅壮一が瑞泉寺なのかは、この情報だけでは、相変わらず分らない・・・ホームズ君は考えこむのでした。ちょうどそのとき、山門を入ってきた若い女性が、案内本を見ながら、この碑の前まで来ましたので、さっと、うしろに回り、気づかれないように写真だけを撮ったのでした(写真)。犯人(関係者)は必ず、犯行現場に訪れるという鉄則があるからです。この人は、ときどき、深いためいきをついていたので、ただの、♪恋に疲れた女がひとり・・と判断して尾行捜査は止めました。

しばらく、キャラメルをなめながら、張り込みをしていました。おしゃべりの中年女性3人組がちょっとあやしいかなと思いましたが、持参のアップルパイを食べながら、バカばかり言って笑い転げていましたので、とても知的犯行を行う能力はないと判断し、捜査対象から除外したのでした。

とりあえず、証拠のため、墓所の確認をしようと思いました。ちょっと登ると、墓地の入り口があります。「墓所に関係のない方はご遠慮ください」の立て札がありました。一瞬ひるみましたが、拡大解釈すれば、「関係ある」だろうと思い、堂々と(内心どきどきして)入っていきました。墓地内に数名の方がおりましたが、みなご家族の方のお墓参りのようでした。なかなか見つかりませんでした。ひょっとして、小津安二郎監督のように、姓名は書かず「無」のひと文字で済ませているかもしれないと思いました。その場合、大宅さんなら、しゃれて「恐妻家」とか、「虚業家」とか、にしているかもしれない、と思い、念を入れて捜査しました。

ようやく、10分ほどして、墓地の真ん中あたりに、あまり目立たないような感じで佇んでいた大宅家のお墓を見つけることができました。大宅さんらしく、おおげさではなく、ごく普通の墓石でした。若いときには、先生の評論をよく読ませていただきました、とお参りをしました。

お墓の確認ができたので、今日の捜査は終わり、と山門を出て、帰りは男坂を下りていきました。これからが本格捜査だと、気合いを入れながら歩いていきました。と、坂のおわるところの掲示板に目がとまりました。瑞泉寺ゆかりの人の文化人の名前が書かれています、そしてその中の、川端康成の名前にくぎずけになりました。川端さんは確か、大阪出身で、大宅さんと中学が同じだと聞いたことがあったからです。そうか、川端さんの紹介か、新たな仮説が頭にひらめきました。川端さんは、鎌倉長谷にお住まいであったし、瑞泉寺とのおつきあいも当然あった、現にこうしてゆかりの文化人になっている、・・我ながら、するどいひらめきだと、自画自賛しながら、瑞泉寺をあとにしたのでした。

(つづく)

・・・・・
結局、この仮説ははずれます。次回をお楽しみに。









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