おはようございます。
横浜高島屋でモーリス・ユトリロ展/パリを愛した孤独な画家の物語が始まったので覗いてきた。会場内をモンマーニの時代、白の時代、色彩の時代と順番に見て、そろそろ終わろうするときアナウンスがあった。新潟市新津美術館の館長さんのギャラリートークがはじまりますので”白の時代”の辺りにお集まりください、と。シメシメ、ラッキーと参加した。
このユトリロ展は巡回展で、初回が新津美術館で、ここが二回目なのだそうだ。館長さん、話がお上手で、つい引き込まれてしまった。ユトリロのお母さんは大変な美人でルノアールのこの絵のモデルですよと、その絵のコピーを高々と上げた。どこかで見た絵だと思ったら、ルノアールの”都会のダンス”だった。これは田舎のダンスとセットの名画で、国立新美術館のルノアール展で見ている。たしか所蔵先のオルセー美術館でも見たが、田舎の方が貸し出し中だったっけ。下の絵、左が田舎のダンスで、右が都会のダンスである。
ルノアール 田舎のダンス、都会のダンス(参考)

右の都会の女のモデルが画家のヴァラドン。絵で見ても美人であることはよくわかる。当時18歳で、このとき、のちに画家ユトリロになる赤ちゃんを身籠っていた。父親はルノアールという説が有力と館長さんは明かした。もしルノアールの血を引いていれば、名画家になるはずだ。ルノアールはヴァラドンと結婚せずに、田舎のダンスのモデルさんと一緒になったようだ。
ヴァラドンは当時の多くの画家のモデルとなり華やかな恋愛遍歴を重ね、ドガ、ロートレック等とも愛人関係にあったようだから本当の父親は誰だかわからない(笑)。ユトリロは私生児として育ち、長じて画家になり、3歳下の画家ユッテルと友人となるが、彼が母親と結婚し、なんとユトリロの義父となる。そういう複雑な人間関係図が展示されていて、写真に撮りたかったが、撮影禁止。
ユトリロは生誕140年になるが、日本でいえば、高村光太郎、魯山人と同時代だそうだ。さて、ユトリロは奔放な母から祖母に預けられて育ち、孤独な少年時代を過ごし、ワイン好きな祖母の影響でお酒も飲むようになり、10代でアルコール依存症になってしまう。その治療法として絵を描くようになったそうだ。たちまち実力を発揮し、最初はやや暗い色調の風景画を描いており、この頃の絵を”モンマーニの時代”と呼び、本展でも数点、展示されている。
そして、1908年頃からユトリロといえば白い絵、”白の時代”が始まる。ずらりと白い建物の風景画が並ぶが、”この中に、ユトリロの代表作と呼ばれる数点のうちの一つがあります”と館長さんがその絵の前に皆を連れてきた。日本のコレクターがこれを手に入れ、こうして日本で見られるは幸せなことです、と付け加えた。ギャラリートークがなければ気づかなかった。
〈可愛い聖体拝受者〉、トルシー=アン=ヴァロワの協会(エヌ県(1912頃)ていねいに塗り重ねられた壁の色、どんよりした雲を背景に浮かび上がるような教会。

敬虔なキリスト教徒であったユトリロは教会をよく描いた。
パリのサン=セヴラン教会 1910-12年頃

もちろんモンマルトルの街角も。同じ場所を何度も描いている。
ラパン・アジル、モンマルトルのサン=ヴァンサン通り 1910-12年頃 ”ラバン・アジル”(はね兎)は、ユトリロのお気に入りで、何と400点も描いているそうだ。

現在も残っているシャンソン酒場、ラパン・アジル。(2012)

モンマルトルのノルヴァン通り (1910)ノルヴァン通りは、モンマルトルの丘の上に立つサクレ=クール寺院へと続く小路で、ユトリロはしばしばこの付近を描いた。人影もまばらな狭い道の両側には白い壁が続き、その先にはサクレ=クール寺院の白亜の円蓋がそびえている。

サクレクール寺院(2012)

1910年代の前半の傑作を量産した白の時代と呼ばれる。1919年、35才のときの個展が大好評で、華々しい脚光を浴びる。1920年代以降は、色彩の時代に入っていく。この頃は注文者も多く、さっと仕上げた感じの作品が多い。モチーフは白の時代と変わらなかったが、白の時代では閉まっていた建物の窓が色彩の時代では開いているのが多いそうだ。気持ちも明るくなったのだろう。国に認められ、勲章まで授与される。
1955年、71歳の生涯を終える。その2日前に描かれた最後の絵もやっぱりモンマルトルの街角であった。シャンソン酒場、ラバン・アジルの前の墓地で眠る。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!