まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

8月6日の前日、広島・平和への祈り

2023年08月06日 | まち歩き

現在、7月に行った九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの記事を書いている最中だが、いったん中断して8月6日、広島原爆の日である。

8月6日は日曜日の当番に当たっており事務所に出社。とはいえ私一人ということもあり、ネットで配信されていた平和記念式典のライブ中継を見る。8時15分、職場の近くでもサイレンが鳴り、1分間の黙祷を行った。2回目の広島勤務で、8月6日が日曜日というのは初めてなので、式典をじっくり見たのも久しぶりである(仕事中は普通に時間が流れるだけなので)。

今年はG7サミットが広島で開催され、核兵器保有国を含む各国首脳が原爆慰霊碑への献花、平和記念資料館の視察が行われた。一方でロシアとウクライナの戦争の中でロシアが核兵器の使用をちらつかせるなど、核兵器や平和についてクローズアップされている。その中で広島からのメッセージも、例年のような通り一辺倒(に感じられる)の内容ではなく、真摯に訴えるものだったという印象である。

・・とはいえ、現実の世界を動かすのは容易ではない。その中で、(経済や社会に関する政策は評価しないし支持しないが)被爆地広島出身の総理大臣という、他の方にはない強いポイントがある岸田総理、ここはあなたにしかできないことである。頑張ってください。

さて、8月6日は朝は平和記念式典、そして夜は元安川での灯籠流しが行われるなど(最近はマツダスタジアムで「ピースナイター」としてカープの試合も行われる)、祈りの1日となるが、その前日の5日の夕方、広島市内に出向いてみた。

自宅近くから路線バスに乗り、平和記念公園に到着。団体用の観光バスが何台も停まり、資料館の入口にも長蛇の列ができている。6日当日は式典もあり中には入れないため、前日に手を合わせようと訪ねてみた。このタイミングで、プライベートで平和記念公園を訪ねるのは初めてである。

翌日の式典に向けての準備が進められている。新型コロナウイルスが5類に移行したことを受けて、今年は4年ぶりに一般参列者を入れた従来の形での開催という。

慰霊碑には手を合わせようと多くの人が行列をなしている。また、あちこちでは語り部の人たちが子どもや学生に向けて原爆の話を行う光景が見られる。

慰霊碑を前にする。

そのまま、平和の灯の横を過ぎて原爆ドーム方面に向かう。こちらにも大勢の人たちがさまざまな思いをはせているところだ。

そのままドームに向けて歩く。新型コロナウイルスによる入国規制も解除されており、外国人観光客の姿も久しぶりに多く見かける。G7サミットを機に広島を訪ねてみようという人が増えたのかな。

原爆ドーム前から広電に乗り、広島駅に移動する。8月5日の広島は1年のうちでもっともホテルの稼働率が高いと言われている。前日に広島入りして、昼のうちに原爆ドーム、平和記念資料館などを見学。夜は・・犠牲者の霊を慰めつつ一献(中にはマツダスタジアムに行く人もいるだろう)、そして6日の早朝から記念式典に向けて再び平和記念公園に行く行程。

その5日の夜に広島駅に向かったのは、「夏の夜、祈りと平和の夕べ」という行事に参加するためである。例年8月5日夜に平和関連のさまざまな行事、イベントがある中で、広島市のホームページで見つけたものだ。場所は広島駅新幹線口近くの二葉の里にある7つの社寺で、平和の灯から採火したろうそくでライトアップされるほか、犠牲者の追悼、平和への祈りを奉げるもので、2012年度から行われているそうだ。こういう行事があると知ったのは初めてで、現在広島新四国八十八ヶ所も回っていることからどのようなものか行ってみることにした。

その7社寺とは西から順に饒津神社、明星院、鶴羽根神社、広島東照宮、尾長天満宮、國前寺、聖光寺と宗派はばらばらだが、これらは「広島二葉山山麓七福神」を構成しており、こうした横のつながりがある社寺と、地元の人たちの手によって実施されている。

当日はボランティアガイドの案内により、東コース、西コースのいずれかを回る無料ツアーも行われるとあったが、そこは自分のペースで回ることにしよう。

そろそろ日が暮れようかとする中、新幹線口を出てまず向かったのは鶴羽根神社。こちらでは先着50名参拝者が献灯できるというので、それはぜひともということで早めに行ってみた。しかしさすがに早すぎたようで、まだ準備中のようだ。もっとも、受付開始と同時に先着50名のろうそくがなくなるほどでもないようで、係の人からは「先に『にぎつさん』や明星院さんに行かれたら・・」と案内される。ということで、西から順にお参りとする。

まずは饒津神社。山陽線の車内から見え、京橋川沿いの交通量の多い交差点からすぐなので神社があることは知っていたが、お参りは初めてである。江戸時代中期、広島城の鬼門を守護するために、浅野氏の開祖である浅野長政の位牌堂を建立したのが始まりで、その後、浅野氏祖先追悼の社殿が建てられた。かつては高い建物がなかったこともあるが、境内からは広島城を望むことができ、正に鬼門を守る存在であった。

原爆の時には爆風のため本殿その他が破壊され、出火もあって境内も全焼した。その中で市中心部から大勢の人が避難してきたが、ここで亡くなった方も多かったそうである。入口に、被爆樹木であるマツの切り株が置かれている。

次に明星院。こちらは6月に広島新四国八十八ヶ所めぐりで訪ねたばかりである。饒津神社に隣接しており・・というか元々は一体だったのが明治の神仏分離で分けられたように見える。

ここも参道でろうそくが照らされている。山門には「平和の鐘」があり、夕方の時間だがここで1回鐘を撞く。

境内には僧侶の読経の音声が流れる。本堂の扉も開放されており、中に入って般若心経のお勤めとする。浅野氏ゆかりの寺院ということで、本堂の内陣には四十七士の木像が祀られているのだが、さすがにこの時間だと中は暗いので外からにとどめる。

本堂の手前にランタンが置かれている。平和の灯から採火したもので、寺のろうそくの灯はこれから採るのかな。

そして鶴羽根神社に戻る。先着順のろうそくも準備ができており、「お待たせしました」と言われて受け取り境内に進む。他にもぽつぽつと、ろうそくを手にする人たちがお参りする。

鶴羽根神社の歴史は浅野氏よりも古く、平安末期、源平の戦いに敗れた源頼政の室・菖蒲の前が安芸に落ち延びたが(広島新四国の一つ、観現寺や福成寺に関連する)、その菖蒲の前の遺志により応神天皇、神功皇后を祭神といてこの地に社殿が建てられた。元々は椎の木八幡宮と呼ばれていた。その後、火災や戦乱で荒廃したが江戸時代に浅野氏により再興された。鶴羽根神社という名になったのは明治からで、二葉山が鶴が羽根を広げた姿に似ているとしてつけられたという。

鶴羽根神社も原爆の際に社殿が倒壊したが、石の鳥居や燈籠、手水舎などはそのまま残り、また被爆樹木も受け継がれている。

拝殿の前には風鈴も掲げられ、風に吹かれて鳴り響く。ろうそくと合わせて、これも被爆者の鎮魂かなと思いつつ、献灯台にろうそくをお供えし、手を合わせる。

辺りも暗くなってきた。その分、ろうそくの灯りがよりはっきりしてきた。広島高速5号線の工事中の高架をくぐり、広島東照宮に着く。ここで4ヶ所目である。

社殿に続く石段にろうそくで「祈」の文字が映し出されている。

石段下には原爆犠牲者の慰霊碑が建つ。

その横には、被爆体験をつづったことで知られる詩人、作家の原民喜の追悼碑がある。原民喜は被爆直後、広島東照宮の境内にて一夜を過ごし、避難して来た人たちの様子を手帳に記した。その手帳をもとに後に代表作「夏の花」などの作品を残したが、手帳に自ら記した「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」が碑文として刻まれている。

「祈」の文字の横を抜けて境内に入ると、30人ほどの人が何か聞き入っている。東照宮の宮司による被爆体験の語りである。私が訪ねた時はちょうど話も後半になっていたのではないかな。まずは拝殿にお参りすると、「祓いたまえ、清めたまえ」と神官から幣でお祓いを受ける。

東照宮が建てられたのは江戸時代。日光に東照宮が建てられたのを機に幕府は諸大名にも東照宮の建立を勧めたが、広島藩の2代目・浅野光晟は、母が徳川家康の娘だったこともあり、東照宮の建立に積極的に手掛け、建立後は社領も与えて保護した。

原爆投下時、爆心地から2キロあまりの場所に位置する東照宮は熱風により出火し、本殿、拝殿が焼失した。当時、東照宮境内には練兵場があって通信兵が常駐しており、バケツリレーで消火にあたったため延焼は防がれ、御神体も運び出すことができた。本殿、拝殿は戦後に再建されたものだが、唐門とその横の翼廊などは被爆建物として現在もその姿をとどめている。

被爆直後は、先に書いた原民喜も含めて大勢の人が東照宮に避難して来た。当時は高い建物がなかったこともあり、二葉山に鎮座する東照宮を信仰のシンボルとして逃れてきた人も多かったそうだ。しかし、ここで命を落とした人も多数いたという。

先代の宮司(現在語っている宮司の父親)は当時中学生で八本松に疎開していたが、広島に戻って来て市内や東照宮での惨状を見て、助けを求める同い年くらいの女学生を助けることができなかったという。長年そのことを悔いつつ、被爆体験のことは娘(現在の宮司)にも語ろうとしなかったそうだが、原民喜の追悼碑が広島東照宮に建てられることになったのを機に、自身も宗教者として伝えなければならないという思いが生じたそうだ。そして自らさまざまな活動を行うようになり、この「夏の夜、祈りと平和の夕べ」でも語り部となって東照宮の歴史や被爆体験を伝えてきた。2017年に亡くなった後は、現在の宮司に受け継がれている。

最後にはこんな内容の言葉があった。戦後78年経って、被爆した人たちも亡くなったり高齢化している。ただ、残された人たちや次の世代の人たちが伝えなければならない。伝えなければ忘れてしまう。忘れてしまうと歴史が繰り返される(再び、核の悲劇が起こる)。

最後に、笙の演奏により童謡「ふるさと」が合唱された。

東照宮の唐門からはちょうど広島駅周辺のビル群が並ぶ。駅の向こう、マツダスタジアムではカープとジャイアンツの1戦が行われているところで、この日もカープが優勢に試合を進めているようだ。広島の土曜日の夜は賑やかに、平和に過ぎていくが、どこかで先人たちに思いを寄せる一時もあってよい・・という気になった。暗くなり、「祈」の文字が一層くっきりと見えた。

本来であれば残りの3社寺(尾長天満宮、國前寺、聖光手)にも行くところだろうが、東照宮まで来たことでもういいかなという気になった。日が暮れたとはいえ蒸し暑く、汗だくである。この後でどこか一献ということもなく、そのままJRと広電を乗り継いで帰宅した・・。

平和を願う気持ちはそれぞれにあり、その表現の仕方もさまざまだろう。8月6日、平和記念式典の最中に周辺で大声でデモをしている連中もいたのかな(しかも、場違いな内容のコール)。それと比べるわけではないが、本来の祈りの場である社寺において、夜の静まった時刻に心を鎮めて手を合わせる・・。この「夏の夜、祈りと平和の夕べ」の取り組みがこの先も続くことを願うばかりである・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第11回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~延岡にて一献

2023年08月06日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

7月16日、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの1日目といいつつも広島から四国に渡り、さらに豊後水道を渡って日向の国に入る移動日で終了。この日は延岡に宿泊する。

延岡駅に降り立つ。前回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりではレンタカーで延岡まで来て、雨の駅前に降り立ったが、今回は鉄道である。もう20年近く前のことだが、年末年始の旅行で大阪から寝台特急「彗星」に乗り、かつて延岡から出ていた高千穂鉄道に乗ったことがある。雪の影響で「彗星」も遅れたが、その分個室寝台で長く過ごすことができ、それからしばらくして廃止された列車の思い出ともなった。

その延岡駅だが、現在は複合施設「エンクロス」として運営されている。1階に地元物品販売コーナーやスターバックスが入り、2階がいわゆる「ツタヤ図書館」となっている。

図書館ではあるが本の貸し出しは行っておらず、館内での閲覧のみである。また、「蔦屋書店」も兼ねており、同じフロアでも販売と館内閲覧の棚が混在している。宮崎関連の書籍もあれば、この時は長崎の軍艦島関連も特別コーナーとして扱われていた。閲覧、販売とスタイルはさまざまだが、ここなら列車の待ち時間も退屈しないし、地元の人たちの憩いの場にもなっているようだ。ツタヤを運営するCCCについてはさまざまな声があるのだが・・。

駅前の一角に、「延岡市ゆかりの歴代オリンピック出場者」のコーナーがある。延岡市でアスリートといえば・・やはり旭化成だろう。この手のモニュメントには手形が並ぶことが多いのだが、陸上部が多いだけにほとんどが「足形」である。その中でやはり宗茂・宗猛兄弟はレジェンドである。

ごつい手形があるなと見ると、柔道の篠原信一。ああそうか、旭化成は柔道部も強豪だったな・・と、その横には田中幸雄とある。ミスター・ファイターズにして、プロアマ混合のシドニー五輪に出場している。プロ野球選手の出場が解禁されて最初の五輪だったが、当時はまだ五輪はアマチュア選手が中心という考えも根強く、プロ側も積極的に選手を出そうという感じでもなかった。結局パ・リーグ各球団から1名ずつ(田中幸雄、松坂大輔、中村紀洋、松中信彦、田口壮、黒木知宏)、セ・リーグからは2名(鈴木郁洋、河野昌人)が出場したが、やはりプロアマ混合の難しさもあってか、五輪で初めてメダルを逃してしまった。これを受けてか、次のアテネ大会以降は全員プロで編成され、そして「侍ジャパン」となっていく。

それはそうと、田中幸雄は都城高校ではなかったかとプロフィールを検索してみると、幼少期は延岡に住んでいたという。父親の勤務先が旭化成で・・・これで納得。

さてこの日の宿泊だが、駅前ではなく徒歩10分ほどの街の中心部に向かう。前回、市街地をレンタカーで通った時に、夜の一献を考えると駅から少し離れるが中心部のほうがよいかなと思った。また、翌日利用するレンタカー店にも近い。五ヶ瀬川と大瀬川という2つの川に挟まれた中洲にある「延岡アーバンホテル」にチェックインする。「中央通」交差点の角だから、立地としては一等地だろう。

窓からは南側の景色が見える。左手の煙突がある一角は旭化成の工場。奥には愛宕山が控えている。

夏の九州はまだまだ明るいが、延岡での一献としよう。事前にグルメサイトで調べたが、地方都市のためか日曜休業の店も結構多い。その中で、ホテルからすぐの「炉端焼き 源太」という店を見つけて事前に予約しておいた。昔ながらの大衆酒場という構えである。

入るとカウンターはすでに満席、座席も予約客が結構入って来る。飛び込みだったら満席で断念せざるを得なかったところで、予約しておいてよかった。

まずは生ビール。運んでくれた店員がその瞬間、「今日もお疲れ様でした、乾杯!」とグラスを合わせる。最初の1杯でのお決まりだという。お疲れ様でした。

メニュー、そして目の前には日向の海の幸がずらりと並び、迷ってしまう。こういう時、一人旅の限界を感じる。複数で行けばいろいろ頼んでそれぞれシェアすれば豊富に味わうこともできるのだが・・。

その中で最初にいただいたのは、地鶏もも焼。やはり人気メニューのようで、七輪で数名分を炭火で豪快にあぶり、次々に鉄板に盛り付ける。柚子胡椒をつけ、ビールによく合う。

刺身はいろいろ迷ったが、選んだのはカツオ。カツオといえばタタキのイメージが強いが、刺身も結構いけるのである。鹿児島産とあったから枕崎あたりから仕入れたと思うが、この先、枕崎や指宿にも九州八十八ヶ所百八霊場の札所がある。いずれその方面に行くのも楽しみである。

メニューの中で気になった「イワシおびき」が出る。この「おびき」とは「尾引き」というもので、宮崎の郷土料理である。イワシの刺身ではあるが、庖丁ではなく手でさばくのが特徴。背骨だけでなく小骨も一緒に取れるそうで、新鮮だからこそできるものだという。これも人気のようで、数も限られているためか、私が注文したので最後となった。

日向に来たのだから焼酎も飲もう。とはいえ芋焼酎は苦手。メニューを見て選んだのは、高千穂の米焼酎「露々」(グラスが「木挽」なのはご愛敬)。水割りにするとすごく飲みやすい。高千穂といえば神話の国。こちらの棚田で作られる米の評価は高く、まさに神の恵みを感じさせる。

そして日向ということで、昔から有名な麦焼酎「ひむかのくろうま」もいただく。水割りとはいえそれぞれ2合ずつ開けてしまった。結構調子に乗りすぎたかな・・。

高千穂の焼酎のアテとして、「湯がきみな」をいただく。ミナ貝、他にもさまざまな呼び方があるが、九州では広く採れる貝だそうで、他の貝との盛り合わせ。つまようじでほじくって中から身を取り出す。

ふと店内を見渡すと、壁に見覚えのあるサインが掛けられている。おお、吉田類氏ではないか。どうやらここ「源太」は「酒場放浪記」にも登場する店だったようだ。知らずに予約したのだが、いい店に入ったものだと思う。ちなみに、吉田類氏の隣のサインは、競泳の元日本代表の松田丈志氏。この人も延岡出身である(ならば先ほどの駅前のモニュメントに手形があるはずだが、見落としていた)。

そして来たのが「くまばち唐揚げ」。にんにくの丸揚げとの「スタミナセット」である。私の普段の生活でハチを食べるということはまずないのだが、山間の高千穂や椎葉あたりでは郷土料理の一つだという。信州の蜂の子料理は知られているが、いずれにしても海から離れた山奥にあって昔は貴重なたんぱく源だったことだろう。素揚げにされているためか、見た目ではハチとは感じられず、エビでも食っているかのような感触だった。

日向の海の幸、山の幸、神の恵みを存分にいただき(会計はそれなりにかかったが)、外に出るとさすがに暗くなっていた。コンビニの買い物をかねてしばらく中心部をぶらつくが、やはり日曜休業の店が多いせいかちょっとさびしさを感じる。

そして迎えた翌17日。札所めぐり当日のこの日も快晴である。ホテルにて朝食をいただき、8時の開店をめがけてレンタカー店に向かう・・・。

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