まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第34番「中野寺」(美々津は日本海軍発祥の地)

2023年08月09日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

細島半島を回り終えた後、次の第34番・中野寺を目指す。途中、小倉ヶ浜公園の前を過ぎるが、この公園の中にある野球場が、かつて近鉄バファローズが日向キャンプで使っていた球場である。

国道10号線から東九州道の日向インター前を通過し、丘の上に出る。ここが入口かと墓地の間を抜け。山門前に出る。

数々の石仏や弘法大師像などが出迎える。最寄りは日豊線の財光寺駅から徒歩で3キロほど。歩けない距離ではないがこの暑さである・・・。

さてこの中野寺だが、戦国時代に恒富村(現在は延岡市の一部)にあった光福寺の住職・無縛により開かれたそうだが、詳しい寺の歴史が残っていない。現在の九州八十八ヶ所百八霊場の紹介ページでも、宗派は真言宗醍醐派、本尊は阿弥陀如来ということしか書かれていない。

工事を行うのか、足場が組まれたコンクリート造りの本堂の扉に手を掛けると開いており、中に入ってのお勤めとする。いや、中に入るのはいいが、熱気がこもっていてそう長くいられるものではない。

本堂の中にはセルフの朱印がなかったので、庫裏に向かう。中からは高校野球の宮崎大会の中継とおぼしきテレビの音が聞こえてくる。応対していただいた寺の方が納経帳を預かる際、「栄養ドリンク、苦手ではないですか?」と尋ねられる。別に抵抗はないというと、この後朱印を押して出て来られた時、「お接待で」とヤクルトのタフマンの小瓶を手にしていた。レンタカーの中にはお茶や凍らせたペットボトルなど、飲み切れるか?というくらい買っていたのだが、ここに加わった栄養ドリンクがこの日の昼食代わりになりそうだ。

日向岬や大御神社など回るうち、当初の想定より時間が押してきたように思えた。国道10号線に戻るが、時刻が11時を回ったが宮崎まではまだ60キロ以上ある。

少し高い位置から日向灘を見下ろすところを走るが、そのまま通り抜ける。

時間が押してきたといいつつ、いったん国道10号線を離れる。立ち寄りとしたのは美々津である。耳川の河口に位置し、かつての日明貿易や、瀬戸内航路の西の端の港町として賑わい、現在も伝統的な町並みが残されているので少し立ち寄ってみる。資料館もあるようだ。

石畳が敷かれた通り、そして暖簾をかかげる商店や家屋が並ぶが、さてクルマはどこに停めたものか。空地はあるが駐車禁止の札が出ているし、駐車場があってもその関係者用だし、観光客はどこに停めればよいか。そうするうちに町並みを通り過ぎ、一本別の通りを戻ってみるがクルマを停める場所が見当たらない。

こうなると、本格的に町歩きをするとか、路上駐車して資料館に入るわけにもいかないようだ。幸い交通量は少ないので、写真を撮る時だけちょっと停車して外に出る、あるいは車内からカメラを向けるにとどめる。

その中にあって、港の横にちょっとした公園があり、「日本海軍発祥の地」と書かれた巨大な石碑が建つ。日本海軍発祥というが、美々津が軍港だった事実はないようだし、現在も自衛隊の船舶が停まっているわけでもない(イカリは展示されているが)。

この「日本海軍発祥の地」というのは、近代的な組織としての海軍ではなく、神話の世界、戦前の皇紀○○年の世界のことである。神武天皇が日向から大和に向けて東征した際、ここ美々津から船出をしたと伝えられている。その際、自ら水軍を編成したとして「日本海軍発祥の地」とし、皇紀2600年を記念事業として建てられたのがこの石碑である。終戦直後にはアメリカ軍により文字が消されたが、後に地元有志の手により復元されたとある。

ニニギノミコトや神武天皇といったところがごく普通に登場するあたり、さすが日向、神話の国である。こうした言い伝えも、古くから美々津や先ほどの細島といったところが海を通して畿内とつながりがあったことを示すことの表れとも考えられている。

町並みを抜け、防波堤に沿って走ると「神武天皇御舟出の地」の看板が立つ。ちなみに駐車場はこの近くにあったが、特に案内板があるわけでもなく、一見ではわからない。あまり、外からの観光客を受け入れたくないのかなとも感じられる。

日向市から都農町にかけては国道10号線も比較的平坦である。交通量もそれなりにあり、ところどころに「ゆずり車線」が設けられている。片側2車線にするほどではなく、通行をスムーズにするための設備だろう。

「都農ワイナリー」の看板も見える中、国道10号線を離れて第35番・行真寺に向かう・・・。

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