今日は加西市の旧海軍飛行場跡に行ってきました。
今日は平日ですが、普段の土日出勤の振替休日ということで、いわゆる「代休」です。まあ、会社側の時間外勤務手当の削減の一環ですね。(ホンマは手当を支給して欲しいなあ)
さて、あいにくの雨天でしたので、Maj(マジェスティ)ではなくティーダで加西市に向かいます。加古川バイパスの加古川西ICからは、高砂北条街道(県道43号線)を北に向かい加西市に到着です。我家からは1時間ぐらいで到着ですね。
で、最初の写真は、第二神明の明石SAでのティーダです。(このブログでは、ティーダの写真は初めての公開ですね)
ところで、加西の旧海軍飛行場ですが、鶉野飛行場と呼ばれていたものです。飛行場内には川西航空機(現、新明和工業)の工場(姫路工場)もあり、当時の最新鋭の戦闘機である紫電・紫電改が生産されていました。
そんなところで、鶉野飛行場には、紫電・紫電改や零戦などの戦闘機が配備されていたほか、九七式艦上攻撃機も配備されていました。
ただ、鶉野飛行場の部隊(姫路航空隊)は戦闘機部隊ではなく、練習を主体とする部隊だったようです。しかしながら戦争末期には、この飛行場から前記の九七式艦上攻撃機による特攻隊が出撃したそうです。
また鶉野飛行場を飛び立った紫電改が、故障のため現在の北條鉄道の線路に緊急着陸したところに汽車が通ったため、乗客が亡くなったとのことです。(慰霊碑が建っているとか)
下の写真は鶉野飛行場の北側と南側の写真です。そして3番目の写真は飛行場跡の記念碑です。滑走路は、ほぼ南北に伸びています。
下の写真は、前述の九七式艦上攻撃機による特攻隊を紹介したもの・・・姫路航空隊ということで、白鷺隊です。
この飛行場跡ですが、我社の地元の同僚に聞くと、子供の頃は草野球や凧上げの格好の場所だったそうです(笑)。ただ、厳密には防衛庁が敷地を管理しています。
現在、加西市では飛行場跡地の利用について議論されてことから、いずれは飛行場跡は無くなってしまうかもしれませんね。
個人的には、歴史を物語る場所として整備していただきたいのですが・・・防空壕や対空機銃の銃座を復元し、アメリカから実機の紫電改を返還していただき展示して欲しいですね。
今日は平日ですが、普段の土日出勤の振替休日ということで、いわゆる「代休」です。まあ、会社側の時間外勤務手当の削減の一環ですね。(ホンマは手当を支給して欲しいなあ)
さて、あいにくの雨天でしたので、Maj(マジェスティ)ではなくティーダで加西市に向かいます。加古川バイパスの加古川西ICからは、高砂北条街道(県道43号線)を北に向かい加西市に到着です。我家からは1時間ぐらいで到着ですね。
で、最初の写真は、第二神明の明石SAでのティーダです。(このブログでは、ティーダの写真は初めての公開ですね)
ところで、加西の旧海軍飛行場ですが、鶉野飛行場と呼ばれていたものです。飛行場内には川西航空機(現、新明和工業)の工場(姫路工場)もあり、当時の最新鋭の戦闘機である紫電・紫電改が生産されていました。
そんなところで、鶉野飛行場には、紫電・紫電改や零戦などの戦闘機が配備されていたほか、九七式艦上攻撃機も配備されていました。
ただ、鶉野飛行場の部隊(姫路航空隊)は戦闘機部隊ではなく、練習を主体とする部隊だったようです。しかしながら戦争末期には、この飛行場から前記の九七式艦上攻撃機による特攻隊が出撃したそうです。
また鶉野飛行場を飛び立った紫電改が、故障のため現在の北條鉄道の線路に緊急着陸したところに汽車が通ったため、乗客が亡くなったとのことです。(慰霊碑が建っているとか)
下の写真は鶉野飛行場の北側と南側の写真です。そして3番目の写真は飛行場跡の記念碑です。滑走路は、ほぼ南北に伸びています。
下の写真は、前述の九七式艦上攻撃機による特攻隊を紹介したもの・・・姫路航空隊ということで、白鷺隊です。
この飛行場跡ですが、我社の地元の同僚に聞くと、子供の頃は草野球や凧上げの格好の場所だったそうです(笑)。ただ、厳密には防衛庁が敷地を管理しています。
現在、加西市では飛行場跡地の利用について議論されてことから、いずれは飛行場跡は無くなってしまうかもしれませんね。
個人的には、歴史を物語る場所として整備していただきたいのですが・・・防空壕や対空機銃の銃座を復元し、アメリカから実機の紫電改を返還していただき展示して欲しいですね。