前回の嘉例川駅を見学した後、一般道を南下。やがて海となり桜島が見えました。
到着したのは「仙巌園」という、薩摩藩主である島津家の庭園です。鹿児島に観光に行かれた方なら、必ず立ち寄ると言っても過言ではない「仙巌園」です。^^
ここで見たかったのは、幕末の薩摩藩主である島津斉彬が築いた反射炉跡です。島津斉彬は外国からの脅威に対し、海からの攻撃から守るために大砲や武器を自らで作る必要があり、材料の鉄を溶かす溶鉱炉や反射炉建造に着手しました。
これが反射炉跡ですが、
解説パネルのように、燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井や壁で反射し、側方の炉床に熱を集中させることで鉄を溶かしました。幕末の頃、日本は槍や刀など小さな鉄製品を作ることができましたが、射程距離が長く破壊力の大きな鉄製の大砲を作ることは難しいものでした。そのような中、薩摩藩は反射炉を用いて大型の鉄製品を作ることができました。
それでは、後は庭園内をウォーキング。関西では終わりかけている菊人形も、南国鹿児島ではこの頃が見頃。
篤姫の菊人形かな?です。
さすがに大名の庭園。門構えが重厚です。
ところで「仙巌園」内では、NHK大河ドラマ「西郷どん」のロケも行われました。
こちらの広場では土俵が作られ、島津斉彬(渡辺謙さん)と西郷隆盛(鈴木亮平さん)が相撲を取る場面が撮影されました。
「仙巌園」内には薩摩藩の歴史を紹介する「集成館」もありましたが、内部は撮影禁止(涙)。一通り見学した後、初日最後の目的地に向かいます。
城山の山道を登り、到着したのは「西郷隆盛洞窟」です。
「西郷隆盛洞窟」とは西南戦争最後の夜、薩摩軍の本拠地となった城山の洞窟です。文字が小さいですが、パネルをご覧ください。
パネルの一部を拡大。鉄砲や大砲の攻撃に対する堡塁です。
鹿児島を出発した薩摩軍は、熊本で政府軍(帝国陸軍)と激戦(田原坂の戦い他)。その後、宮崎に転進した後、形成不利となり鹿児島に戻りましたが、城山に立てこもり最後の戦いとなりました。日本での最後の内戦と言えるでしょう。
この二つの洞窟が「西郷隆盛洞窟」ですが、当時はもっと多くの洞窟があったそうです。
薩摩軍最後の戦いは、この洞窟から私学館に向け突撃しました。途中、西郷隆盛は銃弾に倒れ自決。西郷隆盛の死を見届けた後、桐野利秋や村田新八はさらに進撃しましたが、銃弾に倒れ西郷隆盛同様に自決しました。
薩摩軍の中で注目して欲しいのは、村田新八です。村田新八は幕末では会津戦争に参戦した後、欧米視察団のメンバーに選ばれるなど外国の見分も広かったのですが、明治6年の政変で西郷隆盛が失脚し鹿児島に戻ると、後を追って鹿児島に帰ります。
西南戦争では、シルクハットにコートというスタイルで戦い、アコーデオンを携え、西南戦争中も常に持ち歩いていたそうです。
これで初日は終了。ホテルにチェックインし、夕食を求めて鹿児島中央駅前に出向くと、クリスマスのイルミが美しく。
これは「若き薩摩の群像」です。薩摩藩が慶応元年(1865年)にイギリスに派遣した、15名の留学生と4名の使節団の銅像です。
結局、夕食はホテル近くの居酒屋さん。^^
このお値段に惹かれました。(^^)
二日目は桜島と鹿屋に向かったのですが、「その3」に続きます。
到着したのは「仙巌園」という、薩摩藩主である島津家の庭園です。鹿児島に観光に行かれた方なら、必ず立ち寄ると言っても過言ではない「仙巌園」です。^^
ここで見たかったのは、幕末の薩摩藩主である島津斉彬が築いた反射炉跡です。島津斉彬は外国からの脅威に対し、海からの攻撃から守るために大砲や武器を自らで作る必要があり、材料の鉄を溶かす溶鉱炉や反射炉建造に着手しました。
これが反射炉跡ですが、
解説パネルのように、燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井や壁で反射し、側方の炉床に熱を集中させることで鉄を溶かしました。幕末の頃、日本は槍や刀など小さな鉄製品を作ることができましたが、射程距離が長く破壊力の大きな鉄製の大砲を作ることは難しいものでした。そのような中、薩摩藩は反射炉を用いて大型の鉄製品を作ることができました。
それでは、後は庭園内をウォーキング。関西では終わりかけている菊人形も、南国鹿児島ではこの頃が見頃。
篤姫の菊人形かな?です。
さすがに大名の庭園。門構えが重厚です。
ところで「仙巌園」内では、NHK大河ドラマ「西郷どん」のロケも行われました。
こちらの広場では土俵が作られ、島津斉彬(渡辺謙さん)と西郷隆盛(鈴木亮平さん)が相撲を取る場面が撮影されました。
「仙巌園」内には薩摩藩の歴史を紹介する「集成館」もありましたが、内部は撮影禁止(涙)。一通り見学した後、初日最後の目的地に向かいます。
城山の山道を登り、到着したのは「西郷隆盛洞窟」です。
「西郷隆盛洞窟」とは西南戦争最後の夜、薩摩軍の本拠地となった城山の洞窟です。文字が小さいですが、パネルをご覧ください。
パネルの一部を拡大。鉄砲や大砲の攻撃に対する堡塁です。
鹿児島を出発した薩摩軍は、熊本で政府軍(帝国陸軍)と激戦(田原坂の戦い他)。その後、宮崎に転進した後、形成不利となり鹿児島に戻りましたが、城山に立てこもり最後の戦いとなりました。日本での最後の内戦と言えるでしょう。
この二つの洞窟が「西郷隆盛洞窟」ですが、当時はもっと多くの洞窟があったそうです。
薩摩軍最後の戦いは、この洞窟から私学館に向け突撃しました。途中、西郷隆盛は銃弾に倒れ自決。西郷隆盛の死を見届けた後、桐野利秋や村田新八はさらに進撃しましたが、銃弾に倒れ西郷隆盛同様に自決しました。
薩摩軍の中で注目して欲しいのは、村田新八です。村田新八は幕末では会津戦争に参戦した後、欧米視察団のメンバーに選ばれるなど外国の見分も広かったのですが、明治6年の政変で西郷隆盛が失脚し鹿児島に戻ると、後を追って鹿児島に帰ります。
西南戦争では、シルクハットにコートというスタイルで戦い、アコーデオンを携え、西南戦争中も常に持ち歩いていたそうです。
これで初日は終了。ホテルにチェックインし、夕食を求めて鹿児島中央駅前に出向くと、クリスマスのイルミが美しく。
これは「若き薩摩の群像」です。薩摩藩が慶応元年(1865年)にイギリスに派遣した、15名の留学生と4名の使節団の銅像です。
結局、夕食はホテル近くの居酒屋さん。^^
このお値段に惹かれました。(^^)
二日目は桜島と鹿屋に向かったのですが、「その3」に続きます。