明日からの三連休ですが、どうも天気が良いのは明日の土曜日ぐらい・・・しかし明日の土曜日は家内と神戸に行く予定が入ってしまったので、今日は年始早々に有給休暇を取って、MT-03の初走りとしました。(お正月は忙しく、MT-03に乗れる時間が無かった)
とりあえず寒いので手短なところに向かいましょう。西明石から明姫幹線(R250)に入り西進します。
到着したのは、明石市の隣である播磨町の大中遺跡公園です。
公園全体はこんな感じです。
この大中遺跡公園は、弥生時代(紀元前後3世紀ぐらい)の住居跡や土器などが発見されたことから整備された公園です。そんなところで復元された住居などがあります。
今日の目的は遺跡ではないのですが、せっかくですのでパチパチと撮影です。この復元住居を見学しましょうか。
内部に入れそうです。
内部はこんな感じ。最低限度の雨風を防ぐための住居ですね。床は土間で、明かりを取るため屋根部分には隙間があります。それでも柱・梁という、現在とは変わらない建て方です。
では目的を達するため、隣接する播磨町郷土資料館に入ります。
玄関には、実際に使われていた「足踏み式水車」が置かれていました。
ここが展示室ですが、
やっと、今日の目的に到着です。今日の目的は廃線となった別府鉄道です。当時の切符やサボ(行先板)、それに実際に使われていたタブレットなどが展示されています。
では、いよいよ車両に向かいます。
機関車(ディーゼル)と客車が、一両ずつ屋外展示されています。
先ず機関車です。形式は「DC302」という、昭和28年に川崎車両で製造されたディーゼル機関車です。本来は入替用だったと思います。動輪と連結棒はSLと同じような感じです。
機関車の運転席にも行けました。シンプルですね。
続いて客車であるハフ5です。昭和5年製造のようです。
内部は現在では見られない木製です。
窓枠も木製。窓開閉の「つまみ」が超懐かしいです。^^
出入口ドアは手動開閉で、ロックも付いています。
車内灯です。青枠部分は吊り広告のハンガーです。
痛んだ塗装の「禁煙」銘板が歴史を感じます。
ドア付近に設けられた、何かの電気SW。う~ん、車内灯のSWでしょうか。乗客が自分でON・OFFしたのかも?です。
別府鉄道が廃線となったのは昭和59年(1984年)です。現在のJR土山駅の南側に駅と機関区がありました。
別府鉄道の路線図です。私が知っているのは土山線です。一度だけ乗ったことがあります。赤丸の「土山~別府港」が土山線ですが、途中に青丸の「中野駅」があったのは記憶にありません。
では現在の土山駅南に、別府鉄道の名残があるか見に行きましょう。播磨町郷土資料館を出発して、とあるお寺に行った後に(次回に紹介します)土山駅南側に到着です。
南側はすっかり整備され、バスやタクシーの駅前ロータリーとなったことから、当時の面影は何もありませんでした。
何かないかな~でキョロキョロすると、播磨町のイルミの一つとして別府鉄道がありました。これが精一杯というか、播磨町の皆さんの心の中では別府鉄道が残っているのでしょう。
画像が多くなったので、次回に播磨町のお寺と明石の昭和の食堂を紹介しましょう。
とりあえず寒いので手短なところに向かいましょう。西明石から明姫幹線(R250)に入り西進します。
到着したのは、明石市の隣である播磨町の大中遺跡公園です。
公園全体はこんな感じです。
この大中遺跡公園は、弥生時代(紀元前後3世紀ぐらい)の住居跡や土器などが発見されたことから整備された公園です。そんなところで復元された住居などがあります。
今日の目的は遺跡ではないのですが、せっかくですのでパチパチと撮影です。この復元住居を見学しましょうか。
内部に入れそうです。
内部はこんな感じ。最低限度の雨風を防ぐための住居ですね。床は土間で、明かりを取るため屋根部分には隙間があります。それでも柱・梁という、現在とは変わらない建て方です。
では目的を達するため、隣接する播磨町郷土資料館に入ります。
玄関には、実際に使われていた「足踏み式水車」が置かれていました。
ここが展示室ですが、
やっと、今日の目的に到着です。今日の目的は廃線となった別府鉄道です。当時の切符やサボ(行先板)、それに実際に使われていたタブレットなどが展示されています。
では、いよいよ車両に向かいます。
機関車(ディーゼル)と客車が、一両ずつ屋外展示されています。
先ず機関車です。形式は「DC302」という、昭和28年に川崎車両で製造されたディーゼル機関車です。本来は入替用だったと思います。動輪と連結棒はSLと同じような感じです。
機関車の運転席にも行けました。シンプルですね。
続いて客車であるハフ5です。昭和5年製造のようです。
内部は現在では見られない木製です。
窓枠も木製。窓開閉の「つまみ」が超懐かしいです。^^
出入口ドアは手動開閉で、ロックも付いています。
車内灯です。青枠部分は吊り広告のハンガーです。
痛んだ塗装の「禁煙」銘板が歴史を感じます。
ドア付近に設けられた、何かの電気SW。う~ん、車内灯のSWでしょうか。乗客が自分でON・OFFしたのかも?です。
別府鉄道が廃線となったのは昭和59年(1984年)です。現在のJR土山駅の南側に駅と機関区がありました。
別府鉄道の路線図です。私が知っているのは土山線です。一度だけ乗ったことがあります。赤丸の「土山~別府港」が土山線ですが、途中に青丸の「中野駅」があったのは記憶にありません。
では現在の土山駅南に、別府鉄道の名残があるか見に行きましょう。播磨町郷土資料館を出発して、とあるお寺に行った後に(次回に紹介します)土山駅南側に到着です。
南側はすっかり整備され、バスやタクシーの駅前ロータリーとなったことから、当時の面影は何もありませんでした。
何かないかな~でキョロキョロすると、播磨町のイルミの一つとして別府鉄道がありました。これが精一杯というか、播磨町の皆さんの心の中では別府鉄道が残っているのでしょう。
画像が多くなったので、次回に播磨町のお寺と明石の昭和の食堂を紹介しましょう。
別府鉄道の資料は、結構残っているんですね・・・いつか行ってミタイと思います・・・(^^)
8&9日は、天気が悪そうですね~・・・(-ω-)
今回は以前にもチラリと行った別府鉄道の「復習」です。線路跡も行きたかったのですが、さすがに寒くて止めました。他には高砂線跡もあります。^^
8,9日は無理すれば行けそうですが、雨が気になりますね。久々にボ~とするのもエエかな?と思っています。
別府鉄道の目的は、多木化学で製造された肥料の運搬用でしたが、土山駅から見えた光景は単に引き込みというか、保線区のような感じでした。
旅客車の運行は、確か5本/日ぐらいだったような記憶が・・・和田岬線のミニ版でした。