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民主主義の根幹が破壊されていっている!

2010-11-29 | 市民のくらしのなかで

2010年11月29日(月)「しんぶん赤旗」

地方議員数「大合併」で4割減

衆院特別委で総務省

佐々木議員「住民の声届かない」


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(写真)質問する佐々木憲昭議員=26日、衆院倫選特委

市町村の合併などで1999年からの10年間で全国の地方議員数が4割減り、3万6909人になっていたことが26日、明らかになりました。総務省が衆院政治倫理確立・公職選挙法改正特別委員会で日本共産党の佐々木憲昭議員の質問に答えました。

全国の都道府県・市区町村議員総数は1999年(12月31日現在)に6万2496人いましたが2009年(同)には6割にまで減少しています。(グラフ

委員会で佐々木氏は「自治体の範囲は合併によって広がる。行政と住民が遠くなったという声も聞かれる。こんなに議員が減ると地方自治の役割、住民の声を十分に反映するという点で問題である」と指摘しました。

片山善博総務相は「人口が減ったから定数が減るということをこれで本当にいいのかと思ったこともある」とする一方、「数だけでものは言えない」とも答えました。

佐々木氏は「一定の数があってはじめて多様な意見が議会に反映できる」と指摘しました。

グラフ
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知事は、勝てなかったけれど、宜野湾市は頑張ったね!

2010-11-29 | 市民のくらしのなかで

宜野湾市長に安里氏


沖縄県宜野湾市長選が28日投開票され、イハ洋一前市長から革新市政の継承・発展をめざす安里猛氏(58)=日本共産党、社民党、沖縄社大党推薦、新=が大激戦の末、自民、公明推薦の安次富修候補(54)=新=を破り、初当選しました。

「わー、やった!」。午後10時25分ごろ、テレビで安里氏の当選確実が報じられると、事務所に詰めかけた支持者らから歓声と指笛が湧き起こりました。

拍手を受けながら安里氏があいさつ。「福祉と教育に優れた宜野湾市をつくるという訴えが共感を得たと思います。伊波知事を誕生させられなかったの は残念ですが、かつての米軍普天間基地『県内移設』の流れは大きく変わりました。私は名護市長とともに県民の声を日米政府に伝えて解決に努力したい」と語 りました。

安里氏は米軍普天間基地の「県内移設」反対と早期閉鎖・返還、小中学校の30人学級の推進など、市民の暮らし・福祉の充実を訴え、共感を広げました。

当安里  猛58新 23598
安次富 修54新 21742
(投票率67・13%)

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大日本帝国憲法が否定され、現憲法に変えられた歴史を認めよう!

2010-11-29 | 世界の変化はすすむ

「議会開設120年記念式典」にあたって

穀田国会対策委員長が談話


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(写真)穀田恵二国会対策委員長

日本共産党の穀田恵二国会対策委員長は27日、「『議会開設120年記念式典』にあたって」との談話を発表しました。

11月29日に「議会開設120年記念式典」が参議院議場において開催されます。

日本共産党は、議会開設の歴史を記念する際には、戦前の絶対主義的天皇制の補助機関であった「帝国議会」の時代と、主権者である国民の代表機関と して「国権の最高機関」という地位をもつようになった戦後の国会の歴史とは、厳格に区別する必要があるとの見地をとってきました。

この立場からわが党は、戦前と戦後の議会の歴史を厳格に区別せずに記念するものとなっていた「議会開設100年」や「110年」の式典に欠席して きました。今回の「議会開設120年記念式典」も同様に戦前と戦後の議会の歴史をひとくくりに記念するものとなっています。そのことは、式典が、戦前の帝 国議会のもとでの「50年式典」を踏襲したやり方となっているところにも表れています。

このため、日本共産党国会議員団は「議会開設120年記念式典」には欠席します。


戦前の帝国議会の時代と戦後の国会の歴史は厳格に区別を

120年前の「帝国議会」の創設は、自由民権運動など本当の議会制民主主義を要求する国民の運動と言動を弾圧したうえで、なんの国民的な議論もへずに、専制的におこなわれたものでした。

開設された議会も、本当の意味での立法権はもたなかったうえ、戦争と平和の問題、条約締結などは、天皇の大権に属する問題として、関与を許されませんでした。

内閣も天皇によって任命され、議会にではなく、天皇にだけ責任を負うものとされていました。また、選挙で選ばれるのは衆議院だけで、その選挙権に も多くの制限がありました。こうした非民主主義の「議会」であったからこそ、帝国議会は、戦前の暗黒政治と侵略戦争にたいして、大局的には、その無批判な 協力・推進者の役割を果たすことに終始したのでした。

戦前のこうした歴史の厳しい反省のうえにたって、戦後の憲法には国民主権の原則が明記され、普通選挙権によって選ばれた国会が「国権の最高機関」 としての地位をもつことになったのです。わが国の議会の歴史をふりかえるとき、このことを、議会制民主主義の根本問題として銘記することが極めて重要で す。

 

向日市の議員定数削減を請願された方は、大日本帝国憲法の定めを元においた考えでした。現憲法で、主権在民、地方自治制度が確立されたことを軽視するひどいもので、共産党議員団は、その問題点を指摘し、受理することが困難な内容だと、反対しました。

 議事録を議会のホームページでご参照ください   M

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