創立90周年の年にふさわしい躍進を
志位委員長 新春インタビュー(上)
聞き手
小木曽陽司・赤旗編集局長
大内田わこ・同局次長
歴史に学び、国民に語り、党の新たな躍進を
小木曽陽司赤旗編集局長・大内田わこ同局次長 あけましておめでとうございます。
志位和夫委員長 あけましておめでとうございます。
小木曽 新しい激動の年が明けました。まず、委員長に今年の抱負をおうかがいしたいと思います。
志位 昨年は、東日本大震災と原発事故という未曽有の危機が起こり、私たちは、多くの方々と共同して救援・復興に力をそそいできま した。危機のなかで未来を開く新しい流れも起こっています。しかし、なお被災者の方々の生活再建は大きく立ち遅れており、「安心して住み続けられる故郷」 をとりもどすまで力をつくす決意です。
同時に、日本共産党にとって今年は、創立90周年の年です。解散・総選挙も予想される年になりますが、90周年にふさわしい躍進の年にしたいというのが最大の抱負です。
大内田 歴史的な年にふさわしい頑張りを、ということですね。
志位 今年をそういう決意で頑張りたいし、頑張りいかんでは躍進を実現する条件は大いにあると考えています。
よく「なぜ名前を変えないのか」ということが言われますが、戦前、戦後の激動の90年間を同じ名前で頑張っている党は、日本では日本共産党以外に ありません。その道のりは平たんではありませんでしたが、戦前の暗黒政治と侵略戦争の試練、戦後のアメリカ占領の試練、旧ソ連と中国・毛沢東派による無法 な干渉の試練、そして支配勢力による反共「封じ込め」の試練など、あらゆる試練にたいして、国民の利益を守って正面からたたかってきた。他のもろもろの党 のように、「時流」に流され、国民の利益を裏切ったことはありません。日本共産党という党名は、この90年のたたかいと深くむすびついたものです。
多くの先達(せんだつ)たちのたたかいは、いまに生きる私たちに「宝」ともいうべき多くの財産をつくってくれています。90年の歴史に学び、それを誇りをもって広く国民に語り、党の新たな躍進を必ずかちとる。そういう年にしていきたいと思います。
党史の三つの時期
「第1の時期」――戦前のたたかいには日本共産党の原点がある
小木曽 90年の歴史に学ぶということですが、1世紀近い歴史を概括するとどういうことになるでしょうか。
志位 大まかにいって、三つの時期があります。
「第1の時期」は、日本共産党が創立された1922年から、アジア・太平洋戦争が終わった1945年までの23年間です。この期間の活動には、日 本共産党にとって原点ともいうべきものが凝縮されています。非合法下での迫害や投獄に屈することなく、天皇中心の暗黒政治に正面から立ち向かい、国民主権 と反戦平和の旗、さらに人間解放と未来社会をめざす旗を掲げ続けた。それが比類のない先駆性、全体としての正確さをもっていたことは、歴史によって検証さ れました。
小木曽 この時代の先達たちの生き方から私たちは何を引き継ぐべきでしょうか。
志位 たくさんのものがあると思いますが、私は、どんな困難な情勢のもとでも社会進歩の大義をつらぬき、その事業が最後には勝利するという展望を失わなかった「不屈性」に学びたいと思います。
渡辺政之輔、川合義虎、市川正一、小林多喜二、野呂栄太郎、岩田義道、上田茂樹、国領五一郎など、多くの諸先達が弾圧で命を落としました。伊藤千 代子、高島満兎、田中サガヨ、飯島喜美など、弾圧の中で節をまげず命を落とした若い女性――この4人の同志はそろって24歳の若さで亡くなったわけですが ――など無数の人々のたたかいも、私たちの胸を打ってやまないものがあります。
「反戦によって日本人の名誉を救った」
志位 宮本顕治さんは、12年の獄中を不屈にたたかいぬきました。宮本さんが、法廷で、自らの無実と運動の大義を、事実と道理を もって諄々(じゅんじゅん)と説き明かした「公判記録」を読みますと、よくもあの時代にあれだけの理性的なたたかいをやりぬいたものだ、という強い感動を 覚えずにはいられません。
大内田 宮本さんが07年に亡くなられたときに、加藤周一さん(08年に死去)が、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」という談話を寄せてくださいました。
志位 あのときの加藤さんの談話は、本当にうれしく、心が温まるものでした。宮本さんが亡くなったのは、2007年7月の参院選の 最中のことでした。私は、たまたまその日の夜に、テレビ朝日のインタビュー出演があり、スタジオに入って出番を待つときにテレビの画面を見ていますと、元 気なころの宮本さんの姿が放映されて、それを見てふいに熱いものが込み上げてきたことを思い出します。インタビューでは「大きな仕事をした大きな人が亡く なった」と追悼の言葉をのべましたが、この時期の党のたたかいはひとり日本共産党だけのものではなくて、日本国民全体の財産といってもよいと思います。文 字通り「日本人の名誉を救った」のが、この時期のたたかいでした。
多喜二の作品が、時代をこえ、世界のたたかいを励ます
小木曽 本当にそう思います。小林多喜二の『蟹工船』などの作品は、いま海外でも翻訳されていると聞いています。
志位 多喜二の『蟹工船』は、貧困と格差が広がるなかで、この間、日本でも一大ブームとなりましたけれども、韓国、イタリア、フランス、スペインなどでも翻訳され、多数の読者を得ていると聞きます。
昨年1月には、スペインで『党生活者』が翻訳・刊行されたそうです。スペインでは『蟹工船』が翻訳・刊行されて、1万人以上の読者を獲得するとい う成功をおさめた。それをふまえて、第2作の紹介として『党生活者』の翻訳・刊行になったとのことです。スペイン訳の書名は『同志』(エル・カマラダ)だ とのことです。
戦前の先達たちが苦闘のなかから生み出した芸術作品が、時をこえて21世紀に、日本の若者だけでなく、はるかに世界各国に広がり、貧困や格差とたたかう人々を励ましているのは、本当にうれしいことです。
「第2の時期」――戦後の十余年のたたかい
小木曽 今のお話を聞いて、戦前のたたかいは本当に誇るべき不屈の歴史だと思いました。戦後のたたかいの歴史を概観するとどういうことになりますか。
志位 わが党の党史の「第2の時期」は、1945年の敗戦から十余年の時期です。この時期にわが党は、アメリカ軍の全面占領のもと で初めて公然とした活動を開始し、さまざまな曲折、重大な試練をへて、1958年の第7回党大会で自主独立の路線を確立し、1961年の第8回党大会で綱 領路線を確立しました。
敗戦後のたたかいでは、主権在民という党創立以来の主張を日本国憲法に明記させるうえで、党が果たした歴史的役割は大きいものがあります。この時 期、日本共産党は、ポツダム宣言の完全実施、全面講和を主張し、日本がアメリカの基地として永久化されることに反対してたたかいました。
曲折と試練を経て、自主独立の路線、綱領路線を確立する
志位 アメリカ占領軍は、1950年、朝鮮戦争が始まるのと前後して、牙をむき出しにして襲いかかってきました。日本共産党の指導部全員に公職追放をくわえ、「赤旗」を発禁にし、党は半非合法状態におかれました。
この弾圧は無法なものでしたが、この時期に、日本共産党そのものは、ソ連・中国からの干渉を受けて、分裂状態におちいりました。干渉に内通した一派は、弾圧とたたかうべきときに、逆に弾圧を利用して、党の分裂を強行したのです。
大内田 いわゆる「50年問題」と呼ばれるものですね。
志位 そうです。このときに党の分裂に反対し、統一のために力をつくした宮本さんは、「50年問題」を「党史上、最大の悲劇的な事 件」と言っています。このときの干渉の総司令官はソ連のスターリン。副官は中国でした。武装闘争を日本共産党に押し付けようという干渉がおこなわれ、党中 央の一部が内通・呼応して、中央委員会が解体された。
ソ連崩壊後に出てきた資料で、この干渉がいかに大がかりで、謀略的なものだったか、その全貌が明らかになりました。当時はきわめて制約された事実 しかわからないもとで、分裂の原因と責任を的確につきとめ、確固とした統一をかちとった。このときの先達たちの勇気と理性も、すごいものがあると思いま す。
この党史上最大の危機を乗り越える過程で、日本共産党は、自主独立の路線――自らの国の革命運動は自らの頭で決める、どんな大国でも干渉や覇権は許さない――という路線を確立し、党の綱領路線を確立しました。
たいへんな苦闘をつうじて、今日の発展の礎石をつくりあげた時期が、この「第2の時期」だと思います。
「第3の時期」――綱領路線の半世紀のたたかい
小木曽 そういう苦闘を経て半世紀前に綱領路線を確立しました。その核心はどういうところにあるのでしょうか。
志位 最大の核心は、日本が直面している革命は、社会主義革命ではなく、独立・民主・平和の日本をつくる民主主義革命だと、ズバリ 明らかにしたことにあります。また「議会の多数を得て、社会の段階的発展をすすめる」という路線を、さだめたことにあります。「発達した資本主義国での民 主主義革命」という路線は、当時の世界の運動の「常識」を覆した、きわめて先駆的なものでした。
党史の「第3の時期」は、こういう綱領路線をもち、国民のたたかいと政治的・理論的探求のなかで、その路線をたえず発展させた、1961年以降の 半世紀です。この半世紀に、わが党は、正確な路線のもとで、全体として大きな前進と成長をとげました。山あり谷ありですけれども、全体としてみれば、国政 でも地方政治でも影響力を大きく拡大した半世紀だったと思います。
ソ連、中国による干渉とのたたかい――党を鍛え多くの財産が
大内田 この時期に、すぐに直面したのがソ連と中国という大国による干渉とのたたかいでしたね。
志位 そうですね。1960年代に開始されたソ連と中国・毛沢東派の双方による無法な干渉攻撃に対して、わが党は正面からたたか い、どちらにも誤りを認めさせました。片方(ソ連)は相手が崩壊するという形で、片方(中国)は理性的な解決という形で、歴史的にこの問題に決着がつきま した。二つの大国からの干渉に、党の生死をかけてたたかいぬき、決着をみたということは、「20世紀の歴史的偉業」といってもよい、世界に類のないもの だったと思います。
小木曽 このたたかいをつうじて、多くの財産がつくられましたね。
志位 その通りです。このたたかいをつうじて、わが党は、政治的・組織的に鍛えられただけではありません。理論的にも発展をかちとりました。
たとえばアメリカ帝国主義論では、1960年代のアメリカの世界戦略を分析して、「各個撃破政策」という解明をおこないました。「議会の多数を得 ての革命」論をより明確にしていきました。複数政党制を将来にわたって擁護するなど社会主義の政治体制論でも政策を発展させました。ソ連の覇権主義の歴史 的追跡をおこない、その成果は、不破哲三さんの『スターリンと大国主義』(1982年)などに結実しました。「資本主義の全般的危機」論というスターリン に由来するドグマ(教条)を清算しました。
理論の面で、スターリンによる科学的社会主義の歪曲(わいきょく)を総決算し、さらに探求は、レーニンの理論の歴史的吟味にまですすみました。そ ういうなかで、マルクス、エンゲルスの本来の姿が、現代に力をもって豊かに生き生きとよみがえった。こういう大きな成果も得たと思います。
新しい綱領――全党の開拓と苦闘を踏まえた画期的な理論的到達
小木曽 そういうなかで2004年に第23回党大会が開かれ、そこで新しい綱領が決まったわけですね。
志位 新しい綱領は、1961年に綱領路線を確定していらいの、全党の開拓と苦闘、政治的・理論的探求を集大成したものだと思いま す。新綱領は、民主主義革命の路線をより現実的・合理的なものに仕上げるとともに、世界論、未来社会論などで、61年綱領が抱えていた制約や問題点を大胆 に清算して、画期的な理論的到達を築きました。
こうして、この半世紀を見ますと、日本共産党は政治路線においては、正確な道を揺るがず歩んできたということが言えると思います。同時に、正確な路線をもてば一路前進になるかというと、そうであれば楽なんですが(笑い)、現実はそうはいかない。
小木曽 そう、単純ではないと。
志位 あとで詳しくお話ししますが、正確な路線のもとでの前進は、それを恐れるがゆえの支配勢力による反共作戦を呼び起こし、それとたたかう過程で次の躍進を準備する。その連続でもあったというのがこの半世紀だと思います。
党史の「第3の時期」は、私たちが「政治対決の弁証法」と呼んでいる曲折と波乱と試練がつづいた半世紀だったといえます。
試練の連続――そのなかで貫かれた「不屈性」と「先駆性」
大内田 党史は一言でいって試練の連続ですね。
志位 その通りですね。戦前、戦後をつうじて、党がたんたんと、順風満帆、発展したという時期は一つもありません。試練とのたたか いの連続であり、開拓と苦闘の歴史です。その歴史の全体を振り返ってみて、どこかから「追い風」が吹いてきたという時期というのはないんですよ。わが党が 躍進した時期は何回かあるけれども、その時の「風」はすべて自力で起こした「風」なのです。逆風の時期が多いと言ってもいい。それは社会を根本から変革す る志をもつ集団には避けられないことだし、むしろ光栄なことではないでしょうか。
しかし、その全体をつうじて、どんな困難にも負けない「不屈性」、科学の力で先を見通す「先駆性」を発揮してきた。そして「国民の苦難軽減のため に献身する」という立党の精神を貫いてきた。この歴史は本当に誇るべきものであり、それは今に生きる巨大な力を持っていると確信します。
党史を学び、党史を生かしたたたかいを
大内田 党史を学び、党史を今日に生かしていくことは本当に大切だと思います。党史を学ぶことで、自分もそういう先駆者の心を自分のものとしてたたかっていけるというか、その「不屈性」を受け継いで頑張っていけるというふうに思えるのです。
志位 そうですね。私たちの先達たちが発揮した「不屈性」を私たちが学んで、それを受け継いでいくということに大きな誇りを持つ。 同時に、多くの党員のみなさんは、党史を自らも体験されているわけですね。そういう自らの体験の中で、党が「不屈性」と「先駆性」を発揮してたたかったこ とを思い起こして、またそこに自らの頑張りを重ね合わせて、未来を確信をもって展望することが大切ではないでしょうか。
小木曽 党史を学ぶうえで、さまざまな文献があると思いますが。
志位 学ぶべき文献はたくさんありますが、『日本共産党の八十年』(党出版局)、不破哲三さんの『日本共産党史を語る(上下)』(新日本出版社)を、まずおすすめします。
それから、昨年発刊された『不破哲三 時代の証言』(中央公論新社)は、綱領路線を発展させる先頭に立ち、党史を切り開いてこられた不破さんならではの、たたかいの生きた息遣いが伝わってくるもので、党史を理解するうえでも読まれることをおすすめしたい、と思います。
いまに生きる力(1)――大震災・原発事故
「国民の苦難軽減のために献身」――立党の精神が危機のなかで発揮されている
小木曽 私たちの党史が、現在に、どういう形で生きているのか。つぎに、それについてうかがいたいと思います。去年の最大の出来事は、大震災、原発事故でした。
志位 私は、この危機をつうじて、二つのことを実感しています。
一つは、この出来事が、多くの国民の価値観、生き方、政治と社会への見方を、大きく変えたということです。これまで「自己責任」論を押し付けら れ、ばらばらにされてきた国民のなかに、温かい社会的連帯の機運が広がった。原発事故をつうじて、国民が「政治には巨大なウソがある」ということを見抜 き、真実の政治を求めだした。
もう一つは、こうした国民の変化のなかで、「国民の苦難軽減のために献身する」という日本共産党の立党の精神が発揮され、それが多くの被災者の信 頼を広げているということです。私も何度か被災地に足を運びましたが、自らの家、家族や友人を津波で流されながら、避難所で、仮設住宅で、懸命に復興にと りくむ、被災地の同志たちの不屈の奮闘が続いています。この姿に接し、本当に胸が熱くなるものがあります。
冬を迎えた被災地の仮設住宅で、「青空市」など、被災者に寄り添った活動が続けられています。2月には、岩手県の陸前高田市の県立病院の仮診療所 に入院施設が完成するということです。福島県では、モモとあんぽ柿の全面賠償を東電に約束させました。被災地のさまざまな諸団体と共同しての日本共産党の 頑張りによるものだと思います。
全国から寄せられた募金は9億3千万円をこえ、ボランティアはのべ2万1千人をこえました。とくに若いみなさんがボランティアに参加し、みちがえるように成長していることは、うれしいことですね。
大内田 そういう話を聞くたびに、日本共産党ならではのものだと思うんですけども。
志位 そうですね。困っている人がいたらいてもたってもいられない。誰かれにいわれなくても行動せずにはいられない。そういう素晴らしい人間集団が日本共産党だということを、つくづく感じます。
「国民の苦難軽減のために献身する」という立党の精神は、90年の歴史を経て、日本共産党の「体質」というか、「DNA」となっていると実感します。それが、この国民的危機にさいして発揮されていることは、本当に誇らしいことだと考えます。
災害から国民の命を守るために頑張りぬいた歴史
小木曽 去年の党創立89周年記念講演で、委員長が「関東大震災」や「昭和の三陸大津波」での日本共産党の救援活動の話を紹介され、大きな感動をよびおこしました。
志位 創立89周年の記念講演の準備のさいに、過去、日本国民を襲った大災害にたいして、日本共産党がどう行動したかを調べてみると、いつでもどこでも、例外なく救援活動の先頭にたった先達の姿がありました。
「関東大震災」(1923年)が起こったとき、川合義虎(日本共産青年同盟・初代委員長)らは不屈の救援活動をつづけ、その直後に官憲によって虐 殺されています。1933年の「昭和の三陸大津波」のさいには、当時の「赤旗(せっき)」が大々的に救援のキャンペーンを張ります。
小木曽 いまの「しんぶん赤旗」のように。
志位 そうですね。それにこたえて、砂間秋子さん(東京の大崎無産者診療所の看護師)らが、岩手県・田老村まではるばる救援にかけつける。ここでも救援をはじめたらその直後に官憲によって拘束・弾圧されるという事態になりました。
天皇制権力は、被災者救援よりも彼らの「治安維持」を優先させて弾圧をおこなったわけですけれども、無法で残虐な弾圧のなかでも、災害から国民の命を守るために、それこそ命がけで頑張り抜いた足跡が歴史に刻まれています。
1995年の阪神・淡路大震災をはじめ、戦後の数々の災害にさいしても、この伝統は脈々と受け継がれ、それが昨年の大震災にさいしても力強く発揮されている。まさに90年の「党史の力」が発揮されていると思います。
自民党幹部も驚く「存在感」――90年の党史の積み重ねのうえに
大内田 本当にそうだと思います。この間、被災3県の県議会選挙で、日本共産党が躍進しました。その背景には、「この党だからこそ私たちの気持ちがわかってくれる。だからこの党を大きくしなければいけない」という県民のみなさんの気持ちが、ぐっとそこに集まったんだと思います。
志位 そうですね。岩手、宮城、福島の3県合計で、日本共産党は6議席から11議席になりましたから、画期的な躍進です。
小木曽 「しんぶん赤旗」の見出しでも久々に「躍進」の言葉を掲げました。(笑い)
志位 それぞれの政策論戦が的確だったことはもちろんですが、根本には、3・11以来の被災者の苦しみに寄り添って頑張り抜く党の姿に、党派の違いをこえて信頼と共感が寄せられた結果だと思います。ある自民党幹部はつぎのように語ったと聞きました。
「被災地で本当に共産党の姿が目についた。復旧・支援活動をやっていた共産党の存在感が、議席を増やしたことにつながったのは間違いない。3県の 自民党支部、関係者から、あっちにも、こっちにも共産党がいる、ここにも共産党のボランティアが入っている、という報告があがってきていた。他の政党はか すんでいた。こういう(国難の)とき、共産党の人たちは、本当に無私になってよく動く。そういう存在感というのは、日本の政党のなかでは共産党しかもって いない」
他の党では逆立ちしてもまねができない。自民党の幹部も驚く「存在感」というのは、一朝一夕になったものではない、90年の党史の積み重ねのうえにつくりあげられてきたものだということを、確信をもっていいたいと思います。
仮設住宅(団地)で新しい党支部がつくられた
大内田 県議選の後、仮設団地で党支部がつくられたという話も聞きました。
志位 最大の犠牲者を出した自治体は、宮城県の石巻市ですが、県議選で初議席を獲得したのち、当選した三浦新県議をかこむ「集い」 を、すべての仮設住宅(団地)で開き、党員を迎え、党支部をつくろうというとりくみを、この間、重ねてきたとのことです。これまで12カ所でひらいた「集 い」には184人が参加し、入党者を27人迎え、仮設団地に新たに党支部が誕生した。参加した人たちから、党名問題や入党の条件、資格について質問が出る なかで、三浦県議が丁寧にこたえ、こう訴えたそうです。
「社会を大本から変えようという共産党が大きくなってこそ、世の中をよくすることができます」、「仮設住宅の、また被災者の切実な願いを、市政、 県政、国政につなげて、問題を一つ一つ解決しながら、街を復興していくためには共産党の支部がどうしても必要です。この仮設にも、ぜひ支部をつくりたい。 そのために、ぜひ入党してください」
仮設住宅で、復興の希望を語り、日本の未来を語り、党をつくる。最大の犠牲者を出した石巻市からのうれしいニュースを、私も感動を持って聞きました。
中央としても、困難な中で入党し、党支部をつくった新しい同志たちの初心が生かされるよう、県、地区とも協力して、援助の手をつくしたいと考えています。
大内田 勇気が出てくる話ですね。
大震災と原発事故――復興をいかに持続的な国民的課題としてとりくむか
小木曽 大震災と原発事故からの復興は、今年も引き続き大切な課題ですね。
志位 その通りです。被災者の生活と生業(なりわい)の再建ができてはじめて復興といえる。それはどの分野でもこれからだと思いま す。この大震災を過去の問題にしない、決して「風化」させない。復興をいかに持続的な国民的課題としてとりくむか、ここがとくに今年は大切になってくると 思います。
原発事故については、政府は「収束宣言」を出しましたが、だいたい原子炉の状況もわからないわけでしょう。圧力容器の底の温度が100度以下に なっているというけれども、溶けた燃料は圧力容器を突き抜けて格納容器までいっているわけですから、どういう状態かわからないわけです。そして放射能被害 への対応はまったくできていないわけです。これで何が「収束」か。怒りが福島県を中心に広がっているのは当然です。
大内田 「収束」といって過去のものにしてしまう。
志位 そうです。あたかも事故は終わったかのように扱い、除染・賠償に責任をもってとりくまない。原発固執政策をすすめる。その下心が見え見えです。
全国各地で「原発ゼロ」をめざすたたかいがわきおこり、福島では「オール福島」の声となりました。除染と賠償と「原発ゼロ」のたたかいは、今年がいよいよ大切です。
引き続き、被災地への全国的支援、全国的たたかいを心から呼びかけます。
小木曽 私たち「しんぶん赤旗」も全力でとりくんでいきたいと決意しています。