どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

言葉を粗末に扱う事は 天にツバ吐く行為かも

2006年10月21日 | 日記
ネットに公開する日記であろうと 個人で書く日記であろうと 書くからには人にはなんらかの目的がある

私の場合は 自己との対話にあるような気がする

それは心の中で思っていても良いのだが 文章にすることで多少なりとも明確に捉えることが出来るからだ

子供の頃は 姉との喧嘩や母との言い合いなどで理不尽だと思ったりした時に 自分の感情を拙い言葉で書いたりしたものだ

今となっては見るのもおぞましい

ガマよろしく自分の姿を見て 身体から脂汗を流す行為だ

日記を書いているうちにクールダウンしてくる

あれっ こう感じていたけれど本当は少し違うかも とか 矛盾点が見つかったり 反省すべき点にも気がついたり

腹立ち紛れの心も静まったりするから不思議である

まこと言葉の力は 偉大である 

酔っ払いを 時には ごく稀に 千載一遇のチャンスで 天使に変えてくれる こともある

ところが そんな甘っちょろいもんじゃない日記がある事を 先日知った

雫石とみ という女性の日記 『荒野に叫ぶ声』である

明治末期 貧農の家に生まれた彼女は 45歳まで読み書きとは無縁だった

婦人保護施設での人格を否定された扱いの中で 彼女がたった一つ生きる力として頼ったのは日記を書くことだった

平仮名を思い出す事から始めた 

綴られた言葉は 怒りや悲しみや悔しさといった 決して封印できない心の底から湧き上がる感情

やがてこの日記は65歳の処女作として出版された

そして決して豊かではない暮らし 日雇いの仕事の中から蓄えた財産のすべてを「雫石とみ文芸基金」へと投げ出すことになる

NHKのドキュメンタリーで取り上げられたから知っている人も多いかもしれないが 私は初めて知った

胸が熱くなる

彼女の頑張りや 賞の設立にではない

勿論それも凄いことだが 言葉というものがどれだけ人を支え 人を動かし 人を高みへと押しやるものか 

それに今更ながら感動したのだ

ネットにも言葉は氾濫している

巧みな文章も 立派な意見や知識を述べたものも 笑えるものもある

それはそれで決して悪くは無い

しかし ヘレン・ケラーが「水」という言葉を知った時の喜び 

物には名前があり 感情を表現する言葉があるということ

そして言葉によって「世界」を認識し 我と他者を知ることが出来るということ

言葉の持つちからとその重さについて 改めて考えさせられた

言葉を粗末に扱う事は 天にツバ吐く行為かもしれない

コメント
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